上 下
3 / 18

第3話 妻を疑う夫、後宮に未練のある妻

しおりを挟む
 雹華ひょうかは、元々は先代皇帝の妃として後宮入りした。成り上がった父親が浮かれて、娘をゴリ押しした形である。
 しかし、それからたった一年半ほどで、先代は急病にたおれてしまった。

 本来なら、皇帝が身罷みまかると、妃嬪たちは若い身空で尼寺に入るしかない。
 十五歳で新しく立った今上皇帝は、彼女らに同情した。幼い頃に母皇后を亡くし、後宮の妃嬪たちに可愛がられて育った皇帝には、彼女らを尊重したいという思いがあった。
 そして、父皇帝が手をつけていなかった妃嬪に限り、形だけ後宮を出してから、自らの妃嬪として呼び戻すと決めたのである。

 これはかなり異例のことだったし、尼寺に入る方を潔しとして後宮を離れた妃嬪もいた。

 しかし、戻った妃嬪もいた。
 雹華は、戻った方の一人である。例によってあの父親が、一人娘の彼女を惜しんだのだ。

「たった一年とちょっとでは、先帝陛下の目に留まらなかったのは、まあ仕方ない。お前は一人しかいない実の娘だし、せっかく美人なんだし、尼寺にやるのはもったいない! 後宮に残り、次の機会に賭けるのだ!」
 ……というわけである。

 しかし、新皇帝のその対処により、後宮内の勢力図は一変した。
 雹華のような妃嬪たちは「お下がり」「人数合わせ」、そして新たに後宮入りした妃嬪たちは、自分たちこそ「正しい妃嬪」である、という雰囲気になったのである。
「正しい」組がそこここで、「お下がり」組の妃嬪たちを「お姉様」と嫌みったらしく呼ぶ光景が見られるようになった。
 皇帝が妃嬪に同情しすぎるのも、考えものである。

 とにかくそんなわけで、父の言いつけで残ったとはいえ、雹華はかなり肩身の狭い思いをした。
(そもそも、主上は私たちを、恐れながら母や姉の代わりのように思って心配して下さった。だから、お父様が期待するようなことは起こりようがないのよ)
 ため息しか出なかった雹華である。
(でも、だからこそ・・・・・、春燕を侍女にしたのに)

 春燕は、後宮入りする前に雹華が教わっていた家庭教師の、孫娘だった。侍女になりたいというので、一年ほど前に、雹華が後宮に呼び寄せたのだ。
(なのに、彼女は主上の目にとまってしまった。彼女を置いて、私は後宮を出なくてはならなくなった……)

 先帝から今上皇帝に。そして今回、さらに銘軒に下賜された雹華。
 「お下がりのお下がり」になった上に、凶状のおまけつき。
 いよいよ、父は怒るはずである。

 さすがにそこまで詳しくは言えず、口ごもる雹華を銘軒はじろじろと見ていたが、やがて言った。
「とにかく、ご両親が婚礼のために都に出て来られるには、時間がかかるだろ。日取りは余裕を見て決める。まあ、一ヶ月後くらいだろうな」
「はい。お気遣い、ありがとうございます」
 お礼を言う雹華に、銘軒はさらりと言った。
「婚礼までは、独り身を楽しめばいい。俺も暇じゃないんでね」
「……はい」

 食事を終えると、彼は立ち上がった。
「じゃ、出かけてくる」
「え、あっ」
 雹華は一瞬腰を浮かせたが、彼はさっさと出て行ってしまった。

「雹華様」
 背後で低い声がして「ひゃっ」と振り向くと、鈴玉が茶碗を乗せた盆を手にしたまま、額に青筋を立てている。
「何なんですか旦那様は! 妻を迎えた夜に一人で出かけるとか! 一応、もう今日から夫婦なんじゃないんですか!?」
 雹華は彼女をなだめた。
「鈴玉、旦那様はおそらく、婚礼までは夫婦ではないとお考えなのよ」
 鈴玉は盆を卓子に置きながら、つけつけと言う。
「雹華様も怒る時は怒らないと!」

「あのね鈴玉。旦那様はまだ、私を疑ってもいらっしゃるんだと思うの。しょうがないわ、こちらも証明できないのだし」
 雹華は説明する。
「旦那様の立場になってみて。妙な噂のある女を家に置くのよ、不気味でしょ。こうして一緒に食事して下さっただけ、主上から贈られた妻として尊重して下さってる方だと思うわ。ありがたいことじゃない?」 
 鈴玉は口をひん曲げた。
「うぅ……ごもっともですけどぉ……」
「せめて婚礼までに、私の人となりを知っていただいて、それから夫婦になる方がいいと思わない? そう考えると、時間があってホッとするわ」
 雹華は微笑んで見せた。
「今日は緊張して疲れたわ。せっかくだから、早めに休みましょう」


 銘軒めいけんは外に出ると、通い慣れた道をぶらぶらと歩いていった。坊里くかくの門は日没とともに閉まっているが、すぐ近くに行きつけの屋台がある。

 同僚たちは高級料亭などにも出入りしているようだが、彼は庶民向けの店が多いごちゃごちゃした場所で過ごす方が落ち着いた。子どもの頃、そんな場所で暮らしていたせいかもしれない。
 今の家も、そういう場所に行きやすい坊里を選んでいた。

「いらっしゃい。あれ、銘軒さん。いいんですか、少卿様がこんなところに来てて」
 なじみの店主はそんなふうに言いながらも、いつもの酒の瓶をすぐに出してきた。

 少卿、というのはつまり、彼が勤めている衛尉寺という役所の次官である。
 妃を下賜されるのと同時に、彼には辞令が降り、少卿に昇進した。
「形だけの名誉職さ、仕事の中身は全然変わらないんだぞ。いいじゃないか」
 銘軒はへらへら笑いながら、杯を受け取る。

(彼女は美人で、飾っとく分には目の保養なんだがな。さすがにいきなり初日から、毒を盛るような女とひとつの臥牀しんだいじゃ寝られねぇわ)
 彼はそれで、しばらく外で時間を潰すことにしたのである。

 夜半過ぎ。
 帰ってきた銘軒は、家の中に入る前にふと、中院なかにわに回った。
(さすがに、もう休んだか)
 雹華の部屋がある二階を見上げてみる。
 灯りはついていない。

 踵を返そうとした時、何か動いた気がして、銘軒はもう一度目を凝らした。

 二階の格子窓が、開いているようだ。
 夜の闇の中、張り出した縁に、人影がふわりと腰かけた。

(雹華?)

 彼女は欄干にもたれ、夜空を見上げていた。
 白い寝間着がぼんやりと浮かび上がり、まるで月世界の仙女のようだ。
 わずかに身動きした雹華の頬で、何かがちらりと、光を反射する。

 泣いているのだ。

(あっちは、宮城の方角……)
 銘軒は、その様子を見つめながら思った。
(後宮に、思いを馳せているのか)

 しばらくして、ふっ、と雹華の姿は見えなくなった。臥牀に戻ったのだろう。

 銘軒もそっと後ずさり、自分の部屋へ向かう。
(何だあれは。後宮に、未練たっぷりじゃないか! ……しかし、あれだな、主上を本気でお慕いしていたとしたら)
 若き新皇帝は、民想いの上に容姿端麗。繊細で芸事にも優れ、人気が高い。
(真逆の俺のような、繊細さのかけらもない男のところに下げ渡されたわけか。完っ全に、罰だな、これは)
 彼は考える。
(てことはやっぱり、本当にやらかしたってことか? ……しかしそうなると、諦めきれずにブチ切れてもおかしくはない。一度はやってるってことだから)
 銘軒は軽く身震いする。
(おー怖っ。やっぱり、家宝として大切にはするにしても、あまり深く関わりたくないな。向こうもその方が幸せだろう)
 しかし、関わらないも何も、夫婦になるのだ。
(さっさと、心の内を晒け出させてやりたいもんだ。普段、あんなに取り澄ましていられたんじゃ、どんな人間かさっぱりわからない)
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

寡黙な貴方は今も彼女を想う

MOMO-tank
恋愛
婚約者以外の女性に夢中になり、婚約者を蔑ろにしたうえ婚約破棄した。 ーーそんな過去を持つ私の旦那様は、今もなお後悔し続け、元婚約者を想っている。 シドニーは王宮で側妃付きの侍女として働く18歳の子爵令嬢。見た目が色っぽいシドニーは文官にしつこくされているところを眼光鋭い年上の騎士に助けられる。その男性とは辺境で騎士として12年、数々の武勲をあげ一代限りの男爵位を授かったクライブ・ノックスだった。二人はこの時を境に会えば挨拶を交わすようになり、いつしか婚約話が持ち上がり結婚する。 言葉少ないながらも彼の優しさに幸せを感じていたある日、クライブの元婚約者で現在は未亡人となった美しく儚げなステラ・コンウォール前伯爵夫人と夜会で再会する。 ※設定はゆるいです。 ※溺愛タグ追加しました。

貴方の子どもじゃありません

初瀬 叶
恋愛
あぁ……どうしてこんなことになってしまったんだろう。 私は眠っている男性を起こさない様に、そっと寝台を降りた。 私が着ていたお仕着せは、乱暴に脱がされたせいでボタンは千切れ、エプロンも破れていた。 私は仕方なくそのお仕着せに袖を通すと、止められなくなったシャツの前を握りしめる様にした。 そして、部屋の扉にそっと手を掛ける。 ドアノブは回る。いつの間にか 鍵は開いていたみたいだ。 私は最後に後ろを振り返った。そこには裸で眠っている男性の胸が上下している事が確認出来る。深い眠りについている様だ。 外はまだ夜中。月明かりだけが差し込むこの部屋は薄暗い。男性の顔ははっきりとは確認出来なかった。 ※ 私の頭の中の異世界のお話です ※相変わらずのゆるゆるふわふわ設定です。ご了承下さい ※直接的な性描写等はありませんが、その行為を匂わせる言葉を使う場合があります。苦手な方はそっと閉じて下さると、自衛になるかと思います ※誤字脱字がちりばめられている可能性を否定出来ません。広い心で読んでいただけるとありがたいです

国王陛下、私のことは忘れて幸せになって下さい。

ひかり芽衣
恋愛
同じ年で幼馴染のシュイルツとアンウェイは、小さい頃から将来は国王・王妃となり国を治め、国民の幸せを守り続ける誓いを立て教育を受けて来た。 即位後、穏やかな生活を送っていた2人だったが、婚姻5年が経っても子宝に恵まれなかった。 そこで、跡継ぎを作る為に側室を迎え入れることとなるが、この側室ができた人間だったのだ。 国の未来と皆の幸せを願い、王妃は身を引くことを決意する。 ⭐︎2人の恋の行く末をどうぞ一緒に見守って下さいませ⭐︎ ※初執筆&投稿で拙い点があるとは思いますが頑張ります!

婚約者の浮気相手が子を授かったので

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。 ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。 アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。 ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。 自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。 しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。 彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。 ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。 まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。 ※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。 ※完結しました

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ 初夜、夫は愛人の家へと行った。 戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。 「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」 と言い置いて。 やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に 彼女は強い違和感を感じる。 夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り 突然彼女を溺愛し始めたからだ ______________________ ✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定) ✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです ✴︎なろうさんにも投稿しています 私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

処理中です...