傷が「跡」に変わる頃には

寺音

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 前に座ったクラスメイトの背中に隠れ、唯香はそっと手に持った鏡を見つめる。手のひらサイズのそれの角度を軽く調節してやれば、自分の左胸辺りには、まだあの傷が写っていた。
 見間違いだと思いたかったのに。唯香は眉間に皺を寄せる。半日が経っても、鏡の中に見える傷は消えてくれなかった。

 どうやら傷は鏡の中だけに現れ、それが見えるのは自分だけのようだ。複数の友人に確認をとったので、間違いないだろう。
 鏡の中の傷は痛々しいが、実際に傷があるわけでもなく痛みもない。いつしか純粋な恐怖と言うよりも、気味の悪さを感じていた。

 唯香は視線を鏡から移動させ、教室を見回す。午後の現代文の授業は、みんな眠気を堪えるのに必死なようだ。欠伸をかみ殺し、頭が不自然に揺れている子もいる。のんきな態度が唯香には腹立たしく感じた。

 黒板の前では、現代文担当の女性教師が教科書の解説をしている。束ねただけの彼女のパサついた黒髪が、チョークを動かす腕に合わせて揺れていた。
 その機械のような声を聞きながら、唯香は再び鏡に視線を落とす。

 左胸の傷は相変わらずそこにある。これが本当に何かに傷つけられてついた傷であれば、時間の経過によってかさぶたになったり治ったり、なんらかの変化がみられるはずだ。しかし、その毒々しい真っ赤な色合いも、握り拳程度の大きさにも変化はない。

 唯香は鏡面を強く親指でこする。何度も何度もこする内、こんなよく分からないものに振り回されていることに、イライラしてきた。消えもしないが、悪化もしていない。こんなもの、別に放っておいても良いじゃないか。これは、左胸に引かれた一本の赤い線だ。傷ではなくそう考えれば、なんてことない。
 ひとまず気にするのはよそう。
 結論付けた唯香は、鏡を机の中に仕舞おうと腕を動かす。

 ふと、後ろの席にいる茉莉が鏡に映った。彼女は少し眠そうに目を瞬かせながらも、必死に手を動かしてノートに書き込みをしている。一生懸命な姿に、唯香の心臓が痛いほど高鳴った。

 すると突然、鏡の中の傷口からと紅い液体が溢れ出た。傷口が開いて、新たな血を吐き出したような。

「ひっ……」
 耐え切れず、唯香の口から小さく悲鳴が漏れた。その瞬間、手からこぼれ落ちた鏡が床に落下していく。
 思わず動かした体が、机の脚を蹴って大きな音を立てた。

本堂唯香ほんどうゆいかさん」
 氷のような教師の声が響く。気だるげで緩い教室の空気が、目が覚めた様に張りつめた。現代文担当の教師、小林京子こばやしきょうこの声は無機質でよく通る。
 クラス全員が唯香に注目する中、小林はローヒールを鳴らしてこちらへと近づいてくる。
 彼女は身を屈めると、机の影に落ちた唯香の鏡を拾い上げた。
 
「そんなに自分の顔が気になりますか? 私の授業よりも」
「い、いいえ。その」
 小林の眼鏡越しの瞳は冷ややかで、唯香は肩をぎゅっと縮めて視線を落とす。クラスメイトから上がる、揶揄うような笑い声がいたたまれなかった。

「――とにかく、鏡を見るのは後にしてください。授業中です」
 小林は鏡を唯香の机の上に乗せると、再び教卓の方へ戻っていく。
 クラスメイトは興味を失くしたように、各々正面を向いていった。

「びっくりしたね」
 耳に甘やかな声が響き、唯香の心臓が跳ねる。自分をいたわるような柔らかい響きは、茉莉の声だ。
 ドロリ。また、あの感覚を覚えて背筋が凍る。
 もしかして、この傷は。
 考えを打ち消すように、唯香は首を軽く振った。

 これ以上考えては駄目だ。しばらく鏡は見ないようにしよう。大丈夫。見ないようにだから。

 唯香は裏返されたまま手鏡を机の中にしまうと、教科書の内容に必死で意識を集中させた。
 痛いはずがない。そう、あれはきっと幻だ。そうに違いない。
 だって私には、傷なんてついていないのだから。
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