【完結】Doctor Master

邦幸恵紀

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小話

「第3話/第4章 Wの未練(3)」でカットした部分。

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 正木の荷物はすでにボストンバッグ一つにまとめられていた。
 正木が自分の研究室として使っていた部屋もいつのまにかきれいに整頓されていた。
 若林や夕夜の知らないうちに、すべてが計画的に進められていた。

「バーカ。これが今生の別れってわけじゃないんだぞ。んな顔するな」

 玄関まで見送りにきた夕夜の頭を正木は笑いながら軽くこづいた。
 確かに夕夜は涙こそ出ていなかったものの――その機能はついていなかった――表情だけは今にも泣きそうだった。大昔、涙を出さずに泣いていたアイドルがいたが、ちょうどあんな感じである。

「そうでしょうけど……やっぱり私は嫌です。正木博士、またこの家に来ることありますか? 外であなたに会うことできますか?」

 たどたどしい声で言いつのる。これには正木もまだ出勤時間前だった若林も思わず顔を見合わせてしまった。
 正木が若林の家に住みこんでいたことは、当然周囲には極秘だった。若林の家が住宅街の外れにあり、近所づきあいというものもほとんどなかったことは、この点、好都合だった。
 しかし、正木をモデルに夕夜の顔を作ってしまったことは、彼らの唯一にして最大の失敗だったかもしれない。
 モデルにしたとはいえ、二人の顔は同一ではない。夕夜の顔は正木のそれをより完璧な形に修正した結果なのである。その道理からいけば、正木より夕夜のほうがずっと美しいはずなのだが、若林にはどうしても正木のほうが美しく見える。もっともこれは二人の外見の優劣よりも若林の主観の問題かもしれない。
 とにかく、まったく同じではないが、よく似た兄弟と言われるほどには二人は似ている。これでもし夕夜を大学の研究室にでも連れていったりしたら、顔のモデルは正木であるとすぐにばれてしまう。そして、二人の共同製作であるというのならまだしも、正木の言うとおり若林一人で作ったということにしたら、なぜわざわざ正木の顔をモデルにしたのだ、まさかよもやと勘繰られてしまう恐れがある(実際はすでにそう思われているのだが)。
 もともと若林たちに夕夜を公表する気はなかった。ただ作りたいから作っただけで、だからこそ、顔のモデルが正木だろうと誰だろうと別に構わなかったのだ。
 だが、そうして完成した夕夜の性能は二人の予想を大きく上回っていた。あの〝桜〟ですら夕夜の前ではただの動く人形のように思える。海外のすでに市販化されている人間型ロボットと比べてみても明らかに夕夜のほうが優っている。そうなれば、夕夜を発表して世界中をあっと言わせたいという欲が出てくるのはロボット工学者としてむしろ当然のことだろう。
 しかし――この顔では。
 正木に言っていなかったが、夕夜はあくまでもプロトタイプとしてうちに置き、世間発表用にはまた別の新しいロボットを作ろうと若林は考えていた。

「たぶん、会えるさ」

 ふっと笑って正木は夕夜の髪に手をやった。夕夜の髪は襟足までしかないが、正木のそれは背中の中ほどまであり、一つに束ねられている。

「おまえほど優秀なロボットは、きっとこの先どこにも存在しない。遅かれ早かれ、おまえはいつか自由に外を歩けるようになる。そうなったら、いつでも好きなときに会いにこい。いつでも会ってやる」
「じゃあ、それまでは会いにいってもいけないし、会ってもくれないんですね」

 すぐ目の前の正木の顔を夕夜は上目使いで睨んだ。若林たちはともすると、夕夜がロボットであることを忘れてしまいそうになる。

「そういうことだ。いい子だから、いいかげん聞き分けろ。それから――夕夜」

 不満そうに唇をとがらせている夕夜の頭を引き寄せて、正木は何事かを耳許に囁いた。若林には何と言ったのかまったく聞こえなかったが、夕夜は一瞬目を見張り、すぐに正木に微笑み返した。

「わかりました。おまかせください」

 さっきまでごねていたのが嘘のように夕夜は端然として言った。以来、夕夜は常にこのような態度をとるようになる。

「何だよ?」

 そのとき、二人がちらっと自分のほうを見たような気がして若林は問い返した。

「何でもない、何でもない」

 同じ笑顔で同じことを言う。若林は独身だが、妻と子に結託されて疎外感を覚える夫の心境はよくわかるような気がした。

「じゃあな」

 ドアを開けながら正木は言った。

「若林。大学でまたな」
「あ、ああ」

 若林はあわてて答えた。そうだった。自分はまだこれからも大学で正木と顔を合わせるのだった。夕夜の悲壮な雰囲気につられたのか、今までそのことをうっかり忘れていた。
 だが、別に嬉しくはなかった。この家での正木と大学での正木とは若林にとってはまったく別の存在だった。正木はまた彼の手には届かない存在へと返っていく。二人で共に夕夜を作ったことなどなかったかのように。
 ドアを閉める寸前、正木は二人を振り返ってかすかに笑った。
 まるで許しを請うようだと思ったとき、ドアはすでに閉じられていた。
 決して乱暴に閉めたわけではないのに、バタンという音が妙に大きく感じられた。

「行っちゃいましたね」

 ドアをじっと見つめながら、夕夜が呟くように言った。

「ああ。……そうだな」

 まるで妻に逃げられたようだと思いつつ若林は答えた。確かにこの場合、子供たる夕夜は正木に捨てられたことになるのかもしれない。これほど美しくて優秀な子供なのに。あれほど正木を慕い、行かないでくれと言っていたのに。

「そういえば……さっき正木はおまえに何て言ったんだ?」

 ふと思い出してそう訊ねると、夕夜は急に悪戯っぽい顔になり、たたきから上がって若林の横をすり抜けた。

「おい……」
「駄目ですよ。若林博士には言わない約束です」

 ちょっとだけ足を止めて、楽しそうに夕夜は言った。

「正木博士に頼まれたんです。だから言えません」

 やはり自分だけつまはじきにされているようで若林は面白くなかったが、夕夜はその約束とやらのおかげで思ったほど落ちこまずに済んでいるように見えた。

(ま、夕夜がそう言うんならいいさ)

 ある意味では正木より親馬鹿な若林はそうやって己を慰めたのだった。
 正木が大学に戻ってきたのは、それから約一週間後のことである。
 いったいどんな顔をして会えばいいのだろうと若林は悩んでいたが、いざ廊下でばったり出くわしてみれば自然と口から言葉がこぼれ出た。

「久しぶりだな。元気だったか?」
「ああ」

 正木はにっこり笑ったが、周囲に人がいないことを確かめると、小声でこう訊ねてきた。

「夕夜は元気か?」

 思わず、若林は笑ってしまった。
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