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第2部 草月歌
01 出会い
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気怠い体を持てあましながら愛しい男に手を伸ばすと、男は心得たように微笑んで白蘭を抱き寄せた。
その厚い胸に抱かれていると、改めて幸福感に満たされる。行為の最中よりも、その後の余韻を味わう今の時間が白蘭は好きだ。そしてそんなとき、いつも同じことを願う。無意識に自分の腹を撫でながら。
『早く、君の子供を産みたい』
ひそやかにそう告げると、男はなぜかいつも少し困ったような顔をする。そのために白蘭の許婚に選ばれたというのに、今まで自分からはそのように言ったことがない。
もっとも、そのことで男を責める権利は白蘭にはない。子供を産めないのは、白蘭の体がまだそのようにできていないからだ。我ながら、それが口惜しくてならない。
時が至れば初経が起こり、常とは違う箇所から男を受け入れて受胎できるようになるというが、そのときはなかなか訪れてはくれなかった。無論、そこはすでにあるのだが、無理はしたくないからと愛撫以外のことを男はしなかった。今のところ、白蘭の体は男の性徴を備えており、それゆえに男とは許婚のままであるのだった。これほど愛し、愛されているのに。
白蘭たちが属する天人族は、羽があるのが唯一の共通点と言っても過言ではないほどに個体差が広がってしまったため、懐胎して子を産むことが難しくなっていた。彼らが同胞を増やすには、天恵の樹と科学の力に頼らざるを得なかったのである。
そのことを憂いた長老らは、天人の子を受胎できる天母として白蘭を生み出した。他にも何人かいたらしいが、成功したのは彼のみだった。
だが、実は自分も失敗作だったのではないかと自嘲と共に白蘭は思う。できることなら、最初から女の姿で生まれてきたかった。そうすれば、いつになったら男の子を産めるようになるのかと焦燥することも、もしかしたらこの先一生このままで終わるのではないのかと不安に駆られることもなかった。
燃えるような緋色の髪と目をしたこの男とは、まだうまく空を飛べなかった頃からの付き合いだ。両親というものを持たぬ天人族の子供たちは、みな育児院に集められ、そこで専門の大人たちの手により大切に育てられる。繁殖力の弱い天人族にとって、子供の存在は何にも代えがたいものなのである。
しかし、白蘭は神殿の中で神官たちによって育てられた。白蘭の教育係はことあるごとに彼に言った。いわく、あなたは将来、長老様方が決められた御方と結婚して子を生す定め。勝手に誰かを好きになったりしてはいけませんよ。
今思うと、まだ子供の自分に子供を成せとはとんでもないことを言うものだ。だが、白蘭はおとなしく、物わかりのよい子供だった。何の疑問も持たず、言われるままそれを受け入れた。それに変化が生じたのは、当時まだ少年だったこの男と出会ってからだった。
* * *
あの日、白蘭は神殿の中庭にある長椅子に腰かけて、絢爛たる花々をつけた天恵の樹を漠然と眺めていた。
花以外は幹も葉も薄紫色をしたこの巨木が、天人族にとってどれほど重要なものか、この頃にはもう理解していた。だが、子供の彼にとっては、遠まきに眺めることしかできない巨大な飾り物にすぎなかった。
ふと、誰かの羽音が聞こえたような気がして顔を上げた。訝る間もなく、それが自分の気のせいではなかったことを知った。逆光の中、背中の羽を広げた小さな人影が、こちらへ向かって飛んできている。
思わず菫色の目を細めると、人影は白蘭の前で静止し、白い石畳の上に降り立った。白蘭はあっけにとられて、その予期せぬ来訪者を見つめた。
白蘭よりやや背丈はあるものの、年齢はさほど変わらないような少年だった。髪と目は炎のように赤く、顔立ちは整っていた。どう反応したらよいかわからず固まっていた白蘭を、少年は面白そうに眺めていたが、いきなり右手を上げた。
『よう』
今までそんな言葉をかけられたことは一度としてなかったが、それが挨拶の一種であるということは白蘭にもわかった。が、この場合、何と答えればいいのか。困った白蘭は、とりあえず自分がいちばん無難と思う挨拶を返した。
『こんにちは』
少年は猛禽類のような目を丸くした。驚いたらしい。だが、すぐに相好を崩して笑い出した。笑われるようなことを言った覚えのない白蘭は内心むっとしていたが、その気持ちを少年に対して伝えるようなことはしなかった。それよりも、この少年が誰なのか、正体を知りたいと思った。
『君は、誰?』
おそるおそる訊ねると、少年はようやく笑うのをやめて白蘭を見た。
『おまえは?』
訊いているのは白蘭のほうなのに、逆に訊き返されてしまった。何か理不尽なものを感じたが、自分が答えないかぎり、この少年は教えてくれなそうだ。白蘭は小さく嘆息した。
『僕は、白蘭。君は?』
『紅蓮』
あっさりそう答えた少年――紅蓮は、背中の白い羽を少し縮めると、何の断りもなく白蘭の隣に腰を下ろした。
一瞬、白蘭は体を震わせたが、それ以上紅蓮が何もしないのを確認してから、ほっとして力を抜いた。何しろ、それまで同年代の子供と接触したことがなかったのだ。天人族の最長老・黒蘆の前に進み出るとき以上に緊張した。
『おまえ、こんなとこで何してるんだ?』
一方、そんな白蘭の心を知ってか知らずか、紅蓮は覗きこむようにして訊ねてくる。
血管が透けて見えるほど肌の白い白蘭とは違い、紅蓮はよく日焼けしていて、ところどころ引っ掻き傷や擦り傷もあった。いったい何をしたらこんなふうになるんだろうと不思議に思いながら、白蘭は紅蓮が現れるまで自分が見ていたものを人差指で指した。
『ここから、天恵の樹を見てた』
その小さな指先を追って紅蓮も天恵の樹を見たが、すぐに目をそらせてしまった。
『あんなの見て楽しいか?』
不謹慎なことに、紅蓮はそう言い放った。普段、天恵の樹に対しては称讃の言葉しか聞いたことのなかった白蘭は、呆然として彼を見返した。
『楽しいって……見て楽しむものじゃないと思うけど……』
控えめにそう反論すると、紅蓮は不可解そうに眉をひそめた。
『だったら、見てもしょうがないだろうが』
どうやら、この少年の物事の判断基準は、楽しいか楽しくないかだけであるようだった。
『じゃあ、君は何を見たら楽しいと思うの?』
素朴な疑問を返すと、紅蓮は軽く目を見張ってから、にやりと笑った。
何か嫌な予感を覚えたが、それ以上に彼のこの表情は魅力的だった。白蘭は息を呑んで紅蓮を見つめた。
『来いよ』
紅蓮は長椅子から飛び降りると、右手を白蘭に差し出した。
『あんなゴテゴテしたのより、もっといいもの見せてやる』
白蘭は困惑して紅蓮の手を見、紅蓮の顔を見た。
それまで白蘭がこの神殿の外へ出たことはほとんどなかった。あったとしても、それは誰かの許可が出たときのみであり、そのときには必ず付き添いの者がいた。
『何だよ?』
いつまで経っても白蘭が自分の手を取らないので、紅蓮は少し苛立ったようだった。白蘭はあわてて理由を答えた。
『許可がないと、僕はここから出られないんだ』
『どうして?』
紅蓮は拍子抜けしたような顔をした。この少年にとって、それは考えられないことだったようだ。
そうかもしれないと白蘭は思った。この少年なら、自分が行きたいと思えば、誰に何を言われようが――たとえそれが黒蘆であっても――どこへでも行ってしまうだろう。少し会話しただけでもそうとわかった。
しかし、白蘭は紅蓮を羨ましいとは思わなかった。紅蓮と自分とは違う。自分にはそんな自由は許されない。
『おまえは、外に出たくないのか?』
いつのまにかうつむいていた顔を上げると、先ほどまで不機嫌そうだった紅蓮が優しく笑っていた。この少年はこんな表情もできるのか。白蘭は驚いて目を見開いた。
『おまえが出たくないんならいい。でも、出たいんなら来いよ。心配するな。何があっても、おまえだけは守ってやるから』
――そういう問題じゃないんだけど。
白蘭は心中で呟いたが、かといって、誰かにこの少年と外へ出てもよいかと訊いても許されそうもないことは想像がついた。それどころか、その前に紅蓮は羽を広げて飛び立ってしまうかもしれない。訪れたときと同じようにあっけなく。そのほうが白蘭には怖かった。
『行くよ』
逡巡した後、白蘭は紅蓮の手をつかんだ。熱くて表皮の硬い手だった。
紅蓮は片手一本で軽々と白蘭を長椅子から立たせると、背中の羽を伸ばして宙に浮いた。
『ねえ、どこに行くの?』
あわてて自分も頭の白い羽――普段は頭髪のように見える羽――を広げて訊けば、紅蓮は涼しい顔で石畳を指さした。
『まさか。大地に降りる気なの?』
白蘭はさっと青ざめた。そこまで外だとは想像もしていなかった。
天人族の唯一の住処であるこの天都は、その名の示すとおり、大地のはるか上空にある。
天人族は地人族――天人族はもっぱら〝羽なし〟と呼んでいるが――と戦うときと天恵の樹の根元に降りるとき以外、滅多に天都を離れない。
地人族は愚かで脆弱だが、数だけはいる。したがって、単独で大地に降りるということは、天人族にとって最大の危険行為でもあった。いくら天人族とはいえ、大勢に囲まれたら無事では済まない。
『大丈夫。あそこにも結界は張ってある』
だが、紅蓮は泰然と答えると、白蘭の手を引いたまま、一気に高度を上げた。
それまでほとんどの時間を神殿の中で過ごしてきた白蘭は、羽を使って飛ぶ機会もあまりなかった。うまく飛べずにもたついているのを見て、紅蓮は少々呆れたような顔をした。
『おまえ、空を飛んだこともないのか?』
『少しはあるよ』
そんな負け惜しみを言うと、紅蓮は溜め息を一つついて、白蘭の腰に手を回した。
『な、何?』
動揺して身を引いたが、構わず抱き寄せられる。
『そんなんじゃ、日暮れまでに帰ってこれないだろ。今日は俺が抱いていってやるから、おまえはもっと飛ぶ練習をしろ』
そう伝えたが早いか、紅蓮は白蘭をしっかり抱えこんで飛んだ。
すさまじい速度だった。まともに息もできない。白蘭は吹き飛ばされないように、必死で紅蓮にしがみついていた。
『着いたぞ』
そう声をかけられて、白蘭はこわごわ顔を上げた。
神殿を出たときと同じように、青い空が頭上に広がっていた。
『天都より少し重力が強いから、慣れないうちは念力使ったほうがいいぞ』
紅蓮は足を大地に向けて浮いていた。あれほどの高速度で飛んできたというのに、汗一つかいていない。きっと何度もこうして飛んできているのだろう。白蘭は紅蓮に抱きかかえられたまま、初めて訪れた大地に目を巡らせた。
そこは草原だった。大理石の建物や噴水など人工物は何もない、一面の草原だった。
ところどころ花々が固まって咲いていたが、色も大きさも貧弱で、天恵の樹に咲き誇るものとは比べものにもならなかった。
目線を上げれば、その天恵の樹に中央部を貫かれた天都が、まるで雲海のように浮かんでいる。
上部は神殿を中心とする都市と緑地。下部は乱杭歯のような剥き出しの地盤。つい先ほどまであそこにいたのかと思うと、今のこの状況が改めて信じられなかった。
『あそこに座ろう』
紅蓮が草原の一角を指さした。そこには一本の大木が生えていた。
そこまでなら紅蓮の手を借りずとも一人で飛んでいけそうだったが、白蘭はあえて彼の手を振りほどかなかった。
白蘭を太い枝の一つに座らせると、紅蓮は幹に手をついてそこに立った。
そうして木の上から周囲を見渡せば、天恵の樹とこの草原とを取り囲むように、森や山々が広がっていた。
結界が張ってあると紅蓮は言っていたが、確かに地人族の家らしきものも一つも見当たらなかった。ここにいると、まるで今この世界にいるのは、自分たち二人だけのように思えてくる。
『どうだ? 楽しいだろ?』
得意そうに紅蓮が笑った。
正直、ここも天恵の樹も大して変わらないように思ったが、生き生きとした紅蓮を眺めるのは楽しかった。
白蘭はこくんとうなずいて、風で波打つ草原に目を戻した。
その厚い胸に抱かれていると、改めて幸福感に満たされる。行為の最中よりも、その後の余韻を味わう今の時間が白蘭は好きだ。そしてそんなとき、いつも同じことを願う。無意識に自分の腹を撫でながら。
『早く、君の子供を産みたい』
ひそやかにそう告げると、男はなぜかいつも少し困ったような顔をする。そのために白蘭の許婚に選ばれたというのに、今まで自分からはそのように言ったことがない。
もっとも、そのことで男を責める権利は白蘭にはない。子供を産めないのは、白蘭の体がまだそのようにできていないからだ。我ながら、それが口惜しくてならない。
時が至れば初経が起こり、常とは違う箇所から男を受け入れて受胎できるようになるというが、そのときはなかなか訪れてはくれなかった。無論、そこはすでにあるのだが、無理はしたくないからと愛撫以外のことを男はしなかった。今のところ、白蘭の体は男の性徴を備えており、それゆえに男とは許婚のままであるのだった。これほど愛し、愛されているのに。
白蘭たちが属する天人族は、羽があるのが唯一の共通点と言っても過言ではないほどに個体差が広がってしまったため、懐胎して子を産むことが難しくなっていた。彼らが同胞を増やすには、天恵の樹と科学の力に頼らざるを得なかったのである。
そのことを憂いた長老らは、天人の子を受胎できる天母として白蘭を生み出した。他にも何人かいたらしいが、成功したのは彼のみだった。
だが、実は自分も失敗作だったのではないかと自嘲と共に白蘭は思う。できることなら、最初から女の姿で生まれてきたかった。そうすれば、いつになったら男の子を産めるようになるのかと焦燥することも、もしかしたらこの先一生このままで終わるのではないのかと不安に駆られることもなかった。
燃えるような緋色の髪と目をしたこの男とは、まだうまく空を飛べなかった頃からの付き合いだ。両親というものを持たぬ天人族の子供たちは、みな育児院に集められ、そこで専門の大人たちの手により大切に育てられる。繁殖力の弱い天人族にとって、子供の存在は何にも代えがたいものなのである。
しかし、白蘭は神殿の中で神官たちによって育てられた。白蘭の教育係はことあるごとに彼に言った。いわく、あなたは将来、長老様方が決められた御方と結婚して子を生す定め。勝手に誰かを好きになったりしてはいけませんよ。
今思うと、まだ子供の自分に子供を成せとはとんでもないことを言うものだ。だが、白蘭はおとなしく、物わかりのよい子供だった。何の疑問も持たず、言われるままそれを受け入れた。それに変化が生じたのは、当時まだ少年だったこの男と出会ってからだった。
* * *
あの日、白蘭は神殿の中庭にある長椅子に腰かけて、絢爛たる花々をつけた天恵の樹を漠然と眺めていた。
花以外は幹も葉も薄紫色をしたこの巨木が、天人族にとってどれほど重要なものか、この頃にはもう理解していた。だが、子供の彼にとっては、遠まきに眺めることしかできない巨大な飾り物にすぎなかった。
ふと、誰かの羽音が聞こえたような気がして顔を上げた。訝る間もなく、それが自分の気のせいではなかったことを知った。逆光の中、背中の羽を広げた小さな人影が、こちらへ向かって飛んできている。
思わず菫色の目を細めると、人影は白蘭の前で静止し、白い石畳の上に降り立った。白蘭はあっけにとられて、その予期せぬ来訪者を見つめた。
白蘭よりやや背丈はあるものの、年齢はさほど変わらないような少年だった。髪と目は炎のように赤く、顔立ちは整っていた。どう反応したらよいかわからず固まっていた白蘭を、少年は面白そうに眺めていたが、いきなり右手を上げた。
『よう』
今までそんな言葉をかけられたことは一度としてなかったが、それが挨拶の一種であるということは白蘭にもわかった。が、この場合、何と答えればいいのか。困った白蘭は、とりあえず自分がいちばん無難と思う挨拶を返した。
『こんにちは』
少年は猛禽類のような目を丸くした。驚いたらしい。だが、すぐに相好を崩して笑い出した。笑われるようなことを言った覚えのない白蘭は内心むっとしていたが、その気持ちを少年に対して伝えるようなことはしなかった。それよりも、この少年が誰なのか、正体を知りたいと思った。
『君は、誰?』
おそるおそる訊ねると、少年はようやく笑うのをやめて白蘭を見た。
『おまえは?』
訊いているのは白蘭のほうなのに、逆に訊き返されてしまった。何か理不尽なものを感じたが、自分が答えないかぎり、この少年は教えてくれなそうだ。白蘭は小さく嘆息した。
『僕は、白蘭。君は?』
『紅蓮』
あっさりそう答えた少年――紅蓮は、背中の白い羽を少し縮めると、何の断りもなく白蘭の隣に腰を下ろした。
一瞬、白蘭は体を震わせたが、それ以上紅蓮が何もしないのを確認してから、ほっとして力を抜いた。何しろ、それまで同年代の子供と接触したことがなかったのだ。天人族の最長老・黒蘆の前に進み出るとき以上に緊張した。
『おまえ、こんなとこで何してるんだ?』
一方、そんな白蘭の心を知ってか知らずか、紅蓮は覗きこむようにして訊ねてくる。
血管が透けて見えるほど肌の白い白蘭とは違い、紅蓮はよく日焼けしていて、ところどころ引っ掻き傷や擦り傷もあった。いったい何をしたらこんなふうになるんだろうと不思議に思いながら、白蘭は紅蓮が現れるまで自分が見ていたものを人差指で指した。
『ここから、天恵の樹を見てた』
その小さな指先を追って紅蓮も天恵の樹を見たが、すぐに目をそらせてしまった。
『あんなの見て楽しいか?』
不謹慎なことに、紅蓮はそう言い放った。普段、天恵の樹に対しては称讃の言葉しか聞いたことのなかった白蘭は、呆然として彼を見返した。
『楽しいって……見て楽しむものじゃないと思うけど……』
控えめにそう反論すると、紅蓮は不可解そうに眉をひそめた。
『だったら、見てもしょうがないだろうが』
どうやら、この少年の物事の判断基準は、楽しいか楽しくないかだけであるようだった。
『じゃあ、君は何を見たら楽しいと思うの?』
素朴な疑問を返すと、紅蓮は軽く目を見張ってから、にやりと笑った。
何か嫌な予感を覚えたが、それ以上に彼のこの表情は魅力的だった。白蘭は息を呑んで紅蓮を見つめた。
『来いよ』
紅蓮は長椅子から飛び降りると、右手を白蘭に差し出した。
『あんなゴテゴテしたのより、もっといいもの見せてやる』
白蘭は困惑して紅蓮の手を見、紅蓮の顔を見た。
それまで白蘭がこの神殿の外へ出たことはほとんどなかった。あったとしても、それは誰かの許可が出たときのみであり、そのときには必ず付き添いの者がいた。
『何だよ?』
いつまで経っても白蘭が自分の手を取らないので、紅蓮は少し苛立ったようだった。白蘭はあわてて理由を答えた。
『許可がないと、僕はここから出られないんだ』
『どうして?』
紅蓮は拍子抜けしたような顔をした。この少年にとって、それは考えられないことだったようだ。
そうかもしれないと白蘭は思った。この少年なら、自分が行きたいと思えば、誰に何を言われようが――たとえそれが黒蘆であっても――どこへでも行ってしまうだろう。少し会話しただけでもそうとわかった。
しかし、白蘭は紅蓮を羨ましいとは思わなかった。紅蓮と自分とは違う。自分にはそんな自由は許されない。
『おまえは、外に出たくないのか?』
いつのまにかうつむいていた顔を上げると、先ほどまで不機嫌そうだった紅蓮が優しく笑っていた。この少年はこんな表情もできるのか。白蘭は驚いて目を見開いた。
『おまえが出たくないんならいい。でも、出たいんなら来いよ。心配するな。何があっても、おまえだけは守ってやるから』
――そういう問題じゃないんだけど。
白蘭は心中で呟いたが、かといって、誰かにこの少年と外へ出てもよいかと訊いても許されそうもないことは想像がついた。それどころか、その前に紅蓮は羽を広げて飛び立ってしまうかもしれない。訪れたときと同じようにあっけなく。そのほうが白蘭には怖かった。
『行くよ』
逡巡した後、白蘭は紅蓮の手をつかんだ。熱くて表皮の硬い手だった。
紅蓮は片手一本で軽々と白蘭を長椅子から立たせると、背中の羽を伸ばして宙に浮いた。
『ねえ、どこに行くの?』
あわてて自分も頭の白い羽――普段は頭髪のように見える羽――を広げて訊けば、紅蓮は涼しい顔で石畳を指さした。
『まさか。大地に降りる気なの?』
白蘭はさっと青ざめた。そこまで外だとは想像もしていなかった。
天人族の唯一の住処であるこの天都は、その名の示すとおり、大地のはるか上空にある。
天人族は地人族――天人族はもっぱら〝羽なし〟と呼んでいるが――と戦うときと天恵の樹の根元に降りるとき以外、滅多に天都を離れない。
地人族は愚かで脆弱だが、数だけはいる。したがって、単独で大地に降りるということは、天人族にとって最大の危険行為でもあった。いくら天人族とはいえ、大勢に囲まれたら無事では済まない。
『大丈夫。あそこにも結界は張ってある』
だが、紅蓮は泰然と答えると、白蘭の手を引いたまま、一気に高度を上げた。
それまでほとんどの時間を神殿の中で過ごしてきた白蘭は、羽を使って飛ぶ機会もあまりなかった。うまく飛べずにもたついているのを見て、紅蓮は少々呆れたような顔をした。
『おまえ、空を飛んだこともないのか?』
『少しはあるよ』
そんな負け惜しみを言うと、紅蓮は溜め息を一つついて、白蘭の腰に手を回した。
『な、何?』
動揺して身を引いたが、構わず抱き寄せられる。
『そんなんじゃ、日暮れまでに帰ってこれないだろ。今日は俺が抱いていってやるから、おまえはもっと飛ぶ練習をしろ』
そう伝えたが早いか、紅蓮は白蘭をしっかり抱えこんで飛んだ。
すさまじい速度だった。まともに息もできない。白蘭は吹き飛ばされないように、必死で紅蓮にしがみついていた。
『着いたぞ』
そう声をかけられて、白蘭はこわごわ顔を上げた。
神殿を出たときと同じように、青い空が頭上に広がっていた。
『天都より少し重力が強いから、慣れないうちは念力使ったほうがいいぞ』
紅蓮は足を大地に向けて浮いていた。あれほどの高速度で飛んできたというのに、汗一つかいていない。きっと何度もこうして飛んできているのだろう。白蘭は紅蓮に抱きかかえられたまま、初めて訪れた大地に目を巡らせた。
そこは草原だった。大理石の建物や噴水など人工物は何もない、一面の草原だった。
ところどころ花々が固まって咲いていたが、色も大きさも貧弱で、天恵の樹に咲き誇るものとは比べものにもならなかった。
目線を上げれば、その天恵の樹に中央部を貫かれた天都が、まるで雲海のように浮かんでいる。
上部は神殿を中心とする都市と緑地。下部は乱杭歯のような剥き出しの地盤。つい先ほどまであそこにいたのかと思うと、今のこの状況が改めて信じられなかった。
『あそこに座ろう』
紅蓮が草原の一角を指さした。そこには一本の大木が生えていた。
そこまでなら紅蓮の手を借りずとも一人で飛んでいけそうだったが、白蘭はあえて彼の手を振りほどかなかった。
白蘭を太い枝の一つに座らせると、紅蓮は幹に手をついてそこに立った。
そうして木の上から周囲を見渡せば、天恵の樹とこの草原とを取り囲むように、森や山々が広がっていた。
結界が張ってあると紅蓮は言っていたが、確かに地人族の家らしきものも一つも見当たらなかった。ここにいると、まるで今この世界にいるのは、自分たち二人だけのように思えてくる。
『どうだ? 楽しいだろ?』
得意そうに紅蓮が笑った。
正直、ここも天恵の樹も大して変わらないように思ったが、生き生きとした紅蓮を眺めるのは楽しかった。
白蘭はこくんとうなずいて、風で波打つ草原に目を戻した。
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