【完結】虚無の王

邦幸恵紀

文字の大きさ
上 下
2 / 22
第一章 暗黒古書《あんこくこしょ》

1 夜護洲古書

しおりを挟む


 その小さな古本屋は、一見、古本屋とは思えない店構えをしていた。入り口近くに格安の文庫や漫画本が並べてあるワゴンなどはなかったし、道路に面している菱形の窓は濃い菫色すみれいろをしていて、中の様子がまったく見えないようになっていた。
 それでも、何とか古本屋だと恭司がわかったのは、店の名前が〝夜護洲古書〟で(しかし、この店名はどう読むのか、恭司にはさっぱりわからなかった)、開け放たれたままの入り口から、ずらりと並ぶ古書の背表紙が見えたからだった。
 たまたま、その店の前にバス停があった。乗りたいバスが来るまでまだ三十分以上待たなければならなかったこともあり、それまでの時間潰しにと、特に何も考えずに店内に足を踏み入れた。
 入ってみると、店の中は案外広く感じた。書棚以外の場所に本を置いていなかったせいもあるかもしれない。外から覗いて想像していたとおり、娯楽本らしきものは見当たらず、そのほとんどが学術書のような洋書ばかりだった。店の奥にはカウンターがあったが店主の姿はない。客も恭司以外いないようだ。
 こんなマニアックな店では経営も大変だろう。他人事ながら気の毒に思いつつ、恭司は自分でもわかりそうな本を探して店の中を歩き回った。何しろまだ時間は三十分もある。やがて、店のいちばん奥まで来たところで恭司は立ち止まった。いないと思っていた人がいたのだ。
 恭司と同じ大学生らしい、眼鏡をかけた男だった。背丈も同じくらいでひどく痩せている。書棚の一角をじっと見つめ、何か悩んでいる様子だった。
 自分以外に客がいたことにも驚いたが、その男が何を見ているのかにも興味を引かれた。恭司はそっと男の後ろに回り、その書棚を覗いてみた。男はよほど集中しているのか、恭司の存在に気づかない。
 真っ先に目についたのは、黒い背表紙に五芒星の金の箔押しがあるだけの、見るからに怪しげな本だった。男の見ている本がこの本であるという確証はまったくなかったが、恭司がいちばん注意を引かれたのがその本だった。少し中を見てみたいと思い、男の横からその本に手を伸ばした。と、そこで男は自分のそばに恭司がいることを知ったようだ。跳び上がるようにして恭司から離れた。

「あ、すいません。ちょっと見たかったもんで……」

 正直、男の動揺ぶりに恭司のほうが驚いた。幽霊に会ったような顔というのはこういう顔のことをいうのかもしれない。男の顔色は蒼白だった。恭司は不審に思いながらも、例の黒い本の背表紙に指をかけた。

「あ……」

 男が悲鳴のような声を上げた。恭司は指を止めて男を見返した。

「この本、買おうと思ってた?」

 それなら恭司はすぐに引き下がるつもりだった。もともとこの本にさほど興味があったわけでもない。しかし、男は肯定も否定もしなかった。ひどく怯えた様子で恭司を窺うように見ている。
 そんなに自分は怖い顔をしているかと恭司は内心憤慨した。これでも容姿にはそれなりに自信はあるのだ。
 十五歳離れた恭司の兄――この眼鏡の男を十五年分老けさせたらよく似ているかもしれない――は、そんな弟を心配し、自分である程度身を守れるようにと、幼い恭司を近所の空手道場へと通わせた。兄は正しかった。そこの道場主に悪戯されそうになったとき、逃げる役には立った(兄は泣いて恭司に謝ったが)。

「もしかして……人間か?」

 男がようやく口を開いたのは、恭司が本から指を離した後のことだった。

「自分ではそのつもりだったけど、そう見えない?」

 男はあわてて首を横に振った。

「いや……その、綺麗すぎたから、てっきり――」

 てっきりの後、男は何事かを口の中で呟いたが、それは恭司には聞きとれなかった。

「ま、そんなことはどうでもいいや。で、この本。いったい何の本なんだ?」

 男は意表を突かれたように恭司を見た。

「知ってて取ろうとしたんじゃないのか?」
「いや、全然? ぱっと見て目立ってたから、ちょっと覗こうとしただけ」
「じゃあ……本当に、たまたまここに入っただけなのか?」
「そうだよ。たまたまバスを待つ時間潰しに入っただけ。それよりこの本、有名な本なのか?」

 男は呆れたようなほっとしたような、不思議な笑みを漏らした。まだかすかに恐怖の名残は貼りついていたが。

「一部ではすごく有名だよ。何しろ、この世には本だ」
「ふうん。そりゃすごいや」

 作家志望の兄の影響で本を読むのは好きだが、希覯書きこうしょたぐいには関心のない恭司はおざなりにそう言った。

「じゃあ、さっさと買ったら? そんなんだったら俺はいいよ。人のものを横からかっさらう趣味はない」

 男は眼鏡の奥の細い目を見張った。恭司がこんなことを言うとは思わなかったようだ。

「だったら、どうしてさっき、取ろうとしたんだ?」
「言ったろ。たまたま目についただけだ。でも、もういい。欲しいんなら、あんたが買えばいい」

 男は首を横に振った。ゆっくりと、自分に言い聞かせるように。

「まだ、誰のものでもない。だから、迷ってたんだ。これを手に入れたら――もう、
「そんなにヤバい本なのか?」

 そう聞かされると逆に興味が湧いてくる。恭司は男のほうに身を乗り出した。

「今、立ち読みするだけでもヤバい?」
「それは……」
「どっちだよ?」

 軽く恭司が睨むと、男は激しくたじろいだ。

「それは俺にも……でも、君は見たいんだろ?」

 ためらいながらも男は例の本に手を伸ばした。その本はいちばん取りやすい高さの棚にある。男は大きく唾を飲みこんでからその背表紙に指をかけ、ついに書棚から引き出した。
 大判の古びた本だった。黒い革張りの表紙にも、背表紙と同様、金の五芒星があるだけで、その本のタイトルらしき文字はまったくない。男は恭司を窺うように見てから、震える指で本の表紙を開いた。が。

(白紙?)

 一目見て恭司はあっけにとられた。男もそう思ったようだ。恭司と顔を見合わせ、あわてて他のページも繰ったが、どれも文字一つもない、まったくの白紙だった。

「これが本なら、確かにこの世にはな」

 男と共に一枚一枚チェックして、すべて白紙だということを再確認した恭司は淡々と呟いた。

「こんなはずは……!」

 男はあせってもう一度本をめくったが、いくら見返してみても白紙の状態は変わらなかった。

「いやー、珍しいもん見せてもらった。そろそろバスも来そうだし、俺、行くわ」

 バスの通過予定時刻が迫っていることを自分の腕時計で確認した恭司は、あっさりそう言ってその場を離れようとした。

「あ――」

 男は恭司を目で追った。それに気づいた恭司は訝しく思って首をかしげた。

「何? 別に俺に用はないだろ?」
「そ、そうだけど……」
「邪魔して悪かった。ゆっくり悩んでいってくれ」

 店主が聞いたら気を悪くしそうなことを恭司は言い、今度こそ男に背を向けて店の外へ出た。男はもう恭司を呼び止めようとはしなかった。
 バスは珍しく予定時刻どおりに来た。あいにく混んでいて座席には座れなそうだ。整理券を手にとって適当な吊り輪につかまった恭司は、最後にもう一度、あの古本屋を見下ろした。
 店の入り口から、誰かが手を伸ばしていた。
 恭司のほうに向かって、助けを求めるように突き出している。
 ちょうど通行人の陰になって何者かはわからなかった。だが、わずかに見えるその袖口は、あの男が着ていた服と同じもののような気がした。
 もっとよく見ようと窓に顔を近づけた、そのときバスが走り出した。バス停もあの店もあっというまに後ろに遠ざかっていく。

(まさか……な)

 たぶん、気のせいだ。
 あれが、あの男の手だったなんて。
 手は見えたが、体は見えなかったなんて。

(結局、何の本かは訊けなかったな)

 あの男の様子からして、まともな本ではなさそうだったが。それとも、あれは一見白紙に見えるが、何らかの方法を使えば読めるものだったのか。

(ま、俺には関係ないか)

 そう思って前方の料金表に目をやったとき。
 肩にかけていた黒いデイパックが急に重くなった。
 誰かに引っ張られでもしているのかと思って見てみたが、誰にも何にも触れられてはいない。
 その時点で何か嫌な予感はしていたのだ。しかし、このまま何も確かめないわけにもいかなかった。何しろ重い。恭司はデイパックを下ろして中を見た。
 黒地に金の五芒星。
 あの本が――あの男が手に持っていたはずのあの本が、デイパックの中に収まっていた。まるで最初からそこに入っていたかのように。

(んな馬鹿な)

 こんなことはありえない。次のバス停で降りて、走ってあの古本屋に戻ろう。
 恭司は降車ボタンを押そうとしたが、降車ボタンどころか、バス自体が存在していないことを知った。あれほどいた乗客も、バスを運転していた運転手も。

(そうか)

 なぜ、もっと早くに気づかなかった。ではありえないことなどありえない。なぜならは――

(夢だ)

 恭司は目を閉じた。目覚めれば終わる。終わるはず。だが、恭司は耳許でこんな声を聞いたような気がした。

 ――そうだ。だが、夢が永劫に続くなら、それが現実だ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】永遠の旅人

邦幸恵紀
SF
高校生・椎名達也は、未来人が創設した〈時間旅行者協会〉の職員ライアンに腕時計型タイム・マシンを使われ、強引に〈協会〉本部へと連れてこられる。実は達也はマシンなしで時空間移動ができる〝時間跳躍者〟で、ライアンはかつて別時空の達也と偶然会っていた。以来、執念深く達也を捜しつづけたライアンの目的とは。

【完結】電脳探偵Y

邦幸恵紀
現代文学
【SF(すこしふしぎ)/人捜し専門探偵事務所/ホラー?】 人捜し専門の探偵事務所「MSS」。しかし、その業務のほとんどは所長の渡辺由貴ではなく、彼の大学時代からの友人・吉野拓己が一手に引き受けている。吉野はどんな人間でもまたたくまに見つけ出す。そこに電脳空間へと通じる扉があるかぎり。 ※表紙のロゴは遠野まさみ様(@masami_h1115)に作成していただきました。ありがとうございました。

MIDNIGHT

邦幸恵紀
キャラ文芸
【現代ファンタジー/外面のいい会社員×ツンデレ一見美少年/友人以上恋人未満】 「真夜中にはあまり出歩かないほうがいい」。 三月のある深夜、会社員・鬼頭和臣は、黒ずくめの美少年・霧河雅美にそう忠告される。 未成年に説教される筋合いはないと鬼頭は反発するが、その出会いが、その後の彼の人生を大きく変えてしまうのだった。 ◆「第6回キャラ文芸大賞」で奨励賞をいただきました。ありがとうございました。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

撃ち抜けヴァージン

タリ イズミ
恋愛
金髪の女子高生の姫宮璃々子は、入学して一ヶ月にして遅刻十回、教師に罰掃除を命じられた。指定された化学実験室に向かうと、人気のないそこにクラス委員長で線の細い眼鏡男子和泉と隣のクラスの高身長爽やかイケメン碓氷の二人がいた。 ※BLなのは碓氷×和泉ですが、姫宮と和泉の恋愛話です。 ※碓氷と和泉がキスするシーンがありますが、濃厚な描写は一切ありません。あくまでも男女の恋愛話です。 ※完結にしていますが、続きを書くかもしれません。

エリア51戦線~リカバリー~

島田つき
キャラ文芸
今時のギャル(?)佐藤と、奇妙な特撮オタク鈴木。彼らの日常に迫る異変。本当にあった都市伝説――被害にあう友達――その正体は。 漫画で投稿している「エリア51戦線」の小説版です。 自サイトのものを改稿し、漫画準拠の設定にしてあります。 漫画でまだ投稿していない部分のストーリーが出てくるので、ネタバレ注意です。 また、微妙に漫画版とは流れや台詞が違ったり、心理が掘り下げられていたりするので、これはこれで楽しめる内容となっているかと思います。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

【完結】ツインクロス

龍野ゆうき
青春
冬樹と夏樹はそっくりな双子の兄妹。入れ替わって遊ぶのも日常茶飯事。だが、ある日…入れ替わったまま両親と兄が事故に遭い行方不明に。夏樹は兄に代わり男として生きていくことになってしまう。家族を失い傷付き、己を責める日々の中、心を閉ざしていた『少年』の周囲が高校入学を機に動き出す。幼馴染みとの再会に友情と恋愛の狭間で揺れ動く心。そして陰ではある陰謀が渦を巻いていて?友情、恋愛、サスペンスありのお話。

処理中です...