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第2部 草月歌
17 白き月(中)
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――この男の子供を私に産めというのか。
改めて考えると、気が遠くなりそうになる。こんな思いをするくらいなら、他の見も知らぬ男を押しつけられていたほうがまだましだったかもしれない。少なくとも、相手のことなど気に病む必要はなかった。
紅蓮に拒否権はないと黒蘆は言った。天人族の一員であるかぎり、紅蓮は白蘭を伴侶にしなければならない。こんな男の体をした自分を。
体のことはまったく責任の範疇外だったが、それでも紅蓮に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。もし自分の外見も女だったら、何のためらいもなく紅蓮に身を委ねることもできたのに。
訊きたくても、どうしても訊けない。きっと紅蓮は白蘭を傷つけないように、当たり障りのないことを答えるはずだから。
――紅蓮。君は本当は、私を伴侶になんかしたくないんだろう?
『白蘭?』
ふいに紅蓮が名前を呼んで、白蘭の頬に指を添えた。
白蘭は泣いていた。泣き顔を見られたくなくて、あわててうつむく。
『俺が嫌か?』
白蘭は下を向いたまま、何度も首を横に振った。
そんなことがあるものか。世界中でこの男がいちばん好きだ。きっとどれほどの歳月が流れても、この男以上に誰かを好きになることはない。
だから余計辛いのだ。この男が自分の伴侶に選ばれたことを素直に喜べないのだ。
『君に……申し訳なくて』
ようやくそれだけ言えた。紅蓮は考えるような間を置いてから、不可解そうに答えた。
『いったいどういう理屈で、おまえが俺に謝らなければならないんだ?』
『だって……君の意志に関係なく、私の伴侶なんかに選ばれてしまったから……』
『それはおまえだって同じだろう。決めたのはあの爺さんだ。おまえが謝る必要はない』
『でも、黒蘆様が君を選んだのは、私が君を――』
そこまで言いかけて、白蘭は動きを止めた。
そうだ。黒蘆が紅蓮を選んだのは、彼が白蘭の伴侶としてふさわしかったからだけではない。それ以前に、白蘭が紅蓮のことを好きになってしまっていたからだ。天人は思う相手とでなければ子を生せぬ。黒蘆は白蘭の思いを追認しただけだ。だが、紅蓮が白蘭のことをどう思っているのかは、白蘭にも黒蘆にもわからない。
『俺を……何だ? 最後まで言ってくれ』
ここまで言ったらもう察してくれてもいいのに、笑いを噛み殺しているような気配がする。白蘭はかっとなって顔を上げ、そこで何も言えなくなった。
紅蓮は笑っていた。これまで白蘭が見たことがないくらい穏やかな目をして。
とたんにまた心臓の鼓動が速くなる。今日は本当に心臓に負担のかかる日だ。
『本当に、聞きたいと思っているのかい?』
紅蓮を直視できなくて、目をそらせながらそんな憎まれ口をきくと、紅蓮は白蓮の頬に手を伸ばし、そっと自分のほうに向かせた。
『聞きたい。言ってくれ』
顔は笑っていたが、その瞳は真剣だった。それに魅入られたように、白蘭は淡々と答えた。
『好きだったから。私が君を好きだったから』
考えてみれば、心の中では何度も数えきれないくらい思ってきたのに、言葉にして本人に伝えたことは一度もなかった。その必要もなかったし、機会もなかった。好きだとあえて言わなくとも、紅蓮が白蓮から離れることはなかった。
紅蓮は言われた言葉の意味を分析するように黙っていた。今さらながら恥ずかしさがこみ上げてきて、また顔をそむけようとすると、まだ触れたままだった手で元のように向き直されてしまう。
とにかく、何か言ってもらいたかった。この際、冷やかしでもからかいでもいい。これ以上この沈黙に耐えられない。痺れを切らして白蘭が念波を発しようとしたとき、まるでそれを制するように紅蓮が言った。
『それだけでは選ぶまい』
紅蓮の発言は省略が多すぎて、すぐには意味がわからなかった。顔にもそれが表れていたのだろう、かすかに彼は苦笑した。
『おまえが俺を好きなだけでは、黒蘆は俺を選ぶまい。俺もおまえを好きだったから選んだのだろう。いずれにしろ、おまえが俺に謝る必要はない。おまえは何一つ悪くないんだ。白蘭』
白蘭はただただ茫然と、紅蓮の顔を見つめていた。
もしやこれは夢なのではないだろうか。紅蓮が、あの紅蓮が、自分のことを好きだと言った――
あまりに白蓮が見つめつづけるので、紅蓮も居心地が悪くなったのだろう。少しだけ目をそらすと、白蘭の頬から手を離した。
『それほど驚くようなことか?』
紅蓮は軽く苛立っているようだった。
『俺もおまえを好きでなかったら、これほど長く付き合いつづけるはずがないだろう。嫌いな相手との約束を守りたいと思うほど、俺は酔狂ではないぞ』
『でも……』
いくら好きでも、きっと紅蓮は伴侶として自分を愛することはできないだろう。紅蓮は友人として自分が好きなのだ。勘違いしてはいけない。紅蓮の優しさに甘えてはいけない。
そんな白蘭の葛藤は、紅蓮にはわからなかったようだ。紅蓮の手が離れると同時にまたうつむいてしまった白蘭に、紅蓮はいくらか態度を軟化させて訊ねた。
『白蘭。おまえは何をそんなに気にしているんだ?』
白蘭は唖然として紅蓮を見た。
こちらこそ、なぜおまえは気にしないのかと訊き返してやりたい。自分は子供を産むために作られ、紅蓮はそのために伴侶として選ばれたのだ。この男はそういうことをわかった上で、こんなことを言っているのだろうか。
改めて考えると、気が遠くなりそうになる。こんな思いをするくらいなら、他の見も知らぬ男を押しつけられていたほうがまだましだったかもしれない。少なくとも、相手のことなど気に病む必要はなかった。
紅蓮に拒否権はないと黒蘆は言った。天人族の一員であるかぎり、紅蓮は白蘭を伴侶にしなければならない。こんな男の体をした自分を。
体のことはまったく責任の範疇外だったが、それでも紅蓮に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。もし自分の外見も女だったら、何のためらいもなく紅蓮に身を委ねることもできたのに。
訊きたくても、どうしても訊けない。きっと紅蓮は白蘭を傷つけないように、当たり障りのないことを答えるはずだから。
――紅蓮。君は本当は、私を伴侶になんかしたくないんだろう?
『白蘭?』
ふいに紅蓮が名前を呼んで、白蘭の頬に指を添えた。
白蘭は泣いていた。泣き顔を見られたくなくて、あわててうつむく。
『俺が嫌か?』
白蘭は下を向いたまま、何度も首を横に振った。
そんなことがあるものか。世界中でこの男がいちばん好きだ。きっとどれほどの歳月が流れても、この男以上に誰かを好きになることはない。
だから余計辛いのだ。この男が自分の伴侶に選ばれたことを素直に喜べないのだ。
『君に……申し訳なくて』
ようやくそれだけ言えた。紅蓮は考えるような間を置いてから、不可解そうに答えた。
『いったいどういう理屈で、おまえが俺に謝らなければならないんだ?』
『だって……君の意志に関係なく、私の伴侶なんかに選ばれてしまったから……』
『それはおまえだって同じだろう。決めたのはあの爺さんだ。おまえが謝る必要はない』
『でも、黒蘆様が君を選んだのは、私が君を――』
そこまで言いかけて、白蘭は動きを止めた。
そうだ。黒蘆が紅蓮を選んだのは、彼が白蘭の伴侶としてふさわしかったからだけではない。それ以前に、白蘭が紅蓮のことを好きになってしまっていたからだ。天人は思う相手とでなければ子を生せぬ。黒蘆は白蘭の思いを追認しただけだ。だが、紅蓮が白蘭のことをどう思っているのかは、白蘭にも黒蘆にもわからない。
『俺を……何だ? 最後まで言ってくれ』
ここまで言ったらもう察してくれてもいいのに、笑いを噛み殺しているような気配がする。白蘭はかっとなって顔を上げ、そこで何も言えなくなった。
紅蓮は笑っていた。これまで白蘭が見たことがないくらい穏やかな目をして。
とたんにまた心臓の鼓動が速くなる。今日は本当に心臓に負担のかかる日だ。
『本当に、聞きたいと思っているのかい?』
紅蓮を直視できなくて、目をそらせながらそんな憎まれ口をきくと、紅蓮は白蓮の頬に手を伸ばし、そっと自分のほうに向かせた。
『聞きたい。言ってくれ』
顔は笑っていたが、その瞳は真剣だった。それに魅入られたように、白蘭は淡々と答えた。
『好きだったから。私が君を好きだったから』
考えてみれば、心の中では何度も数えきれないくらい思ってきたのに、言葉にして本人に伝えたことは一度もなかった。その必要もなかったし、機会もなかった。好きだとあえて言わなくとも、紅蓮が白蓮から離れることはなかった。
紅蓮は言われた言葉の意味を分析するように黙っていた。今さらながら恥ずかしさがこみ上げてきて、また顔をそむけようとすると、まだ触れたままだった手で元のように向き直されてしまう。
とにかく、何か言ってもらいたかった。この際、冷やかしでもからかいでもいい。これ以上この沈黙に耐えられない。痺れを切らして白蘭が念波を発しようとしたとき、まるでそれを制するように紅蓮が言った。
『それだけでは選ぶまい』
紅蓮の発言は省略が多すぎて、すぐには意味がわからなかった。顔にもそれが表れていたのだろう、かすかに彼は苦笑した。
『おまえが俺を好きなだけでは、黒蘆は俺を選ぶまい。俺もおまえを好きだったから選んだのだろう。いずれにしろ、おまえが俺に謝る必要はない。おまえは何一つ悪くないんだ。白蘭』
白蘭はただただ茫然と、紅蓮の顔を見つめていた。
もしやこれは夢なのではないだろうか。紅蓮が、あの紅蓮が、自分のことを好きだと言った――
あまりに白蓮が見つめつづけるので、紅蓮も居心地が悪くなったのだろう。少しだけ目をそらすと、白蘭の頬から手を離した。
『それほど驚くようなことか?』
紅蓮は軽く苛立っているようだった。
『俺もおまえを好きでなかったら、これほど長く付き合いつづけるはずがないだろう。嫌いな相手との約束を守りたいと思うほど、俺は酔狂ではないぞ』
『でも……』
いくら好きでも、きっと紅蓮は伴侶として自分を愛することはできないだろう。紅蓮は友人として自分が好きなのだ。勘違いしてはいけない。紅蓮の優しさに甘えてはいけない。
そんな白蘭の葛藤は、紅蓮にはわからなかったようだ。紅蓮の手が離れると同時にまたうつむいてしまった白蘭に、紅蓮はいくらか態度を軟化させて訊ねた。
『白蘭。おまえは何をそんなに気にしているんだ?』
白蘭は唖然として紅蓮を見た。
こちらこそ、なぜおまえは気にしないのかと訊き返してやりたい。自分は子供を産むために作られ、紅蓮はそのために伴侶として選ばれたのだ。この男はそういうことをわかった上で、こんなことを言っているのだろうか。
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