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姫君のコンパス

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 道しるべは、どこにある?





 鬱蒼とした森の奥深く。
 鳥たちのさえずりや葉ずれの音、風が揺らす枝のぶつかり合う音以外、普段は静寂に包まれたその場所が、今日は随分とざわめいている。
 そんな森の中、一人の青年が、今にも倒れそうになっていた。
 華奢な体格を隠すような騎士の装束は、却って細さを目立たせるようでどこか痛々しい。まだ年端のゆかぬ少年が兄の服を無理して着ているような、そんな印象を与える。
 青年は傍に聳える巨木に手をついて、ぜいぜいと肩で息をし、必死で体を支えている状態だ。
 そして先程から、倒れそうな彼を尻目に通り過ぎてゆく者がちらほらといる。彼らは大体、皆一様に鍛え抜かれた体格の良い若者ばかりであった。
「や、やっぱ…無謀、だった…か?」
 自問するように呟いて、しゃがみ込んだところに、何処か遠くの方でドォン、と重厚な音が響いた。
 ゴールを告げる、大砲の音だ。
「あー…終わっ、ちゃったー……」
 そのまま息を整えながら巨木に背を預け、ぼんやりと空を見上げた。
 森の奥、人の人生の及ばぬ高さを誇る木々が両手を伸ばす遥か上空に、微かに見える青い空。
 今の自分のようだ、と思う。
 決して手の届かない、遠い場所。





 その年、王国ヴィダルで一つのお触れが出された。
 それは今年の建国祭の日、王国を取り囲む鬱蒼とした森を、自分の足だけを使って一番に城に辿り着いた者に、王国の宝、国王の一人娘であるリュナ姫を娶らせ、国を継がせるというものだった。
 近隣の国々と殆ど交流のない、お伽噺のような小さな国であっても、それは随分と魅力的な話だったらしい。
 国内外を問わず膨大な数の男性が名乗りを上げた。
 堂々と一番に名乗り出たのは、大国の嫡子以外の王子。
 次には小国であっても王子と名のつく者。
 それから国内外の貴族の次男三男等、跡目を継げない男子たち。
 中には、妻に先立たれたり離縁された、結構な高齢の男性もいた。
 年齢も身分も問わず、という条件が魅力的だったのだろう、そのうち噂を聞きつけた冒険家や、旅の吟遊詩人、魔法使いなどまで現れてくる始末だったが、王はこれらをすべて受け入れた。
 何しろ、魔法も奇術の類も使えない。特殊な道具も一切不可。自分の足だけを使って、という最低限の、そして最大の条件を飲まなければいけないのだから何の問題もない。
 かくして、今か今かと待たれていた建国祭の日が、ついにやってきたのだった。
 が。





 いつしか青年の周囲から人の気配が途絶えていた。
 誰かが一番にゴールしたら、城門で待機している王国騎士団の者が大砲を鳴らす、という決まりになっていたので、自分以外の誰かが城に辿り着いたことは森中に響き渡っている。
 落胆と共に城に向かったか、或いは諦めて自国へと引き返した者もいるかもしれない。
 青年は長い間、空を見ていた。
 静かに息を整え、唇を噛み締めて。
 そこへ。
「お迎えに上がりました、姫君」
 硬質の声が聞こえて、ようやく体を起こす。
「サルト」
 そこには、今一番見たくない顔があった。
「そのようね」
 諦めて立ち上がる。
 サルトと呼ばれた男性は、感心したように素直に称えた。
「リュナ姫、随分なご健闘ですよ。こんなところまで辿り着いているとは思いませんでした」
 面白そうに笑うサルトに青年―――の格好をした王国ヴィダルの姫君はふてくされる。
「どんなに健闘したって、優勝しなければ意味がないわ」
 サルトは何も言わず、静かに微笑むだけだった。


 


 王国ヴィダルに出されたお触れ。
 それには一つだけ問題があった。
 当の姫君が、王の提案に盛大に難色を示したのだ。
「酷いわお父さま! 私の気持ちはどうなるの!? 好きでもない人と結婚なんて嫌よ!」
 大国のような政略結婚の縁談など、姫君には皆無であった。だからこそ王の案は姫にとって青天の霹靂だったのである。
 しかし、腐っても一国の王、父である国王は飄々と受け流した。
「国を治める者、凡人ではいかん。体力も知力も必要だからな、これが一番お前にとって幸せなんだ」
 と言って引き下がらない父親に、姫は叫んだ。
「じゃあ、私も参加するわ! 私が優勝したら、この話はなかったことにして下さい!」
 と、啖呵を切って、今のリュナ姫があるのだった。




「そりゃあね、無謀だったわよ。わかってるわ」
 でも、何もせずにはいられなかったのだ。
 姫の前で馬を操るサルトは国王の腹心の部下で、姫君のお付きだ。
 身寄りがなく、生まれもわからない孤児だったのを国王が拾って育てたようなもので、今では国の重要なことまで任されている臣下なのだが、その生い立ちゆえに、王族や貴族などからは認められない風潮もある。
 サルトは国王の見込み通り優秀で有能な青年に育ち、環境が人を作るということを体現したように気品に溢れ武術にも優れている。
 身分の高い者ほど不満を言うものだが、一部の女性陣には非常に人気もある。
 柔らかそうな淡い金髪に緑の瞳は、冷静沈着な顔を時に崩すと、溶けそうになるほど甘い。
 姫は、サルトが好きなのだ。
 幼い頃からずっとそばで自分を守ってくれたこの人が、好きなのだ。
 兄弟のように育った部分もあるが、彼はずっと臣下としての態度は崩さず姫君を姫君たらんとして扱ってきた。
 決して甘くはなく、けれど丁寧に、今回のお触れ以外ではそうそう我儘を言わない素直で国民にも愛される姫君に育ったことは、サルトの大きな貢献であるとも言われている。
 それはもちろん、リュナ姫にもわかっていて、いつしかそれは淡い恋心に変わっていったのだ。
 だが、それは許されない。
 何処の馬の骨ともわからない者に姫を嫁がせるなど言語道断、という意見は未だ多い。
 人生の道しるべは、森を抜ける時のコンパスのように簡単には行かないのだ。
 否。
 森の中は磁場が狂う場所があって、コンパスさえ役には立たない。
 じゃあ、私の人生の道しるべは?
 リュナ姫の心は、地場が狂った森の中のように混迷中なのだ。





 リュナ姫は、ぎゅっと、彼の背中にしがみついた。
 何も言わず、姫君を軽く振り向いてサルトが問う。
「誰が優勝したか、聞かないんですか?」
「興味ないわ」
 似たような肩書きに似たような肖像画。一々名前を覚えられやしない。
「どうせなら、飛び入り参加の旅の放浪者なんかが優勝して、私を連れ出してくれたらいいんだわ」
 投げやりな姫の言葉に、サルトは笑う。
「さあ、着きましたよ。帰ったら、おそらくすぐに婚礼の準備でしょうね」
 こともなげに告げるサルトにリュナ姫の胸は痛む。彼は、自分のことなど何とも思っていないのだ。
「私が誰と結婚してもいいの?」
 小さく呟いた声は溜息にかき消された。
「何かおっしゃいましたか?」
「別に」
 泣きそうになってぷいと顔を背けると、唇を噛み締める。
 そんな姫君の気持ちとは裏腹に、明るい声が聞こえた。
「お帰りなさいませ、リュナ姫さま」
「お帰りなさいませ!」
 城門を抜けてから、城内の人々が皆嬉しそうに声をかける。
「…?」
 何となく、いつもと違う印象を受けるのは気のせいだろうか。
「…そっか。優勝者が決まる、ってことは、私の結婚が決まるってことだから、当たり前か」
 他人事だと思って、と肩を竦める。
 そう考えながら、大広間に入ると、満面の笑みを湛えた父王が玉座で待っていた。
「おお、リュナ。お帰り、無事で何よりだ。そして―――婚約、おめでとう」
 ぶすっとして、リュナ姫は答える。
「お父さま、気が早すぎますわよ? 私は、まだ未来の旦那さまとやらを見てもいないんですけど?」
 姫の言葉に王がきょとんとしていると、侍従長がやってきて丁重に挨拶を述べる。
「ああ、リュナ姫、お帰りなさいませ。――…それに、サルトさまも、お帰りなさいませ」
 ただいま、と言いかけて、妙なことに気付く。
(サルト、さま?)
 ある意味サルトの直属の上司とも言える侍従長が、サルトを様付けするなんて。
「何だ、まだ言っておらんのか」
 不思議そうに問いかける国王に、サルトは苦笑する。
「興味がないそうなので」
「興味がない!?」
 国王は仰け反るように驚く。
 その態度に驚いたのはリュナ姫の方だ。
「どういうこと? どういうことなの? お父様たちが何を言ってるのかわからないわ」
 何かに化かされているような気分になってきたのは何故だろう。真実が見えないということは、こんなにも不安を駆り立てるのか。
 王は、悪戯をばらすときのような、ちょっと意地悪でちょっと自慢げな顔になった。
「どういうって、簡単なことだ。優勝したのは、サルトだよ」
「―――…!」
 予想もしなかった言葉に、リュナ姫は声も出ない。
「ど、ど、どどどど」
 どうして、と口までもつれてきた。
「お前がサルトを好いておるのはずっと前から知ってたよ」
 父の言葉が、やさしく響く。
「だが、王族などはそのままでは認めんだろう。だから、誰もが納得する手段を講じたというわけさ」
 初めから、リュナ姫のために。
 そう言われれば。
 あれだけ身分を理由にサルトのことを諦めなければと思っていたのに、今回のお触れでは一切の身分を問わずだったのだ。まったくの庶民や、それこそ旅の放浪者が優勝する可能性だってある。ということは自国の民であろうと家臣であろうと参加資格は十分にあるということだ。
 なのに、リュナ姫にはサルトが参加する可能性を、まったく思いつきもしなかった。
「……でも、サルトが優勝する保証はないわ」
 今だからこそ言えることだが、もしかして八百長なのか、と疑心暗鬼になった。
「お父様、まさか私のためにとはいえ、いかさまをしたわけじゃないでしょうね?」
 いくらなんでもそれは親バカに過ぎる。そのような不正は自分のためでも嬉しいとは言えない。
 けれど、サルトは余裕の微笑みで、それこそ王国の女性が黄色い歓声を上げそうな甘い笑顔ではっきりと否定した。
「姫さま、森を一番熟知しているのは私ですよ? 異国の方になど、負けるわけがありません」
 自信に満ちたサルトの言葉に、涙が溢れてくる。
「じゃあ…本当なの……」
 ようやく、ようやく実感が湧いてきた。
 大好きなこの人が、自分の手に入るのだ。
「どうしてもっと、早く言ってくれなかったの」
 興味がないと言った自分は棚に上げて、泣きながらリュナ姫は呟く。
 サルトが悪戯っぽく、答えた。
「お迎えに上がりました、と言った筈ですが?」





 ほら、道しるべは、ここに。
 







      姫君のコンパス・完
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