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第五章 海妖霧散《かいようむさん》
2 ダゴン
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そは永久に横たわる死者にあらねど
測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの
ラヴクラフトを知る者なら知らない者はいないだろう、あまりに有名な二行聯句。
『死霊秘法』――狂えるアラブ人〝アブドゥル・アルハザード〟が著したとラヴクラフトはいう――の中に記されているとされるこの二行聯句は、同じ本の中で「〈旧支配者〉の縁者なるも、莫々として〈旧支配者〉を窺うにとどまりたり」と言われながらも、のちにオーガスト・ダーレスにより〝神話〟の主神へと成り上がった、かの〈旧支配者〉のことも謳っているらしい。
南緯四七度九分、西経一二六度四三分の海底深く。そこにその〈旧支配者〉の眠る都はあるという。
移動の際、反射的に閉じた目を開いた恭司は、自分の周りにあるのが海水ではなく、今までと同じ空気であるのに気づいて、一瞬、拍子抜けした。
だが、周囲を見渡して、少なくとも今までと同じなのは、自分と〈這い寄る混沌〉のいる場所から半径一メートルほどに限られることを知った。
恭司たちは球形のシールドのようなものに覆われていた。その外側には夜闇のような海水が広がっている。何気なく蕃神の足元を見ると、靴を脱いで部屋に上がったはずなのに、やはりちゃんと靴を履いていた。ちなみに、恭司は素足のままである。しかし、シールドは上方だけでなく下方にも及んでいたため、足が海水に濡れることはなかった。
ここがどのくらいの深さなのかはわからないが、いくら上を見上げても太陽の光らしきものは見えない。それでも、おぼろげながらシールドの周りだけは見えるのはシールド自体がわずかに光を発しているからのようだ。いまだ離そうとしない〈這い寄る混沌〉を押しのけて、そのシールドにおそるおそる触れようとすると、蕃神が何も言わずにその手を握って遠ざけた。
触れてはまずいものだったようだ。ただ単に恭司に触りたかっただけかもしれないが。
〈這い寄る混沌〉の手を振り払ってから、しばらくシールドごしに海底を眺めていると、何か黒い影の集団がこちらへと近づいてきた。
(へえ、これが例の)
――深きものども。
〝インスマス面〟とも呼ばれる魚顔。緑色の鱗に覆われた、白い腹の蛙に酷似した体。
ラヴクラフトの代表作の一つ、『インスマスを覆う影』の真の主役ともいうべき彼らを一言で言い表すなら、やはり〝半魚人〟というのがいちばん相応しいかもしれない。
一見、個体差はないように見えるが、よく観察すると、体の大きさ、色、顔形など、多少の違いはある。その中でも大柄で年も重ねていると思える一体が恭司たちに向かってぱくぱくと大きな口を動かした。
「迎えにきたそうだ」
ここへ来てから初めて〈這い寄る混沌〉が口を開いた。すぐに恭司にはわからない言葉で返すと、深きものどもがうなずいて反転し、優美に体をくねらせて泳ぎはじめる。
後についてこいということなのだろうが、泳いでいく相手を徒歩で追っていくのはどう考えても無理がある気がした。それを感じとったか、深きものどもは振り返って恭司を促すように鰭のついた手を動かした。
(海ん中なら、泳いだほうが楽だよな)
今だけ深きものどもをうらやましく思いながら、恭司はようやく歩き出した。
恭司にとっては幸いなことに、目的地はさほど遠くはなかった。
深きものどもに先導され、切り立った崖にぽっかりと開いた洞窟の中を進むと、突然開けた空間に出た。
巨大な石を積み上げた柱の立ち並ぶその空間には、今までとは違い、やわらかな光が満ちていた。頭上を見上げると、そこから光は降り注いでいたが、まず陽光ではないだろう。
そして、その空間の奧、黄金や宝石で飾りたてられた石碑のような玉座には、深きものどもが傅く巨大な存在が二体、腰を下ろしていた。
人間の言葉は話せなくなっているらしい深きものどもはもちろん、〈這い寄る混沌〉もその二体が何であるかは説明しなかったが、恭司はその半人半魚二体――一方はもう一方よりも一回り小さかった――を、深きものどもが仕えるダゴンとその妻と呼ばれるヒュドラだろうと推定した。
半人とは言っても、人の部分である上半身は深きものどもと大差なかったので性別は判然としなかった。それでも、たぶん小さいほうがヒュドラではないかと恭司は見当をつけた。もっとも、蚤のように雌のほうが大きい可能性もあるが。
そのとき、ダゴンらしきほうが音波を発した。しかし、それは恭司には未知の言語だった。また通訳しようと思ったのか、〈這い寄る混沌〉が口を開きかけたが、その前に今度は念波が恭司の頭の中へ直接届いた。
――よくぞ来た。我が名はダゴン。こちらは我が妻ヒュドラ。
蚤の夫婦ではなかったようだ。
自分も名乗ったほうがいいのかと恭司は少し迷ったが、こっちは別に好きで来たわけではないのだからと思い直し、軽く頭を下げて呟くだけにした。
「……どうも」
――このとおり、ここは人間には長居できぬ場所。さっそくだが、これから我らが〝大祭司〟のおられる神殿へ案内しよう。
「でも、御大は今、眠ってるんじゃないのか? それじゃ会っても意味ないだろ」
――眠っておられても、我らにはそのお声が聞こえる。
どこか得意げにダゴンが答える。
――もっとも、目覚めておられても、直接おまえとお言葉を交わしたりはなさらないだろうがな。
「ああ、そうですか」
おざなりにそう言いながら、恭司は傍らの〈這い寄る混沌〉の袖を引いた。
蕃神が剣呑にダゴンを睨むのが目に入ったからだ。
恭司に引っ張られたことに気がつくと、〈這い寄る混沌〉はすぐに表情をやわらげた。
「どうした?」
「余計なことはするなよ」
「何を……」
そう返しながらも、蕃神は内心を見透かされて動揺しているように見える。
「別に。ただそれだけ」
恭司はわざとにっこり笑って、〈這い寄る混沌〉から手を離した。
〝大祭司〟が夢見ながら復活の日を待っているという石の家。そこへはダゴンが水かきのついた巨大な手に水泡のようなシールドを載せて自ら案内した。
供の者は誰もいなかった。どうやら、そこへ行くことを許されているのはダゴン一体であるらしい。水圧も闇も無視して海底深くへと泳ぎ進んでいくと、やがて視界の先に遺跡のような都市が現れた。
そこでは幾何学が狂っているとラヴクラフトは言う。緑色の石柱はねばねばした液体に濡れ、あらゆる線と形が歪んでいる。恭司はその現物を一目見て、もう二度と見たくないと思った。確かにこれは人間のための都市ではない。眠れる神の石の家――ルルイエ。
ダゴンですらメダカに見えるような巨大な門(のように見えた)をくぐり、正視すると頭が痛くなってくるような傾いだ階段や通廊――これもまたダゴンよりも大きなものを基準とした大きさだった――を抜けると、いつのまにまた外の海底に戻ったのかと錯覚するほど広大な空間が広がっていた。
だが、その空間の中央には途方もない大きさの岩山があり、その中央には縦に裂け目が入っていて、そこに黒い何かが潜んでいた。
ダゴンは恭司たちを下ろしてから、うやうやしくその岩山の前に進み出ると、黒い何かに向かって平伏する。
「あれがベッドか。……寝心地悪そうだな」
ダゴンには聞こえないよう、小さな声で恭司は評した。
本当は聞こえていたのかもしれないが、それについてはダゴンは触れず、裂け目に耳を傾けて何かを聞きとるような仕草をすると、再び頭を垂れて恭司たちに向き直った。
――『よくぞ来た。さっそくだが、おまえに頼みたいことがある』と我が主はおっしゃっている。
「ほんとにさっそくですこと。……何でしょうか?」
にやにやしながらそう返すと、ダゴンは不愉快そうな気配を見せたが、無理矢理それを押し殺した。
――『我が復活する日を明確にしろ』と我が主はおっしゃっている。
「あ、そう」
そっけなく答えて、恭司は腕組みする。
「つまり、何年何月何日何時何分に、どこそこでこんなふうに復活しますって、はっきり小説にでもしろってこと?」
少し間を置いてダゴンは答えた。
――『そうだ』と我が主はおっしゃっている。
恭司は目を細めて笑った。
「本当に?」
――無礼な! 我が主の言葉を疑うか!
「いや、あんたの主を疑ってるわけじゃない。疑ってるのは、あんた自身だ。――あんたの主は、本当にそう言っているのか?」
――…………。
「だって、あんたの主は〝死を超ゆるもの〟で、いつかは必ず目覚めることになってるんだろ? だったらそれまでゆっくり寝てりゃいい。ご当人は何も困ることはない。それで困るのは、有限の寿命を持つ存在――つまり、あんたをはじめとする取り巻きだけだ。どうせ復活するなら、ぜひとも今、自分が生きている間にしてもらいたい。そうじゃなきゃ、取り巻きしてたって何の得もない。いつ復活するかはっきりさせたいのはあんたの主じゃなくて、その日が来るまで待ちきれない、あんたらのほうなんだろ?」
――小賢しい猿が。
怒りと屈辱とにダゴンは巨体を震わせた。
――使者よ、なぜこんな人間を選んだ!
この手の非難を受けるのはこれで二度目の〈大いなる使者〉は、涼しい顔で恭司を抱き寄せる。
「今までにない人間だろう?」
恭司が露骨に顔をしかめて蕃神の手を振り払おうとしたとき、ダゴンが音のない雄叫びを上げた。
と、今までどこに潜んでいたのか、あの深きものどもがわらわらと現れ、何の躊躇もなく恭司に襲いかかろうとした。
しかし、海水と空気とを隔てるシールドに触れたとたん、深きものどもは粉砕機にかけられたように引き裂かれた。
深きものどもの血は人間や魚と同じように赤かった。真っ赤に染まったシールドを見つめながら、恭司は自分の薬指にはまっている銀の指輪に手をやった。
もしかしたら、このシールドを作り出しているのは〈這い寄る混沌〉ではなくこの指輪なのかもしれない。だが、深きものどもは仲間が殺されてもまったくたじろぐことなく、次から次へとシールドを破ろうとし、かたはしから肉片へと変わっていった。
――その指輪を……いや、本をよこせ!
苛立ったダゴンが吠える。
「へえ。あんたらはこれを使って、どこかに移動したいわけじゃないんだ?」
今の状況を忘れて、恭司は軽く目を見張った。
――無論。それは我らの〝象徴〟だ。それを我らの望む夢を描きうる人間に渡す。
「あんたらは賢い」
心底感心して恭司は言った。その間にも深きものどもの死体は次々と増産されていく。
「そう。それがいちばん正しい。でも、役立たずの俺にこれを渡したのはこいつだ。苦情はこいつに言ってくれ」
恭司は〈這い寄る混沌〉を親指でさした。蕃神は不満そうに恭司を見たが、何も言わずに恭司の腕を引いた。たぶん、このまま恭司を連れて逃げるつもりなのだろう。
結局、今回はダゴンも敵に回しにきたようなものだ。まあ、その原因の大部分は茶番を見るとぶち壊さずにはいられない恭司の性格にあるが、この蕃神の真の目的は最初からそれだったのかもしれない。
――新しく始めるための破壊。
ならば、いちばん初めに壊されたのは、それを望んだこの蕃神自身。
「ったく……面倒ばっかりかけさせやがって」
恭司が小さく罵ったとき。
暗い海の底に光が生まれた。
測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの
ラヴクラフトを知る者なら知らない者はいないだろう、あまりに有名な二行聯句。
『死霊秘法』――狂えるアラブ人〝アブドゥル・アルハザード〟が著したとラヴクラフトはいう――の中に記されているとされるこの二行聯句は、同じ本の中で「〈旧支配者〉の縁者なるも、莫々として〈旧支配者〉を窺うにとどまりたり」と言われながらも、のちにオーガスト・ダーレスにより〝神話〟の主神へと成り上がった、かの〈旧支配者〉のことも謳っているらしい。
南緯四七度九分、西経一二六度四三分の海底深く。そこにその〈旧支配者〉の眠る都はあるという。
移動の際、反射的に閉じた目を開いた恭司は、自分の周りにあるのが海水ではなく、今までと同じ空気であるのに気づいて、一瞬、拍子抜けした。
だが、周囲を見渡して、少なくとも今までと同じなのは、自分と〈這い寄る混沌〉のいる場所から半径一メートルほどに限られることを知った。
恭司たちは球形のシールドのようなものに覆われていた。その外側には夜闇のような海水が広がっている。何気なく蕃神の足元を見ると、靴を脱いで部屋に上がったはずなのに、やはりちゃんと靴を履いていた。ちなみに、恭司は素足のままである。しかし、シールドは上方だけでなく下方にも及んでいたため、足が海水に濡れることはなかった。
ここがどのくらいの深さなのかはわからないが、いくら上を見上げても太陽の光らしきものは見えない。それでも、おぼろげながらシールドの周りだけは見えるのはシールド自体がわずかに光を発しているからのようだ。いまだ離そうとしない〈這い寄る混沌〉を押しのけて、そのシールドにおそるおそる触れようとすると、蕃神が何も言わずにその手を握って遠ざけた。
触れてはまずいものだったようだ。ただ単に恭司に触りたかっただけかもしれないが。
〈這い寄る混沌〉の手を振り払ってから、しばらくシールドごしに海底を眺めていると、何か黒い影の集団がこちらへと近づいてきた。
(へえ、これが例の)
――深きものども。
〝インスマス面〟とも呼ばれる魚顔。緑色の鱗に覆われた、白い腹の蛙に酷似した体。
ラヴクラフトの代表作の一つ、『インスマスを覆う影』の真の主役ともいうべき彼らを一言で言い表すなら、やはり〝半魚人〟というのがいちばん相応しいかもしれない。
一見、個体差はないように見えるが、よく観察すると、体の大きさ、色、顔形など、多少の違いはある。その中でも大柄で年も重ねていると思える一体が恭司たちに向かってぱくぱくと大きな口を動かした。
「迎えにきたそうだ」
ここへ来てから初めて〈這い寄る混沌〉が口を開いた。すぐに恭司にはわからない言葉で返すと、深きものどもがうなずいて反転し、優美に体をくねらせて泳ぎはじめる。
後についてこいということなのだろうが、泳いでいく相手を徒歩で追っていくのはどう考えても無理がある気がした。それを感じとったか、深きものどもは振り返って恭司を促すように鰭のついた手を動かした。
(海ん中なら、泳いだほうが楽だよな)
今だけ深きものどもをうらやましく思いながら、恭司はようやく歩き出した。
恭司にとっては幸いなことに、目的地はさほど遠くはなかった。
深きものどもに先導され、切り立った崖にぽっかりと開いた洞窟の中を進むと、突然開けた空間に出た。
巨大な石を積み上げた柱の立ち並ぶその空間には、今までとは違い、やわらかな光が満ちていた。頭上を見上げると、そこから光は降り注いでいたが、まず陽光ではないだろう。
そして、その空間の奧、黄金や宝石で飾りたてられた石碑のような玉座には、深きものどもが傅く巨大な存在が二体、腰を下ろしていた。
人間の言葉は話せなくなっているらしい深きものどもはもちろん、〈這い寄る混沌〉もその二体が何であるかは説明しなかったが、恭司はその半人半魚二体――一方はもう一方よりも一回り小さかった――を、深きものどもが仕えるダゴンとその妻と呼ばれるヒュドラだろうと推定した。
半人とは言っても、人の部分である上半身は深きものどもと大差なかったので性別は判然としなかった。それでも、たぶん小さいほうがヒュドラではないかと恭司は見当をつけた。もっとも、蚤のように雌のほうが大きい可能性もあるが。
そのとき、ダゴンらしきほうが音波を発した。しかし、それは恭司には未知の言語だった。また通訳しようと思ったのか、〈這い寄る混沌〉が口を開きかけたが、その前に今度は念波が恭司の頭の中へ直接届いた。
――よくぞ来た。我が名はダゴン。こちらは我が妻ヒュドラ。
蚤の夫婦ではなかったようだ。
自分も名乗ったほうがいいのかと恭司は少し迷ったが、こっちは別に好きで来たわけではないのだからと思い直し、軽く頭を下げて呟くだけにした。
「……どうも」
――このとおり、ここは人間には長居できぬ場所。さっそくだが、これから我らが〝大祭司〟のおられる神殿へ案内しよう。
「でも、御大は今、眠ってるんじゃないのか? それじゃ会っても意味ないだろ」
――眠っておられても、我らにはそのお声が聞こえる。
どこか得意げにダゴンが答える。
――もっとも、目覚めておられても、直接おまえとお言葉を交わしたりはなさらないだろうがな。
「ああ、そうですか」
おざなりにそう言いながら、恭司は傍らの〈這い寄る混沌〉の袖を引いた。
蕃神が剣呑にダゴンを睨むのが目に入ったからだ。
恭司に引っ張られたことに気がつくと、〈這い寄る混沌〉はすぐに表情をやわらげた。
「どうした?」
「余計なことはするなよ」
「何を……」
そう返しながらも、蕃神は内心を見透かされて動揺しているように見える。
「別に。ただそれだけ」
恭司はわざとにっこり笑って、〈這い寄る混沌〉から手を離した。
〝大祭司〟が夢見ながら復活の日を待っているという石の家。そこへはダゴンが水かきのついた巨大な手に水泡のようなシールドを載せて自ら案内した。
供の者は誰もいなかった。どうやら、そこへ行くことを許されているのはダゴン一体であるらしい。水圧も闇も無視して海底深くへと泳ぎ進んでいくと、やがて視界の先に遺跡のような都市が現れた。
そこでは幾何学が狂っているとラヴクラフトは言う。緑色の石柱はねばねばした液体に濡れ、あらゆる線と形が歪んでいる。恭司はその現物を一目見て、もう二度と見たくないと思った。確かにこれは人間のための都市ではない。眠れる神の石の家――ルルイエ。
ダゴンですらメダカに見えるような巨大な門(のように見えた)をくぐり、正視すると頭が痛くなってくるような傾いだ階段や通廊――これもまたダゴンよりも大きなものを基準とした大きさだった――を抜けると、いつのまにまた外の海底に戻ったのかと錯覚するほど広大な空間が広がっていた。
だが、その空間の中央には途方もない大きさの岩山があり、その中央には縦に裂け目が入っていて、そこに黒い何かが潜んでいた。
ダゴンは恭司たちを下ろしてから、うやうやしくその岩山の前に進み出ると、黒い何かに向かって平伏する。
「あれがベッドか。……寝心地悪そうだな」
ダゴンには聞こえないよう、小さな声で恭司は評した。
本当は聞こえていたのかもしれないが、それについてはダゴンは触れず、裂け目に耳を傾けて何かを聞きとるような仕草をすると、再び頭を垂れて恭司たちに向き直った。
――『よくぞ来た。さっそくだが、おまえに頼みたいことがある』と我が主はおっしゃっている。
「ほんとにさっそくですこと。……何でしょうか?」
にやにやしながらそう返すと、ダゴンは不愉快そうな気配を見せたが、無理矢理それを押し殺した。
――『我が復活する日を明確にしろ』と我が主はおっしゃっている。
「あ、そう」
そっけなく答えて、恭司は腕組みする。
「つまり、何年何月何日何時何分に、どこそこでこんなふうに復活しますって、はっきり小説にでもしろってこと?」
少し間を置いてダゴンは答えた。
――『そうだ』と我が主はおっしゃっている。
恭司は目を細めて笑った。
「本当に?」
――無礼な! 我が主の言葉を疑うか!
「いや、あんたの主を疑ってるわけじゃない。疑ってるのは、あんた自身だ。――あんたの主は、本当にそう言っているのか?」
――…………。
「だって、あんたの主は〝死を超ゆるもの〟で、いつかは必ず目覚めることになってるんだろ? だったらそれまでゆっくり寝てりゃいい。ご当人は何も困ることはない。それで困るのは、有限の寿命を持つ存在――つまり、あんたをはじめとする取り巻きだけだ。どうせ復活するなら、ぜひとも今、自分が生きている間にしてもらいたい。そうじゃなきゃ、取り巻きしてたって何の得もない。いつ復活するかはっきりさせたいのはあんたの主じゃなくて、その日が来るまで待ちきれない、あんたらのほうなんだろ?」
――小賢しい猿が。
怒りと屈辱とにダゴンは巨体を震わせた。
――使者よ、なぜこんな人間を選んだ!
この手の非難を受けるのはこれで二度目の〈大いなる使者〉は、涼しい顔で恭司を抱き寄せる。
「今までにない人間だろう?」
恭司が露骨に顔をしかめて蕃神の手を振り払おうとしたとき、ダゴンが音のない雄叫びを上げた。
と、今までどこに潜んでいたのか、あの深きものどもがわらわらと現れ、何の躊躇もなく恭司に襲いかかろうとした。
しかし、海水と空気とを隔てるシールドに触れたとたん、深きものどもは粉砕機にかけられたように引き裂かれた。
深きものどもの血は人間や魚と同じように赤かった。真っ赤に染まったシールドを見つめながら、恭司は自分の薬指にはまっている銀の指輪に手をやった。
もしかしたら、このシールドを作り出しているのは〈這い寄る混沌〉ではなくこの指輪なのかもしれない。だが、深きものどもは仲間が殺されてもまったくたじろぐことなく、次から次へとシールドを破ろうとし、かたはしから肉片へと変わっていった。
――その指輪を……いや、本をよこせ!
苛立ったダゴンが吠える。
「へえ。あんたらはこれを使って、どこかに移動したいわけじゃないんだ?」
今の状況を忘れて、恭司は軽く目を見張った。
――無論。それは我らの〝象徴〟だ。それを我らの望む夢を描きうる人間に渡す。
「あんたらは賢い」
心底感心して恭司は言った。その間にも深きものどもの死体は次々と増産されていく。
「そう。それがいちばん正しい。でも、役立たずの俺にこれを渡したのはこいつだ。苦情はこいつに言ってくれ」
恭司は〈這い寄る混沌〉を親指でさした。蕃神は不満そうに恭司を見たが、何も言わずに恭司の腕を引いた。たぶん、このまま恭司を連れて逃げるつもりなのだろう。
結局、今回はダゴンも敵に回しにきたようなものだ。まあ、その原因の大部分は茶番を見るとぶち壊さずにはいられない恭司の性格にあるが、この蕃神の真の目的は最初からそれだったのかもしれない。
――新しく始めるための破壊。
ならば、いちばん初めに壊されたのは、それを望んだこの蕃神自身。
「ったく……面倒ばっかりかけさせやがって」
恭司が小さく罵ったとき。
暗い海の底に光が生まれた。
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