【完結】電脳探偵Y

邦幸恵紀

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本編

2 吉野拓己

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 私と吉野の関係を一言で言うなら、大学以来の親友だ。
 しかし、出会ったのは大学構内ではなく、大学近くのコンビニでだった。
 さらにつけくわえるなら、私は当初、吉野が同じ大学の学生だとまったく知らなかった。私は工学部、吉野は文学部と学部が違っていたし、吉野は入学前からそのコンビニでバイトをしていて、その板についた仕事ぶりから、てっきりフリーターだとばかり思いこんでいた。
 吉野は長身で――私だって約一七五センチと日本人男子としては決して低くはないと思うのだが、一八五センチは〝長身〟と言わざるを得ない――そのせいなのか猫背気味だった。髪は漆黒だったが、ゆるやかに波打っていて、日本人にしては彫りの深い顔立ちをしていた。レジで初めて会ったとき、この男には日本語が通じるだろうかと不安になったくらいである。胸につけているネームで名字は〝吉野〟だとわかったが、日本名でも日本語が話せるとは限らない。
 幸い、日本語は通じたが愛想はなかった。が、私にはコンビニ店員に癒しを求める趣味はなかったので、特段不満はなかった。むしろ、他の店員たちより手際がいいので、わざわざ吉野が担当しているレジに並んだりもした。
 そんな吉野の正体――まあ、名字はすでにわかっていたが――が判明したのは、自分でも驚いてしまうが、夏季休業に入る直前のことである。たまたま涼みに入った大学の図書館の一角で、たまたま吉野が本を読んでいたのだ。
 吉野はテーブルではなく、館内の各所に置かれているソファの一つに、我が物顔で寝そべっていた。汚いスニーカーは脱いでいたのは、この男のささやかな良心の表れだろう。時期的に利用者は少なかったが無人ではない。だが、たとえ混雑していても、この男に注意できる者はいなかったに違いない。私も注意する気は毛頭なかった。ただ、コンビニ勤めのフリーターが、なぜこんなところで悠然と本を読んでいるのか不思議に思えて、何となく歩み寄った。
 話しかけるつもりはなかった。誓って言うが、本当になかったのだ。吉野も本――あとで知ったが、有名な推理作家の文庫本だった――に視線を注いだまま、私には見向きもしなかった。

「たまには、あんパン以外も食えよ」

 とっさに私は周囲を見回した。愛想はないがよく響くあの低い声が、吉野の口から発せられたことはわかったが、その言葉が自分に対して向けられたとは微塵も思わなかったのだ。
 しかし、吉野の声が届く範囲内に私以外の人間は一人もおらず、さすがの私も吉野が私に話しかけたらしいと認めざるを得なかった。

「あんパンが好きなんだ」

 不承不承私は答えた。確かに私はあのコンビニであんパンばかりを買っていた。正確に言うなら、その時期はあんパンが好きだった。いわゆるマイブームだったのである。ただし、私のマイブームはわりと長い。半年以上はざらである。
 私の事実だが子供のような回答を聞いて、吉野は形のいい眉をややひそめた。が、いつもあんパンがつぶれないようにペットボトルをコンビニ袋に入れてくれる大きな手で、文庫本のページを繰った。

「そうか。好きならしょうがないな。でも、きっとあんパンは、あんたに他のものも食ってもらいたいと思ってると思うぞ」

 ――どうしておまえにあんパンの気持ちがわかるんだ?
 反射的にそう言い返してやりたくなったが、そのときふと、吉野が私の買っているものを把握していたことにようやく気がついた。
 コンビニであんパンを買いつづける客は、この男の記憶に残るほど珍しかったのだろうか。私が首をひねっていると、突然吉野は文庫本を閉じ、反動をつけて上半身を起こした。

「あんた、名前は?」

 今度は吉野の目――髪色に反してほぼ茶色だった――はまっすぐ私に向けられていて、私に名前を訊ねていることは明らかだった。
 しかし、なぜこの男が私の名前など知りたがるのか。
 困惑した私はさらに首をかしげたが、それがもったいぶっているように思われたのか、吉野は苛立ったような顔をして、とうとうソファから立ち上がった。
 カウンターを挟まずに目の前に立たれると、背の高さもあいまって、恐怖心を覚えてしまう。おまけに、コンビニの制服を着ていないものだから、意外と筋肉質な体をしていることもわかって、思わず後ずさりしてしまった。

「いや、別にあんたに因縁つけようとしてるわけじゃないから」

 店頭では無愛想だが、やはり無神経ではないようだ。苦笑ではあったが、初めて表情をゆるめた。私はあからさまにほっとして、ぎごちなく笑った。

「そんなことは思ってなかったけど、急に名前訊かれたからびっくりして……渡辺だけど、それが……?」
「下は?」
「え?」
「それは名字だろ。名前は?」

 まさかフルネームを訊かれるとは思わなかった。名字だけで事足りるだろうにと思いつつも、吉野が妙に真剣な顔つきをしているので、仕方なく答える。

「……由貴」

 実は私は自分の名前が嫌いなのだ。この名前だけで女だと今まで幾度となく誤解されてきた。子供の頃は顔を見ても女だとしょっちゅう間違われていたが、さすがに中学を卒業する頃にはそんなこともなくなった。当然、このときも今も皆無である。皆無だと思いたい。

「由貴……」

 自分に言い聞かせるように呟くと、吉野は満足げに口角を上げた。

「いいな。あんたにぴったりだ。それに、覚えやすくて呼びやすい」

 自分の名前にそんな評価を下されたのは、このときが初めてだった。正直、素直には喜べない内容だったが、それより私には別のことが気にかかっていた。

「俺の名前を覚えてどうするんだ?」

 のちに吉野は言った。たぶんこの先何が起こったとしても、このとき以上に驚くことはないだろうと。

「どうするって……」

 吉野は絶句すると、近くで見ても秀麗な顔をしかめ、文庫本を持っていない右手で自分の頭を掻きむしった。
 なぜそんな反応をするのか。私はわけがわからずきょとんとしていた。コンビニ店員が客のフルネームを覚えて得することなどあるのか。
 私は店員に名前を覚えられても嬉しくはない。かえって鬱陶しく思うタイプだ。あのコンビニは大学から近くて品揃えも私好みだからこれからも利用するつもりでいるが、もしそうでなかったら、二度と行かないかもしれない。

「……そうか。あんたの思考回路はそうなってるのか」

 吉野は手を止めて大きな溜め息を一つつくと、哀れむような目で私を見た。
 ますますわけがわからない。私にしてみれば、この男の思考回路のほうが不可解である。

「そういえば……」

 今さらだが、ここでこの男を見たときに抱いた疑問をふと思い出した。

「吉野さんはどうしてこんなところに?」

 今度は何が気に触ったのか、吉野は不快そうな顔をして、すっかり乱れた髪から手を離した。

「〝さん〟はいらない。ここの学生がここで本読んでたらおかしいか?」

 私は一拍おいて問い返した。

「学生?」
「そう。あんたと同じ大学生。ほとんど毎日、あのコンビニでバイトしてるけどな」

 驚いたことに、吉野は私と同じ一年生で年も同じだった。落ち着いているから、てっきり二十代半ばくらいかと思っていた。さっきまで吉野が寝ていたソファに並んで座って正直にそう言うと、吉野はどうせ俺は老け顔だよと小さく愚痴った。
 吉野は私のことは根掘り葉掘り訊いてきたが、自分のこととなると、フルネームと学部と現住所以外、まともに答えようとしなかった。きっと家族仲が悪くて、仕送りももらえていないんだろう。私は勝手にそう推測し、そのときはそのまま流してしまったが、その推測は半分正しく半分間違っていた。家族はすでになく、金はあったが先々のことを考えて倹約していたのだ。だが、私がそのことを明かされたのはかなり先、吉野の安アパートでとんでもない残高の預金通帳を見せられながらのことである。
 結局、その日は閉館時間になるまでそこで吉野と話しこみ、図書館を出てから吉野のバイト先であるコンビニまで一緒に歩いていって、あんパンではなくカレーパンを買った。私のあんパンブームはこのとき終わりを告げたのである。そして新たにカレーパンブームが始まって、また吉野に苦言を呈されることになった。
 講義以外の時間をバイトに捧げている吉野も、人見知りというよりもはやコミュ障に近い私も、サークルなどには入っておらず、コンパや飲み会とも無縁だった。その意味では似た者同士と言えただろう。吉野が私に声をかけてきたのも、もしかしたら同類の臭いを嗅ぎとったからかもしれない。私も最初こそ緊張させられたが、吉野となら気楽に話をすることができた。
 別に取り決めたわけではなかったが、夏季休業に突入してからは、吉野のコンビニと大学の図書館に通うことが私の日課となった。吉野と違い、私はバイトをしなくても節約すれば何とかやっていけるだけの仕送りを受けていた。もし無理にバイトを始めていたら、すぐに心療内科に通う羽目になって、せっかく稼いだバイト代もその医療費に消えてしまっていたことだろう。そう言いきれる自信が今でもある。
 見た目は文系というより体育会系な吉野だったが――文学部だと言われたとき、私は聞き間違いをしたかと思って二度訊きした――本を読むのは趣味ではなく使命と大真面目にのたまうだけのことはあり、私が図書館のあのソファのところに行くと、やはりあの傍若無人な格好でいつも本を読んでいた(さすがに私と話している間は本を閉じていたが)。
 特に推理小説を好んでいたが、その読み方というのが斬新というか邪道というか、とにかく私には理解不能なそれだった。先に最後のほうを読んで、犯人が誰かを確認してから、前から順に読んでいくのである。
 私はフィクションよりノンフィクションを好んでいたので――神話や伝説、昔話がノンフィクションかどうかは微妙だが――推理小説を読んだこともごくわずかだった。しかし、その私でもその読み方はいかがなものかと思った。普通、推理小説というものは、謎解きや犯人当てを楽しむために読むものではないのか? 最初から犯人がわかっていたら、読む楽しみもなくなってしまうのではないか?
 だが、そんな私のごくまっとうな疑問(だと私は思っている)に、読書が使命の吉野は涼しい顔でこう答えた。いわく、犯人がわかっていても先を読ませられてこそ真の作家。そうじゃない小説は読む価値なし。
 吉野に言わせれば、人生は有限で小説は無限だから、読まなくていい小説は極力読まないようにしなければならず、そのための判別方法の一つが、最後の最初読みなのだ。
 ちなみに、最初に犯人が明らかにされている推理小説(何とか型とか言ったが、覚える気がなくて覚えていない)でも吉野はそうしていた。その場合の着目点は、犯人が最後はどうなったかだそうである。私は犯人は必ず最後に捕まるものだと思っていたが、そうではない場合も多々あるらしい。そんなところでリアリティを出さなくてもいいのに。
 そのような意見の相違もあったが、それも含めて吉野と話すことは私にはとても楽しかった。読書家だけあって博識だったが、それ以上に聞き上手だった。私がうまく表現できずにいることを、つまりこういうことかと的確な言葉に変換してフィードバックしてくれる。本人は生粋の文系と自称していたが、私よりよほど理系らしいと思ったことも少なくなかった。
 夏季休業はあっというまに終わった。が、吉野と会う場所と時間は逆に増えた。学部は違っていても、携帯電話で連絡を取りあえば、図書館以外で会うことも、昼食を一緒に取ることもできる。
 私と吉野の友人関係は、吉野のコンビニの同僚たち(私にも親しくしてくれたが、たぶん〝店長よりも店長らしい〟吉野の機嫌を損ねたくなかったのだろう)以外にも周知され、私の人見知りを知るごく一部の知り合いたちには、いったいどういう経緯であの吉野と親しくなったのかと不思議がられた。
 私は知らなかったが、吉野はけっこうな有名人だったらしい。確かに、あの外見だけでも充分目を引く。だが、私はあのときまで学内で吉野を見かけた記憶がなかった。吉野はあのコンビニにしかいないと思いこんでいたせいだろうか。我ながら謎である。
 基本、吉野は私の自由意志を尊重してくれていたが、食事に関しては例外だった。私への第一声が〝あんパン以外も食え〟だった吉野は、私の無頓着な食生活に異常なほど神経を尖らせており、昼食のメニューで駄目出しされるのは当たり前、吉野がいるときにコンビニに行くと、今日はこれとこれを食えと買う物を指定された。吉野の同僚たちは〝オカンか〟と呆れていたが、私は何を食べるか考えなくて済むので、むしろありがたいと思っていた。それくらい食事というものに興味がなかったのである。
 それでも、一人暮らしをしている以上、体調管理にはそれなりに気を配っていた。これといった持病もなく、病弱でもなかったが、かといって頑強というわけでもない。しかし、吉野と友人になった年の冬、とうとう私は風邪を引いてしまった。
 その前日から予兆はあったのだ。若干喉が痛くて熱っぽかった。だが、私は一晩寝れば治ると軽く考え、市販の風邪薬を飲んで寝た。そして翌朝、目が覚めた瞬間、これは駄目だとすぐに悟った。喉の痛みは増していて寒気までする。どうにか寝返りは打てたが、上半身を起こすことすら不可能そうだった。
 あいにく、その日は平日で大事な講義もあったが、この状態ではどうしようもない。これまでの経験から、インフルエンザではないと勝手に自己診断した私は、とにかく動けるようになるまで、このままベッドで眠りつづけることにした。
 本当に具合が悪いときには寝ることしかできない。だから、サイドチェストの上で携帯電話が鳴っていても、それを手に取ることもできなかった。
 夢なのか現実なのか、自分でもわからなくなるほど、寝たり起きたりを繰り返した。しかし、何度目かに意識を取り戻したとき、部屋の空気に違和感を覚えた。
 カーテンを開けることもできなかった室内はすでに暗くなっていた。今何時だろうとサイドチェストの上に置いてあるアナログ時計に目をやる。八時十分過ぎ。もう夜だ。
 まだ喉は痛いが、体は今朝よりかなり楽になっていた。そう考えてから、違和感どころではない変化に気づく。私の頭の下にはタオルにくるまれた保冷枕が、私の額には熱冷ましのシートがあったのだ。
 どちらも今朝には絶対なかった。特に熱冷ましのシートなど、私の部屋にもなかった。まだ熱で鈍っている頭で静かに混乱していると、キッチンと部屋とを隔てるドアが唐突に開いた。
 やはり私の頭は機能低下していた。ドアが開かれる前から、そのわずかな隙間からキッチンの明かりが漏れていたのに。最初に覚えた違和感の正体は、おそらくそれだったのだろう。だが、闇に慣れた私の目には、キッチンの光量でもまぶしすぎた。思わず苦痛のうめきを上げる。

「起きてるか?」

 ドアを開けた何者かが、気遣わしげにそう声をかけてきた。背後から光を受けているために、その姿は黒い影のようにしか見えなかったが、その声音だけで誰なのかはすぐにわかった。わかったが、なぜそこにいるのかがわからなくて、私はひどく困惑した。

「吉野……なんで……」

 私の声は小さくしかも掠れていたが、吉野の耳には届いていたと思う。しかし、彼はそれには答えず、逆に「ここの電気、つけてもいいか?」と問い返してきた。拒む理由もないので「いいよ」と言った数瞬後、白い光が頭上から降り注ぐ。私は顔をしかめて目を閉じた。

「具合はどうだ? 関節痛とかあるか?」

 薄目を開けると、驚くほど近くに吉野の顔があった。私が目を閉じている間にベッドのそばに来て膝をついたらしい。その表情は、私のほうが逆に〝おまえこそどうだ?〟と訊き返したくなるくらい憔悴しきっていた。

「いや、それはないけど……なんでおまえがここに……?」

 体調こそ悪かったが、昨夜も私はいつもどおり、玄関の鍵もU字ロックも掛けた。このマンションの合鍵は、私の両親しか持っていない。普通に考えれば、今ここに吉野がいるはずがないのだ。

「ああ、それか」

 合点がいったように吉野はうなずいたが、なぜか決まり悪そうに目をそらせ、がしがしと頭を掻いた。

「知り合いの鍵屋呼んで、ここの鍵、開けさせた」

 吉野の答えは私の意表を突きすぎていた。どうして花火師が、とは思わなかったが、部屋の住人の依頼でなくても開けてしまうのかと、セキュリティ面で不安になった。

「いや、いくら携帯かけても、おまえ全然出ないから!」

 その感情がそのまま顔に表れていたのだろう。あわてて吉野が弁明する。

「おまえが大学にも店にも来ないなんておかしいから、もしかしたら家でぶっ倒れてるんじゃないかって、いろいろ用意して様子見に来たんだ。呼び鈴、何度も鳴らしたんだぞ? 聞こえてたか?」

 私は黙って首を横に振った。まったく気づかなかった。ちょうどノンレム睡眠に入っていたのだろうか。

「さすがに玄関ドア、ぶち破るわけにもいかないし……管理会社やおまえの親に連絡とるより、鍵屋に事情話して開けてもらったほうが早いと思ってそうしたんだよ。そいつも今回は特別だって言って仕事した。中入っておまえ見て、断んなくてよかったって言ったよ。俺は……」

 そこで吉野は言葉を切り、眉間に皺を寄せてうつむいた。

「一瞬、心臓が止まった――」
「そんな、大げさな……」

 私は苦笑しかけたが、吉野に上目遣いで睨まれ、声を失ってしまった。

「いくら声かけたって、おまえ、全然起きなかったんだぞ?」

 そんなはずはない。私は何度か目覚めていたはずだ。そう反論したかったが、吉野がいつここに来たのかもわからなければ、いつ保冷枕が頭の下に置かれたのかもわからない。携帯が鳴っていたことだけは、途切れ途切れに覚えているのだが。

「吉野……おまえ、いつここに……?」

 ふと思いついて訊ねると、吉野はふてくされたように「四時」と答えた。とすると、吉野はもうここに四時間はいることになる。

「あ……でも、バイト……」

 確か、今日は夕方から入ることになっていたはずだ。だが、吉野は私の顔を見て、今度は深く嘆息した。

「シフト入れ替えてもらった。今日、ここに泊まってくから」
「え?」
「明日の朝、タクシー呼んで病院に行く。インフルエンザじゃなさそうだが、医者が処方した薬のほうが効くからな」

 予想外の発言だった。そのときの私の頭の中には、病院に行く選択肢などまったくなかったのだ。

「いいよ。病院なんか行かなくても。もう一日くらいここで寝てたら勝手に治るよ」

 これ以上、吉野に迷惑をかけたくなかったというのもあったが、正直に言えば、身支度をして出かけるのが面倒だった。
 しかし、そんな私の怠惰な本音など、吉野には簡単に見抜かれてしまう。しばらく呆れたように私を見ていたが、ふとその表情が真剣なものに変わった。

「なあ。携帯にも出られないくらい弱る前に、俺に連絡してくれよ」

 無言で吉野を見つめ返す。私の体調を訊ねてきたときのように、吉野のほうが私以上に弱っているように見えた。

「きっと、昨日から調子悪かったんだろ? 気づけなかった俺も悪かったが、一言そう言ってくれてれば、もっと早く対処できた。取り返しのつかないことになったらどうするんだよ」

 そんな大げさなとまた言いたくなったが、吉野は今にも泣き出しそうな顔をしていた。私が初めて見る吉野だった。

「おまえに呼ばれれば、俺はいつでもどこでもすぐに行く。だから、俺以外誰も呼ぶな」

 よく考えれば、おかしな理屈だった。そこは〝誰でもいいからすぐに呼べ〟ではないのか。だが、そのとき私の口から飛び出したのは、私自身思いもしなかった言葉だった。

「守れない約束、簡単にするな」

 私も驚いたが、言われた吉野はもっと驚いたに違いない。日本人にしては茶色すぎる目を大きく見張っていた。が、どこか寂しげに笑うと、ベッドの縁に手を置いて言った。

「おまえにだけは守れない約束はしない。呼べよ。すぐに行く」

 この頃には、すでに私は両親よりも吉野を信頼していた。しかし、それでも吉野のこの〝約束〟はとても空々しく聞こえた。JAFや鍵屋じゃあるまいし、バイトや講義に縛られている大学生が誰かに呼ばれてすぐに行けるはずもない。
 だが、否定はもうしなかった。たとえ守れなかったとしても、私にそんなことを言ってくれたのは吉野が初めてで、おそらく最後だろう。素直に認めることはできなかったが、嬉しく思ったことは事実だった。

「……わかった。呼べたら呼ぶ」

 精一杯の強がりだった。しかし、吉野は笑みを深めると、何も言わずに私の額を左の指先で撫でた。吉野を欺くのは、入試よりも難しい。
 ――呼べば、いつでもどこでもすぐに行く。
 その日以降、それは吉野の口癖の一つとなり、私はそれをいつのまにか当然のことと思うようになっていた。
 あの日、あのとき、あれが起こるまでは。
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