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第8話 フレンド
3 妄執
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懐かしいはずの街はずいぶん変わっていた。
ここを離れてからもう十四年以上経っているのだ。変わっていて当然だったが、不確かになりつつある記憶を頼りに昔住んでいたアパートを探すのは、思っていたほどたやすいことではなかった。
「もしかしたら、もう残ってないかもしれないな」
雅美に冷ややかな眼差しを向けられて、鬼頭はそう言い訳してみた。
「あの当時でひどいオンボロだったし、今は鉄筋のマンションか、駐車場になってるかも……」
「住所くらいは覚えてるんだろう?」
「まあ、覚えてるけど……まさか、こんなに変わってるとは思わなかった」
「今は変化のスピードが速いからな」
自称戦前生まれは感慨深げに言った。
「ちょっと目を離すと、とんでもないところにとんでもないものが建っていたりする。だから面白いところもあるが」
「そうか。それで散歩が趣味なんだな」
そういえば、部屋はあれほど他人を拒絶しているのに、その住人である雅美は夜ごと外をぶらついているのだった。
雅美は夜の世界で何を求めているのだろう。それは昼の光の中では得られないものなのだろうか。
「なあ、雅美」
「ん?」
「おまえ、日光に弱い?」
なぜいきなりそんなことを訊くのか理解しがたかったようだ。雅美は大仰に眉をひそめた。
「そう見えるか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……だから夜行性なのかと思って」
改めて見てみると、雅美は明らかに周囲の人間たちとは異質だった。
黒ずくめであるとか、並はずれた美少年であるとか、そんな単純なレベルではない。もっと深い部分――たとえるなら、彼を形作る細胞の一つ一つからして違うような、そんな異質さ。
まるで海の生物が陸を歩いているようだ。場違いで痛々しい。海に生きるものは海の中にいるときがいちばん美しいのだ。陸に上がれば不様になる。
きっと雅美の細胞はどこまでも夜向きに作られているのだろう。日光の下でも生きて動いているのが不思議なくらい美しいが、月光の下のときの比ではない。それはこれまでずっと夜の雅美を見続けてきた鬼頭がいちばんよく知っている。雅美は夜の生物なのだ。
「安心しろ。一日くらいなら灰にはならない」
鬼頭の気まぐれのために無理をしているだろう夜の生物は、彼らしい言葉で〝気にするな〟と言った。
鬼頭以外誰も気づかないだろうが、動きも夜のときに比べると多少緩慢である。雅美のためには、早く目的を達したほうがよさそうだ。
「ええと……確かこっちだと思ったな……」
独りごち、細い路地を右に曲がる。
「この先の角に、駄菓子屋があったんだが……」
「あるにはあるな」
雅美がちらりと視線を走らせる。
「現代の駄菓子屋。――コンビニだ」
そのとおりだった。
鬼頭の記憶の中では古びた小さな駄菓子屋があったはずの場所には、つるつるとして無個性なコンビニエンスストアが建っていたのだった。
「こういうの見ると、もろに時代の流れを感じるよなあ……」
「本当にここだったのか?」
「ああ、間違いない。ここへはずいぶん通ったんだ。口うるさい婆さんがいてな。子供が買うものにいちいち文句つけるんだ。こんなもの買うな、無駄遣いするなってな。でも、あの頃でもう結構な年だったから、さすがに今はいないだろうなあ……で、俺のうちはあっちのほうにあったんだ」
鬼頭は顎で、道を挟んだコンビニの斜め向かいを指した。
「行くのか?」
「ここまで来たら、行くしかないだろ」
肩をすくめ、再び歩き出す。そのすぐ後方を雅美が歩く。
「ここらへんは住宅街だったから、あんまり変わってないな」
雅美に言うでもなく、鬼頭は呟いた。
実を言うと、複雑な気分だった。かつて両親と暮らしたアパートを、今まで一度も訪ねようとしなかったのは、機会がなかったということもあるが、事故死した両親のことを思い出したくなかったからだった。それまであった、苦しかったが楽しかった思い出も、あれですべて打ち消されてしまった。
自分一人だったら、たとえどんなに近くまで来ていても、見にいこうとはしなかったに違いない。一人ではないから、雅美がいるから、ようやく行く気になれたのだ。
鬼頭は自分をあまり過去にこだわらない人間だと思っている。良く言えば前向きで、悪く言えば軽薄だ。昔より今が大事で、人生をやり直したくないかと訊かれたら、そのつもりはないと答える。同じことを繰り返したくないからだ。
だから、鬼頭が今になって昔のアパートを見にいこうとしているのは懐かしむためではない。
決別するため。
過去にこだわらない鬼頭が唯一こだわらざるを得ない過去。その総体があの安普請のアパートなのだ。
そのためには、あのアパートは残っていてほしくなかった。駄菓子屋がコンビニに変わったように、真新しいマンションか、駐車場にでも変わっていてほしかった。
道はすでに既知のものに変わっていた。自然に足が速くなる。どうしてこれほど緊張しているのか、自分でもよくわからなかった。期待感。不安感。そのどちらも合っているようで、どちらも違うような気がする。
狭い路地を抜け、塀の角を曲がる。夏は灼熱、冬は極寒。安いだけが取り柄のあのアパート――
鬼頭は足を止めた。黙って後を歩いていた雅美もそれに気づいて止まった。
一目見て、すぐに帰るつもりだった。
だが、まるで想像していなかった光景を目の当たりにして、鬼頭は呆然と立ち尽くしていた。
あの古いアパートも、真新しいマンションも、普通の住宅もなかった。かといって、駐車場や空地だったわけでもない。
黒焦げになった柱の群れ。黒ずんだ瓦礫。ガラクタの山。
木造の古い建物だったのだろう。ほとんど燃えてしまっていて、原形をとどめていなかった。両隣には住宅があったが、幸い類焼はしなかったようだ。
ただ、さほど広くもないこの一角だけがぽっかりと、戦場の廃墟のような姿をさらしているのだった。
どれくらいそうしていただろうか。
「やっと、来たな」
突然、雅美のものではない声がして、鬼頭は我に返った。
いったいいつからそこにいたのだろう。誰もいないと見えた焼け跡の中に、薄汚れた服装をした男が一人まぎれこんでいた。焼け焦げたコンクリートの上に腰かけて、じっと鬼頭を見つめている。
「ここにいれば、いつかは来るだろうと思ってた」
男は言った。決して大きな声ではなく、くぐもってもいたのに、なぜかよく聞きとれた。
「でも、遅かったな。ここは一週間くらい前に燃えちまったんだ。放火だとさ。人も死んだよ。ここに住んでたのは、他に行き場所のない年寄りばっかりだったからな」
「あの……」
鬼頭は困惑していた。男は知り合いのように話しかけてくるが、まったく見覚えがない。
鬼頭よりずっと年上のように見えるが、実はそう変わらないのかもしれない。白髪交じりの頭はぼさぼさで、痩せこけた顔の色は非常に悪かった。鬼頭の態度で自分を覚えていないことがわかったのだろう。男はその顔に泣き笑いにも似た表情を浮かべた。
「俺が誰かわからないか? ……まあ、無理もないな。最後に会ったのは、もう十四年も前だ。でも、俺はおまえだとすぐわかったぜ。おまえは全然変わっちゃいない。俺はこんなに変わっちまったのに」
「……十四年前?」
十四年前といえば、ちょうど両親が亡くなって、このアパートを離れた頃だ。ということは、この男はその当時の知り合いということになる。鬼頭は男の顔に目を凝らした。そういえば、どこかで見たことがあるような気もする。
「もしかして……昔、このアパートに住んでた……」
思いつくままそう呟いたが、肝心の名前がなかなか出てこない。顔はわかるのだが、このアパートにいた頃のことはできるだけ思い出さないようにしていたため、そのとき知っていた人の名前も一緒に忘れてしまったのだ。
「やっぱり忘れちまったのか……」
男はさらに顔を歪ませた。まるで幽鬼のようだと鬼頭は思った。
「いや、覚えてる。覚えてるんだけど、名前が出てこなくて……」
罪悪感を覚えてあわててそう言ったが、男はぼそぼそとこう返した。
「名前が出てこないんなら、忘れてるってことだろ」
確かにそのとおりだった。
こういうとき、雅美に訊けばたいていのことは教えてくれるのだが、今回は今まで話したことがない鬼頭の過去に関わる人間の名前である。雅美が知っているはずもない。それでも、助けを求めるように雅美を見ると、雅美は眉をひそめて男を睨んでいた。
鬼頭は奇妙に思って雅美を見つめた。雅美がこういう顔をしているとき。その対象はほとんどの場合、人間ではなかった。
「ええと……じゃあ、おまえは俺の名前、覚えてるってことだよな?」
雅美のことは気になったが、それ以上にこの男のことも気になる。鬼頭は探るように男に訊ねた。
「ああ、もちろん。鬼頭だろ。鬼頭和臣」
では、この男は本当に鬼頭を知っているのだ。
記憶力は決して悪いほうではないのに、どうしてこうも思い出せないのだろう。鬼頭は腕組みをして眉間に縦皺を寄せていた。が。
「悪い。名前、教えてくれないか?」
降参して頭を掻いた。我ながら情けないとも思ったが、本当に思い出せないのだから仕方がない。
男は電池の切れた玩具のように凍りついていた。鬼頭が自分の名前を忘れていたことがかなりショックだったようだ。その様子を見て、鬼頭は改めて申し訳ないと思った。自分が男の立場だったら、やはり傷つくだろう。
「おまえが覚えてないんならしょうがない」
男はそう呟いて、ゆらりと立ち上がった。
「せっかく来たんだ。ちょっと俺の家に寄ってかないか? そうしたら、俺のことも思い出すかもしれない」
「あ、ああ……」
言われるまま鬼頭はうなずいたが、そのとき、ようやく雅美が口を開いた。
「やめておけ。面倒なことになるぞ」
「だって……俺の昔の友達だぞ?」
男には聞こえないよう声を潜めて言い返す。名前は思い出せないが、昔このアパートに住んでいたならきっとそうだろう。
「あくまで昔の、だろう。たぶん、あんたはまたわかってないだろうから言っておくが、あれはもう死んでいる」
「え?」
あわてて鬼頭は男の足元を見た。――影がある。
「おい、脅かすなよ。俺だって少しは学習したんだ。幽霊には影がないってな。あいつにはちゃんと影があるだろうが」
鬼頭は笑って言ったが、雅美は硬い表情を崩さなかった。
「だから余計始末が悪い。あれは死んではいるが、幽霊じゃない。……死体そのものだ」
返す言葉を失い、鬼頭は雅美を見つめた。雅美は依然として男を見すえている。
「おそらく、すでに自分が死んでいることすら気づいていないだろう。……凄まじい妄執だ。よっぽどあんたに会いたかったらしいな。だが、だからこそあんたはそれにつきあってやろうなどと考えるな。このまま何も言わずに立ち去れ。後の始末は俺がつけてやる」
――珍しい。
不謹慎だが、鬼頭はまずそう思った。
鬼頭の記憶が確かなら、今まで雅美がこれほどはっきりと〝帰れ〟と言ったことはない。鬼頭が帰ると言わないかぎり、雅美は決して自分のほうからは帰ろうとしない。それゆえに、鬼頭はどうやって別れの言葉を切り出そうかといつも悩む。
その雅美が自分を帰らせようとするのだ、事態は本当に深刻なのだろう。鬼頭は改めて男を見た。
最初から男は鬼頭しか見ていなかった。倒れそうな体勢で立っている今も。
普通の人間ならすぐに雅美のほうに気をとられる。だが、この男は現在に至るまで、雅美のことは訊ねるどころか、その存在にも気づいていないようだった。
それでも、雅美の言うような死体だとはとても思えなかった。死体にあんな目はできないだろう。何かに憑かれた狂気の目。
「わかった。家はどこだ?」
「鬼頭さん」
低く雅美が詰る。予想どおりの反応に鬼頭は苦笑いした。
「おまえのことを信じてないわけじゃないんだ」
雅美の耳元に顔を近づけて囁く。
「でも、誰だって、一人で死にたくはないだろう?」
雅美は大きく目を見張った。呆れたのかもしれない。何か言いたげに口を開いたが、言葉は出なかった。
「ああ。すぐ近くだ……」
男は嬉しそうに笑うと――しかし、それはこちらを嬉しくさせるものではなかった――ぎごちなく足を踏み出した。
「そのかわり」
ひときわ大きな鬼頭の声に、歩きかけていた男の足が止まった。
「こいつも一緒に連れてっていいか?」
そう言う鬼頭の手は、雅美の腕をつかんでいた。
男は初めて鬼頭の横に雅美が立っていることに気づいたように、緩慢に雅美のほうへ顔を向けた。
雅美はというと、驚いているような呆れているような、何とも言えない表情をしていた。たぶん、言うことはきかないくせに自分をあてにするのかと呆れているのだろう。まったく、そのとおりだ。
「誰だ? それは?」
長い間をおいて、訝しげに男に問われた。
(誰だって言われてもな……)
この場合、男が知りたいのは雅美の名前ではなく、自分との関係だろう。
鬼頭は空いているほうの手で自分の頭を掻いてから、思い切って言った。
「友達だ」
男は不審そうに雅美を見つめた。
雅美は見た目、高校生くらいだ。鬼頭より十歳は年下に見えるだろう。とても〝友達〟には見えないと鬼頭自身も思うのだが、それ以外に雅美をこの男に紹介する適切な言葉が見つからなかった。
一方、鬼頭にそう紹介されてしまった雅美は、また何か言いたそうに鬼頭を横目で見たが、結局、何も口にはしなかった。ここであえて逆らうこともないと判断したのだろう。
そういえば、雅美も以前、幽霊の少女に鬼頭のことを友達かと訊かれてそうだと認めていた。それなら、やはり自分たちは友人同士なのだ。そういうことにしておこう。
「いいだろう。来いよ」
ふいに男は踵を返し、ふらふらと歩きはじめた。たとえ客が一人増えようと、自宅に鬼頭を招きたいらしい。その後ろ姿を眺めながら、雅美はそっけなく鬼頭に訊ねた。
「本当に、昔の友達なのか?」
「……たぶん。実を言うと、自信がない」
「それでも、あの男につきあってやるのか? つくづくあんたはお人好しだよ」
「悪いな。今回は本当に申し訳ないと思ってる」
口先だけでなく、本心から鬼頭は謝った。そもそも、鬼頭があんな気まぐれを起こさなければ、雅美がこんなところへ来ることはなく、あの男とも会うことはなかったのだ。
「でも、おまえも一緒に来てくれないか? 俺一人じゃ心もとない」
「まったくだ」
間髪を入れず雅美が言う。
「ここであんたと別れたら、帰っても眠れやしない。せっかく昼間に起きてやったのに」
――どういう意味だ?
鬼頭のことが心配だから? それとも、もっとどこかに行きたかったから?
「今度、何かおごるよ」
本能的に恐怖を覚えた鬼頭は、そう言って追及を打ち切った。
ここを離れてからもう十四年以上経っているのだ。変わっていて当然だったが、不確かになりつつある記憶を頼りに昔住んでいたアパートを探すのは、思っていたほどたやすいことではなかった。
「もしかしたら、もう残ってないかもしれないな」
雅美に冷ややかな眼差しを向けられて、鬼頭はそう言い訳してみた。
「あの当時でひどいオンボロだったし、今は鉄筋のマンションか、駐車場になってるかも……」
「住所くらいは覚えてるんだろう?」
「まあ、覚えてるけど……まさか、こんなに変わってるとは思わなかった」
「今は変化のスピードが速いからな」
自称戦前生まれは感慨深げに言った。
「ちょっと目を離すと、とんでもないところにとんでもないものが建っていたりする。だから面白いところもあるが」
「そうか。それで散歩が趣味なんだな」
そういえば、部屋はあれほど他人を拒絶しているのに、その住人である雅美は夜ごと外をぶらついているのだった。
雅美は夜の世界で何を求めているのだろう。それは昼の光の中では得られないものなのだろうか。
「なあ、雅美」
「ん?」
「おまえ、日光に弱い?」
なぜいきなりそんなことを訊くのか理解しがたかったようだ。雅美は大仰に眉をひそめた。
「そう見えるか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……だから夜行性なのかと思って」
改めて見てみると、雅美は明らかに周囲の人間たちとは異質だった。
黒ずくめであるとか、並はずれた美少年であるとか、そんな単純なレベルではない。もっと深い部分――たとえるなら、彼を形作る細胞の一つ一つからして違うような、そんな異質さ。
まるで海の生物が陸を歩いているようだ。場違いで痛々しい。海に生きるものは海の中にいるときがいちばん美しいのだ。陸に上がれば不様になる。
きっと雅美の細胞はどこまでも夜向きに作られているのだろう。日光の下でも生きて動いているのが不思議なくらい美しいが、月光の下のときの比ではない。それはこれまでずっと夜の雅美を見続けてきた鬼頭がいちばんよく知っている。雅美は夜の生物なのだ。
「安心しろ。一日くらいなら灰にはならない」
鬼頭の気まぐれのために無理をしているだろう夜の生物は、彼らしい言葉で〝気にするな〟と言った。
鬼頭以外誰も気づかないだろうが、動きも夜のときに比べると多少緩慢である。雅美のためには、早く目的を達したほうがよさそうだ。
「ええと……確かこっちだと思ったな……」
独りごち、細い路地を右に曲がる。
「この先の角に、駄菓子屋があったんだが……」
「あるにはあるな」
雅美がちらりと視線を走らせる。
「現代の駄菓子屋。――コンビニだ」
そのとおりだった。
鬼頭の記憶の中では古びた小さな駄菓子屋があったはずの場所には、つるつるとして無個性なコンビニエンスストアが建っていたのだった。
「こういうの見ると、もろに時代の流れを感じるよなあ……」
「本当にここだったのか?」
「ああ、間違いない。ここへはずいぶん通ったんだ。口うるさい婆さんがいてな。子供が買うものにいちいち文句つけるんだ。こんなもの買うな、無駄遣いするなってな。でも、あの頃でもう結構な年だったから、さすがに今はいないだろうなあ……で、俺のうちはあっちのほうにあったんだ」
鬼頭は顎で、道を挟んだコンビニの斜め向かいを指した。
「行くのか?」
「ここまで来たら、行くしかないだろ」
肩をすくめ、再び歩き出す。そのすぐ後方を雅美が歩く。
「ここらへんは住宅街だったから、あんまり変わってないな」
雅美に言うでもなく、鬼頭は呟いた。
実を言うと、複雑な気分だった。かつて両親と暮らしたアパートを、今まで一度も訪ねようとしなかったのは、機会がなかったということもあるが、事故死した両親のことを思い出したくなかったからだった。それまであった、苦しかったが楽しかった思い出も、あれですべて打ち消されてしまった。
自分一人だったら、たとえどんなに近くまで来ていても、見にいこうとはしなかったに違いない。一人ではないから、雅美がいるから、ようやく行く気になれたのだ。
鬼頭は自分をあまり過去にこだわらない人間だと思っている。良く言えば前向きで、悪く言えば軽薄だ。昔より今が大事で、人生をやり直したくないかと訊かれたら、そのつもりはないと答える。同じことを繰り返したくないからだ。
だから、鬼頭が今になって昔のアパートを見にいこうとしているのは懐かしむためではない。
決別するため。
過去にこだわらない鬼頭が唯一こだわらざるを得ない過去。その総体があの安普請のアパートなのだ。
そのためには、あのアパートは残っていてほしくなかった。駄菓子屋がコンビニに変わったように、真新しいマンションか、駐車場にでも変わっていてほしかった。
道はすでに既知のものに変わっていた。自然に足が速くなる。どうしてこれほど緊張しているのか、自分でもよくわからなかった。期待感。不安感。そのどちらも合っているようで、どちらも違うような気がする。
狭い路地を抜け、塀の角を曲がる。夏は灼熱、冬は極寒。安いだけが取り柄のあのアパート――
鬼頭は足を止めた。黙って後を歩いていた雅美もそれに気づいて止まった。
一目見て、すぐに帰るつもりだった。
だが、まるで想像していなかった光景を目の当たりにして、鬼頭は呆然と立ち尽くしていた。
あの古いアパートも、真新しいマンションも、普通の住宅もなかった。かといって、駐車場や空地だったわけでもない。
黒焦げになった柱の群れ。黒ずんだ瓦礫。ガラクタの山。
木造の古い建物だったのだろう。ほとんど燃えてしまっていて、原形をとどめていなかった。両隣には住宅があったが、幸い類焼はしなかったようだ。
ただ、さほど広くもないこの一角だけがぽっかりと、戦場の廃墟のような姿をさらしているのだった。
どれくらいそうしていただろうか。
「やっと、来たな」
突然、雅美のものではない声がして、鬼頭は我に返った。
いったいいつからそこにいたのだろう。誰もいないと見えた焼け跡の中に、薄汚れた服装をした男が一人まぎれこんでいた。焼け焦げたコンクリートの上に腰かけて、じっと鬼頭を見つめている。
「ここにいれば、いつかは来るだろうと思ってた」
男は言った。決して大きな声ではなく、くぐもってもいたのに、なぜかよく聞きとれた。
「でも、遅かったな。ここは一週間くらい前に燃えちまったんだ。放火だとさ。人も死んだよ。ここに住んでたのは、他に行き場所のない年寄りばっかりだったからな」
「あの……」
鬼頭は困惑していた。男は知り合いのように話しかけてくるが、まったく見覚えがない。
鬼頭よりずっと年上のように見えるが、実はそう変わらないのかもしれない。白髪交じりの頭はぼさぼさで、痩せこけた顔の色は非常に悪かった。鬼頭の態度で自分を覚えていないことがわかったのだろう。男はその顔に泣き笑いにも似た表情を浮かべた。
「俺が誰かわからないか? ……まあ、無理もないな。最後に会ったのは、もう十四年も前だ。でも、俺はおまえだとすぐわかったぜ。おまえは全然変わっちゃいない。俺はこんなに変わっちまったのに」
「……十四年前?」
十四年前といえば、ちょうど両親が亡くなって、このアパートを離れた頃だ。ということは、この男はその当時の知り合いということになる。鬼頭は男の顔に目を凝らした。そういえば、どこかで見たことがあるような気もする。
「もしかして……昔、このアパートに住んでた……」
思いつくままそう呟いたが、肝心の名前がなかなか出てこない。顔はわかるのだが、このアパートにいた頃のことはできるだけ思い出さないようにしていたため、そのとき知っていた人の名前も一緒に忘れてしまったのだ。
「やっぱり忘れちまったのか……」
男はさらに顔を歪ませた。まるで幽鬼のようだと鬼頭は思った。
「いや、覚えてる。覚えてるんだけど、名前が出てこなくて……」
罪悪感を覚えてあわててそう言ったが、男はぼそぼそとこう返した。
「名前が出てこないんなら、忘れてるってことだろ」
確かにそのとおりだった。
こういうとき、雅美に訊けばたいていのことは教えてくれるのだが、今回は今まで話したことがない鬼頭の過去に関わる人間の名前である。雅美が知っているはずもない。それでも、助けを求めるように雅美を見ると、雅美は眉をひそめて男を睨んでいた。
鬼頭は奇妙に思って雅美を見つめた。雅美がこういう顔をしているとき。その対象はほとんどの場合、人間ではなかった。
「ええと……じゃあ、おまえは俺の名前、覚えてるってことだよな?」
雅美のことは気になったが、それ以上にこの男のことも気になる。鬼頭は探るように男に訊ねた。
「ああ、もちろん。鬼頭だろ。鬼頭和臣」
では、この男は本当に鬼頭を知っているのだ。
記憶力は決して悪いほうではないのに、どうしてこうも思い出せないのだろう。鬼頭は腕組みをして眉間に縦皺を寄せていた。が。
「悪い。名前、教えてくれないか?」
降参して頭を掻いた。我ながら情けないとも思ったが、本当に思い出せないのだから仕方がない。
男は電池の切れた玩具のように凍りついていた。鬼頭が自分の名前を忘れていたことがかなりショックだったようだ。その様子を見て、鬼頭は改めて申し訳ないと思った。自分が男の立場だったら、やはり傷つくだろう。
「おまえが覚えてないんならしょうがない」
男はそう呟いて、ゆらりと立ち上がった。
「せっかく来たんだ。ちょっと俺の家に寄ってかないか? そうしたら、俺のことも思い出すかもしれない」
「あ、ああ……」
言われるまま鬼頭はうなずいたが、そのとき、ようやく雅美が口を開いた。
「やめておけ。面倒なことになるぞ」
「だって……俺の昔の友達だぞ?」
男には聞こえないよう声を潜めて言い返す。名前は思い出せないが、昔このアパートに住んでいたならきっとそうだろう。
「あくまで昔の、だろう。たぶん、あんたはまたわかってないだろうから言っておくが、あれはもう死んでいる」
「え?」
あわてて鬼頭は男の足元を見た。――影がある。
「おい、脅かすなよ。俺だって少しは学習したんだ。幽霊には影がないってな。あいつにはちゃんと影があるだろうが」
鬼頭は笑って言ったが、雅美は硬い表情を崩さなかった。
「だから余計始末が悪い。あれは死んではいるが、幽霊じゃない。……死体そのものだ」
返す言葉を失い、鬼頭は雅美を見つめた。雅美は依然として男を見すえている。
「おそらく、すでに自分が死んでいることすら気づいていないだろう。……凄まじい妄執だ。よっぽどあんたに会いたかったらしいな。だが、だからこそあんたはそれにつきあってやろうなどと考えるな。このまま何も言わずに立ち去れ。後の始末は俺がつけてやる」
――珍しい。
不謹慎だが、鬼頭はまずそう思った。
鬼頭の記憶が確かなら、今まで雅美がこれほどはっきりと〝帰れ〟と言ったことはない。鬼頭が帰ると言わないかぎり、雅美は決して自分のほうからは帰ろうとしない。それゆえに、鬼頭はどうやって別れの言葉を切り出そうかといつも悩む。
その雅美が自分を帰らせようとするのだ、事態は本当に深刻なのだろう。鬼頭は改めて男を見た。
最初から男は鬼頭しか見ていなかった。倒れそうな体勢で立っている今も。
普通の人間ならすぐに雅美のほうに気をとられる。だが、この男は現在に至るまで、雅美のことは訊ねるどころか、その存在にも気づいていないようだった。
それでも、雅美の言うような死体だとはとても思えなかった。死体にあんな目はできないだろう。何かに憑かれた狂気の目。
「わかった。家はどこだ?」
「鬼頭さん」
低く雅美が詰る。予想どおりの反応に鬼頭は苦笑いした。
「おまえのことを信じてないわけじゃないんだ」
雅美の耳元に顔を近づけて囁く。
「でも、誰だって、一人で死にたくはないだろう?」
雅美は大きく目を見張った。呆れたのかもしれない。何か言いたげに口を開いたが、言葉は出なかった。
「ああ。すぐ近くだ……」
男は嬉しそうに笑うと――しかし、それはこちらを嬉しくさせるものではなかった――ぎごちなく足を踏み出した。
「そのかわり」
ひときわ大きな鬼頭の声に、歩きかけていた男の足が止まった。
「こいつも一緒に連れてっていいか?」
そう言う鬼頭の手は、雅美の腕をつかんでいた。
男は初めて鬼頭の横に雅美が立っていることに気づいたように、緩慢に雅美のほうへ顔を向けた。
雅美はというと、驚いているような呆れているような、何とも言えない表情をしていた。たぶん、言うことはきかないくせに自分をあてにするのかと呆れているのだろう。まったく、そのとおりだ。
「誰だ? それは?」
長い間をおいて、訝しげに男に問われた。
(誰だって言われてもな……)
この場合、男が知りたいのは雅美の名前ではなく、自分との関係だろう。
鬼頭は空いているほうの手で自分の頭を掻いてから、思い切って言った。
「友達だ」
男は不審そうに雅美を見つめた。
雅美は見た目、高校生くらいだ。鬼頭より十歳は年下に見えるだろう。とても〝友達〟には見えないと鬼頭自身も思うのだが、それ以外に雅美をこの男に紹介する適切な言葉が見つからなかった。
一方、鬼頭にそう紹介されてしまった雅美は、また何か言いたそうに鬼頭を横目で見たが、結局、何も口にはしなかった。ここであえて逆らうこともないと判断したのだろう。
そういえば、雅美も以前、幽霊の少女に鬼頭のことを友達かと訊かれてそうだと認めていた。それなら、やはり自分たちは友人同士なのだ。そういうことにしておこう。
「いいだろう。来いよ」
ふいに男は踵を返し、ふらふらと歩きはじめた。たとえ客が一人増えようと、自宅に鬼頭を招きたいらしい。その後ろ姿を眺めながら、雅美はそっけなく鬼頭に訊ねた。
「本当に、昔の友達なのか?」
「……たぶん。実を言うと、自信がない」
「それでも、あの男につきあってやるのか? つくづくあんたはお人好しだよ」
「悪いな。今回は本当に申し訳ないと思ってる」
口先だけでなく、本心から鬼頭は謝った。そもそも、鬼頭があんな気まぐれを起こさなければ、雅美がこんなところへ来ることはなく、あの男とも会うことはなかったのだ。
「でも、おまえも一緒に来てくれないか? 俺一人じゃ心もとない」
「まったくだ」
間髪を入れず雅美が言う。
「ここであんたと別れたら、帰っても眠れやしない。せっかく昼間に起きてやったのに」
――どういう意味だ?
鬼頭のことが心配だから? それとも、もっとどこかに行きたかったから?
「今度、何かおごるよ」
本能的に恐怖を覚えた鬼頭は、そう言って追及を打ち切った。
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Jem
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舞台は大正時代。旧制高等学校高等科3年生の穂村烈生(ほむら・れつお 20歳)と神之屋月衛(かみのや・つきえ 21歳)の結成するミステリー研究会にはさまざまな怪奇事件が持ち込まれる。ある夏の日に持ち込まれたのは「髪が伸びる日本人形」。相談者は元の人形の持ち主である妹の身に何かあったのではないかと訴える。一見、ありきたりな謎のようだったが、翌日、相談者の妹から助けを求める電報が届き…!?
神社の息子で始祖の巫女を降ろして魔を斬る月衛と剣術の達人である烈生が、禁断の愛に悩みながら怪奇事件に挑みます。
登場人物
神之屋月衛(かみのや・つきえ 21歳):ある離島の神社の長男。始祖の巫女・ミノの依代として魔を斬る能力を持つ。白蛇の精を思わせる優婉な美貌に似合わぬ毒舌家で、富士ヶ嶺高等学校ミステリー研究会の頭脳。書生として身を寄せる穂村子爵家の嫡男である烈生との禁断の愛に悩む。
穂村烈生(ほむら・れつお 20歳):斜陽華族である穂村子爵家の嫡男。文武両道の爽やかな熱血漢で人望がある。紅毛に鳶色の瞳の美丈夫で、富士ヶ嶺高等学校ミステリー研究会の部長。書生の月衛を、身分を越えて熱愛する。
猿飛銀螺(さるとび・ぎんら 23歳):富士ヶ嶺高等学校高等科に留年を繰り返して居座る、伝説の3年生。逞しい長身に白皙の美貌を誇る発展家。ミステリー研究会に部員でもないのに昼寝しに押しかけてくる。育ちの良い烈生や潔癖な月衛の気付かない視点から、推理のヒントをくれることもなくはない。
孤独な少年の心を癒した神社のあやかし達
フェア
キャラ文芸
小学校でいじめに遭って不登校になったショウが、中学入学後に両親が交通事故に遭ったことをきっかけに山奥の神社に預けられる。心優しい神主のタカヒロと奇妙奇天烈な妖怪達との交流で少しずつ心の傷を癒やしていく、ハートフルな物語。
職業、種付けおじさん
gulu
キャラ文芸
遺伝子治療や改造が当たり前になった世界。
誰もが整った外見となり、病気に少しだけ強く体も丈夫になった。
だがそんな世界の裏側には、遺伝子改造によって誕生した怪物が存在していた。
人権もなく、悪人を法の外から裁く種付けおじさんである。
明日の命すら保障されない彼らは、それでもこの世界で懸命に生きている。
※小説家になろう、カクヨムでも連載中
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