3 / 48
第1話 ミッドナイト
3 子守歌
しおりを挟む
「あんたは幽霊に好かれるタイプなんだ。特に女の。だから忠告したんだが……どうやら無駄だったようだな」
この少年は感情をこめて物を言うということが、どうやら苦手であるらしい。
「それならそうと最初っから言え! あんなふうにつっけんどんに言われたら、信用するものでも信用しない!」
そう叫んでから、鬼頭ははっと我に返った。
「幽霊? あれが?」
あわてて女が座っていたソファを見れば、女はいつのまにか消え失せていた。壁で蠢いていた醜悪な手の群れも、蜂の巣のような穴だけを残して消えている。
だが、手のほうはともかく、女は鬼頭が知らない間にドアから出ていったのかもしれない。それだけでは女が幽霊であるという証拠にはならない。現に閉まっていたはずの部屋のドアは大きく開け放たれている。
自慢ではないが、これまでそういうことには無縁で来たのだ。ここでそう簡単に宗旨替えするわけにはいかない。
「何だ、気づいていなかったのか」
少年の声音が、わずかに皮肉るような調子を帯びた。
「もっとも、気づいていたら、すぐに逃げ出していただろうが」
「だって俺、確かに引っ張られたぞ。幽霊ってのは触れないもんなんじゃないのか?」
自分の腕に手をやりながら、すかさず反論する。あんな目にあっても、いや、あんな目にあったからか、鬼頭は奇妙な冷静さを保っていた。
「幽霊だと思われていなければ触れるんだ」
少年は今度ははっきりと蔑むような眼差しを鬼頭に向けた。
「じゃあ、あの腐った手も幽霊か?」
「いや、あれは実体だ。生死はともかくとして。それより、今のうちにここから逃げ出したほうがいいんじゃないのか?」
「ああ、そうだった」
少年にしては建設的な意見に、鬼頭はさっそくドアへと向かいかけたが――
「どうせなら、もっと早く言ってほしかったな」
「どのみち、同じことになったと思うが」
手はたいがい体についている。壁に生えていた手もその点では例外ではなく、今度はその手の数だけの人間たち――生死はともかくとして――がゆらゆらと部屋の中へと入りこんできたのである。無論、出口は彼らによって、すっかりふさがれてしまっていた。
「あれって、死んでるよな?」
真顔で鬼頭は呟いた。服装はまちまちだが、いずれも男で、体のどこかしらに傷を受けており、その表情はうつろだった。中には腐り果ててしまって、原形を留めていない者もいる。
「普通の意味では」
平然と少年。
「あの女に逆らうと、殺されてああなるんだろう。ありていに言えば、ゾンビというやつだな」
「何とかできるのか?」
そう訊きながら、鬼頭はじりじりと後じさった。この部屋には窓もあることを、このときの彼はうっかり失念していた。
「できないこともない」
こともなげに少年は答えた。
「ただし」
「ただし?」
「眠っていろ」
少年が鬼頭の眉間に右手の人差指と中指を置いた。それだけで、鬼頭はあっけなく意識を失った。
「すまんな」
倒れかかった鬼頭を片腕一本で軽々と支え、ソファへと座らせながら、たいしてすまないとも思っていないふうに少年は謝罪した。
「人間の前では、やりにくいのでな」
少年は正面に向き直った。生ける死者は頼りない足どりながらも、もう二メートル近くにまで迫っていた。
「あまり気は進まないが……」
そう呟きながら、少年はほっそりとした右手を、今度はゾンビたちへとかざした。
***
少年が廊下に出ると、どこからか、女の声が流れてきた。
それは歌だった。誰もが一度は耳にする、子守歌だった。
少年は階段を上り、いちばん奥のドアの前で足を止めた。
ドアは半開きになっていた。少年はノックもせずに、そのドアを大きく開けた。
「あんたの子か?」
冷淡に少年は訊ねた。
「ええ、そうよ」
驚くこともなく、あの女の声がそれに答えた。少年のほうにはまったく見向きもしない。
椅子に腰かけた女の傍らにはベッドがあり、上に掛けられている毛布はわずかに膨らんでいた。女はその膨らみをさも愛しそうに軽く叩きながら、子守歌を歌っていたのだった。
「父親は?」
そう訊かれて女はためらう様子を見せたが、自身を奮い立たせるかのように、強い口調で切り返した。
「ちょっと……出かけているのよ。私たちの食料とかを調達しに」
「駆け落ちしてきたのか」
「……わかる?」
女は初めて少年のほうを向いて、寂しげに笑った。
「この屋敷はもうずいぶん前から空き家だからな」
「ええ、そう……」
女はベッドの向こうにある、夜空がはめこまれた窓を見上げた。
「両親や周囲に結婚を反対されて、私たちは駆け落ちしたわ……」
女は名家と言われる家で生まれた。世間の風にほとんどさらされることなく育った娘が、避暑地で知りあった男を生涯の相手と決めるのに、何のためらいもなかった。
しかし、それを周りが認めるはずもなく――ある夜、ついに二人は駆け落ちした。
よくある話だ。そのとき、女はもう妊娠していた。
――今夜はここに泊まろう。
当時、すでに空き家となっていたこの洋館の中で、男はそう切り出した。
――君も疲れたろう。ちょっと待っててくれ。外で何か食べ物を買ってくるから。明日、二人でもっと遠くに行こう。誰にも見つからないような、ずっと遠くに。
――ええ……でもあなた、必ず帰ってきてね。絶対よ!
わけもない強い不安に襲われて、女は男にすがりついた。
もしかしたら、このとき女は、やがて来る結末を予感していたのかもしれない。
――バカだなあ。ちゃんと帰ってくるに決まってるじゃないか……
女の肩に手を置いて、今では顔の輪郭もおぼろげな、愛しい男は言った。
――君の中には、僕たちの子供だっている。
――ええ……ええ!
女は夢中でうなずいた。それだけが男をつなぎとめる最後の切り札だと思っていた。
でも。
そのまま、男は帰ってこなかった。
「あの人は、必ず帰ってくるって言ったわ」
少年だけでなく、自らにも言い聞かせるように女は答えると、再びベッドに視線を戻した。
「それから何年経った?」
一瞬、女は肩を揺らしたが、今度は何も答えなかった。
「この付近は、ちょくちょく若い男がいなくなるんだ。そう……かれこれ十年くらい」
そう言ってから、少年は階下のほうに目をやった。
「あのゾンビどもは、そのなれの果てじゃないのか?」
「…………」
「帰ってくると信じこむのはあんたの勝手だが、通りがかりの男を手当たりしだいに連れこんで、おまけにゾンビにしちまうのは問題だな」
諭しているのか楽しんでいるのか、少年の口ぶりはどこか飄々としている。
そんな少年を無視しつづけ、女はまた子守歌を歌いはじめた。
「いつまでそうしているつもりだ」
女は答えない。
「その子供に子守歌を歌ってやる必要はない」
女は答えない。
「その子供はもう死んでいるんだ」
この少年は感情をこめて物を言うということが、どうやら苦手であるらしい。
「それならそうと最初っから言え! あんなふうにつっけんどんに言われたら、信用するものでも信用しない!」
そう叫んでから、鬼頭ははっと我に返った。
「幽霊? あれが?」
あわてて女が座っていたソファを見れば、女はいつのまにか消え失せていた。壁で蠢いていた醜悪な手の群れも、蜂の巣のような穴だけを残して消えている。
だが、手のほうはともかく、女は鬼頭が知らない間にドアから出ていったのかもしれない。それだけでは女が幽霊であるという証拠にはならない。現に閉まっていたはずの部屋のドアは大きく開け放たれている。
自慢ではないが、これまでそういうことには無縁で来たのだ。ここでそう簡単に宗旨替えするわけにはいかない。
「何だ、気づいていなかったのか」
少年の声音が、わずかに皮肉るような調子を帯びた。
「もっとも、気づいていたら、すぐに逃げ出していただろうが」
「だって俺、確かに引っ張られたぞ。幽霊ってのは触れないもんなんじゃないのか?」
自分の腕に手をやりながら、すかさず反論する。あんな目にあっても、いや、あんな目にあったからか、鬼頭は奇妙な冷静さを保っていた。
「幽霊だと思われていなければ触れるんだ」
少年は今度ははっきりと蔑むような眼差しを鬼頭に向けた。
「じゃあ、あの腐った手も幽霊か?」
「いや、あれは実体だ。生死はともかくとして。それより、今のうちにここから逃げ出したほうがいいんじゃないのか?」
「ああ、そうだった」
少年にしては建設的な意見に、鬼頭はさっそくドアへと向かいかけたが――
「どうせなら、もっと早く言ってほしかったな」
「どのみち、同じことになったと思うが」
手はたいがい体についている。壁に生えていた手もその点では例外ではなく、今度はその手の数だけの人間たち――生死はともかくとして――がゆらゆらと部屋の中へと入りこんできたのである。無論、出口は彼らによって、すっかりふさがれてしまっていた。
「あれって、死んでるよな?」
真顔で鬼頭は呟いた。服装はまちまちだが、いずれも男で、体のどこかしらに傷を受けており、その表情はうつろだった。中には腐り果ててしまって、原形を留めていない者もいる。
「普通の意味では」
平然と少年。
「あの女に逆らうと、殺されてああなるんだろう。ありていに言えば、ゾンビというやつだな」
「何とかできるのか?」
そう訊きながら、鬼頭はじりじりと後じさった。この部屋には窓もあることを、このときの彼はうっかり失念していた。
「できないこともない」
こともなげに少年は答えた。
「ただし」
「ただし?」
「眠っていろ」
少年が鬼頭の眉間に右手の人差指と中指を置いた。それだけで、鬼頭はあっけなく意識を失った。
「すまんな」
倒れかかった鬼頭を片腕一本で軽々と支え、ソファへと座らせながら、たいしてすまないとも思っていないふうに少年は謝罪した。
「人間の前では、やりにくいのでな」
少年は正面に向き直った。生ける死者は頼りない足どりながらも、もう二メートル近くにまで迫っていた。
「あまり気は進まないが……」
そう呟きながら、少年はほっそりとした右手を、今度はゾンビたちへとかざした。
***
少年が廊下に出ると、どこからか、女の声が流れてきた。
それは歌だった。誰もが一度は耳にする、子守歌だった。
少年は階段を上り、いちばん奥のドアの前で足を止めた。
ドアは半開きになっていた。少年はノックもせずに、そのドアを大きく開けた。
「あんたの子か?」
冷淡に少年は訊ねた。
「ええ、そうよ」
驚くこともなく、あの女の声がそれに答えた。少年のほうにはまったく見向きもしない。
椅子に腰かけた女の傍らにはベッドがあり、上に掛けられている毛布はわずかに膨らんでいた。女はその膨らみをさも愛しそうに軽く叩きながら、子守歌を歌っていたのだった。
「父親は?」
そう訊かれて女はためらう様子を見せたが、自身を奮い立たせるかのように、強い口調で切り返した。
「ちょっと……出かけているのよ。私たちの食料とかを調達しに」
「駆け落ちしてきたのか」
「……わかる?」
女は初めて少年のほうを向いて、寂しげに笑った。
「この屋敷はもうずいぶん前から空き家だからな」
「ええ、そう……」
女はベッドの向こうにある、夜空がはめこまれた窓を見上げた。
「両親や周囲に結婚を反対されて、私たちは駆け落ちしたわ……」
女は名家と言われる家で生まれた。世間の風にほとんどさらされることなく育った娘が、避暑地で知りあった男を生涯の相手と決めるのに、何のためらいもなかった。
しかし、それを周りが認めるはずもなく――ある夜、ついに二人は駆け落ちした。
よくある話だ。そのとき、女はもう妊娠していた。
――今夜はここに泊まろう。
当時、すでに空き家となっていたこの洋館の中で、男はそう切り出した。
――君も疲れたろう。ちょっと待っててくれ。外で何か食べ物を買ってくるから。明日、二人でもっと遠くに行こう。誰にも見つからないような、ずっと遠くに。
――ええ……でもあなた、必ず帰ってきてね。絶対よ!
わけもない強い不安に襲われて、女は男にすがりついた。
もしかしたら、このとき女は、やがて来る結末を予感していたのかもしれない。
――バカだなあ。ちゃんと帰ってくるに決まってるじゃないか……
女の肩に手を置いて、今では顔の輪郭もおぼろげな、愛しい男は言った。
――君の中には、僕たちの子供だっている。
――ええ……ええ!
女は夢中でうなずいた。それだけが男をつなぎとめる最後の切り札だと思っていた。
でも。
そのまま、男は帰ってこなかった。
「あの人は、必ず帰ってくるって言ったわ」
少年だけでなく、自らにも言い聞かせるように女は答えると、再びベッドに視線を戻した。
「それから何年経った?」
一瞬、女は肩を揺らしたが、今度は何も答えなかった。
「この付近は、ちょくちょく若い男がいなくなるんだ。そう……かれこれ十年くらい」
そう言ってから、少年は階下のほうに目をやった。
「あのゾンビどもは、そのなれの果てじゃないのか?」
「…………」
「帰ってくると信じこむのはあんたの勝手だが、通りがかりの男を手当たりしだいに連れこんで、おまけにゾンビにしちまうのは問題だな」
諭しているのか楽しんでいるのか、少年の口ぶりはどこか飄々としている。
そんな少年を無視しつづけ、女はまた子守歌を歌いはじめた。
「いつまでそうしているつもりだ」
女は答えない。
「その子供に子守歌を歌ってやる必要はない」
女は答えない。
「その子供はもう死んでいるんだ」
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
宇宙の戦士
邦幸恵紀
SF
【SF(スペースファンタジー)/パワードスーツは登場しません/魔法≒超能力】
向井紀里《むかいきり》は、父・鏡太郎《きょうたろう》と二人暮らしの高校一年生。
ある朝、登校途中に出会った金髪の美少女に「偽装がうまい」と評される。
紀里を連れ戻しにきたという彼女は異星人だった。まったく身に覚えのない紀里は、彼女の隙を突いて自宅に逃げこむが――
◆表紙はかんたん表紙メーカー様で作成いたしました。ありがとうございました(2023/09/11)。
【完結】永遠の旅人
邦幸恵紀
SF
高校生・椎名達也は、未来人が創設した〈時間旅行者協会〉の職員ライアンに腕時計型タイム・マシンを使われ、強引に〈協会〉本部へと連れてこられる。実は達也はマシンなしで時空間移動ができる〝時間跳躍者〟で、ライアンはかつて別時空の達也と偶然会っていた。以来、執念深く達也を捜しつづけたライアンの目的とは。
【完結】虚無の王
邦幸恵紀
キャラ文芸
【現代ファンタジー/クトゥルー神話/這い寄る混沌×大学生】
大学生・沼田恭司は、ラヴクラフト以外の人間によって歪められた今の「クトゥルー神話」を正し、自分たちを自由に動けるようにしろと「クトゥルー神話」中の邪神の一柱ナイアーラトテップに迫られる。しかし、それはあくまで建前だった。
◆『偽神伝』のパラレルです。そのため、内容がかなり被っています。
【完結】電脳探偵Y
邦幸恵紀
現代文学
【SF(すこしふしぎ)/人捜し専門探偵事務所/ホラー?】
人捜し専門の探偵事務所「MSS」。しかし、その業務のほとんどは所長の渡辺由貴ではなく、彼の大学時代からの友人・吉野拓己が一手に引き受けている。吉野はどんな人間でもまたたくまに見つけ出す。そこに電脳空間へと通じる扉があるかぎり。
※表紙のロゴは遠野まさみ様(@masami_h1115)に作成していただきました。ありがとうございました。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
撃ち抜けヴァージン
タリ イズミ
恋愛
金髪の女子高生の姫宮璃々子は、入学して一ヶ月にして遅刻十回、教師に罰掃除を命じられた。指定された化学実験室に向かうと、人気のないそこにクラス委員長で線の細い眼鏡男子和泉と隣のクラスの高身長爽やかイケメン碓氷の二人がいた。
※BLなのは碓氷×和泉ですが、姫宮と和泉の恋愛話です。
※碓氷と和泉がキスするシーンがありますが、濃厚な描写は一切ありません。あくまでも男女の恋愛話です。
※完結にしていますが、続きを書くかもしれません。
JOLENEジョリーン・鬼屋は人を許さない 『こわい』です。気を緩めると巻き込まれます。
尾駮アスマ(オブチアスマ おぶちあすま)
キャラ文芸
ホラー・ミステリー+ファンタジー作品です。残酷描写ありです。苦手な方は御注意ください。
完全フィクション作品です。
実在する個人・団体等とは一切関係ありません。
あらすじ
趣味で怪談を集めていた主人公は、ある取材で怪しい物件での出来事を知る。
そして、その建物について探り始める。
ほんの些細な調査のはずが大事件へと繋がってしまう・・・
やがて街を揺るがすほどの事件に主人公は巻き込まれ
特命・国家公務員たちと運命の「祭り」へと進み悪魔たちと対決することになる。
もう逃げ道は無い・・・・
読みやすいように、わざと行間を開けて執筆しています。
もしよければお気に入り登録・イイネ・感想など、よろしくお願いいたします。
大変励みになります。
ありがとうございます。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる