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53.早く大人になりたかった頃⑤(テオドール視点)

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 ——その瞬間。
 漆黒の床から、巨大な4列の鋭利な柱が突き出して、周囲に渦巻く黒い靄が漆黒の刃と成った。

「テオっ!」

 そして、黒刃が空間を裂き、眼前に迫った。
 その時には、僕の体をシリル兄さんが押し、庇い、そのまま二人で後方へと倒れ込む。見上げる視界を黒い風が駆け抜けていった。

「シリル兄さん!!」

 僕の上に倒れ込むシリル兄さんの身体を支えると、背に触れた右手に、ぬるりと生温かい感触が広がって、

「はぁっ……あ、良かった…テオ、無事で…」

 それでも、気丈にそう言って、苦痛に歪んだ笑顔を見せるこの人が、僕は理解できない。

「ああ、もう……なんで、あなたは…」

 なぜ、こんなことを、迷いなくできるのか。

 まるで、こういう現象が発生することを、知っていたかのように。
 まるで、自分が傷つき怪我をすることを厭うこともせず。



 轟々と荒ぶる影に覆われた柱のような鋭利なものは、どうやら鉤爪のようだった。地面から突き出るように……おそらく獣の前足、だけが伸びている。

 その前足が唐突に横殴りに過る。

 ぐぎゃ、という耳障りな悲鳴と共に、小さな男の身体は塵屑のように吹き飛んで、壁へと叩きつけられた。
 壁からさらに床へと落下した男は、血まみれの顔で狼狽し、現状を理解できないようだ。じりじりとその前足が床をたどり、男へと迫る。

 先ほどまでの不遜な態度は鳴りを潜め、苦痛に喘ぎ、恐慌状態に陥った男は、血や涎をまき散らしながら、何かを喚く。

 無様で汚らしい姿に、嫌悪感しか感じない。

 当然の報いだと思った。

 なぜか助けを求める声が聞こえるけれど、理解できない。どうして助けると思っているのか。心底愚かだと思った。

 だけど、どうしてだろう。

 このまま、この男を死なせていいのか。そんな疑問が湧いてくる。

 そんな時、ぎゅう、と胸元を掴まれて、はっとする。

「とめ、なきゃ…っ」

 眉根を寄せて、切実に訴えるシリル兄さんの言葉は、僕の先ほどの疑問を後押しするものだった。

 けれど、この男を助けることを、僕の心が是としない。

「死んだら……終わりだ…全部。…喜びも、苦しみも」

 一層、切に真に迫るその言葉で、真っ直ぐに榛色の瞳が僕に訴えてくる。
 それは、奇妙な実感がこもった言葉だった。

 そして、目の前の事象を放置することを止めるのには、充分な言葉だった。
 放っておけば、当主はここで死ぬだろう。完全に自業自得で、メーティストの眷属に殺されるなど、まさに神罰が下ったと言っていい。フォレスターの名を持つ男が、こんなを滑稽なことはない。

 だけど。それは、この男を己の罪から解放することになってしまう。
 そんなことを、してやるつもりは微塵もない。

 オルトロスの召喚を、とめなくては。

 ……でも、どうやって?

 オルトロス召喚には、大量の精霊力マナと、この世界の理を無視した歪んだ願いが必要だと言っていた。
 さらに、精神と肉体を循環するのが精霊力マナだと。

 願いは精神の成す強い想いだ。その精神の願いを精霊力マナが具現化し、オルトロスを呼び寄せているのだとしたら。

 この世界の理を歪めるほどの強い想いを、整えることができれば、この召喚は解除できるのでは。



 僕は精霊力マナの扱いをシリル兄さんに教わっている。その時の、言葉を思い出す。

『いいか?テオの精霊力マナはものすっごく自然なんだよ』
『ものすっごく自然?』
『つまり、自然過ぎるってこと。だから、一見すごく不自然だ』
『シリル兄さん、良く分からないよ』
『つまり……通常、おれたちが認識する自然っていうのは、こう…揺らぐのが普通だと思ってる。
 揺らぎや、偶発的におこる事象は女神シュリアーズの法則によるところが大きい。
 で、本来の“自然”というのは、例外なく一定の法則に従って構成され、一律に淡々とただ法則の通りに変動しているものなんだ。これが、メーティストの法則によるもの』
『いつも感じる精霊力マナの動きや性質には、二神の法則が混ざってるってこと?』
『そうそう。
 おれの感じ方が正しいのなら、テオの精霊力マナはより厳密にメーティストの法則よる操作が必要なんだよ。
 だから、テオが自分の精霊力マナを扱う上で、唯一気を付けなくちゃいけないのは、その法則を無視しないことだ。
 “自然”の流れにそってさえ操作すれば、この世界を創造することも可能な、無敵の精霊力マナなんだよ』

 シリル兄さんのいう所の、“自然”を構成する一定の法則とやらを、繰り返し感じ取り、行使を練習する日々だけれど、まだ、充分に扱えるとは言い難かった。

 メーティスト神殿の話をした際に、『きっと、テオの役に立つと思うんだけど』と言った、シリル兄さん言葉の意味が、今なら、強く実感できる。

 ここにはその“自然”の法則が満ちている。
 その法則にのみ従う、一律に淡々と変動する精霊力マナが、ありありと感じられる。

 ああ、僕は。この神殿の主に生まれながら愛されていたらしい。
 そう、理解してしまった。

 ゆっくりと、息を吸い、そして吐く。

 周囲の精霊力マナの流れを感じ取り、自身の精霊力マナを同様に動かしていく。シリル兄さんは、いつもこの動きを感じていたのか。

 黒い大きな鉤爪の周辺に流れの乱れが集約している。その流れを押し返せばいいのか?修正すればいいのか?上塗りすれば、いいのだろうか?

 いずれにしても、精霊力マナが足りない。いや、全体の量ではなく、圧倒的な出力が足りない。

 どうする。どうする。どうする。

 もはや、腕の中で、血の気を失い青ざめて、意識を失っている大切な人を、ぎゅっと抱きしめれば、さらり、と淡い陽だまりのような色をした髪が触れた。

『精霊術士にとって、身体の一部は精霊力マナを行使するうえで、媒介になる。爪も、髪も、体液も、全部。だから、特に髪は伸ばしていた方が、何かと使える』

 言われて以来、伸ばし続けていた、この闇色の髪。厄災の象徴として、蔑まれ、疎外される原因となったこの髪に、初めて感謝したい。

 僕は迷わず、自身の髪を掴むと、一つに結わえたところから、ばさりと切り落とし、全てに自分自身のありったけの精霊力マナを込めた。

 黒い流砂のような僕の精霊力マナは波のように風のように、オルトロスの前足へと到達し、そしてそのまま覆いつくす。

 黒い塊は霧のように霧散して、ふわり、と空気が凪いだ。

 そこには、今までの嵐が嘘のように、粛々とした空間が広がっていた。
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