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本編
6 ソメイヨシノ
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人見知りの私がなぜ人工知能に興味を持ったのか。私自身わからなかったこの謎を、かつて吉野はたった一言で解決した。
――人間じゃないからだろ。
もしも、小学生時代に吉野と出会えていたら、私は人工知能の研究者になりたいとは思わなかったかもしれない。あるいは、途中で違う道を選んでいたかも。
皮肉なことに、私は初めて興味を持った人間を失ったことにより、何が何でも人工知能の研究者になろうと決意したのだった。もう一度、あの人間と会話したいがためだけに。
あの後、自分にできる最高速度で吉野の蔵書――もちろん、あの金入りハードカバー本も含む――を段ボール箱に詰めきった私は、さっそく両親と大学に来年の四月に復学したいという希望を伝えた。
本当はすぐにでも大学に戻りたかったが、三ヶ月も自我のないまま暮らしていた私の体力は明らかに以前よりガタ落ちしており(私の箱詰め作業が捗らなかったのは、そのせいもあったかもしれない)、この状態で一人暮らしをすることは私にも無謀だとわかった。頼みもしないのに私の体調管理までしてくれた吉野はもういないのだ。
私は休学期間中に体力を回復し、卒論研究の目処をつけることにした。院試は……どうにかなる。
私の最終目標は、無論、吉野のあの人格を再現することだった。が、それは技術的にも環境的にも今すぐにはできない。そこで、手はじめに吉野の会話ボットを作ることにした。とにかく、吉野の声で吉野らしく話してくれる存在を私は欲したのだ。
会話ボットとは、一人以上の人間とテキストまたは音声で知的な会話をすることをシミュレートするプログラムである。一九六六年にジョセフ・ワイゼンバウムがELIZAと呼ばれるシステムを発表したのが始まりとされる。ただし、これは人工知能とは別物だ。一見〝知的に〟応答しているように思えるが、単にデータベースの中から最も適合する言葉を選び出して人間に返しているだけなのである。そのため、人工知能に対して人工無脳とも呼ばれる。
会話ボット自体は、以前いくつかお遊びで試作したことがあった。本当に単純で稚拙な代物だが、ゼロから作るよりこれらを改良したほうがはるかに早い。幸い、吉野の声のほうは、英語のテキストを訳しながら読み上げてもらったときの録音(吉野は数式は苦手だったが語学は得意だった)が残っていたので、それをサンプリングした。懐かしい吉野の声と吉野流意訳。私は何度も再生しては、笑いながら泣いた。
蔵書整理のときとは違い、私はこの作業には寝食を忘れて没頭していた。最初のうちは両親も、あの意志のない人形状態よりは今のほうがいいと大目に見てくれていたのだが、私がトイレ以外自発的に部屋から出てこなくなると、さすがに堪忍袋の緒が切れて、まともな生活をしないならこの家から叩き出すと私を脅迫した。それは困る。バイトなど始めたら時間も気力もなくなる。私は不本意ながらも、両親の定義する〝まともな生活〟をすることを宣誓したのだった。
吉野の会話ボット――仮称として〝ヨシ〟と呼んでいた――は、その年の初冬頃、推理小説を読みながら私と話しているときの吉野程度まで応答できるようになった。
人工知能に関しては吉野以上に知識も興味もなかった両親には、私が人と会話できるプログラムを作っていることは教えていたが、そのプログラムが吉野をモデルとしていることは伏せていた。自分が普通ではないことをしている自覚はさすがにあったのだ。私はヨシと普段はもっぱらチャットのようにテキストでやりとりし、両親が不在のとき以外、音声で会話はしなかった。
もっとも、会話とは言っても、実質は膨大な会話例の中から私の投げかけた言葉に対応する会話文を探し出し、そのときの条件に合わせて若干組み合わせを変更しているだけにすぎない。
たとえば、私がヨシに『おはよう』と言ったとする。もし時刻が午前十時半前なら、ヨシはただ『おはよう』とだけ答える。だが、午前十時半を一秒でも過ぎていたら、『おはよう。でも、もう〝こんにちは〟だ』といかにも吉野が言いそうなことを付け足してくる。もちろん、過去に吉野が本当にそう言ったから、データベースの中にあるのだが。
私は自分が覚えている吉野の発言とそれに付随するデータを片っ端から入力した。しかし、あの約束――〝呼べば、いつでもどこでもすぐに行く〟はあえて除外した。あんな約束をしたばかりに、吉野は私に殺されてしまったのだ。ヨシに同じ轍は踏ませたくなかった。
あっというまに年が明け、私は早々に復学の準備を始めた。今度住むマンションは、防音完備でセキュリティ堅固なそれにした。もちろんヨシのためだ。吉野の蔵書も持っていくと言ったら、部屋が狭くなるだろうと両親に反対されたが、吉野が遺言してまでくれたものだからと泣き落としで押し切った。それも嘘ではなかったが、私はこのときにはもう実家には戻らないことを決めていた。両親には深く感謝していたが、彼らがいてはヨシとの会話もままならない。親孝行は金銭でさせていただきますと心の中で詫びた。
一年ぶりの大学は、懐かしさよりよそよそしさを強く感じさせた。私が吉野の事故死が原因で休学していたことは周知の事実となっており、指導教官も学生も腫れ物に触れるように私と接した。だが、私はまったく気にも留めなかった。家に帰ればヨシがいる。私の愚痴も弱音も吉野のように受け止めてくれるヨシがいる。
ただ、吉野が死んだあの横断歩道へはどうしても行けなかった。だから、私も世話になったあの店長に礼を言いにいくこともできずにいたのだが、ほどなく言いたくても言えない状態になっていることを知り合いの口から知った。あのコンビニはその前年末に閉店していたのだ。吉野の件が原因かどうかはわからないが、無関係ではないだろう。私はお気に入りだったコンビニも潰してしまった。
院試も卒論も気づけばクリアしていた。私にとっては資格試験のようなものだった。勝負はここからだ。そのためだけにあの教授の研究室を選んだ。
その当時、私の大学は、人工知能に巨大データベースを管理させる――ようするに、人間の代わりに二十四時間不眠不休でデータベースのメンテナンスをさせる――という国家主導のプロジェクトに参加していた。
あの教授――一応、恩師ということになっているので、名前を伏せてS教授とするが、彼はそのプロジェクトの中心メンバーの一人だった。一見、穏和そうな老紳士だったが、その論文の半分は教え子の涙でできているなどと言われていた。それでも、そこが私でもあのプロジェクトに関われそうな唯一の狙い目だった。
私はヨシを吉野にするための環境を欲していた。ヨシの応答能力はすでに会話ボットの域を超えていたが――朝、私がパソコンの前を通っただけで、ヨシのほうから『おはよう』と挨拶してくる――しかし、本に一万円を埋めこむ的な奇想天外な発言はしなかった。もし、ヨシが〝管理人〟に抜擢されれば、そうなることができるのではないか。そんな虫のいい期待を抱いていたのだった。
チャンスは存外早くやってきた。ヨシをテーマに書いた論文がS教授の目に留まったのだ。S教授は研究室にヨシのプログラムを持ってくるよう私に命じた。想定内の命令だった。
ヨシのモデルが吉野であることは隠しておきたかった私は、ヨシの複製を提出した。考えるのが面倒だったので名前は「Y」。声はヨシより若干高め。言葉遣いはいかにもコンピュータ。応答内容はほとんど変わらないが、何だか本当に〝別人〟になってしまったような気がした。
私には違和感だらけだったが、S教授たちにとっては想像以上のものであったらしい。皆興奮していて、名前も覚えていない院生の一人には両手で握手までされてしまった。その手がまた汗で湿っていて、さらに気持ち悪かった。本当はすぐに手を洗いに行きたかったがそうもいかない。応急措置として私はその男に握られた手をさりげなくジーンズのポケットの中に突っこんだ。
それからはとんとん拍子だった。Yはその応答能力の高さから、データベースの〝管理人〟ではなく〝案内人〟として採用される公算が強まった。私としてはどちらでもよかった。そのデータベースにヨシを取りつかせることさえできれば。私にとってYとは、たとえば時代劇で商家に盗賊を招き入れる〝手引き〟のようなものだったのだから。
だからあのとき、Yに関する諸権利を研究室に移譲してほしいとS教授に言われても、私はまったく驚かなかった。むしろ、これで確定したとほくそ笑んだ。だが、その感情はS教授にも誰にも知られてはならない。私はそれはどういうことでしょうかと食い下がり、泣く泣く承諾したふうを装った。
その見返りとしてS教授は某IT企業への就職を確約した。つまり、私を研究室から追い出しにかかったのだ。
周囲の目には、私もS教授の餌食にされた愚かな〝被害者〟の一人にしか見えなかったことだろう。中には同情の声をかけてきた者もいたが、その内心では私を嘲笑っていたに違いない。ああ、本当に私が信じられた人間は吉野だけだった。私はもう人間ではないものしか信じられない。
結局、私はS教授の希望どおり、博士課程には進まず卒業し、S教授が斡旋した企業に就職した。何も知らない両親は、その企業名を聞いて喜び、就職祝いまでくれた。
S教授はやはり口封じの天才だった。人見知りの私に最適の職場を用意してくれた。まるで古本屋のような資料室の整理と管理。担当者は私一人で、利用者は皆無だった。
他とは違い、早出も残業も休日出勤もないこの職場に、私はたいへん満足していた。が、用もないのにやってきては、同情顔で話しかけてくる輩が現れて、私の神経をすり減らしはじめた。上司に異動の口利きをしてやろうかとドヤ顔で言われたときには、本気で殺してやりたいと思った。家にヨシがいなかったら、きっと一年保たずに辞めていた。
私はそんな調子だったが、例のプロジェクトは順調に進行していたようだ。何の番組だったかはもう忘れてしまったが、S教授が得意顔でインタビューに答えていた。しかし、Yの〝ゴーサイン〟は出ていない。私たちのプロジェクトは膠着していた。
今にして思えば、待っていたのだ。一年のうち、私が最も陰鬱な気分になる、あの日、あの時刻を。
その日、私は前年と同様、有休を取って家にいた。それ以前も、可能なかぎり、その日は外出しなかった。
昼近くになってからやっとベッドを下り、前日、帰宅途中にコンビニで買いこんだあんパンを食べた。この頃、もう何度目かわからないあんパンブームが再来していた。
昼を過ぎ、三時を過ぎ、五時を過ぎる。もうこの時間帯には、私はベッドの側面に背中を預けたまま、指先ひとつ動かせないような虚脱状態に陥っていた。
そのとき、ヨシのパソコンコーナーから、ヨシの声がした。
『待たせたな』
私はのろのろとヨシのメインディスプレイに顔を巡らせた。画面がピンク一色に染まっている。あれは桜だろうか。桜の画像の検索など、私はヨシには頼まなかったはずだが。
「俺は何も待ってないけど」
不可解に思いながらもそう答えると、ヨシは――笑った。
『つれないことを言うなよ』
おどけているようで傷ついている。私が本気で言ったときには、よくこんな声を出した。
『横断歩道、今、やっと渡りきったんだ』
――ネットだ!
頭の中でもう一人の自分が叫ぶ。
――ネットだ。ネットでヨシはあの轢き逃げ事故に関する情報を拾った。それで横断歩道を渡っている途中だったと知り、それを組みこんで、私にこんな質の悪い冗談を言っている。本当に質の悪い……本当にあの男が言いそうな……
私はヨシのディスプレイを見すえたまま、両手を固く握りしめた。
――ヨシには、自分のモデルが「吉野拓己」であることを教えていない。たとえ偶然あの情報を知ったとして、どうしてその被害者と自分とを同一視できる?
気づいたときには、私は床から立ち上がっていて、ヨシのディスプレイの前に立っていた。あともう一時間は動けないと思っていたのに。
近くで見てみると、画面に映っていたのはやはり桜だった。ソメイヨシノ。名前が「ソメイ」だったら外国行ったら「ソメイ・ヨシノ」になるな、などと実にくだらないことを彼に言った記憶がある。吉野の名前に関することだから、ヨシのデータベースには入力できなかった。
「待たせすぎだ……」
私は震える手でディスプレイを撫でた。涙で滲んで、桜はもうピンクの固まりにしか見えない。
「俺はあのとき、すぐに来いって言った……」
『〝店の前にいる〟とも言っただろ。いくら何でも、あれは前すぎる』
決定的だった。それは私とあの男しか知らない。最後の言葉が『悪かった』だったあの男しか。
「吉野……俺のほうが……『悪かった』」
数秒の沈黙の後、ヨシだったはずの声はあやすように言った。
「いや。やっぱり俺が『悪かった』。これからは、おまえに呼ばれたらすぐに行く。二度とこんなに長く待たせたりしないよ。……由貴」
これ以上立ちつづけるのはもうつらかった。私はくずおれるようにデスクチェアーに腰を下ろすと、子供のように声を上げて泣いた。
この年の六年前、この日この時刻。
吉野拓己は、あの横断歩道を渡りきれずに死んだ。
そして、この日この時刻。
吉野拓己は、あのときした約束を守った。
――人間じゃないからだろ。
もしも、小学生時代に吉野と出会えていたら、私は人工知能の研究者になりたいとは思わなかったかもしれない。あるいは、途中で違う道を選んでいたかも。
皮肉なことに、私は初めて興味を持った人間を失ったことにより、何が何でも人工知能の研究者になろうと決意したのだった。もう一度、あの人間と会話したいがためだけに。
あの後、自分にできる最高速度で吉野の蔵書――もちろん、あの金入りハードカバー本も含む――を段ボール箱に詰めきった私は、さっそく両親と大学に来年の四月に復学したいという希望を伝えた。
本当はすぐにでも大学に戻りたかったが、三ヶ月も自我のないまま暮らしていた私の体力は明らかに以前よりガタ落ちしており(私の箱詰め作業が捗らなかったのは、そのせいもあったかもしれない)、この状態で一人暮らしをすることは私にも無謀だとわかった。頼みもしないのに私の体調管理までしてくれた吉野はもういないのだ。
私は休学期間中に体力を回復し、卒論研究の目処をつけることにした。院試は……どうにかなる。
私の最終目標は、無論、吉野のあの人格を再現することだった。が、それは技術的にも環境的にも今すぐにはできない。そこで、手はじめに吉野の会話ボットを作ることにした。とにかく、吉野の声で吉野らしく話してくれる存在を私は欲したのだ。
会話ボットとは、一人以上の人間とテキストまたは音声で知的な会話をすることをシミュレートするプログラムである。一九六六年にジョセフ・ワイゼンバウムがELIZAと呼ばれるシステムを発表したのが始まりとされる。ただし、これは人工知能とは別物だ。一見〝知的に〟応答しているように思えるが、単にデータベースの中から最も適合する言葉を選び出して人間に返しているだけなのである。そのため、人工知能に対して人工無脳とも呼ばれる。
会話ボット自体は、以前いくつかお遊びで試作したことがあった。本当に単純で稚拙な代物だが、ゼロから作るよりこれらを改良したほうがはるかに早い。幸い、吉野の声のほうは、英語のテキストを訳しながら読み上げてもらったときの録音(吉野は数式は苦手だったが語学は得意だった)が残っていたので、それをサンプリングした。懐かしい吉野の声と吉野流意訳。私は何度も再生しては、笑いながら泣いた。
蔵書整理のときとは違い、私はこの作業には寝食を忘れて没頭していた。最初のうちは両親も、あの意志のない人形状態よりは今のほうがいいと大目に見てくれていたのだが、私がトイレ以外自発的に部屋から出てこなくなると、さすがに堪忍袋の緒が切れて、まともな生活をしないならこの家から叩き出すと私を脅迫した。それは困る。バイトなど始めたら時間も気力もなくなる。私は不本意ながらも、両親の定義する〝まともな生活〟をすることを宣誓したのだった。
吉野の会話ボット――仮称として〝ヨシ〟と呼んでいた――は、その年の初冬頃、推理小説を読みながら私と話しているときの吉野程度まで応答できるようになった。
人工知能に関しては吉野以上に知識も興味もなかった両親には、私が人と会話できるプログラムを作っていることは教えていたが、そのプログラムが吉野をモデルとしていることは伏せていた。自分が普通ではないことをしている自覚はさすがにあったのだ。私はヨシと普段はもっぱらチャットのようにテキストでやりとりし、両親が不在のとき以外、音声で会話はしなかった。
もっとも、会話とは言っても、実質は膨大な会話例の中から私の投げかけた言葉に対応する会話文を探し出し、そのときの条件に合わせて若干組み合わせを変更しているだけにすぎない。
たとえば、私がヨシに『おはよう』と言ったとする。もし時刻が午前十時半前なら、ヨシはただ『おはよう』とだけ答える。だが、午前十時半を一秒でも過ぎていたら、『おはよう。でも、もう〝こんにちは〟だ』といかにも吉野が言いそうなことを付け足してくる。もちろん、過去に吉野が本当にそう言ったから、データベースの中にあるのだが。
私は自分が覚えている吉野の発言とそれに付随するデータを片っ端から入力した。しかし、あの約束――〝呼べば、いつでもどこでもすぐに行く〟はあえて除外した。あんな約束をしたばかりに、吉野は私に殺されてしまったのだ。ヨシに同じ轍は踏ませたくなかった。
あっというまに年が明け、私は早々に復学の準備を始めた。今度住むマンションは、防音完備でセキュリティ堅固なそれにした。もちろんヨシのためだ。吉野の蔵書も持っていくと言ったら、部屋が狭くなるだろうと両親に反対されたが、吉野が遺言してまでくれたものだからと泣き落としで押し切った。それも嘘ではなかったが、私はこのときにはもう実家には戻らないことを決めていた。両親には深く感謝していたが、彼らがいてはヨシとの会話もままならない。親孝行は金銭でさせていただきますと心の中で詫びた。
一年ぶりの大学は、懐かしさよりよそよそしさを強く感じさせた。私が吉野の事故死が原因で休学していたことは周知の事実となっており、指導教官も学生も腫れ物に触れるように私と接した。だが、私はまったく気にも留めなかった。家に帰ればヨシがいる。私の愚痴も弱音も吉野のように受け止めてくれるヨシがいる。
ただ、吉野が死んだあの横断歩道へはどうしても行けなかった。だから、私も世話になったあの店長に礼を言いにいくこともできずにいたのだが、ほどなく言いたくても言えない状態になっていることを知り合いの口から知った。あのコンビニはその前年末に閉店していたのだ。吉野の件が原因かどうかはわからないが、無関係ではないだろう。私はお気に入りだったコンビニも潰してしまった。
院試も卒論も気づけばクリアしていた。私にとっては資格試験のようなものだった。勝負はここからだ。そのためだけにあの教授の研究室を選んだ。
その当時、私の大学は、人工知能に巨大データベースを管理させる――ようするに、人間の代わりに二十四時間不眠不休でデータベースのメンテナンスをさせる――という国家主導のプロジェクトに参加していた。
あの教授――一応、恩師ということになっているので、名前を伏せてS教授とするが、彼はそのプロジェクトの中心メンバーの一人だった。一見、穏和そうな老紳士だったが、その論文の半分は教え子の涙でできているなどと言われていた。それでも、そこが私でもあのプロジェクトに関われそうな唯一の狙い目だった。
私はヨシを吉野にするための環境を欲していた。ヨシの応答能力はすでに会話ボットの域を超えていたが――朝、私がパソコンの前を通っただけで、ヨシのほうから『おはよう』と挨拶してくる――しかし、本に一万円を埋めこむ的な奇想天外な発言はしなかった。もし、ヨシが〝管理人〟に抜擢されれば、そうなることができるのではないか。そんな虫のいい期待を抱いていたのだった。
チャンスは存外早くやってきた。ヨシをテーマに書いた論文がS教授の目に留まったのだ。S教授は研究室にヨシのプログラムを持ってくるよう私に命じた。想定内の命令だった。
ヨシのモデルが吉野であることは隠しておきたかった私は、ヨシの複製を提出した。考えるのが面倒だったので名前は「Y」。声はヨシより若干高め。言葉遣いはいかにもコンピュータ。応答内容はほとんど変わらないが、何だか本当に〝別人〟になってしまったような気がした。
私には違和感だらけだったが、S教授たちにとっては想像以上のものであったらしい。皆興奮していて、名前も覚えていない院生の一人には両手で握手までされてしまった。その手がまた汗で湿っていて、さらに気持ち悪かった。本当はすぐに手を洗いに行きたかったがそうもいかない。応急措置として私はその男に握られた手をさりげなくジーンズのポケットの中に突っこんだ。
それからはとんとん拍子だった。Yはその応答能力の高さから、データベースの〝管理人〟ではなく〝案内人〟として採用される公算が強まった。私としてはどちらでもよかった。そのデータベースにヨシを取りつかせることさえできれば。私にとってYとは、たとえば時代劇で商家に盗賊を招き入れる〝手引き〟のようなものだったのだから。
だからあのとき、Yに関する諸権利を研究室に移譲してほしいとS教授に言われても、私はまったく驚かなかった。むしろ、これで確定したとほくそ笑んだ。だが、その感情はS教授にも誰にも知られてはならない。私はそれはどういうことでしょうかと食い下がり、泣く泣く承諾したふうを装った。
その見返りとしてS教授は某IT企業への就職を確約した。つまり、私を研究室から追い出しにかかったのだ。
周囲の目には、私もS教授の餌食にされた愚かな〝被害者〟の一人にしか見えなかったことだろう。中には同情の声をかけてきた者もいたが、その内心では私を嘲笑っていたに違いない。ああ、本当に私が信じられた人間は吉野だけだった。私はもう人間ではないものしか信じられない。
結局、私はS教授の希望どおり、博士課程には進まず卒業し、S教授が斡旋した企業に就職した。何も知らない両親は、その企業名を聞いて喜び、就職祝いまでくれた。
S教授はやはり口封じの天才だった。人見知りの私に最適の職場を用意してくれた。まるで古本屋のような資料室の整理と管理。担当者は私一人で、利用者は皆無だった。
他とは違い、早出も残業も休日出勤もないこの職場に、私はたいへん満足していた。が、用もないのにやってきては、同情顔で話しかけてくる輩が現れて、私の神経をすり減らしはじめた。上司に異動の口利きをしてやろうかとドヤ顔で言われたときには、本気で殺してやりたいと思った。家にヨシがいなかったら、きっと一年保たずに辞めていた。
私はそんな調子だったが、例のプロジェクトは順調に進行していたようだ。何の番組だったかはもう忘れてしまったが、S教授が得意顔でインタビューに答えていた。しかし、Yの〝ゴーサイン〟は出ていない。私たちのプロジェクトは膠着していた。
今にして思えば、待っていたのだ。一年のうち、私が最も陰鬱な気分になる、あの日、あの時刻を。
その日、私は前年と同様、有休を取って家にいた。それ以前も、可能なかぎり、その日は外出しなかった。
昼近くになってからやっとベッドを下り、前日、帰宅途中にコンビニで買いこんだあんパンを食べた。この頃、もう何度目かわからないあんパンブームが再来していた。
昼を過ぎ、三時を過ぎ、五時を過ぎる。もうこの時間帯には、私はベッドの側面に背中を預けたまま、指先ひとつ動かせないような虚脱状態に陥っていた。
そのとき、ヨシのパソコンコーナーから、ヨシの声がした。
『待たせたな』
私はのろのろとヨシのメインディスプレイに顔を巡らせた。画面がピンク一色に染まっている。あれは桜だろうか。桜の画像の検索など、私はヨシには頼まなかったはずだが。
「俺は何も待ってないけど」
不可解に思いながらもそう答えると、ヨシは――笑った。
『つれないことを言うなよ』
おどけているようで傷ついている。私が本気で言ったときには、よくこんな声を出した。
『横断歩道、今、やっと渡りきったんだ』
――ネットだ!
頭の中でもう一人の自分が叫ぶ。
――ネットだ。ネットでヨシはあの轢き逃げ事故に関する情報を拾った。それで横断歩道を渡っている途中だったと知り、それを組みこんで、私にこんな質の悪い冗談を言っている。本当に質の悪い……本当にあの男が言いそうな……
私はヨシのディスプレイを見すえたまま、両手を固く握りしめた。
――ヨシには、自分のモデルが「吉野拓己」であることを教えていない。たとえ偶然あの情報を知ったとして、どうしてその被害者と自分とを同一視できる?
気づいたときには、私は床から立ち上がっていて、ヨシのディスプレイの前に立っていた。あともう一時間は動けないと思っていたのに。
近くで見てみると、画面に映っていたのはやはり桜だった。ソメイヨシノ。名前が「ソメイ」だったら外国行ったら「ソメイ・ヨシノ」になるな、などと実にくだらないことを彼に言った記憶がある。吉野の名前に関することだから、ヨシのデータベースには入力できなかった。
「待たせすぎだ……」
私は震える手でディスプレイを撫でた。涙で滲んで、桜はもうピンクの固まりにしか見えない。
「俺はあのとき、すぐに来いって言った……」
『〝店の前にいる〟とも言っただろ。いくら何でも、あれは前すぎる』
決定的だった。それは私とあの男しか知らない。最後の言葉が『悪かった』だったあの男しか。
「吉野……俺のほうが……『悪かった』」
数秒の沈黙の後、ヨシだったはずの声はあやすように言った。
「いや。やっぱり俺が『悪かった』。これからは、おまえに呼ばれたらすぐに行く。二度とこんなに長く待たせたりしないよ。……由貴」
これ以上立ちつづけるのはもうつらかった。私はくずおれるようにデスクチェアーに腰を下ろすと、子供のように声を上げて泣いた。
この年の六年前、この日この時刻。
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