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2 村の中
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数週間が過ぎた。
白鹿の約束どおり、狩人が飢えることはなかった。
なぜなら、狩人が森に行けば、必ず大物の獲物を見つけることができたし、当然、彼はそれを仕留めることができたからである。
狩人は小さな村のはずれに一人で暮らしていた。かつては猟犬として犬を何頭か飼っていたが、獣に殺されたり、姿を消したりしたために、今では猟のときも一人だった。
だが、自分の幼なじみの結婚式のある今日ばかりは、狩人も村の広場にいた。
「おまえも早く嫁さんもらったらどうだ?」
幼なじみが笑いながら狩人に言った。
「俺はまだ、身軽でいたいんでな」
狩人も笑って答えたそのとき、人々のざわめきがぴたりとやんだ。
何事かと狩人たちが首を巡らせると、ざわめきがより一層大きくなって返ってきた。
「おい、白鹿だ! 白鹿だぞ!」
「珍しい、あれが村まで来るなんて」
村人の声に目を向ければ、広場の入り口のところに、あの白鹿がたたずんでいた。
「こりゃ吉兆だぞ!」
村人の一人が叫んだ。
「この結婚を、白鹿が祝福に来たんだ!」
狩人の幼なじみとその花嫁は、真っ赤になって照れた。そんな二人をからかって、村人たちはいよいよ囃したてる。
「白鹿が村に来るなんて、本当に珍しい。あんたたちはついてるよ!」
そんな莫迦騒ぎの中、狩人は一人、白鹿を凝視していた。白鹿もまた、濡れた黒曜石のような瞳で、狩人を見つめていた。数週間前、この白鹿を狩人があと少しで殺してしまうところだったと知れば、この場にいる村中の人々が彼を責め苛んだことだろう。
狩人が初めて白鹿を見たのは、今はもう亡い父――母は狩人が赤ん坊の頃に病気で亡くなっていた――に連れられて、猟に出かけたときだった。
ふいに目の前に現れた白鹿に、父はとっさに銃口を向けたが、それが神の使いと言われる白鹿であることを知ると、すぐに銃を下ろした。驚いたことには、それまでさかんに吠え立てていた猟犬たちでさえ、尾を下げて後じさってしまっていた。
白鹿はその名のとおり、全身純白の実に美しい鹿だった。もう何百年も前からこの森に住んでいると言われていたが、人間たちの前に姿を現すのはごく稀なことだった。父も白鹿を見たのは、このときが初めてだったという。
まだ幼かった狩人は、話だけは聞いていた白鹿を見て、ただ素直に綺麗な鹿だと思った。こんなに綺麗な鹿は今まで見たことがないと思った。
白鹿は、そこだけは黒いつぶらな瞳で狩人親子を見つめると、現れたときと同じように、唐突に森の奥へと消えてしまった。
父は安堵の溜め息をつくと、改めて狩人に言い聞かせた。
――今のが白鹿だ。いいか、いつかおまえも猟師になったら、白鹿だけは絶対撃つなよ。あれは神の使いなんだからな。
言われるまま狩人は頷いた。確かに、あの鹿の神々しいまでの美しさは、この世のものとは思えなかった。
このときは、もう二度と白鹿に会うことはあるまいと、父も狩人も思っていた。
白鹿が人前に現れるのは、何か良いことか悪いこと――たとえば豊作とか飢饉とか――が起こる前触れと言われていたが、いずれにしろ、一生のうちで白鹿を何度も見たという猟師は、これまで一人もいなかったからだ。
しかし、狩人はそれからも、森の中でしばしば白鹿と出くわした。父は首をひねり、自分一人のときは白鹿に会わなかったことから、たぶん、おまえが白鹿に気に入られたんだなと狩人に言った。
だが、狩人が近づこうとすると、白鹿はすぐに逃げてしまう。そのくせ、白鹿を無視して立ち去ろうとすると、かなり距離をおいてだが、狩人の後をついてくる。が、狩人が振り返ると、やはり白鹿は消えてしまう。
白鹿のこの行動は、狩人にはまったく不可解だった。神の使いとして敬う気持ちも、いつのまにか薄れていた。狩人の前では、好奇心はあるが怖くて近寄れない、ただの鹿と大差なかったから。
やがて数年が過ぎ、父も病気で亡くなって、狩人一人で森へ猟に出かけるようになっても、白鹿は遠くから狩人を眺めるだけだった。
――おまえはいったい何がしたいんだ!?
ある日、とうとう我慢の限界を超えた狩人は、白鹿に向かって怒鳴った。大声を出されて、白鹿は怯えたように身をすくませた。
――俺に何か言いたいことでもあるのか? 森で猟をするなとでも? おまえが白鹿でなかったら、とっくの昔に撃ち殺しているぞ!
狩人の剣幕に恐れをなしたか、白鹿はたちまち姿を隠した。これでもう自分に付きまとうことはあるまいと狩人は思ったのだが、再び森に足を踏み入れると、白鹿は何事もなかったかのようにまた現れた。
そのときから、機会があったら白鹿を殺してやろうと、ひそかに狩人は思っていた。
もしも、白鹿が狩人が近づいても逃げ出したりしなければ、彼は自分の猟犬たちと同じように白鹿を愛することができただろう。しかし、見つめるだけの白鹿は、いたずらに狩人の神経を苛立たせただけだった。
だが、数週間前、狩人は白鹿を殺せる絶好の機会を、自ら放棄してしまっていた。村人たちの非難を恐れたわけではない。狩人以外の人間の前には滅多に現れないのだ。この森からいなくなってもわかる者はない。
ただ、狩人を追いつめたあの黒い瞳を見たとき、引き金に掛けた指も止まってしまった。
白鹿の濡れた目は、狩人に重大な何かを訴えかけているように見えた。――今も。
そんな睨みあいが、どれくらい続いただろうか。
白鹿はふいに純白の体をひるがえすと、そのまま黒い森のほうへ戻ってしまった。
白鹿がいなくなっても、まだ村人たちは気づかずに、若い二人を囃したてつづけていた。
白鹿の約束どおり、狩人が飢えることはなかった。
なぜなら、狩人が森に行けば、必ず大物の獲物を見つけることができたし、当然、彼はそれを仕留めることができたからである。
狩人は小さな村のはずれに一人で暮らしていた。かつては猟犬として犬を何頭か飼っていたが、獣に殺されたり、姿を消したりしたために、今では猟のときも一人だった。
だが、自分の幼なじみの結婚式のある今日ばかりは、狩人も村の広場にいた。
「おまえも早く嫁さんもらったらどうだ?」
幼なじみが笑いながら狩人に言った。
「俺はまだ、身軽でいたいんでな」
狩人も笑って答えたそのとき、人々のざわめきがぴたりとやんだ。
何事かと狩人たちが首を巡らせると、ざわめきがより一層大きくなって返ってきた。
「おい、白鹿だ! 白鹿だぞ!」
「珍しい、あれが村まで来るなんて」
村人の声に目を向ければ、広場の入り口のところに、あの白鹿がたたずんでいた。
「こりゃ吉兆だぞ!」
村人の一人が叫んだ。
「この結婚を、白鹿が祝福に来たんだ!」
狩人の幼なじみとその花嫁は、真っ赤になって照れた。そんな二人をからかって、村人たちはいよいよ囃したてる。
「白鹿が村に来るなんて、本当に珍しい。あんたたちはついてるよ!」
そんな莫迦騒ぎの中、狩人は一人、白鹿を凝視していた。白鹿もまた、濡れた黒曜石のような瞳で、狩人を見つめていた。数週間前、この白鹿を狩人があと少しで殺してしまうところだったと知れば、この場にいる村中の人々が彼を責め苛んだことだろう。
狩人が初めて白鹿を見たのは、今はもう亡い父――母は狩人が赤ん坊の頃に病気で亡くなっていた――に連れられて、猟に出かけたときだった。
ふいに目の前に現れた白鹿に、父はとっさに銃口を向けたが、それが神の使いと言われる白鹿であることを知ると、すぐに銃を下ろした。驚いたことには、それまでさかんに吠え立てていた猟犬たちでさえ、尾を下げて後じさってしまっていた。
白鹿はその名のとおり、全身純白の実に美しい鹿だった。もう何百年も前からこの森に住んでいると言われていたが、人間たちの前に姿を現すのはごく稀なことだった。父も白鹿を見たのは、このときが初めてだったという。
まだ幼かった狩人は、話だけは聞いていた白鹿を見て、ただ素直に綺麗な鹿だと思った。こんなに綺麗な鹿は今まで見たことがないと思った。
白鹿は、そこだけは黒いつぶらな瞳で狩人親子を見つめると、現れたときと同じように、唐突に森の奥へと消えてしまった。
父は安堵の溜め息をつくと、改めて狩人に言い聞かせた。
――今のが白鹿だ。いいか、いつかおまえも猟師になったら、白鹿だけは絶対撃つなよ。あれは神の使いなんだからな。
言われるまま狩人は頷いた。確かに、あの鹿の神々しいまでの美しさは、この世のものとは思えなかった。
このときは、もう二度と白鹿に会うことはあるまいと、父も狩人も思っていた。
白鹿が人前に現れるのは、何か良いことか悪いこと――たとえば豊作とか飢饉とか――が起こる前触れと言われていたが、いずれにしろ、一生のうちで白鹿を何度も見たという猟師は、これまで一人もいなかったからだ。
しかし、狩人はそれからも、森の中でしばしば白鹿と出くわした。父は首をひねり、自分一人のときは白鹿に会わなかったことから、たぶん、おまえが白鹿に気に入られたんだなと狩人に言った。
だが、狩人が近づこうとすると、白鹿はすぐに逃げてしまう。そのくせ、白鹿を無視して立ち去ろうとすると、かなり距離をおいてだが、狩人の後をついてくる。が、狩人が振り返ると、やはり白鹿は消えてしまう。
白鹿のこの行動は、狩人にはまったく不可解だった。神の使いとして敬う気持ちも、いつのまにか薄れていた。狩人の前では、好奇心はあるが怖くて近寄れない、ただの鹿と大差なかったから。
やがて数年が過ぎ、父も病気で亡くなって、狩人一人で森へ猟に出かけるようになっても、白鹿は遠くから狩人を眺めるだけだった。
――おまえはいったい何がしたいんだ!?
ある日、とうとう我慢の限界を超えた狩人は、白鹿に向かって怒鳴った。大声を出されて、白鹿は怯えたように身をすくませた。
――俺に何か言いたいことでもあるのか? 森で猟をするなとでも? おまえが白鹿でなかったら、とっくの昔に撃ち殺しているぞ!
狩人の剣幕に恐れをなしたか、白鹿はたちまち姿を隠した。これでもう自分に付きまとうことはあるまいと狩人は思ったのだが、再び森に足を踏み入れると、白鹿は何事もなかったかのようにまた現れた。
そのときから、機会があったら白鹿を殺してやろうと、ひそかに狩人は思っていた。
もしも、白鹿が狩人が近づいても逃げ出したりしなければ、彼は自分の猟犬たちと同じように白鹿を愛することができただろう。しかし、見つめるだけの白鹿は、いたずらに狩人の神経を苛立たせただけだった。
だが、数週間前、狩人は白鹿を殺せる絶好の機会を、自ら放棄してしまっていた。村人たちの非難を恐れたわけではない。狩人以外の人間の前には滅多に現れないのだ。この森からいなくなってもわかる者はない。
ただ、狩人を追いつめたあの黒い瞳を見たとき、引き金に掛けた指も止まってしまった。
白鹿の濡れた目は、狩人に重大な何かを訴えかけているように見えた。――今も。
そんな睨みあいが、どれくらい続いただろうか。
白鹿はふいに純白の体をひるがえすと、そのまま黒い森のほうへ戻ってしまった。
白鹿がいなくなっても、まだ村人たちは気づかずに、若い二人を囃したてつづけていた。
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