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第3話 エレベーター
2 一人になれない
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「何階だ?」
とびきり無愛想なエレベーター・ボーイは、それでも職務を果たす気はあるらしく、操作盤を見つめたまま、ぶっきらぼうに訊ねてきた。
「ご……五階です」
小さな声でこわごわと幸は答えた。幸でなくとも、今の雅美相手では誰でもこうなるだろう。雅美は何も言わずに「5」を押し、次に「7」を押した。
ということは、雅美の部屋は七階か。鬼頭は五階で幸と一緒にエレベーターを降り、あとは階段で下へ下りようと心に決めた。
エレベーターが動きはじめ、三人は何とはなしに沈黙した。雅美は壁に背を預けて腕組みしたまま、鬼頭たちのほうには見向きもしない。
前から何を考えているのかよくわからない少年だったが、今はもっとわからない。いや、自分に対して腹を立てているのは嫌になるほどよくわかるのだが、自分の何にそれほど怒っているのかがわからない。これではまるで、浮気の現場を女房に押さえられた亭主のようではないか。何もやましいところはないが、どうか一秒でも早く五階に着いてくれと鬼頭は祈った。
しかし。
階数表示ランプが五階を示し、エレベーターも音を立てて止まったのにもかかわらず、扉はいつまでたっても開かなかった。
まさか雅美が……と思って見てみると、彼は腕組みを解いて、開ボタンのほうを何度も押していた。雅美の仕業ではなかったようだ。
「どうした? 開かないのか?」
冷戦状態とはいえ、背に腹は替えられない。鬼頭は雅美に近づいて、操作盤を覗きこんだ。
「ああ」
相変わらず無愛想な声だったが、雅美はそう答えた。が、鬼頭のほうは見ない。
「え……開かないんですか? 故障ですか?」
幸が不安そうにそう言った、そのときだった。
エレベーターが動きはじめた。――下へ!
「な、何だ!?」
まるでエレベーターのワイヤーが切れたかと思えるような急降下だった。幸は立っていられずに床に座りこみ、鬼頭も座りはしなかったが、壁に手をついて身をかがめた。雅美だけがただ一人、壁に背をつけ、両腕を組んだ体勢で、平然と立ちつづけていた。
やがて、エレベーターが止まった。鬼頭は顔を上げ、エレベーターの階数表示を見た。
五階のままだった。
「そんな馬鹿な……確かに落ちたはずなのに……」
鬼頭がそう呟いたとき、今まであれほど開かなかったエレベーターの扉がいきなり開いた。
「え……」
まだ床に座りこんだままの幸の口から、そんな戸惑いの呟きが漏れる。
そこは、剥き出しのコンクリートの壁に囲まれた、まるで建設途中のビルのフロアのような部屋だった。正面奥に銀色に光るドアがあるだけで窓は一つもない。なのに、部屋の中の様子は、まるで蛍光灯にでも照らし出されているかのようにはっきりと見えるのだった。
「ここのマンションって、こういう造りになってるの?」
思わず鬼頭が幸に訊くと、彼女は小さめの目を見張って、ぶんぶんと首を横に振った。
「どこかの空間とつながってしまったらしいな」
淡々としたその声に、鬼頭たちは操作盤のほうを見た。
雅美が腕組みをしたまま、エレベーターの外の殺風景な部屋を眺めていた。
「どういうことだ?」
代表する形で鬼頭が訊ねる。その間に幸はようやく立ち上がった。
「めったにあることじゃないが、ある地点とある地点とが、一定時間つながってしまうことがある。これもたぶんそうだろう。ここでじっとしていたほうが賢明だな」
鬼頭を一瞥してから、雅美は冷静にそう返してきた。予想外の事態に曲がっていたへそも直ったらしい。無表情なのは相変わらずだが、険悪ではなくなった。
「一定時間って……どれくらい?」
「さあ……何とも言えんな」
雅美の口調は、どこまでも他人事である。
「そんな……こんなことになるんなら、やっぱりあのときさっさと帰るんだった。おまえに会うと、いっつもろくなことにならない」
「だったらさっさと帰ればよかっただろう。助平根性を出すからだ」
まずい。鬼頭は顔をしかめた。せっかく雅美の気がそれたのに、自分で墓穴を掘ってしまった。
再び冷戦状態に陥った二人を、幸ははらはらした様子で見ていたが、突然、あっと声を上げた。
「あのドアが……」
鬼頭と雅美も、正面に見える例の銀色のドアに目を向けた。
つい先ほどまでは確かに閉まっていたはずのドアが、少しだけ開いていた。だが、三人が注目したのとほとんど同時に、まるで中から何者かが閉め直したかのように、ドアは閉まってしまった。
三人は無言のまま、互いの顔を見合わせた。
「いつ元に戻れるかはわかんないんだよな?」
注意深く、鬼頭は口を切った。
「だったら、あのドアの向こうに何があるか、ちょっと確かめに行ってきてもいいよな?」
「それはかまわんが」
冷めた調子で雅美が答える。
「だが、その間にこの扉が閉まってしまったらどうするつもりだ?」
「閉まらないようにすればいいんだろ? 俺は一人で行くから、もし閉まりそうになったら、開ボタン押してくれ。……そうか、それより荷物挟んどいたほうが確実か」
鬼頭は独りごちると、自分が持っていたビジネス・バッグをエレベーターと部屋の境界線上に置いた。
「好奇心の強い男だな、あんたは」
そんな鬼頭に、雅美が半ば呆れたような視線を注ぐ。
「退屈なだけだ。この先どうなるかわからないんなら、俺は今自分がいちばんやりたいことをやる。毒を食らわば皿までだ」
そう言い捨てて、鬼頭はエレベーターから降りた。
もっと本音を言えば、これ以上あの狭いエレベーターの中で雅美と顔を合わせていたくなかった。雅美と二人きりであったならともかく、幸が一緒にいる今は、確実にあの針のむしろ状態が続くのだ。
鬼頭にとっては、エレベーターの外に出ることよりも、エレベーターの中に居続けることのほうがずっと恐ろしかったのである。もちろん、あのドアの向こうに何があるのか見てみたくなったというのも嘘ではないのだが。
「あ……私も行きます!」
しかし、せっかくそうやって逃げてきたというのに、幸が鬼頭の後を追ってエレベーターから降りてきた。ご丁寧に鬼頭のバッグの横に自分のショルダー・バッグを置いて。
鬼頭の血の気が一気に引いた。怖くて背後は――エレベーターの中は見られなかった。もしかしたら、あの超無愛想なエレベーター・ボーイは、せっかく置いた荷物を全部エレベーターの外へ蹴り出して、ずっと閉ボタンを押しつづけているかもしれない。そう思いながらも、鬼頭は振り返ることができなかった。
(む……無視しよう、無視! この子は自分の意志で外に出たんだ。俺が誘ったわけじゃない。俺は何にも悪くない。悪くないぞ)
そう自分に言い聞かせて、鬼頭は再び歩き出そうとした。が。
「あ」
幸がふと後ろを見て、そんな声を上げた。
さては荷物が蹴り出されたか、それとももう扉が閉まったかと、鬼頭はつい恐怖を忘れて背後を振り返った。
「さっさと行ったらどうだ?」
険悪そのものの声で、あの恐怖のエレベーター・ボーイは言った。その美しい眉はこれ以上はないくらいきつくひそめられている。
しかし、それらはすでに予想済みのことだった。鬼頭が驚いたのは、雅美がエレベーターの中ではなく、自分たちのごく近く、つまり、エレベーターの外に立っていたことだった。
「おまえも来るのか?」
雅美がこういう行動に出るとは、鬼頭はまったく想像もしていなかった。
だが、そういえば前回、焼死した子供たちの幽霊と出会ったときにも、雅美は鬼頭の後を追って、わざわざあの汚い川の岸辺まで下りてきたのだった。ちなみに、あのとき鬼頭を見捨てて逃げた上司と同僚は、翌朝にはそのことをすっかり忘れていて、鬼頭は助かったと思うと同時にやり場のない怒りを覚えた。
当時は特に不思議に思わなかったが、雅美がそうしなければならない理由などどこにもない。結果的に、雅美があの場にいたから鬼頭は焼き殺されずに済んだのだが、それでは雅美はそうなることを予測して、鬼頭を助けるために後を追ってきたのだろうか。
さらにさかのぼれば、初めて出会ったときにも、雅美は鬼頭の後をつけてきていたようだった。そうでなかったら、あんなにもタイミングよく、鬼頭の危機を救うことはできなかっただろう。
雅美は助けた後に必ず嫌味を言うので、今まで鬼頭は素直に感謝することができなかった。しかし、よくよく考えてみれば、なぜあれほど嫌味を言いながら、雅美はいつも自分を助けてくれるのだろう。それほど嫌なら、黙って見捨てていけばいいだけのことではないか。
雅美の言動は矛盾だらけだ。今こうして、拗ねたように自分を睨んでいるのも。
「……来ちゃ悪いのか」
むっとしたような顔で雅美は言った。
――むっとしている! あの雅美が!
その事実に驚いて、鬼頭はまじまじと雅美を見つめた。
「いや、悪いってことはないが……ただ、おまえはこんなことには興味がないと思ってた」
「今でも別にない」
「じゃあ、何で来る?」
そう問われて、雅美は一瞬明らかに言葉に詰まったが、そんな自分を認めたくないようにぷいと横を向いた。
「暇つぶしだ」
我知らず、鬼頭に笑いがこみ上げてきた。雅美と出会って以来、初めて優位に立てたような気がする。
何だ、やっぱり子供じゃないかと思った。炎を止めたり、手の中で人形を燃やしたりするから、得体の知れない存在だと思ってきたが、これは小綺麗で愛想の悪い、小生意気な子供じゃないか。子供だから何かにつけて、自分に突っかかってくるのだ。何だ、そうだったのか。久しぶりに鬼頭は晴れ晴れとした気分で笑った。それなら雅美の言葉にいちいち本気で怒ったりはしなかったのに。こっちこそもっと大人になるべきだったな。
「……何がおかしい」
急ににやにやしはじめた鬼頭に、雅美はむしろ不気味そうな顔をした。すごい。多少なりとも雅美を恐れさせた。それがまたひどく愉快なことに感じられて、鬼頭はいよいよ笑った。
「いや、何でもない、うんうん、何でもない、そうだな、おまえも誘えばよかったな、こりゃ悪かったな、うんうん、悪かった悪かった」
いまや鬼頭は完全な躁状態にあった。とにかく雅美より優位に立てたことが嬉しくて仕方がなかったのである。あまり嬉しかったので、ちょうど自分の顎の高さにある雅美の頭を、軽くぽんぽん叩いてしまった。そんなことをしたのは、もちろんこれが初めてである。
雅美は驚いたように鬼頭を見上げ、ついで何とも形容のしようのない、しいて言えば何か悩むような表情を作った。が、鬼頭に何をするんだと文句を言う気はないらしい。
もっとも、鬼頭はそんな雅美の反応など、まったく気にも留めていなかった。幸も鬼頭の変わりように目を丸くしていたが、こちらも鬼頭は気づかなかった。ただひたすら、にやにや笑っていた。
「じゃあ、見に行くか」
ようやく満足して、鬼頭は再び歩き出した。幸も雅美もその後に続きかけたが、突然鬼頭が反転した。
「霧河! おまえ、バッグ! バッグどうした!?」
「バッグ?」
うつむいて何事か考えこんでいたらしい雅美は、はじかれたように顔を上げた。雅美にしては珍しいことである。
「バッグって……別に俺は何もいじっていないが……たぶん、あの位置なら扉が閉まってもうまく挟まると思うし……」
これまた雅美にしては珍しい、戸惑うような調子の返事を聞きながら、鬼頭はエレベーターのほうを見やって、その言葉が嘘ではないことを確認した。
「ああ、ほんとだ、よかった。思い出した瞬間、心臓が止まるかと思った。あれがなかったら帰れなくなるかもしれないからな。ほんとはつっかい棒でもあればもっと完璧なんだろうけど、そんなもの持ち歩いてないからな」
安堵のあまり、鬼頭は少し饒舌になっていた。先ほどの躁状態の余韻もあったのかもしれない。
だから、雅美に何気なく「自分であそこに置いたくせに、どうして俺に訊いたんだ」と言われたとき、つい正直にこう答えてしまった。
「いやー、おまえが外に蹴り飛ばしちまったんじゃないかと思ってさ」
「どうして?」
「どうしてって、そりゃおまえが――」
そこまで言って、鬼頭ははっと我に返った。今度は背後ではなく、隣が見られない状況に陥ってしまったかもしれない。それも自分のせいで。
「俺が――何だ? どうして俺がそんなことをしなくちゃならないんだ?」
たとえ子供だろうが、その冷ややかな声を耳にしたとき、背中をナイフの切っ先でゆっくりと撫でられたような心地がした。
「い、いや、まあ、そう、出るとき足で引っかけたりとかさ。変なこと言って悪かった。気にしないでくれ」
雅美はそれで黙ったが、不審そうに自分を睨んでいることは見ないでもわかる。
鬼頭は例のドアへと向かう足をさりげなく速め、これ以上墓穴を掘らないよう口を閉じた。
とびきり無愛想なエレベーター・ボーイは、それでも職務を果たす気はあるらしく、操作盤を見つめたまま、ぶっきらぼうに訊ねてきた。
「ご……五階です」
小さな声でこわごわと幸は答えた。幸でなくとも、今の雅美相手では誰でもこうなるだろう。雅美は何も言わずに「5」を押し、次に「7」を押した。
ということは、雅美の部屋は七階か。鬼頭は五階で幸と一緒にエレベーターを降り、あとは階段で下へ下りようと心に決めた。
エレベーターが動きはじめ、三人は何とはなしに沈黙した。雅美は壁に背を預けて腕組みしたまま、鬼頭たちのほうには見向きもしない。
前から何を考えているのかよくわからない少年だったが、今はもっとわからない。いや、自分に対して腹を立てているのは嫌になるほどよくわかるのだが、自分の何にそれほど怒っているのかがわからない。これではまるで、浮気の現場を女房に押さえられた亭主のようではないか。何もやましいところはないが、どうか一秒でも早く五階に着いてくれと鬼頭は祈った。
しかし。
階数表示ランプが五階を示し、エレベーターも音を立てて止まったのにもかかわらず、扉はいつまでたっても開かなかった。
まさか雅美が……と思って見てみると、彼は腕組みを解いて、開ボタンのほうを何度も押していた。雅美の仕業ではなかったようだ。
「どうした? 開かないのか?」
冷戦状態とはいえ、背に腹は替えられない。鬼頭は雅美に近づいて、操作盤を覗きこんだ。
「ああ」
相変わらず無愛想な声だったが、雅美はそう答えた。が、鬼頭のほうは見ない。
「え……開かないんですか? 故障ですか?」
幸が不安そうにそう言った、そのときだった。
エレベーターが動きはじめた。――下へ!
「な、何だ!?」
まるでエレベーターのワイヤーが切れたかと思えるような急降下だった。幸は立っていられずに床に座りこみ、鬼頭も座りはしなかったが、壁に手をついて身をかがめた。雅美だけがただ一人、壁に背をつけ、両腕を組んだ体勢で、平然と立ちつづけていた。
やがて、エレベーターが止まった。鬼頭は顔を上げ、エレベーターの階数表示を見た。
五階のままだった。
「そんな馬鹿な……確かに落ちたはずなのに……」
鬼頭がそう呟いたとき、今まであれほど開かなかったエレベーターの扉がいきなり開いた。
「え……」
まだ床に座りこんだままの幸の口から、そんな戸惑いの呟きが漏れる。
そこは、剥き出しのコンクリートの壁に囲まれた、まるで建設途中のビルのフロアのような部屋だった。正面奥に銀色に光るドアがあるだけで窓は一つもない。なのに、部屋の中の様子は、まるで蛍光灯にでも照らし出されているかのようにはっきりと見えるのだった。
「ここのマンションって、こういう造りになってるの?」
思わず鬼頭が幸に訊くと、彼女は小さめの目を見張って、ぶんぶんと首を横に振った。
「どこかの空間とつながってしまったらしいな」
淡々としたその声に、鬼頭たちは操作盤のほうを見た。
雅美が腕組みをしたまま、エレベーターの外の殺風景な部屋を眺めていた。
「どういうことだ?」
代表する形で鬼頭が訊ねる。その間に幸はようやく立ち上がった。
「めったにあることじゃないが、ある地点とある地点とが、一定時間つながってしまうことがある。これもたぶんそうだろう。ここでじっとしていたほうが賢明だな」
鬼頭を一瞥してから、雅美は冷静にそう返してきた。予想外の事態に曲がっていたへそも直ったらしい。無表情なのは相変わらずだが、険悪ではなくなった。
「一定時間って……どれくらい?」
「さあ……何とも言えんな」
雅美の口調は、どこまでも他人事である。
「そんな……こんなことになるんなら、やっぱりあのときさっさと帰るんだった。おまえに会うと、いっつもろくなことにならない」
「だったらさっさと帰ればよかっただろう。助平根性を出すからだ」
まずい。鬼頭は顔をしかめた。せっかく雅美の気がそれたのに、自分で墓穴を掘ってしまった。
再び冷戦状態に陥った二人を、幸ははらはらした様子で見ていたが、突然、あっと声を上げた。
「あのドアが……」
鬼頭と雅美も、正面に見える例の銀色のドアに目を向けた。
つい先ほどまでは確かに閉まっていたはずのドアが、少しだけ開いていた。だが、三人が注目したのとほとんど同時に、まるで中から何者かが閉め直したかのように、ドアは閉まってしまった。
三人は無言のまま、互いの顔を見合わせた。
「いつ元に戻れるかはわかんないんだよな?」
注意深く、鬼頭は口を切った。
「だったら、あのドアの向こうに何があるか、ちょっと確かめに行ってきてもいいよな?」
「それはかまわんが」
冷めた調子で雅美が答える。
「だが、その間にこの扉が閉まってしまったらどうするつもりだ?」
「閉まらないようにすればいいんだろ? 俺は一人で行くから、もし閉まりそうになったら、開ボタン押してくれ。……そうか、それより荷物挟んどいたほうが確実か」
鬼頭は独りごちると、自分が持っていたビジネス・バッグをエレベーターと部屋の境界線上に置いた。
「好奇心の強い男だな、あんたは」
そんな鬼頭に、雅美が半ば呆れたような視線を注ぐ。
「退屈なだけだ。この先どうなるかわからないんなら、俺は今自分がいちばんやりたいことをやる。毒を食らわば皿までだ」
そう言い捨てて、鬼頭はエレベーターから降りた。
もっと本音を言えば、これ以上あの狭いエレベーターの中で雅美と顔を合わせていたくなかった。雅美と二人きりであったならともかく、幸が一緒にいる今は、確実にあの針のむしろ状態が続くのだ。
鬼頭にとっては、エレベーターの外に出ることよりも、エレベーターの中に居続けることのほうがずっと恐ろしかったのである。もちろん、あのドアの向こうに何があるのか見てみたくなったというのも嘘ではないのだが。
「あ……私も行きます!」
しかし、せっかくそうやって逃げてきたというのに、幸が鬼頭の後を追ってエレベーターから降りてきた。ご丁寧に鬼頭のバッグの横に自分のショルダー・バッグを置いて。
鬼頭の血の気が一気に引いた。怖くて背後は――エレベーターの中は見られなかった。もしかしたら、あの超無愛想なエレベーター・ボーイは、せっかく置いた荷物を全部エレベーターの外へ蹴り出して、ずっと閉ボタンを押しつづけているかもしれない。そう思いながらも、鬼頭は振り返ることができなかった。
(む……無視しよう、無視! この子は自分の意志で外に出たんだ。俺が誘ったわけじゃない。俺は何にも悪くない。悪くないぞ)
そう自分に言い聞かせて、鬼頭は再び歩き出そうとした。が。
「あ」
幸がふと後ろを見て、そんな声を上げた。
さては荷物が蹴り出されたか、それとももう扉が閉まったかと、鬼頭はつい恐怖を忘れて背後を振り返った。
「さっさと行ったらどうだ?」
険悪そのものの声で、あの恐怖のエレベーター・ボーイは言った。その美しい眉はこれ以上はないくらいきつくひそめられている。
しかし、それらはすでに予想済みのことだった。鬼頭が驚いたのは、雅美がエレベーターの中ではなく、自分たちのごく近く、つまり、エレベーターの外に立っていたことだった。
「おまえも来るのか?」
雅美がこういう行動に出るとは、鬼頭はまったく想像もしていなかった。
だが、そういえば前回、焼死した子供たちの幽霊と出会ったときにも、雅美は鬼頭の後を追って、わざわざあの汚い川の岸辺まで下りてきたのだった。ちなみに、あのとき鬼頭を見捨てて逃げた上司と同僚は、翌朝にはそのことをすっかり忘れていて、鬼頭は助かったと思うと同時にやり場のない怒りを覚えた。
当時は特に不思議に思わなかったが、雅美がそうしなければならない理由などどこにもない。結果的に、雅美があの場にいたから鬼頭は焼き殺されずに済んだのだが、それでは雅美はそうなることを予測して、鬼頭を助けるために後を追ってきたのだろうか。
さらにさかのぼれば、初めて出会ったときにも、雅美は鬼頭の後をつけてきていたようだった。そうでなかったら、あんなにもタイミングよく、鬼頭の危機を救うことはできなかっただろう。
雅美は助けた後に必ず嫌味を言うので、今まで鬼頭は素直に感謝することができなかった。しかし、よくよく考えてみれば、なぜあれほど嫌味を言いながら、雅美はいつも自分を助けてくれるのだろう。それほど嫌なら、黙って見捨てていけばいいだけのことではないか。
雅美の言動は矛盾だらけだ。今こうして、拗ねたように自分を睨んでいるのも。
「……来ちゃ悪いのか」
むっとしたような顔で雅美は言った。
――むっとしている! あの雅美が!
その事実に驚いて、鬼頭はまじまじと雅美を見つめた。
「いや、悪いってことはないが……ただ、おまえはこんなことには興味がないと思ってた」
「今でも別にない」
「じゃあ、何で来る?」
そう問われて、雅美は一瞬明らかに言葉に詰まったが、そんな自分を認めたくないようにぷいと横を向いた。
「暇つぶしだ」
我知らず、鬼頭に笑いがこみ上げてきた。雅美と出会って以来、初めて優位に立てたような気がする。
何だ、やっぱり子供じゃないかと思った。炎を止めたり、手の中で人形を燃やしたりするから、得体の知れない存在だと思ってきたが、これは小綺麗で愛想の悪い、小生意気な子供じゃないか。子供だから何かにつけて、自分に突っかかってくるのだ。何だ、そうだったのか。久しぶりに鬼頭は晴れ晴れとした気分で笑った。それなら雅美の言葉にいちいち本気で怒ったりはしなかったのに。こっちこそもっと大人になるべきだったな。
「……何がおかしい」
急ににやにやしはじめた鬼頭に、雅美はむしろ不気味そうな顔をした。すごい。多少なりとも雅美を恐れさせた。それがまたひどく愉快なことに感じられて、鬼頭はいよいよ笑った。
「いや、何でもない、うんうん、何でもない、そうだな、おまえも誘えばよかったな、こりゃ悪かったな、うんうん、悪かった悪かった」
いまや鬼頭は完全な躁状態にあった。とにかく雅美より優位に立てたことが嬉しくて仕方がなかったのである。あまり嬉しかったので、ちょうど自分の顎の高さにある雅美の頭を、軽くぽんぽん叩いてしまった。そんなことをしたのは、もちろんこれが初めてである。
雅美は驚いたように鬼頭を見上げ、ついで何とも形容のしようのない、しいて言えば何か悩むような表情を作った。が、鬼頭に何をするんだと文句を言う気はないらしい。
もっとも、鬼頭はそんな雅美の反応など、まったく気にも留めていなかった。幸も鬼頭の変わりように目を丸くしていたが、こちらも鬼頭は気づかなかった。ただひたすら、にやにや笑っていた。
「じゃあ、見に行くか」
ようやく満足して、鬼頭は再び歩き出した。幸も雅美もその後に続きかけたが、突然鬼頭が反転した。
「霧河! おまえ、バッグ! バッグどうした!?」
「バッグ?」
うつむいて何事か考えこんでいたらしい雅美は、はじかれたように顔を上げた。雅美にしては珍しいことである。
「バッグって……別に俺は何もいじっていないが……たぶん、あの位置なら扉が閉まってもうまく挟まると思うし……」
これまた雅美にしては珍しい、戸惑うような調子の返事を聞きながら、鬼頭はエレベーターのほうを見やって、その言葉が嘘ではないことを確認した。
「ああ、ほんとだ、よかった。思い出した瞬間、心臓が止まるかと思った。あれがなかったら帰れなくなるかもしれないからな。ほんとはつっかい棒でもあればもっと完璧なんだろうけど、そんなもの持ち歩いてないからな」
安堵のあまり、鬼頭は少し饒舌になっていた。先ほどの躁状態の余韻もあったのかもしれない。
だから、雅美に何気なく「自分であそこに置いたくせに、どうして俺に訊いたんだ」と言われたとき、つい正直にこう答えてしまった。
「いやー、おまえが外に蹴り飛ばしちまったんじゃないかと思ってさ」
「どうして?」
「どうしてって、そりゃおまえが――」
そこまで言って、鬼頭ははっと我に返った。今度は背後ではなく、隣が見られない状況に陥ってしまったかもしれない。それも自分のせいで。
「俺が――何だ? どうして俺がそんなことをしなくちゃならないんだ?」
たとえ子供だろうが、その冷ややかな声を耳にしたとき、背中をナイフの切っ先でゆっくりと撫でられたような心地がした。
「い、いや、まあ、そう、出るとき足で引っかけたりとかさ。変なこと言って悪かった。気にしないでくれ」
雅美はそれで黙ったが、不審そうに自分を睨んでいることは見ないでもわかる。
鬼頭は例のドアへと向かう足をさりげなく速め、これ以上墓穴を掘らないよう口を閉じた。
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