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桜100% ⑤
しおりを挟む光先輩の宣言通り、春香は二ヶ月も経たない内に彼氏と別れ、そうかと思えば三学期には別の人と付き合っていた。
「……どういうこと?」
聞いていたとはいえ、あたしの理解の範疇を超えている以上、つい言ってしまう。
「告白されたから」
「わかってるわ! そういう意味ちゃうわ!」
と、にわか関西弁でふざけてみせても、春香の本音を聞き出すのは難しい。
はああ、とあたしはわざとらしいくらい盛大な溜息をついてみせた。
「春香も、もっと素直になればいいのにね」
「何のこと?」
訝しげな顔の春香に、答えてなんかあげないんだから。
「何でもないよ」
仕方ない、付き合うか。
いつになったら春香が折れるか、自分の気持ちに気がつくか。
長い目で見ていることにする。
だって、ずっと友達、やめるつもりなんてないからね。
「何で怒られるのかわからないけど、桜は光と仲良くやってるからいいじゃない?」
「ええ、そうですね、おかげさまで」
光先輩は優しい。何一つ文句はない。付き合ってみたら何か違ってたとか、意外な一面を見たとか、そういうのが殆どない。
でも、それが幸せなのかも、わからないんだ。
何か問題がないといけないわけではないのに。
一緒にいても、二人の間にはずっと春香がいて、その距離の分だけどうしても、埋められない気がした。
誰にも言えないけれど。
「長谷川さんって、あなた?」
生徒会の選挙が終わって生徒会長の任期を無事終えた光先輩は、三学期が始まっても新生徒会の役員への引継ぎで毎日忙しい。受験生なのに、自由登校になるまでは当てにされているようだ。
放課後終わるのを待ってると一人の女子生徒が教室に入ってきた。リボンの色は三年だ。
「そうですけど、何か?」
光先輩絡みじゃない筈はないけど、一応今はあたしが正式な彼女である以上、面と向かって文句を言ってきた人はいない。
「ふーん、まぁ可愛らしい」
上から下まで舐めるようにあたしを見て、その人は隣の席に座った。
「まぁこれ、よかったら飲んで」
と、購買の自販機で買ってきたらしいミルクティーの缶をあたしに差し出す。
「……いいんですか?」
「うん、どうぞ。私が勝手に来たんだから手土産ぐらいはいるかなって」
にこっと笑った顔が可愛かった。どうやらおかしな因縁をつけにきたわけではなさそうだ。
「じゃあ、いただきます」
真冬の夕方、暖房もない教室に一人でいると寒かったのは事実で、ホットのミルクティーが結構嬉しかった。
「光くんと、付き合ってるんだよね?」
「……はい」
「いいの?」
「……どういう意味ですか?」
問い返したけど、この人は事情がわかってて来たんだなと思った。
「私ね、二年の時、光くんと付き合ってたの」
「……そうなんですか?」
うんそう、と呟くように答えて、苦笑いした。
「私は、ずっと好きだったから有頂天だったけど、付き合い始めて変だなってすぐ気づいたよ」
「……わかります、けど」
「まぁ、私の時はライバルの存在が目に見えてなかったからね」
ぴし、と指を一本立ててみせて、その先輩は真顔で告げた。
「天野春香ちゃん」
あたしが一切の反応をしなかったのを見て、苦笑いした。
「そうだね、私の場合と違うよね。あなた、天野春香ちゃんの友達なんだって?」
「はい」
「光くんが彼女を作る時は、大抵天野春香ちゃんに彼氏が出来た時なんだって、私も後から知ったんだけど」
そこまで言うと、先輩はさっさと立ち上がって帰ろうとした。
「結局さみしさに耐えられなくなって別れるって言ったのは私の方なんだ」
教室を出て行こうとして、ちょっと身体半分振り返る。
「全部わかってるみたいだから余計なお世話だったようだけど、あなたの顔見たかっただけかも」
あたしも立ち上がって先輩を見送る格好になる。
「まあ頑張って。後悔しないようにね」
「……ありがとうございます」
一体、何に対してお礼を言うのか謎だったけど、ミルクティーの分だけでもいいか、と思った。
あの先輩が言いたいことは嫌というほどわかるけど、今はまだ、光先輩の手を離したくない。
何故か寒さが増した気がして、ちょっと身震いする。
重い気持ちがあたしの胸に押し寄せてきた。
「桜ちゃん? お待たせ」
だから、教室を覗き込んだ光先輩の顔を見て、あたしはほっと笑った。
校舎を出ると急に空が暗くなって、ぽつり、ぽつりと雨が降り始め、やがて数分もしないうちに豪雨になった。
「うわ、やば、傘持ってない!」
「あたしも!」
光先輩はあたしの自転車に乗って、後ろにあたしを乗せると急いでマンションに向かった。どっちにしても土砂降りだけど、少しでも早く帰れたならよしとしていいんじゃないかと思う。
「光先輩、上がってください。ずぶ濡れだし、雨が止むまででも……」
「いや、ここまで濡れたら一緒だから、このまま走って帰るよ」
「でも……」
マンションの一階の駐車場の奥の駐輪場で、あたしの自転車を止めると光先輩は自分の鞄を持って帰ろうとする。
高校生の一人暮らしなのに、光先輩はあたしの部屋に上がったことは一度もなかった。
もちろん何度も誘ったけど、その度に上手く誤魔化されてかわされた。
それがどうしてなのか、考えれば切ない。
そりゃあ、エッチなことばかり考えてるのも困るけど。
あたしのことを思ってくれてるのがわかるから尚更、さみしい。
でもただそれだけでもない。
本当は、光先輩は。
それがわかってしまうから、だからもっとつらい。
「じゃあ、桜ちゃんこそ、早く部屋帰ってお風呂入んなさい。風邪引かないようにね」
「……嫌」
濡れた制服の裾を、ぎゅっと握った。
「桜ちゃん……?」
「風邪、引かないようにって、光先輩の方が……受験生なのに」
涙がこぼれてきた。
「……俺は、鍛えてるから大丈夫だよ」
雨音に掻き消されて、消えそうな声になる。
「帰らないで……!」
あたしは光先輩に抱きついた。
「桜ちゃん……」
ぎゅうっと、振りほどかれないように光先輩の背中に手を回して、しがみつく。
すごく長い時間が経ったような気がした。
でも本当は、ほんの数分だっただろう。
光先輩は、初め戸惑ったように固まっていたけど、そのうち片手であたしの頭を抱きかかえるようにして抱きしめ返してくれた。
お互いずぶ濡れだったけど、そんなことはどうでもいい。
このまま時間が止まればいいのに。
「桜ちゃん……」
光先輩は、濡れて頬に張り付いたあたしの髪を払って、そのままあたしの顔を上に向かせると、そっと唇を合わせた。
(……つめたい)
意識が遠くなるような、誰もいない世界にいるみたいな感覚。
「……! 桜ちゃん……!」
光先輩は、我に返ったようにあたしの頭をつかんだまま、まっすぐに顔を覗いてきた。
「桜ちゃん……熱があるよ」
え。
それから、ふ、と記憶が途切れた。
かちゃ、かちゃ、と音がする。
テレビ付けっぱなしで寝ちゃったかな。母にばれたら叱られるな。
ぼんやりと頭の隅で思っている。
あれ? これ夢か?
でも寝てる筈なのに何か寒いよ。布団の感覚もあるし毛布にもくるまってるけど、震えている気がするのも、夢?
だったら目覚めればいいじゃない。
目が覚めたらきっと、夢だってわかるんだから。
「……あ、起きた?」
やけに重たい目をようやく開けたあたしの視界に入り込んできた人を。
理解するのに時間がかかった。
「大丈夫……?」
高すぎないアルトの声。柔らかそうな髪がはらりと頬にかかる。
「……――春香?」
「ごめんね勝手に上がりこんで。光から電話もらってチョコちゃんに車出してもらったの。まだ雨止まないし」
聞こえてくる言葉の意味を、一生懸命理解しようと努める。何だか酷くぼんやりとしてしまって、まだ半分夢の中みたいだ。
でも春香がいることだけはわかった。
そしてそれがやけに安心感をもたらしたことにも。
「まだ熱あるからちょっと寝た方がいいよ。あたしいるから」
「……うん……」
「あ、お腹すいたらおかゆあるからね。チョコちゃん作だけど」
「……うん……」
どうして何でもないように。
やさしくしてくれるの。
光先輩はきっと、何も言わずに春香と入れ替わりで帰ったんだろうけれど。
何だか自分が酷く嫌な女になってしまった気がして、あたしは泣けてきた。
「ど、どうしたの桜? しんどい? やっぱ病院行った方がいいんじゃない? チョコちゃん呼ぼうか?」
「ううん……大丈夫……」
「でも」
慌てる春香の手を掴んで、どこか朦朧としたままあたしは泣きじゃくった。
「ここにいて……」
「……うん」
気づいてしまった。
あたしは、光先輩が好きだ。
でも、春香の方が、もっと好きだ。
そして、春香のことを好きな光先輩が、好きなんだ。
あたしを好きになってほしい気持ちは嘘じゃないけど、でもそれは駄目だってどこかで思ってる。
あの、光先輩の元カノの気持ちは、半分わかるけど半分はわからない。
あたしはきっと、春香をなくしたくない。
ずっと、友達でいたいんだ。
泣き疲れて眠ってしまうまで春香はそばにいてくれた。
そのままうちに泊まって、翌朝あたしの体調を確認してから学校に行った。
「桜は休みなよね、先生には言っておくから」
「うん、ありがとう」
あたしの心はもう、決まっていた。
答えを出したんだ。
再び春が訪れて、とは言ってもまだ寒い三月。
あたしはまだ蕾も見えない桜の木の下で、人を待っていた。
まだ桜が咲くには一足早いけど、美しい花を咲かせる時を楽しみに待っている。
ここに来ると、光先輩と初めて逢った時のことを思い出す。
あれから一年近くの日々が過ぎて、今日は三年生の卒業式だ。
卒業生代表で答辞を述べた光先輩は、やっぱりカッコよかった。
卒業生のみならず在校生まで、あちこちからすすり泣きが響いて、文字通り光先輩は学校の伝説になりそうな気がした。
(意外に天然なのにね)
そして、何よりも一途なのに。
「桜? どうしたの、わざわざこんなところに呼び出して」
春香があたしを探しに来た。
「もうみんな帰った?」
「大体。でも部活の送別会とかやってるところはまだいるみたいだけど」
「そっか、そういうのも青春でいいね」
桜の木に凭れて、しばらく余韻に浸ってみる。卒業したのはあたしじゃないけど、もう四月からは学校のどこを探しても光先輩はいない。
「あたしに用があったんじゃないの? 誰か待ってるの?」
春香は不思議そうに所在無さ気にしている。
「春香もいてよ」
「いいけど……」
きっと時間がかかるだろうなと思っているから、かなり居残りになってしまったけど、どうしてもこの場所がよかったんだ。
まぁ、怖い先輩に呼び出された場所でもあるんだけどね。それはそれでいい思い出、かも。かな?
「桜ちゃん? ご、ごめん、遅くなって……」
現われたのは、当然、光先輩だった。
「光……」
そこで春香はやっと気づいたようで、はっと光先輩とあたしの顔を見比べた。
「あたし、席外した方が、いいよね」
声が、微かに上擦っていたのを聞き逃さなかった。
「何で? いてって言ったじゃない」
「そうだけど……」
動揺を隠せない春香。
何やら酷く疲れた様子の光先輩は気にする素振りもなく、息を整え笑顔を見せるとあたしたちに近づいて来る。
「よかった、桜ちゃんが声かけてくれて。最後だから、一緒に帰りたいと思ってたんだ」
うーん、最後までそんな殺し文句を言いますか。
「……光先輩……全滅ですね、ボタン」
疲れて見えたのは表情だけじゃなく格好のせいもあったようだ。ブレザーの制服はボタンなんて三つしかないのに全部もぎ取られているし、袖口の飾りボタンまでない。おまけにネクタイも締めてないところを見ると、言い方は悪いが誰かに取られたんだろう。
「ズボンのボタンまで引っ張られそうになって、慌てて逃げてきちゃったよ」
「ええ……みんな勇者だなぁ……」
そう言いながらも笑顔なのが先輩らしい。
「そういうのは普通、彼女に取っておくもんじゃないの?」
春香が厭味を言う。
「そ、そうだな、ごめん桜ちゃん」
「いいですよ」
思い出の品はいらない。それって片思いだったりするからこそほしいと思うものなんじゃないかな。まぁ、あたしもある意味片思いだけど。
あたしは姿勢を正して先輩に向き合う。
「光先輩、改めまして卒業おめでとうございます」
「ありがとう、桜ちゃん」
「……おめでとう」
つられて、春香もぼそっと呟く。
「ありがとう春香」
こんな嬉しそうな光先輩、久し振りに見る。春香が今はフリーだからかな。
「光先輩は覚えてないかもしれないけど、初めて話したのここなんですよ」
「それは覚えてるよ、もちろん」
それがなかったら、きっと春香とも仲良くなってないし、光先輩とも知り合えてないかもしれない。
「光先輩、今までありがとうございました」
「……こちらこそ」
光先輩は、清々しい顔をしたあたしに何か感づいたようで、ふと表情を曇らせた。
「今日は先輩の卒業式だけど、あたしも今日で先輩を卒業します」
だから、別れてください、と小さな声で付け加えた。
「え、桜、何言ってんの?」
何故か春香が動揺する。光先輩は予感していたみたいだった。
「そっか……。じゃあほんとに、今までありがとう、だね」
光先輩は言葉を探して、ゆっくりとそう言った。ごめんと言いたかったんだろうけれど、それはきっとあたしに対して失礼だと思ったんだろう。
あたしが熱を出した日から、何事もなかったように過ごした。
受験が終わった光先輩とは何度もデートをしたし、たくさんの思い出を作れた。
でも、あたしの中で、それらはすべて光先輩の卒業式までって決めていた。
光先輩には、本当に、幸せになってほしいから。
足枷にはなりたくない。
「大学行ってもお元気で」
「ありがとう桜ちゃん」
光先輩は全部理解したように、手を差し出してきて、あたしはしっかりと大きな掌を握った。これで最後だとわかった。
さみしそうな、切ないような顔をしているのは、少しはあたしのことを思ってくれていたということだろうか。
勝手だけど、そう思っていてもいいかな。
「じゃあ……――さようなら」
顔を上げて、踵を返す。
桜吹雪の舞う春の日に呼び止められたあの日の映像が、昨日のことみたいに脳裏を流れて。
桜が咲くたびにきっと、思い出してしまうんだろうけど。
そして思い出すたびに、胸を痛めたりするんだろうけど。
それでも、あたしは最善の決断をしたと思う。
四月からは、この学校のどこにも光先輩はいない。
だからこそ、あたしはここで精一杯の花を咲かせるよ。
光先輩と春香が、後ろから見つめているのを感じたけれど、春香がそれで素直になるのかはあたしにはまだわからなかった。
それでも、ずっと見守っていようと思う。
だって絶対、友達やめてなんかやらないんだからね。
まだ蕾もつけていない大きな桜の木が、あたしを見下ろしてエールを送ってくれているような気がした。
いつも、いま、ここで、あたしの百%が咲くように。
満開の桜に負けないように。
生きていくよ。
桜100%・完
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