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8 逃げない日々
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日本に強制送還されそうになって、ハーヴェステス王国の城から逃亡した私が、数々のピンチを乗り越えて円満に城に帰還してから一ヶ月後のこと。
「城下街に降りてみたいなー」
ぼそっとつぶやいた私に、国王である夫のフェザーが片方の眉を上げた。
「……やっと戻ってきたのに、もうそんなことを言っておるのか」
私たちがいるのは、ハーヴェステス王国の王城、謁見の間の奥の控えの間。
さっきまで、城下街を含む市を治めている市長さんが来ていて、どこそこの工事が終わったとか、犯罪発生状況はどうだとか、近況を報告してくれていたのだ。
今は次の謁見までの休憩時間で、私とフェザーはソファに腰かけてお茶を飲んでいる。
「市長に色々と質問していると思えば、そんなことを考えていたのだな」
「だって、一ヶ月もお城の外に出てないし。そもそもお城を逃げ出す前だって、観劇に行って以来ずーっと街に降りてないじゃない」
「当たり前だ」
フェザーは私を軽く睨む。
もちろん、忘れたわけじゃない。
ウィンガリオンがお腹にいる頃、観劇に行ったその場で暴漢に襲われ、私を守ったメイラーが取り返しのつかない大怪我をしたこと。
「でもフェザー、それで王妃が引きこもってたら、まるで犯罪に負けたみたいじゃないの。騎士の人たちも、あれから申し訳ないくらい綱紀しゅすけ……すくせ……」
「綱紀粛正」
「それ。それをして、二度とこんなことは起こさないって誓ってくれた。彼らも、私が再び人前に出るようになったら、やる気急上昇だと思うな」
フェザーはまだ何か言いたそうだったけど、ちょっと考えなおした風に口をつぐんだ。そして、苦笑しながらこう言った。
「……確かに余も、ずっとそなたを城に閉じ込めておくつもりはない。いずれ公務で出かけることもあろうし、その前にまずは近場で警備体制など確認するのも良いだろう。わかった、何か市内の催し物に合わせて日程を調整しよう」
「あー、うん」
私が微妙な返事をしたので、フェザーはまた片方の眉を上げた。
そして、お茶のカップをテーブルに置いてソファに深くもたれる。
「この際、希望があるなら言いなさい。……目立つのが嫌なのか? お忍びで街に出たいと、そういうことか? 変装などして」
私はえへへ、と笑ったけれど、ふと考えながら腕を組んだ。
「そうね……たった今までそうしたいなと思ってた。『上様』みたいに、街では別の名前を名乗って、別の自分でいるのもいいかなって」
「ウエサマ?」
「でも、今フェザーと話してるうちに、それはちょっと違うなって……」
私は立ち上がると、窓に近寄った。
天空のソレスの力が増しつつある季節、くっきりと外の景色が陽光に照らされている。正門の向こうには、柔らかなグレーの街並みが、緑に包まれて広がっていた。
ここからは見えないけれど、あの街には大勢の人が行きかい、仕事をし、合い間の娯楽に癒され、喜怒哀楽に満ちた生活を送っているはずだ。
日本でもハーヴでも逃げ回っていた私が、窓の向こうやテレビ画面の向こうに見ていた『世間』が、そこにはある。
「大きな行事の主催者とか来賓として、街に出たい……のとは違うのよね。あ、もちろんそれが嫌なわけじゃなくて、実際にそういうことがある時は公務としてちゃんとやるけど」
私は今の気持ちに合った言葉を、考え考え選ぶ。
「変装して、こそこそと街に出たい訳でもない。それじゃあ、逃げ回ってた時と同じになっちゃう。でしょ」
振り向いて苦笑した私を、フェザーはじっと見つめ返した。
そして、優しく微笑んだ。
「そういうことか。わかった、シーゼの希望を叶えよう。護衛のため騎士はつくし、ある程度場所は限られる。時間もあまり長くは取れないが、また次の機会も作ればよい。それで良いか」
「えっ」
ポンポンと言うフェザーに、私は目を丸くした。
「私がどんな風にしたいか、わかったの?」
「大体、な」
フェザーは再びお茶のカップを手に取り、何やら考え事を始めたのだった。
数日後の夕方、私は城下街へと出かけた。
服装だけは街の人のものに近い地味な格好で、でも黒髪は隠さずに。侍女も一人、一緒にいる。数名の護衛の騎士たちも、帯剣はしているけれど私服姿だ。
小さな馬車で街の中心部まで行き、そこで降りた。
黄昏のシャンピに急かされる時刻、街はその日の品物を売りきろうとする商人たちの声でにぎやかで、家路を急ぐ人々も大勢行き交っていた。
私はそんな中を、騎士たちに守られながらぶらぶらと店先を覗きながら歩き始めた。
そのうち、何となく辺りがざわざわし始める。そりゃそうだろう、こちらの人たちの髪は白かそれに近い淡い色で、護衛をつけた黒髪の人間といったら、該当するのは異世界人王妃だけだからだ。あ、息子のウィンガリオンも黒だけどね。
「こんにちはー」
間口二間の煉瓦作りの店の前で、私は声をかけた。向かって右の扉も開け放たれていたけれど、左側もカウンター状になっていて焼き台が据えられ、中にいる人に外から注文できるようになっているお店だ。
「! い、いらっしゃい……ませ」
同年代くらいのほっそりした女性が、私を見て目を見張る。髪をシスターみたいにすっぽりと布で覆っているけれど、後ろから長いクリーム色がかった白髪が垂れていた。
「リージェひとつ下さい」
注文すると、女性は反射的にお玉のようなもので鉄板に生地を落とし、撫でるように薄くのばして焼き始めた。毎日の積み重ねで、考えなくても身体が動くのだろう。
クレープみたいな生地はひっくり返さず、砕いた茶色い砂糖をかけてからくるくると春巻きみたいな形に丸め、ざらっとした紙に包んでくれる。これがリージェだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
ごく普通のやりとりをして、お金と引き換えに焼き立てあつあつを受け取る。
その場でぱくっ、と一口。外側はカリカリ、中はしっとりの生地はほんのり塩味で、そこに半分溶けた甘い砂糖がシャリシャリいって、文句なしに……。
「おいひぃ!」
街では砂糖を塊で売っていて、砕いて使うんだそうで、この細かすぎないところがすごく好みだ。
連れの侍女にも勧めていると、「おうひさまー?」と声がした。
五歳くらいの丸顔の女の子が、開いた扉から顔を出していたのだ。おかっぱ頭が可愛い。
「こら! 大きな声で」
リージェを焼いてくれた女性はお母さんなのだろう、慌てていさめている。私はぴっと片手を上げて、
「はい、王妃ですよ!」
と女の子に返事をした。女の子は「すごーい」と笑う。
何も隠さなくていいって、気持ちいいな。
そうそう、とリージェ屋のお母さんに尋ねてみる。
「あの、この時間から開いている、お酒を飲めるところってあります?」
彼女は「えっ」と目を泳がせてから、はっと顔を上げて鉄板越しに少し身を乗り出した。
「ドゥージ!」
振り向くと、道具箱をかついだ小柄な髭のおじさんがこっちを向いて、私を見たとたん目を丸くして立ち止まった。まくった作業着の腕はがっしりしていて、肉体労働者、という感じ。
「あ、ええと、ドゥージは私の兄なんですが、その」
お母さんはうろたえているのか両手を細かく動かし、そしておじさんに
「この時間に飲めるお店にご案内して!」
と、丸投げした(ポーズも何か投げるような感じだった)。
「お、おお」
おじさんは訳が分からない様子で、とにかくうなずいた。
ドゥージさんに連れて行ってもらったお店は、目抜き通りの一本裏。立ち飲みのパブみたいな所で、その頃には人が集まり始めていた。もしかしたら、あの女の子が情報源かも。
「まず一杯目、って、皆さん何を飲むの?」
尋ねてみると、だんだん面白そうな様子になってきたドゥージさんが代わりにカウンターで注文してくれる。
「王妃様、陛下に内緒でおいでになったので?」
マスターらしき三十代くらいの長髪イケメンが、グラスを私の方へ滑らせながら興味しんしんで尋ねる。
「ううん、ちゃんとお許しもらってから来ましたよー」
言いながらグラスを受け取り、口をつける前に辺りを見回すと、すかさず少し離れたテーブルに寄りかかっていた若いカップルが「乾杯!」という意味の言葉をかけてくれた。
みんながその様子を見ていて、口々にグラスを軽く上げて唱和してくれる。
私も同じ言葉を返し、まずは一口。
……普通にビールだった。私の元いた世界でも各国で楽しまれていたのがビールだったし、きっとこちらの世界にとっても作りやすいお酒なんだろう。
一杯目を一気に飲み干すと、遠慮がちなどよめき。ふー、とグラスを置くと、マスターがグラスと引き換えに、チーズと燻製肉の盛り合わせのお皿を出してくれた。
「お代は結構ですから」
そう言われた私は、軽くマスターをにらんだ。
「特別扱いしないで下さいね」
するとマスターは、一つウィンクした。
「ここでは、初めてのお客さんにはサービスするんですよ。今後とも御贔屓に」
笑顔でうなずき、ふと振り向くと、さっきのリージェ屋のお母さんがエプロンを外しながら駆けつけてきた所だった。
「あ、さっきの。何か?」
びっくりして尋ねると、彼女はおどおどと
「だって、うちのお客さんが王妃様で、ドゥージを紹介して……大丈夫かしらって」
と言いながらエプロンを握り締めた。
「心配してくれたんですね、ありがとう」
何だかとても満たされた気分になった私は、さらに何人かの人と話をしながら二杯目を飲み干し――
その日はそこまでで、ささやかな街歩きを終えた。
「ただいま」
城に帰り、夫婦の居間に入ると、本を読んでいたらしいフェザーはソファに腰かけたまま顔をあげた。
「帰ったか。どうだった?」
私は笑顔を返し、そしてフェザーに駆け寄ると抱きついた。「うぉ」と変な声を上げて彼は私を受けとめ、膝に乗せる。
「あのね。街で流行ってるリージェってお菓子を焼いてもらって食べて、それからリージェ屋のお母さんのお兄さんに教えてもらって、立ち飲みのお店に行って、軽く飲んできた。そのお母さんも心配して来てくれたし、飲み屋のマスターが『今後とも御贔屓に』だって。お店に来てたお客さんが、一緒に乾杯してくれた」
「そうか」
「何だか普通でしょ」
笑う私に、フェザーも微笑む。
「普通で、良かったではないか」
フェザーは、私が何を望んでいたか、本当にわかっていたらしい。
こちらの世界に来て、問題も解決して、もう逃げる必要はなくなった私。けれど、私にとっては日本の街もハーヴの街も『逃げ回った場所』として記憶に残ってしまっていた。
日本には戻れないし、戻るつもりもないけれど、私が私であることを隠さずにハーヴの街に出ることは、日本でできなかったことを取り戻すことでもあった。街に出て誰かと知り合いになったり、街の人と同じものを見たり食べたり。王妃の立場だとできないかな、と思っていたそれを、フェザーは察し、許してくれたのだ。
「もう逃げも隠れもしなくて良いということを、そなたに実感して欲しいというのは、余の願いでもある」
フェザーは閉じた本をテーブルに置き、膝の上に横座りした私の腰に腕を回す。
「それに、過去にそなたの望むような形で街に出た王族がいないわけでもないのだ」
「そうなの?」
「街の人々の生活を知るためにな。その場で行き先を決めて行動するということは、危険な面もあるが、逆に言えば事前に情報が漏れないため安全でもある」
「で、今日みたいにあまり大騒ぎにならないうちに帰れば……ってことね」
フェザーはうなずいた。
「ただし、しばらくはおとなしくしていなさい。王妃がしょっちゅう街に現れるとなれば、よからぬ事を考える輩もいるだろうし、城の者も心配する。王妃が城にいるのを嫌がっているのではないかと」
私はフェザーの頬に額をすりつけた。
「わかった。ありがとうフェザー、すごく楽しかった」
「わきまえた言動はしただろうな?」
「もちろん! 夫婦のアレコレを漏らしたりもしてませんよー」
「……そういうことではないのだが……」
ちょっと呆れ顔の夫に、私は笑ってキスをした。
今日は、とても素敵な一日だった。
でもそれは、ほら、『帰るまでが遠足』って言葉もあるわけで。
こうして、あなたのいる私の居場所に「ただいま」って帰ってきたから、素敵な一日だったって思えたんだ。
【逃げない日々 おしまい】
「城下街に降りてみたいなー」
ぼそっとつぶやいた私に、国王である夫のフェザーが片方の眉を上げた。
「……やっと戻ってきたのに、もうそんなことを言っておるのか」
私たちがいるのは、ハーヴェステス王国の王城、謁見の間の奥の控えの間。
さっきまで、城下街を含む市を治めている市長さんが来ていて、どこそこの工事が終わったとか、犯罪発生状況はどうだとか、近況を報告してくれていたのだ。
今は次の謁見までの休憩時間で、私とフェザーはソファに腰かけてお茶を飲んでいる。
「市長に色々と質問していると思えば、そんなことを考えていたのだな」
「だって、一ヶ月もお城の外に出てないし。そもそもお城を逃げ出す前だって、観劇に行って以来ずーっと街に降りてないじゃない」
「当たり前だ」
フェザーは私を軽く睨む。
もちろん、忘れたわけじゃない。
ウィンガリオンがお腹にいる頃、観劇に行ったその場で暴漢に襲われ、私を守ったメイラーが取り返しのつかない大怪我をしたこと。
「でもフェザー、それで王妃が引きこもってたら、まるで犯罪に負けたみたいじゃないの。騎士の人たちも、あれから申し訳ないくらい綱紀しゅすけ……すくせ……」
「綱紀粛正」
「それ。それをして、二度とこんなことは起こさないって誓ってくれた。彼らも、私が再び人前に出るようになったら、やる気急上昇だと思うな」
フェザーはまだ何か言いたそうだったけど、ちょっと考えなおした風に口をつぐんだ。そして、苦笑しながらこう言った。
「……確かに余も、ずっとそなたを城に閉じ込めておくつもりはない。いずれ公務で出かけることもあろうし、その前にまずは近場で警備体制など確認するのも良いだろう。わかった、何か市内の催し物に合わせて日程を調整しよう」
「あー、うん」
私が微妙な返事をしたので、フェザーはまた片方の眉を上げた。
そして、お茶のカップをテーブルに置いてソファに深くもたれる。
「この際、希望があるなら言いなさい。……目立つのが嫌なのか? お忍びで街に出たいと、そういうことか? 変装などして」
私はえへへ、と笑ったけれど、ふと考えながら腕を組んだ。
「そうね……たった今までそうしたいなと思ってた。『上様』みたいに、街では別の名前を名乗って、別の自分でいるのもいいかなって」
「ウエサマ?」
「でも、今フェザーと話してるうちに、それはちょっと違うなって……」
私は立ち上がると、窓に近寄った。
天空のソレスの力が増しつつある季節、くっきりと外の景色が陽光に照らされている。正門の向こうには、柔らかなグレーの街並みが、緑に包まれて広がっていた。
ここからは見えないけれど、あの街には大勢の人が行きかい、仕事をし、合い間の娯楽に癒され、喜怒哀楽に満ちた生活を送っているはずだ。
日本でもハーヴでも逃げ回っていた私が、窓の向こうやテレビ画面の向こうに見ていた『世間』が、そこにはある。
「大きな行事の主催者とか来賓として、街に出たい……のとは違うのよね。あ、もちろんそれが嫌なわけじゃなくて、実際にそういうことがある時は公務としてちゃんとやるけど」
私は今の気持ちに合った言葉を、考え考え選ぶ。
「変装して、こそこそと街に出たい訳でもない。それじゃあ、逃げ回ってた時と同じになっちゃう。でしょ」
振り向いて苦笑した私を、フェザーはじっと見つめ返した。
そして、優しく微笑んだ。
「そういうことか。わかった、シーゼの希望を叶えよう。護衛のため騎士はつくし、ある程度場所は限られる。時間もあまり長くは取れないが、また次の機会も作ればよい。それで良いか」
「えっ」
ポンポンと言うフェザーに、私は目を丸くした。
「私がどんな風にしたいか、わかったの?」
「大体、な」
フェザーは再びお茶のカップを手に取り、何やら考え事を始めたのだった。
数日後の夕方、私は城下街へと出かけた。
服装だけは街の人のものに近い地味な格好で、でも黒髪は隠さずに。侍女も一人、一緒にいる。数名の護衛の騎士たちも、帯剣はしているけれど私服姿だ。
小さな馬車で街の中心部まで行き、そこで降りた。
黄昏のシャンピに急かされる時刻、街はその日の品物を売りきろうとする商人たちの声でにぎやかで、家路を急ぐ人々も大勢行き交っていた。
私はそんな中を、騎士たちに守られながらぶらぶらと店先を覗きながら歩き始めた。
そのうち、何となく辺りがざわざわし始める。そりゃそうだろう、こちらの人たちの髪は白かそれに近い淡い色で、護衛をつけた黒髪の人間といったら、該当するのは異世界人王妃だけだからだ。あ、息子のウィンガリオンも黒だけどね。
「こんにちはー」
間口二間の煉瓦作りの店の前で、私は声をかけた。向かって右の扉も開け放たれていたけれど、左側もカウンター状になっていて焼き台が据えられ、中にいる人に外から注文できるようになっているお店だ。
「! い、いらっしゃい……ませ」
同年代くらいのほっそりした女性が、私を見て目を見張る。髪をシスターみたいにすっぽりと布で覆っているけれど、後ろから長いクリーム色がかった白髪が垂れていた。
「リージェひとつ下さい」
注文すると、女性は反射的にお玉のようなもので鉄板に生地を落とし、撫でるように薄くのばして焼き始めた。毎日の積み重ねで、考えなくても身体が動くのだろう。
クレープみたいな生地はひっくり返さず、砕いた茶色い砂糖をかけてからくるくると春巻きみたいな形に丸め、ざらっとした紙に包んでくれる。これがリージェだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
ごく普通のやりとりをして、お金と引き換えに焼き立てあつあつを受け取る。
その場でぱくっ、と一口。外側はカリカリ、中はしっとりの生地はほんのり塩味で、そこに半分溶けた甘い砂糖がシャリシャリいって、文句なしに……。
「おいひぃ!」
街では砂糖を塊で売っていて、砕いて使うんだそうで、この細かすぎないところがすごく好みだ。
連れの侍女にも勧めていると、「おうひさまー?」と声がした。
五歳くらいの丸顔の女の子が、開いた扉から顔を出していたのだ。おかっぱ頭が可愛い。
「こら! 大きな声で」
リージェを焼いてくれた女性はお母さんなのだろう、慌てていさめている。私はぴっと片手を上げて、
「はい、王妃ですよ!」
と女の子に返事をした。女の子は「すごーい」と笑う。
何も隠さなくていいって、気持ちいいな。
そうそう、とリージェ屋のお母さんに尋ねてみる。
「あの、この時間から開いている、お酒を飲めるところってあります?」
彼女は「えっ」と目を泳がせてから、はっと顔を上げて鉄板越しに少し身を乗り出した。
「ドゥージ!」
振り向くと、道具箱をかついだ小柄な髭のおじさんがこっちを向いて、私を見たとたん目を丸くして立ち止まった。まくった作業着の腕はがっしりしていて、肉体労働者、という感じ。
「あ、ええと、ドゥージは私の兄なんですが、その」
お母さんはうろたえているのか両手を細かく動かし、そしておじさんに
「この時間に飲めるお店にご案内して!」
と、丸投げした(ポーズも何か投げるような感じだった)。
「お、おお」
おじさんは訳が分からない様子で、とにかくうなずいた。
ドゥージさんに連れて行ってもらったお店は、目抜き通りの一本裏。立ち飲みのパブみたいな所で、その頃には人が集まり始めていた。もしかしたら、あの女の子が情報源かも。
「まず一杯目、って、皆さん何を飲むの?」
尋ねてみると、だんだん面白そうな様子になってきたドゥージさんが代わりにカウンターで注文してくれる。
「王妃様、陛下に内緒でおいでになったので?」
マスターらしき三十代くらいの長髪イケメンが、グラスを私の方へ滑らせながら興味しんしんで尋ねる。
「ううん、ちゃんとお許しもらってから来ましたよー」
言いながらグラスを受け取り、口をつける前に辺りを見回すと、すかさず少し離れたテーブルに寄りかかっていた若いカップルが「乾杯!」という意味の言葉をかけてくれた。
みんながその様子を見ていて、口々にグラスを軽く上げて唱和してくれる。
私も同じ言葉を返し、まずは一口。
……普通にビールだった。私の元いた世界でも各国で楽しまれていたのがビールだったし、きっとこちらの世界にとっても作りやすいお酒なんだろう。
一杯目を一気に飲み干すと、遠慮がちなどよめき。ふー、とグラスを置くと、マスターがグラスと引き換えに、チーズと燻製肉の盛り合わせのお皿を出してくれた。
「お代は結構ですから」
そう言われた私は、軽くマスターをにらんだ。
「特別扱いしないで下さいね」
するとマスターは、一つウィンクした。
「ここでは、初めてのお客さんにはサービスするんですよ。今後とも御贔屓に」
笑顔でうなずき、ふと振り向くと、さっきのリージェ屋のお母さんがエプロンを外しながら駆けつけてきた所だった。
「あ、さっきの。何か?」
びっくりして尋ねると、彼女はおどおどと
「だって、うちのお客さんが王妃様で、ドゥージを紹介して……大丈夫かしらって」
と言いながらエプロンを握り締めた。
「心配してくれたんですね、ありがとう」
何だかとても満たされた気分になった私は、さらに何人かの人と話をしながら二杯目を飲み干し――
その日はそこまでで、ささやかな街歩きを終えた。
「ただいま」
城に帰り、夫婦の居間に入ると、本を読んでいたらしいフェザーはソファに腰かけたまま顔をあげた。
「帰ったか。どうだった?」
私は笑顔を返し、そしてフェザーに駆け寄ると抱きついた。「うぉ」と変な声を上げて彼は私を受けとめ、膝に乗せる。
「あのね。街で流行ってるリージェってお菓子を焼いてもらって食べて、それからリージェ屋のお母さんのお兄さんに教えてもらって、立ち飲みのお店に行って、軽く飲んできた。そのお母さんも心配して来てくれたし、飲み屋のマスターが『今後とも御贔屓に』だって。お店に来てたお客さんが、一緒に乾杯してくれた」
「そうか」
「何だか普通でしょ」
笑う私に、フェザーも微笑む。
「普通で、良かったではないか」
フェザーは、私が何を望んでいたか、本当にわかっていたらしい。
こちらの世界に来て、問題も解決して、もう逃げる必要はなくなった私。けれど、私にとっては日本の街もハーヴの街も『逃げ回った場所』として記憶に残ってしまっていた。
日本には戻れないし、戻るつもりもないけれど、私が私であることを隠さずにハーヴの街に出ることは、日本でできなかったことを取り戻すことでもあった。街に出て誰かと知り合いになったり、街の人と同じものを見たり食べたり。王妃の立場だとできないかな、と思っていたそれを、フェザーは察し、許してくれたのだ。
「もう逃げも隠れもしなくて良いということを、そなたに実感して欲しいというのは、余の願いでもある」
フェザーは閉じた本をテーブルに置き、膝の上に横座りした私の腰に腕を回す。
「それに、過去にそなたの望むような形で街に出た王族がいないわけでもないのだ」
「そうなの?」
「街の人々の生活を知るためにな。その場で行き先を決めて行動するということは、危険な面もあるが、逆に言えば事前に情報が漏れないため安全でもある」
「で、今日みたいにあまり大騒ぎにならないうちに帰れば……ってことね」
フェザーはうなずいた。
「ただし、しばらくはおとなしくしていなさい。王妃がしょっちゅう街に現れるとなれば、よからぬ事を考える輩もいるだろうし、城の者も心配する。王妃が城にいるのを嫌がっているのではないかと」
私はフェザーの頬に額をすりつけた。
「わかった。ありがとうフェザー、すごく楽しかった」
「わきまえた言動はしただろうな?」
「もちろん! 夫婦のアレコレを漏らしたりもしてませんよー」
「……そういうことではないのだが……」
ちょっと呆れ顔の夫に、私は笑ってキスをした。
今日は、とても素敵な一日だった。
でもそれは、ほら、『帰るまでが遠足』って言葉もあるわけで。
こうして、あなたのいる私の居場所に「ただいま」って帰ってきたから、素敵な一日だったって思えたんだ。
【逃げない日々 おしまい】
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