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ビター・スウィート~苦くて甘い、恋の味~(スウィート・ファミリーズ場外編)

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 単純に気が変わったとか、そんなふうにとられると困るんだけど。
 でも、気持ちが変わるのは簡単だった。そんな自分に戸惑った。
 でもそれだって、簡単な、甘い恋じゃなかった。
 ……あたしが莫迦なだけか。



 バレンタイン目前の共学高校は結構賑わっている。彼氏がいる子もたくさんいるし、好きな人の話題だって事欠かない。二年B組の教室も例外ではなく、毎日のようにバレンタインと、それにまつわるチョコレート他プレゼントの話題が飛び交っている。
「ねー、理美りみはどうすんの、チョコ」
「……義理オンリーですが何か?」
 事情を知らないクラスメイトの能天気な声に、やさぐれた気分で返すと、事情を知ってるクラスメイトが面白そうに説明を始める。
「あー、駄目駄目、市原は失恋したばっかだから」
「え、そうなの? ごめーん」
 初めに聞いたクラスメイトはさらっと謝ったが、とてもごめんと思っている口調ではなかった。女子高生の友情なんてこんなもんか。
「バレンタインに告る気満々だったのに、憧れの先輩に彼女ができちゃったんだよね」
「うるさーい! まだ新しい傷を抉るなー!」
 がたんと席を立って怒鳴ったのに、笑い声は大きくなるばかりだ。
 あたし―――市原理美は諦めて鞄を手に取った。もともと放課後、暇な連中が集まって雑談していただけで、いじられてまで残ってやる義理はない。とっとと帰ろう。
 教室のドアから出ようとすると、部活が終わったのかクラスメイトの男子とぶつかりそうになって――――心臓が跳ね上がった。
「うわ。あー市原か、ごめん、危なかった」
「……こっちこそ、ごめん、向井」
 向井そうというこの男子は、今あたしにとってちょっと困った存在だ。
「市原、帰んの? ちょっと待って、俺も帰るから駅まで一緒に行こうぜ」
 だからそういうことを、どうして平気で。
「いいけど……」
 そして断れないあたしも、どうなっているのやら。
 あたしが失恋したばかり、という話題を提供したせいか、教室の中でまだ囀っている女子たちは不審にも思ってはいないようで、ほっと胸を撫で下ろす。
 何か勘繰られたり、冷やかされたりしたくない。
 でもそう思ってしまうことが、もう既に後ろめたい。
 向井奏は特別だ。
 あたしたちは小さな秘密を共有している。
 それは事実関係だけなら二人だけの、というほどのことではなのかもしれないけれど。
 少なくともあたしにとっては、誰にも言えない、言いたくない、秘密だ。



 高校に入ってから密かに憧れていた先輩は、サッカー部のレギュラーで、カッコイイのにあたしが知ってる限り彼女はいなくて。だから先輩の受験が終わるバレンタインには告白しようと決めていた。
 今思えば間抜けな話だけど、何となくどこに呼び出そうかと校舎裏をうろうろリサーチしていた時だった。
 誰もが知ってるようなベタな場所は駄目だよね、でもわかりづらくて来れなかったり面倒くさいと思われるような場所も論外だし。そんなことを考えながらクラブハウスの裏手に回ると――――そこに先輩がいた。
 え、ちょっと待ってこれってラッキー? バレンタインまで待たずに今ここで告っちゃえってこと!?
 浮かれたあたしは本当に莫迦だと思う。思うけど、そんな考えが浮かんでも仕方ないシチュエーションだったと思わない?
 どうしよう、どのタイミングで出て行こう、なんて妄想と躊躇の境でぐるぐるしつつ、よし、と一歩踏み出す直前になって、やっと気づいた。
 先輩は一人じゃなかった。
 先輩の背中が影になってよく見えなかったけど、先輩の向こうに見えるのは明らかに女子生徒の制服で。
 そして、角度から言って二人は――――キスをしていた。
 がーんと漫画みたいに頭を殴られたような衝撃が走って、でも動揺しすぎて動けなくなってしまって、早くこの場を去らなければ、とそれでも僅かに冷静さが残っていたのか極力物音を立てないようにくるりと振り返った。
 そこで向井に逢った。
 あたしの動揺はもっと肥大した。
 だって。
 どうしてこのタイミングで。
 何で泣いてるところなんか。
 今ここで口を開いたら、先輩たちに気づかれる、というのもあったけど、それ以前に必死で堪えてる嗚咽に変わるから嫌だ、という気持ちの方が強かった。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 あたしが固まったまま動けないでいると、向井はちらっと先輩たちがいる方を見て、それからあたしを見て、そしてあたしにぐっと一歩近づいた。
 と思ったら、耳元で声が響いて思わず首が縮まった。
「ごめん、嫌かもしれないけどちょっと我慢して」
 低い声でそう囁かれて―――もちろん向井は囁いたつもりなんかなくて、声を潜めただけの話だけど―――あたしは更に脳内パニックで一切の反応ができなくなってしまった。
 そして向井はクラブハウス脇の垣根にあたしの背中を近づけさせて―――そのままあたしを抱きしめた。
「……!!」
 内心、ぎゃーっと叫びたい心境だったけど向井の意図はすぐにわかった。
 先輩たちから見えないように、あたしを隠してくれたんだ。
 案の定、先輩と彼女がこっちへ向かって歩いてくる気配がして、それから垣根の影で抱き合ってる(ように見える筈の)あたしと向井に気づいて息を潜めるように離れていったのがわかった。
 どのくらいそうしていたんだろう。
 失恋直後、しかも彼氏いない歴十七年、それまで意識したことなかった男子に抱きしめられるという貴重な(?)体験は、あまりにインパクトが強すぎて、ものすごく長い時間だった気がするけど、実際には二、三分といったところなんだろう。
 先輩たちが去って話し声も聞こえなくなった頃、ようやく向井があたしを離した。
「……ごめんな。大丈夫?」
 その言葉にはいろいろな意味が込められていると思った。
「大丈夫、でもないけど……ごめん、向井のシャツ濡らした」
 きっと部活の後着替えたばかりだろうに、ブレザーの中のシャツが一部分、あたしの涙で染みになっている。
「いいよ、こんくらい。別に色がつくわけじゃないし……市原、化粧しないんだな」
「うん、みんなみたいに上手にできないし」
 抱きしめられていた体は離れたのに、同じ場所で同じ距離を保って、何だか非日常な会話をしてる。
 あたしは今まで知らなかった男の子が目の前にいるような気分だった。
 向井は確か剣道部で、すらりとほどよい長身で、高すぎない辺りがいい感じ。細身なのにさすが運動部というべきか引き締まってて、失恋したばかりのくせにちょっとどきどきした。免疫がないんだから仕方ないでしょ? ないよね?
 それまで意識したことはないけど、結構人気があるのも知ってる。
「部活、終わったの?」
 いつも運動部にしては早い時間に切り上げている。
「うん。俺バイトしてるから。うちの剣道部激弱だから時間短いし、バイトもオッケーなんだよね」
 弱いのならもっと練習した方がよさそうなものだが、諦めなのか。或いは顧問の都合だったりするかもしれない。
「そうなんだ」
 意外に進学校のうちの高校は、でも意外なほどオープンで自由な校風だ。頭のいい子は外に出てもあまり無茶をしない、という暗黙の了解があるようで、夜十時までという制限つきだが夜間のバイトも結構自由だ。
「市原、帰るなら一緒に帰る? 駅までだけど」
 あたしの心情とか、いろいろ考慮してくれたんだろうというのは気遣った表情でわかった。一人で帰って先輩に鉢合わせしたらとか。でも余計なことを一切言わない向井の関わり方が、あたしにはとても心地よかった。
(嫌かもしれないけど)
 あたしを助けてくれるためなのに、そんなことまで前もって言える高校生男子はそういないんじゃないだろうか。そりゃあ、どう見てもごめんなさい無理です、って思ってしまうような男子だったら、厳しいものがあるかもしれないけれど。
 残念なことに向井はそこそこ見栄えもよくて、ずるい、と思う。
(女の子慣れ、してるっぽい)
「あの……あのさ、向井は彼女とか、いるんじゃないの?」
 あたしと二人でいるところとか見られても大丈夫? という暗に含ませた視線に向井は気づいて、ひらひらと手を振った。
「いないよ。部活とバイトで手いっぱい」
 その笑顔にほっとして、抱きしめられたことに対する後ろめたさは小さくなった。
 それからあたしたちはよく話したり、時々駅まで一緒に帰ったりするようになった。
 


「部活の後でバイトってしんどくない?」
 教室でぶつかりそうになった帰り道、前々から思ってたことを聞いてみる。
 向井はあっさりと否定した。
「そんな肉体労働じゃないし。体力は有り余ってるから全然平気」
「何か欲しいものでもあるんだ?」
「そういうわけでもないけど、うち男ばっか四人で兄貴は大学だし下に弟二人いるから、自分の進学費用くらい少しは稼いどこうかなって。欲しいもの出来た時のためでもあるけど」
「えー、偉いなぁ!」
 純粋に賛嘆の言葉が口をついて出ると、向井は照れたように話題を変えた。
「市原はバイトしてないの?」
「うちね、パン屋なの。だから休みの日は手伝ってる。朝早くて結構きついんだけど」
「え、そうなんだ。そっちの方がずっと大変じゃん」
 向井は目を瞠って、感心したように微笑んだ。
「うん、でもあたしもパン好きだし……うちは向井んちと反対で三姉妹だから、お店継いでもいいなって思ってるんだ」
「へえ……偉いな」
「そうでもないよ。とりあえず進路に悩まなくて済むから、安直といえば安直だし」
「でも、何かやりたいことがはっきりしてるのって、いいと思うよ」
 俺は迷ってるな、と小さく呟いた。
 向井は話題を変えるようにあたしを見て、ちょっと逡巡してから口を開く。
「あのさ、市原、例の先輩はもう吹っ切れたの?」
「え、向井まで傷を抉るか?」
 女子生徒のノリで突っ込んだら向井は慌てたように手を振る。
「いや、ごめん! そんなつもりじゃなくて! ……三年生いなくなったから、ちょっと思い出したっていうか」
「……そうだね。あたしってつくづく間抜けだよ」
 そう。バレンタインに告白、なんて思ってたのに、よくよく考えたら三年生は二月に入ると自由登校になってしまうのだった。そして今年のバレンタインデーは登校日でもなく、一、二年生すら学校には来ない、土曜日だということも、すっかり失念していた。
「でもさ、告る前に失恋してよかったかも。だって結局あたし先輩のどこが好きだったか、わからないんだよね」
 初めはぶっちゃけ顔が好みで。それからサッカーしてるところがカッコイイとか、そんなレベルで。正直、まともに個人的な話すらしたこともない。
「……まぁ、でもそんなもんじゃない? 好きなタイプってどうしてもあるし理屈じゃないだろ」
 向井の返答は大人で優等生。そんなの本当の恋じゃないとか、お決まりの台詞は言わなかった。
 そしてふと思った。
「……向井も、好きな子いるんだ?」
 理屈じゃなく好きになったような、女の子が。
「ああ……うん、一応」
 照れたようにふいっと顔を背けて、それでも肯定した向井に、あたしは酷くショックを受けてしまった。
 それきり言葉が出なくなる。
「理美ちゃん、バイバーイ」
 追い抜きざま、可愛く笑って手を振っていったのは、同じクラスの女の子。
「あ、妃名子ちゃん、バイバイ。また明日ね!」
 妃名子ちゃんの隣には、隣のクラスの天野くん。
「紘人、じゃあな」
「おう」
 向井が天野くんに手を振って、それからあたしを見て肩を竦めた。
「あいつら、いいよな。仲良くていつも一緒だし。佐倉さん可愛いし」
 それは何気ない一言だったんだろうけど、胸がちくりと痛んだ。
 まさか今の衝撃の発言の相手が妃名子ちゃんだなんてことはないと思うけど、好きな子がいるという事実と、誰もが認める妃名子ちゃんの可愛さを向井が褒めたことが、あたしの胸を痛めさせた。
 向井はあの二人が付き合ってると思って言ったのかもしれないけど、あたしは真実を知っている。天野くんと妃名子ちゃんは幼馴染で、妃名子ちゃんは天野くんのことが好きで、そして間違いなく天野くんも妃名子ちゃんのことが好きだろうけど、二人はまだ付き合ってはいない。
 いいよな。いいよね。
 羨ましいと思ってしまうのは、隣にいても遠く感じてしまったからだろうか。
 そして向井も、あたしじゃなく違う誰かが隣にいて欲しいから。
 そう思うと、とても、とても苦い。
 そうなんだ。
 抱きしめられたから、ということだけではないと思いたいけど、それだけあの出来事は大きくて―――あれからあたしは向井のことが気になって仕方ない。
 好きになって、しまったんだ。



 前日の十三日の金曜日に悪友たちに友チョコを渡し、何の予定も入れなかったバレンタイン当日、遅寝を決め込んでベッドの中でごろごろしつつ、悶々としていた。
 休みが終われば月曜日、何事もなかったように過ぎ去る筈なんだ。
 なんだけど。
「理美、まだ寝てるの? 体調でも悪いの?」
 珍しく店の手伝いに降りてこないから心配したのか、母が朝一番の仕込みを終えた頃に様子を見に来た。
「大丈夫。今日はちょっとゆっくり寝たい気分だっただけ。……朝ご飯食べたらお店入るよ」
 むっくりと起き上がって母に告げると、母は、あっと思い出したように声をあげた。
「あ、じゃあね、ちょっとお遣いに行ってきてくれない? ほら、今日ってバレンタインデーでしょ? あのお洒落なケーキ屋さん、あるじゃない、テレビに出てた」
 パパにチョコ買ってきてよ。
 何故かどこか嬉しそうな母にあたしはしばらく沈黙してしまった。
「……あのぅ、母? うちはパン屋で、うちも多少バレンタインにあやかった商品とか、作ってませんでしたっけ?」
 チョコがけのラスクとか、チョコテイストのパン特集とか、ちょっとしたコーナーまで設けているのに、わざわざ都内までカリスマパティシエが経営するケーキ屋へ行けというのは何故。それほど遠いわけではないけど、電車でそこそこかかる距離だ。
 高校二年生の娘から見ても何だかいつまでも可愛らしい母は、ぷうっと口を尖らせた。
「だってうちの商品は全部パパが作ってるじゃないの。パパにあげるチョコを店の残り物にするわけにいかないでしょ?」
「じゃあ自分で行けばいいじゃん」
「ママがお店空けたら不自然でしょ!」
 あくまでもサプライズを演出したいらしい。
 どうでもいいけど、いい加減子供たちが呼ばなくなったパパママという呼称を自分たちで呼んでいるのもおかしな話だ。でもそんな母が可愛いとは思う。
 そしてそこで、あたしははっと閃いた。
「わかった……! あたしからも父にチョコ買ってあげるよ」
 そう言って飛び起きると急いで着替える。お店の残りのパンで遅い朝食を済ませたら、きっとちょうどケーキ屋さんの開店時間にいい頃合いだ。
「まぁ、パパが泣いて喜ぶわよ」
 背後で我がことのように喜んでいる母には悪いけど、あたしは密かに小さな決意を胸に秘めていた。
 向井に、告白する。
 駄目元でいい。向井が迷惑そうだったら、この前助けてくれたお礼ってことでいいじゃない。
 先輩に告白できなかった不完全燃焼な気分を、再び味わうのは嫌だ。
 お財布の中身を確認して、少し足りなさそうだったのでとっておきのへそくり貯金箱を開ける。その様子を横目で見ていた母は何か感じるものがあったのか、父のチョコレート代とは別に余分にお金をくれた。
「理美も、年頃だもんね。チョコあげたい男の子ぐらいいるでしょ?」
 かぁっと、一瞬で赤くなったであろう頬を隠すのは難しくて、あたしは照れ隠しのように乱暴に階段を下りて行った。



 勢い込んで勇ましくやってきたはいいけれど、お店の前で気後れしてしまった。
(な、何だこの賑々しさは!)
 電車を降りて、ちょうど駅前にあるお洒落なお店はケーキ屋と一言で表現するのは憚られる、スウィーツのお店。今時だったら何だろう、そうだ、パティスリーとかいうやつ? 店長さんは巷で噂のカリスマイケメン独身パティシエとかで、最近はテレビや雑誌でも話題になっている人だ。
 そのせいなのかどうなのか、お店はすごく繁盛しているようだった。若い女の子から母よりずっと年上の世代まで押し掛けている。
(これって、チョコ買うのが目的ってだけでもないような……)
 そう思ってしまうのも無理はない。きっと店長さん見たさに来る人も多いんだろう。
 バレンタインフェアをやっているらしく、店の前には風船やチラシを持った着ぐるみまでいて、人間サイズの兎や猫の間を縫って何とか店舗へ入ることができた。
 母に頼まれた父へのチョコは、一番売り出している目玉商品。あたしは、父にはもう少し安いものを選んで。
 そして向井にあげるチョコは、結構長い時間悩んだ。
 そう言えば、と今頃になって向井が甘いものが好きかどうかも知らないなと思い出して。
 値段も量も無難な、手頃な物を手に取った。
 そこで新たな問題も浮上する。
 一体、いつどこで渡せばいいんだろう。
 いくらクラスメイトでも、男子の携帯番号やメールアドレスなんてそんなに知らない。最近よく話すようになった向井でさえ、例外ではなかった。クラスでグループのスマホアプリの連絡網の案も出たけど、全員がスマホを持っているわけではないので却下された。
(……やっぱり、つくづく間抜けだよなぁ、あたし)
 タイミングを外してしまった感ありありだけど、月曜日に学校で、というパターンが一番無難そうだ。
 行列になっている会計がやっと終わると、それでもまだ人の波をかき分けて店の外へ出る。段差になっている入り口で、気をつけなきゃな、と思った瞬間。
「あー、ここだよね!」
「早く早く! 人気商品売り切れちゃう!」
 大学生かOLか、数人の女性が勢いよく押し掛けてきて、あたしの肩にぶつかった。
「わ……!」
「あー、ごめんなさーい」
 当たった力は大したことなかったけど、荷物を持った手でバランスを崩すと、怖い。
 ほんの数十センチなのに、足を踏み外しそうになって。
(ああ――やばい!)
 このまま転んだら足首とか捻っちゃうかも、という考えは浮かぶのに、体はついていかなかった。
「―――――……? あれ?」
 どうすれば一番被害と痛みが少ないか、と無意識にシミュレーションしていた転び方だが、一向に痛みが来ない。それどころか。
 何だかとても、やわらかいものに包まれている感じ。
 ん?
 顔を上げてあたしは、ようやく事態を飲み込んだ。
「ああ……! す、すいません!」
 あたしを抱き留めてくれたのは―――おそらくバイトだろう、着ぐるみの猫さんだった。
 くすりと、着ぐるみの顔の向こうで、笑っているような気配。
「ご、ごめんなさい! あの、ありがとうございました!」
 猫ぐるみといえど、多分中身は大学生かフリーターのお兄ちゃんの可能性が高い。あたしは恥ずかしくなって、そして向井に抱きしめられた時のことまで甦ってきて顔が熱くなった。
 慌てて猫さんの腕から飛び退いて、踵を返すと走って帰ろうとした。
 のに。
 猫さんは離してくれなかった。
(え、何で)
 戸惑っていると猫さんは、主に子供に配っていた風船をあたしに差し出した。
 ええと……子供扱い?
 そりゃあ私服だし、化粧もしないから幼いかもしれないけど! 酷くないですか!
 ついぶすっとしてしまったあたしは、それでも風船を手に取ってしまって急いでその場を後にした。
 しばらく走って駅の構内に入り、お店が見えなくなってやっと歩を緩めた時、風船の下に小さな箱がついているのに気づいた。
 こんなの、他の風船にはなかったよ。
 小さな箱にはリボンが掛かって。そしてクロスしたリボンの間に―――メモ?
 立ち止まって、紙を引っ張り出す。十センチ四方程度の四角い紙を開くと。
 そこには。
『好きです』
 と、一言。



 ぼんやりと、というよりは呆然とその場に立ち尽くして、あたしの脳はフル回転していた。
 え、これって何? 猫さんからなの? あの猫って誰よ!? っていうか知らない人に告白されたってこと!? いやそんな莫迦な、そんなにもてたりするわけないし大体どこで逢ったことが。
 と、そこまで考えてやっとわかった。
 着ぐるみは、きっとアルバイト。
 中身はお兄ちゃん。
 でもそれが大学生やフリーターではない、高校生だったら?
 あたしは、慌てて駅を出て引き返して走った。改札を過ぎてなくてよかった。
 でも。
 お店の前の着ぐるみが―――いない。
「……向井……!!」
 思わず、叫んだ。
 あの猫の中身が。
 向井だったらなんて。
 都合、良すぎる?
 でも、他に誰も思いつかないよ。
「ニャー」
 猫の手があたしの頭の上に置かれて、振り返ると猫がいた。
「……向井、だよね?」
「子供たちの夢を壊しちゃいけませんよ?」
 着ぐるみ越しのくぐもった声で真面目にそう言うものだから、あたしは笑ってしまった。
「どうして……これ」
 お店のロゴが入った小さな箱は、チョコレートなんだろう。
「……どうしてと言われても……そのまんまです」
 ぶっきらぼうな口調は照れている。
「いつから……?」
「結構前から、自然体でいいなって思ってた。だからあん時、割とショックだったよ? 市原が先輩を好きなんだってわかったから」
 まぁ、結果的には役得だったけど、としれっと言う。でも、と付け足して。
「好きでもない子に、あんなことしないよ」
「……ありがとう」
 本当はバイトが終わってから連絡しようと思ってた、と向井は言った。あたしの携帯をちゃっかり悪友から聞いていたらしい。
「そしたら急に店に来るから焦って……先輩にあげるのかと思ったら黙ってられなくてさ」
「これは……お父さんのだよ」
 ちょっと悪戯っぽく見上げると、猫さんの顔を被った向井はほっとしたような溜息をついた。
「それから、これは、向井に」
「え」
 もう一つのチョコを袋から取り出して差し出すと、向井は明らかに動揺した。
「ど、どうして」
 心臓がどきどきと早鐘を打っていたけれど、あたしは大きく息を吸って背の高い猫を見上げた。
「あの……気が変わるの早すぎとか思われると嫌だけど……あれから向井のことが気になっちゃって……これは、あの時のお礼と、あたしの気持ち」
 大きな猫は黙っている。怒ったかな。
 でも、言い切ってしまえ。
「あの時助けてくれてから――――あたしも、向井のことが好きになってしまったよ」
 お世辞にも可愛いとは言えない、コミカルな猫の着ぐるみが、今は酷く神妙な顔をしているように見える。
 そして、猫さんはあたしをぎゅっと抱きしめた。
 着ぐるみ越しでも。
 あの時と、同じ感じがして――向井の腕の中だって実感が湧いてきた。
 抱きしめられた腕の中で、あたしはまたちょっと泣いた。
 でも、今度は、苦い涙じゃなかった。
 どこからか、チョコレートの甘い香りが漂ってきた。



  ビター・スウィート
    ~苦くて甘い、恋の味~・完
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