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Vol.1『ファムファタ女と名探偵』
ハードボイルド探偵、登場す
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土曜、夜。二十二時。神保町。
依頼人が待ち合わせに指定したそのバーは、雨に沈む無人のオフィス街の裏通りにあった。俺にはおよそ無縁なこの街に来るのは、いつ以来だったろうか。知ってはいるが、馴染みは無い。律儀に働く四つ辻の信号を無視し、目的の場所を目指した。
『クアドリフォリオ』……四つ葉のクローバー。
そう書かれた店の看板を見つけるのに、そう苦労はしなかった。いや、した。雨が冷たかった。十一月の雨は、哀れな女の涙だ。過去が空から降ってきて、俺の体温と何かを奪っていく。傘は持たぬ主義だなどと言わずに、素直に持って出れば良かった。
軒下に入り、ようやく人心地ついた。最小限の電灯が、看板と足元を照らしていた。この裏通りでも、営業しているのはこの店だけだった。飲食店、古書店、弁当屋、古本屋……他は全て、昼間の店だ。灯りなど、何も点いてはいない。まばらな街灯が濡れたアスファルトに光っていたが、それ以外は闇だった。人も車も通らない。そこにいるのは俺だけだった。こんな孤独もなかなか無い。悪くない。だがやはり寒い。さっさと中に入ることにした。
出入り口の扉を押し開けると、ドアベルが乾いた音を立てた。ずぶ濡れの俺に、客たちの視線が刺さった。外観のわりに店の中は広く、ボックス席やそれよりも大きなテーブルの席があり、驚いたことには、グランドピアノまで置いてあった。三割程度といった客の入りも、外の無人ぷりからすると、かなり意外だった。そして、そいつらの注目をまとめて浴びせかけられたって訳だ。よしてくれ。家に帰りたいと少し思ってしまった。
それもそのはずとでも言おうか、グランドピアノの前には一人の女が立っていて、そのピアノを伴奏に歌っている最中だった。視界の端に捉えただけでも、美しい女だとわかった。声もまあ悪くはない。客どもはこの女が目当てという事か。なるほど俺が悪かった。邪魔をしたかったって訳じゃあない。それに、俺はこういうのはむしろ苦手なんだ。この、歌ってる間は黙って聴いてろ、みたいな空気が嫌いなんだ。やっぱり家に帰ろうかと思った。
とはいえ、仕事で来たのだから、そういう訳にもいかない。俺はしぶしぶ濡れた鳥打ち帽とコートを適当に掛け、歌う女から一番離れた奥のカウンター席に狙いを定めた。コートの下には黒いジャケットを羽織っていた。ズボンも濃いめのグレーだ。目立ちたくないのだ。客の何人かが俺を目で追うのがわかった。よしてくれ。大抵の事には動じない俺だが、そういうのには動じるんだ。
おおそうだ、依頼人はこの客の中にいるという事になるのか。どいつだ。まあ、こっちからあなたが依頼人ですかとコンタクトして回る必要は無い。いずれ向こうから俺のところへやってくるに違いない。まずは腰を落ち着けようじゃないか。
狙い通りの椅子に座り、煙草を取り出した。即座に、カウンターの中のマスターと思しきチョッキを着た五十絡みの渋め男子が、俺の前に来てコースターと灰皿を出してくる。俺は酒瓶の並んだ壁の棚を、いかにもそのラインナップを値踏みするようなそれっぽい顔を作って眺め、人差し指を手前に曲げて合図した。上体を傾け、耳を寄せてきたマスターに、軽く身を乗り出し、声をひそめてオーダーを告げる。
「う、烏龍茶……を、ロックで……」
俺は篤藩次郎。ハードボイルド私立探偵だ。
依頼人が待ち合わせに指定したそのバーは、雨に沈む無人のオフィス街の裏通りにあった。俺にはおよそ無縁なこの街に来るのは、いつ以来だったろうか。知ってはいるが、馴染みは無い。律儀に働く四つ辻の信号を無視し、目的の場所を目指した。
『クアドリフォリオ』……四つ葉のクローバー。
そう書かれた店の看板を見つけるのに、そう苦労はしなかった。いや、した。雨が冷たかった。十一月の雨は、哀れな女の涙だ。過去が空から降ってきて、俺の体温と何かを奪っていく。傘は持たぬ主義だなどと言わずに、素直に持って出れば良かった。
軒下に入り、ようやく人心地ついた。最小限の電灯が、看板と足元を照らしていた。この裏通りでも、営業しているのはこの店だけだった。飲食店、古書店、弁当屋、古本屋……他は全て、昼間の店だ。灯りなど、何も点いてはいない。まばらな街灯が濡れたアスファルトに光っていたが、それ以外は闇だった。人も車も通らない。そこにいるのは俺だけだった。こんな孤独もなかなか無い。悪くない。だがやはり寒い。さっさと中に入ることにした。
出入り口の扉を押し開けると、ドアベルが乾いた音を立てた。ずぶ濡れの俺に、客たちの視線が刺さった。外観のわりに店の中は広く、ボックス席やそれよりも大きなテーブルの席があり、驚いたことには、グランドピアノまで置いてあった。三割程度といった客の入りも、外の無人ぷりからすると、かなり意外だった。そして、そいつらの注目をまとめて浴びせかけられたって訳だ。よしてくれ。家に帰りたいと少し思ってしまった。
それもそのはずとでも言おうか、グランドピアノの前には一人の女が立っていて、そのピアノを伴奏に歌っている最中だった。視界の端に捉えただけでも、美しい女だとわかった。声もまあ悪くはない。客どもはこの女が目当てという事か。なるほど俺が悪かった。邪魔をしたかったって訳じゃあない。それに、俺はこういうのはむしろ苦手なんだ。この、歌ってる間は黙って聴いてろ、みたいな空気が嫌いなんだ。やっぱり家に帰ろうかと思った。
とはいえ、仕事で来たのだから、そういう訳にもいかない。俺はしぶしぶ濡れた鳥打ち帽とコートを適当に掛け、歌う女から一番離れた奥のカウンター席に狙いを定めた。コートの下には黒いジャケットを羽織っていた。ズボンも濃いめのグレーだ。目立ちたくないのだ。客の何人かが俺を目で追うのがわかった。よしてくれ。大抵の事には動じない俺だが、そういうのには動じるんだ。
おおそうだ、依頼人はこの客の中にいるという事になるのか。どいつだ。まあ、こっちからあなたが依頼人ですかとコンタクトして回る必要は無い。いずれ向こうから俺のところへやってくるに違いない。まずは腰を落ち着けようじゃないか。
狙い通りの椅子に座り、煙草を取り出した。即座に、カウンターの中のマスターと思しきチョッキを着た五十絡みの渋め男子が、俺の前に来てコースターと灰皿を出してくる。俺は酒瓶の並んだ壁の棚を、いかにもそのラインナップを値踏みするようなそれっぽい顔を作って眺め、人差し指を手前に曲げて合図した。上体を傾け、耳を寄せてきたマスターに、軽く身を乗り出し、声をひそめてオーダーを告げる。
「う、烏龍茶……を、ロックで……」
俺は篤藩次郎。ハードボイルド私立探偵だ。
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