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俺が今まで飼育調教してきた歴代の犬の中で、お前は特別駄目な犬だ。ダントツ最下位だな。
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「どの面下げて戻ってきた。」
死んだ汐の車で三か月程の間、各地を放浪していた義孝が加賀家に現れたのは、深夜も零時に近い遅い時間だったが、忍は加賀家の門を開き、中に彼を招き入れた。
奥の間で、忍と取り巻きが義孝を囲んでいた。当主加賀徹は旅行中で不在、元々汐の配下に義孝と一緒に居て、理解ある高橋などは屋敷に在駐してあない。四面楚歌の体であった。
「傷心旅行、ですよ。」
義孝は取り囲まれても一切動じる様子もなく、忍を、人をなめた目つきで見上げた。
「戻ってきたのは私の意志じゃない、汐様の意志です。」
義孝が汐の名前を出したことが忍の余計に気に障った。そして汐に被る、軽薄さ、自由さが忍を乱した。忍は義孝が不在にしていたこの3か月の間、義孝に一つ疑念を抱いては心の内に仕舞い込むことを繰り返していた。
葬儀の前、汐の遺体は一時的に屋敷奥の和室に安置されて、交代で外廊下に見張り番を立てていた。潮凪会の者が率先して役を買って出たのは当然の成り行きだった。
夜、高橋の見張り番の時、たまたま部屋の前の廊下を通った忍は、部屋の中に何かの気配を感じて、足を止めたのだった。廊下には高橋一人佇んでいたが、忍の姿を認めると首を傾けて、彼を見た。何の感情も無い目をしていた。主を喪った喪失感もあるだろうが、汐を慕う者は皆、汐を見る時以外何処か妖しい瞳を持っていた。
「誰だ?誰か中に通しているのか。」
「いえ、誰も通しておりません。」
高橋は即答の上、廊下の上を音もたてずに忍の方に近づいてき、障子に手をかけた。
「気になるならば、ご覧になったらよろしい。」
高橋は妙にゆっくりした調子で言って、忍がうなずく前に、余裕を持たせ障子を開けた。
部屋には布団1つ、月明かりの中で顔に白い布のかけられたままになった汐が眠っていた。高橋が中まで進み出て、部屋の明かりをつけた。
「……」
「汐様以外だれもいらっしゃらないでしょう。ああ、待て、どこから入ったやら。」
まるまるとしたスズメ蛾が一頭、電燈の辺りから飛びあがり、ぽとり、と、畳の上に落下し蠢いた。
高橋は蛾を掌の上に拾い上げ、優しく包み、外へ放った。
「蛾のせいで、音が立ったのでしょう。」
「なるほどな。」
言いながら、忍も部屋の中に一歩中に足を踏み入れた。死人の部屋にしては、やけに肌に温く感じるのが気味が悪かった。どう見ても、汐と忍、そして高橋以外この場にいないのだが、忍の直感はそう言っていない。
高橋の間を持たせるような緩慢な動作も怪しいといえば怪しい。念のため床の間、床脇の下にある引き戸を開けてみるが、中には人どころか、物ひとつ入っておらずただ闇が拡がっていた。
部屋に隠れる場所は他に無い。他に、考えられるとすれば、忍の来る数刻前までは誰か居て、入れ違いに出ていったか、或いは……。忍は汐の遺骸をしばらく見降ろしてたが、頭を振って異様な考えを消し、汐の遺骸に背を向けた。もう一度振り返り見たら、あり得ない考えが頭から離れなくなる。
まさか、死体と同衾しているなど、そんな人間が、あり得るだろうか。
「確かに、俺の勘違いだった。悪かったな、引き続き頼む。」
「はい。」
高橋は忍に続いて廊下に出、障子を閉め、亡き主の番の役目に戻った。高橋は、去っていく忍の大きな背中を見送りながら、義孝が、彼のような体格でなくて良かったと思った。
高橋は、義孝から汐が生前彼に宛てた遺書の一部を見せられていた。折りたたまれた遺書の見える部分に、汐の筆跡で確かに汐から義孝に一つの頼みごとが記されていた。
『抱いてくれないか』
文字通りとるならば、抱擁、しかし、汐と義孝の関係を側から眺めていた高橋には、汐と義孝の真の意思が読めてしまった。そしてそこに、高橋は意外にも嫌悪感も拒否感覚えない自分に驚いた。
以前の自分なら嫌悪、吐き気さえ催しただろうに、一切なく、文字通り、そうか、と腑に落ちる。彼らの側に居すぎて、知らぬ間に毒を受けた結果なのかもしれなかった。
「本気か。」
義孝は高橋の質問に答えず、ただ要求を繰り返す。
「私と汐様が二人になれる時間を下さい。棺に納められてからではもう遅い。高橋さん、アンタが番をする時に俺を中へいれてくれ。俺はそもそも番さえさせてもらえない身分です。高橋さん、これは俺の願いでなく、あなた方のボスの願いですよ。そこをわかってくれますね。」
「もしコトの最中に見られたりしたら、お前、本当に、終わりだぞ。そして、俺も終わりだ。」
「大丈夫。汐が守ってくれるから。」
確信に満ちた様子で言う彼に従う以外の選択肢が、高橋には無かった。
義孝は布団の中で汐の遺体にぴったりと同化するように身を寄せ、瞼を閉ざしていた。忍が入って、部屋を回り、高橋と話している。流石、次期当主候補様、勘がよろしいようだ。しかし、ちと度胸が無いよな、汐。
お前だったら戸惑いもせず即座に布団をめくり上げ、闖入者を発見し、大声で笑い立てるだろうよ。
明かりが消え、忍の気配が消え、高橋が障子を閉めてからも義孝は、しばらく冷たい汐に身体を寄せていた。
充分な時間が経ってから、義孝は布団をめくり上げ、白装束のはだけた青白い身体の上に再び身を這わせ始めた。白布をめくりあげる。まだ死斑も出ておらず、死化粧もされていない。
もともとの虚弱体質から来る不自然に透き通って白すぎた皮膚のおかげで、死人となっても彼の容貌は殆ど変わっていないどころか、生前顔面を覆う表情筋が彼のある種の野蛮の性格を現して癖を持ってよく動いていたところが、一切動かないことで歪みもなくなり、美しかった。
その中で半ば開きかけていた口を、義孝が手でもって閉じさせると唇端に笑みに似たものが浮かんだまま固定され、弥勒の微笑むような、先に逝った渚にも似た顔になった。
命の無い冷たい人形になった彼は義孝の思うままに蠢いた。
硫化水素自殺は最も美しく身体を保ったまま死ねる方法の一つである。
汐の魂がこの場に漂っていたら、今の自分達の姿を見て悦ぶに違いなかった。先刻まで、義孝は、頭上を飛ぶ一頭の蛾を汐の魂の依代になぞらえて、汐に覆いかぶさっていた。
いつまでたっても汗ばまない空っぽの身体が、肉となって義孝を受け入れる。返ってくるものはないが、死後硬直が始まった肉体は、今までには無い力強い力で義孝を拒絶しながら同時に受け入れる。
今、障子の向こう側から、穏やかで静かな月光が射しこんで褥を照らしている。
お前は見ている、そう感じる。お間の身体全てが今、死を通して、俺の完全な支配の下にある。
その後、義孝は自分のいた痕跡を消し、屋敷から汐の車に飛び乗って屋敷を出ていった。高橋さえ、義孝が再びこの魔窟へ戻ってくるとは思っていなかった。
忍はあの夜、布団をめくらなかったことを後悔していると同時に安堵していた。今、目の前に立つ男に、あの夜のことを聞く、忍にはどうしてもそれができない。聞いたところで、何とでも言える。忍はそう自分に言い聞かせたが、本心で畏れた。彼が淡々と「ええ、あの晩確かに同衾していました。私が汐様を抱いていたのです。」と答えることを。汐も、義孝も、彼らの配下だった人間も、いつからか、忍の理解からは遠く離れていた。
当主加賀徹が帰ってくるまでの三日三晩の間、義孝は加賀家の古い土蔵の奥で代わる代わる、私刑を受けた。理由は様々、組織に対する不遜の態度、汐の車の無断持出し、拭いきれぬ汐を殺したのではという嫌疑等。
私刑はヤクザの行うにふさわしい壮絶な物だったが、幸いなことには義孝の五体に欠損は出ず、無事であった。それは、忍が父徹、弟汐、それから目の前の不遜な男の怨念、報復を、無意識に考えていたからかもしれなかった。
高橋は2日目夜の時点で彼の帰郷を知ったが、忍を前に、義孝を助けることにより自分の立場、何より自分の配下の者たちが危うくなることを案じ、何もできなかった。高橋は潮凪会の仕事を殆ど引き継ぐような形で高橋組として汐の配下の者たちを引き取り、甲武会の一幹部となっていた。
今では汐の後ろ盾も無く、何をするにも責任が自分にのしかかる。何事も、自分一人の問題ではなくなってしまった。義孝が遁走などせず、あのまま家に残り続ければ、高橋と共に穏便に組に残ることもあり得、高橋も心の隅でそうなることを望んでいたし、汐だってそう思って死んだに違いなかったのだ。だから、高橋は義孝が消えたと聞いて、らしいなと納得したと共に落胆していた。
そのような折の、急の帰還であった。何の説明もなく黙って出ていった挙げ句、忍のところに直接乗り込むなど、少し考えれば彼の逆鱗に触れることがわからないわけがない。高橋はせめて自分を挟んで対面するなどすれば、こんな惨劇は起こらなかったはずなのにと、義孝の行動の意味が測りかねた。それほどに彼も主、義孝が汐を主と思っていたかは謎としても、主を喪ったことで心乱され、判断力を喪失していたとでもいうのか。
加賀徹の帰還により、義孝はすぐさま土蔵から解放され、即時病院に送られた。
全治2か月の大怪我であった。手当にあたった看護師の中に一人、卒倒した者が出た。
2週間ほど経ってようやく高橋は見舞いに行くことにした。助けようと思えば助けられたかもしれないのに、それをしなかった。会わせる顔が無いと思い、なかなか直ぐに駆けつけることができなかったのだ。
義孝には病院の個室を与えられて、そこは高橋も数度訪れた、汐の姉、渚の病室と全く同じ間取りをしていた。高橋が見舞うと、義孝はベッドの上で全身を包帯に巻かれながらも、本人は何も気していないという顔で、身を起こして新聞を広げていた。入ってきた高橋を見て彼は微笑んだ。
「ああ、高橋さん、久しぶりですね。お元気そうで。」
彼は爽やかな調子で言って高橋を見て笑った。顔半分が包帯と眼帯に隠れて見えない。忍からの私刑の凄まじさが伝わってきて直視していられない。しかし、包帯の下の彼の顔は普段と変わらないどころか寧ろ血色よく、生気に満ち満ちていた。
助けに入らなかったことで義孝に恨まれているのではないかと思っていたのが表に出ていたのか、義孝は「ふふ、なにをびくびくしているんですか。」と逆に高橋をからかう様な口をきいた。
「アンタを恨んじゃないよ。寧ろ感謝しかない。忍が俺をああすること位わかっていたし、組長がちょうどいない時期をわざわざ狙って戻ってきたんだから。」
「なに、」
「組長がいたんじゃ、忍の奴、俺を面と向かって虐められなくって、余計に怨嗟を貯め込むだろ。そうすると後から面倒くさいんだ。自由に動きにくくなる。だから、手っ取り早く発散させてやろうと思って。忍があそこで一番で王様してられる時期を伺ってたのさ。指の一本や二本くらい覚悟してたから安いもの。だから助けてくれようなんて考えは逆に、邪魔なことだ。アンタは正しいことをしてくれてたのさ。」
「……」
「それに、この件で余計に物事がはっきりとして、組織の中での俺の存在が明確になったようなものだ。組長は俺に目をかけていて、たかが若造の、チンピラ上がりの俺に、地位とある程度の自由とを与えるのも時間の問題ということが、ハッキリとね。良い意味で想定外なことに、アンタ達以外に見舞いに来てくれたものも少なくなかった。組長がこうして俺を丁重に入院させること、皆の前で、あのプライド高い忍を叱責、流石に手は出ないが金銭の面で罰しまでして灸を据えてくれたこと。この事件が、全組員にも俺のことを知らしめてくれたわけですよ。なるほど何が面白いのかと傍から見ていたが、今になって汐と渚の気持ちが少しわかった気がするな。」
義孝は、ふふふ、と笑って高橋を舐めるように見据えた。高橋は嘗てのボスの面影を見た。
「汐の子飼いだった連中は今、殆ど高橋さんの下にいるんだって?そうだろうな。俺達が、今さら他の腑抜けた奴らとつるめるか。時期が来て、希望する人間がいたら、俺の元に少しよこして下さってもかまいません、きっと、悪い思いはさせません。」
◆
神崎と川名の向かい合う部屋に入ってきた男達の5人の中には、巻も居た。神崎が立ち上がると、川名は思いついたように手を叩いた。神崎は彼の芝居がかった仕草が昔から嫌いで、舌打ちを交りに「なんだよ」と素っ気なく言い捨てた。
「そうだ、お帰りいただく前に、せっかくだから1つ、俺とゲームでもしていかないか。」
川名は懐から手帳を取り出し、ページを2枚千切ってそれぞれに何か書き込んだ後、折りたたんでテーブルの上に並べ、手帳を懐にしまった。
次に川名の懐から手が出てきた時、そこに、拳銃が握られていた。リボルバー式の漆黒の拳銃。ただし銃口は斜め下、テーブルの上に向けられており、誰に向けられている訳でもない。
神崎は川名の取り出した物を見ても思いの外冷静でいる自分に気が付き、冷めた目で川名を見降ろしていた。どこかで彼がただで帰してくれようとは思っていなかったからかもしれない。寧ろ川名の男達、巻以外の4人の方が明らかに動揺を隠せずにいるようだった。
彼は手の中でシリンダーを開放した。開放されたシリンダーの中には実包が1弾だけ装てんされていた。川名はリボルバーから神崎に視線を移して言った。
「1/6の確率だ。どうだ、1発ずつ、試しに自分の頭蓋に向かって撃ってみないか。1周目、1往復無事に終われば、左側の紙片、アンタが彼の無事を目にするために役立つ情報をやるよ。」
彼は手の中で弄ぶようにしてシリンダーを回転させ、閉じた。
「そして、右側の紙片には、今彼がどこにいるかまで書いてある。できるものなら、そのまま彼を迎えにいって持ち帰っても良い。ただし、これが欲しいなら3往復、6回シリンダーが回る。つまり、どちらかが死ぬまでやる。どうだ、俺と遊んでいくか、神崎。アンタが今、何を考えているか当ててやろうか。こんな馬鹿げたゲームなどせず、令状を片手に家宅捜索すれば済む、と、表面上考えている。しかし、今更すぐ令状なんか出るもんか。今までだって簡易なのを除けば、出たためしがない。たとえ出せたとして、発行するまでにはずいぶん時間がかかり、その間にこの情報は双方とも無意味なものになる。情報ってのは鮮度だ。アンタならわかるだろ。」
神崎は川名の前に座りなおし、川名を真正面から見据え、軽く左目を細めた。懐から煙草を取り出し咥えた。川名が灰皿を神崎の方へ滑らし、神崎は一吸いして首を垂れ、俯いたまま煙を吐き、もう一度、川名を、久しくしなかったような力を持った目つきで見たのだった。神崎の顔の上には、怒りとも微笑ともとれる不思議な表情が漂っていた。
「なぁるほどォ……、なるほどねェ……、そいつは……、実にありがたい申し出だぜ、川名、……そう、お前の言う通り、ボンクラだらけだからな、アイツらでは、令状一通出すのに阿保ほど、1世紀ほどかかるかもわからないな。あの阿保、霧野はボンクラ共の中でもまだ随分マシな方な阿保だったから、元々俺がケツ持ち、面倒を見てやってたんだ。だから、そうだな、俺が糞ボンクラ共を代表して、1回分くらい、御屋敷のお嬢様の御遊びに、お付き合いしてさしあげようかな。大体、お前のその情報っていうのも怪しいもんだ。開いたら白紙でしたってこともお前ならやりかねないし、ここに居るのは俺以外全員お前側の人間だ。だから、お前のお遊びに付き合ってやるのは1回だけだ。文句ないな。」
神崎は川名に言い放ったが、背中には汗がつたっていた。今、自分がここで生の命を賭ける程のことが在るのだろうかと考えないではなかった。しかし、何事もリスクなしで何か得ようというのは傲慢だ。霧野がリスクを背負って今俺が今いる場所に居て助けを求めていたかもしれないのに、俺が逃げてどうする。それではいずれ救うにしても、とても顔向けできない。
川名は拳銃をテーブルの中央、2人の間に置き、髪を後ろに撫でつけるようにして触った。
「心配せずとも、ちゃんと書いた。1回だけか。それでも大したもんだ。1回だけでも、1/6なことに変わりはない。16.7%の確率で確実に死ぬ。おいそれと命を賭けられる者はそう多くない。しかも、これは自分のためじゃなく、他人のためにやろうというゲーム、やらなくてもいい勝負だ。たいていの奴、蛆は、やらざる得ない状況になっても最後まで嫌がり、人を気狂い扱いするのだからな。酷いと思わないか?まいったもんだよ。じゃ、どっちが先する?俺はどっちでもいいぞ。」
川名にとって、少なくとも霧野の存在は蛆では無いのだろうと神崎は思った。蛆ならばすぐに殺す、いや殺すという言葉も勿体ない。駆除する。
「どっちでもいいなら、先がいい。1回、されど1回だぜ。念のため確認しておくが、もちろんお前が弾を引当て、この場でおっ死んだら、勿論その紙両方持って、あの阿保も持って帰っていいんだよな?」
神崎は拳銃に手を伸ばし、慣れた手つきでリボルバーを回転させ、閉じた。
「いいよ、俺が死んだら全部意味が無いのだから。神崎さんみたいなのと遊んで死ぬなら本望さ。」
川名は静かにそう言って、表情を長の顔に戻し、配下の男達を見上げ「わかっているな。お前らは正当な審判であり、証人であれ。」と釘を刺した。
「万が一俺が死んでも、この男に決して手を出すんじゃない。巻、もしこの件の結果について不正を働く、もしくは働きかけた奴が居たら、そいつらの名を一人残らず二条に伝えろ。でもな、残念ながら、どうせ俺は死なないのさ、こんなところでは。」
「随分自信があるようだな。まさか、何か仕掛けてるんじゃないだろうな。」
「せっかくアンタと遊べるのに、そんなつまらないことするか。気になるなら、隅々まで点検してくれ。」
念のため調べてみるが、銃に仕掛けは特に見当たらない。一発弾が装てんされているだけだ。
「その煙草、最後の一本になるかもしれないからな、よく味わってから消せよ。」
「言われなくともそのつもりだ。」
神崎は煙草を三分の二程吸ったところで灰皿に押し付けた。また、煙草を止めろと五月蠅かった霧野を思い出してしまった。拳銃をこめかみにあてた。ひんやりとした感触と反対に熱く脈打つ感じ。その時、銃を持つ手が自分の手ではないように感じた。自分の手の上に、もう一つ重なる手がある。そう、まるで霧野の手で銃をこめかみに突き付けられているように感じる。責任を感じているというのか。
「神崎さん、奥さんに逃げられたことはご愁傷さまとしかいえませんが、仕事仲間ってのはそうはいきませんよね。逃げたくても、逃げられない。」
ある日、神崎と霧野は、車の中から連続窃盗犯の容疑がかけられた男達の拠点を見張っていた。
「なんだ?俺と仕事するのが厭になったか。」
霧野は嫌らしい笑みを浮かべて神崎を横目で見て「逆じゃないの~?」と生意気な口をきいた。
「俺のような不良債権を引き取って、始末書も俺の代わりに幾らか書いてるって聞きましたよ。」
「どいつがそんなこと」
「ああ、その言葉、その顔、じゃ、本当のことなんだな。」
神崎はようやく霧野に一杯食わされたと気が付いたが、霧野は気にもしてない様子で手元の双眼鏡を弄っていた。
「ほっぽり出したくなったら、ほっぽり出したっていいんですよ。その権利は俺というより神崎さんにある。」
「それこそ、逃げだろ。俺の意志では逃げない、離さない。」
「ふふふ、その言葉。俺じゃなく、奥さんにも吐いてやれりゃあ良かったのに。」
この小僧!どこまで生意気な口をきくんだと激昂しようというタイミングで窃盗グループが現われ、霧野が獲物を見つけた猟犬のように率先して車から飛び出ていった。ああ、あの調子じゃまたやりすぎるな、とため息をつきながら、神崎は車を降りた。しかし悪い気分ではなかった。
銃の感覚。
緊迫した空気の中でただ一人、目の前の男がとろんと弛緩した甘い目つきで神崎を眺めていた。手が汗ばんできて、震えていた。3秒が経った。3秒とはいえ、神崎の体感ではもっと長く、その間に思考が駆け巡っていた。やめようか、一瞬思う、しかし、ここまで来て、引けない。ここまで来てやめというなら、いっそ、死んだほうがいい。俺のためにも、霧野のためにも。神崎の全身に力が入った。そして、真正面を睨みつけたまま、引き金を引いた。
カチッ!弾は出ない!神崎は、汚物にでも触っていたように手を離し、すぐさま銃をテーブルの上を滑らせた。まだ鼓動が速いまま、収まらないでいる。呼吸が乱れている。川名の視線は神崎から、滑ってくる銃の方へとすとん、と落ちた。
川名は、滑ってくる銃を流れるまま受け止め手にし、何のためらいもなく銃身を自分の口の奥まで突っ込み咥え、引き金に指をかけ、神崎を見ていた。神崎は信じられないもの見るようになって、自分が引き金を引いた時と殆ど同じくらい、心臓をつかまれたような気になって、息をのんだ。化物。
銃身を噛み咥えているせいで、彼の口は大きく横に開いて並んだ歯がよく見え、笑っているように見えた。見開いた瞳は、虹彩が鳶色がかって発色し、その中で皆既日食のように吸い込まれそうな程黒い瞳孔がみるみる拡がっていく。その笑顔に、神崎は直接胃に手を突っ込まれたような吐き気を覚えた。彼は何一つためらいなく、流れ作業のように引き金を引いた。
カチッ、弾は出ない。川名はそのまましばらく銃を噛み咥えたまま神崎を見ていたが、緩慢な動作で口の中から引き出した。さっきまでの笑顔も瞳の色もすっかり掻き消えた。瞼は半ば降りてしまい、眠そうに見える。
「ほらな、死なないだろ。」
彼はつまらなそうにぼやき、濡れた銃をハンカチで丁寧にぬぐい懐にしまった。そして、左側の紙片を神崎の方に指で滑らせて渡し、右側の紙片を握りつぶしながらポケットに入れ立ち上がり、もう神崎の方を振り返りもせず、そのまま部屋の出口に向かった。
「玄関まで送って差し上げろ。丁重にな。」
川名は神崎が屋敷の外に出ていくのを屋敷の中から見送ってから、庭にひらりと降り立った。そのまま庭の闇の奥の方へと一人、歩を進めていく。
「起きてるだろうな。」
黒い箱。檻に向かって声かけた。
川名は足で檻にかけられた黒い布を払い落とし、檻の前に屈みこんで、檻の隅に設置していた小さな機械に手を伸ばした。それは盗聴器の受信機だ。かつて霧野が任務のために使っていたもの。さっきまでの神崎と川名のいた部屋には盗聴器がしこまれ、全てのやり取りが、この小さな檻の中に聞こえるように設置されていた。川名はポケットに入れていたくしゃくしゃの紙片を開きなおし、霧野に見える位置に置いた。
『キリノハルカ ハ スグ メノマエ ニワサキノ オリノナカ !』
川名の手の上に獣の涎が垂れたのを川名はハンカチでぬぐい取った。涎が手の甲に水彩絵の具のように伸びた時、透明な中に微かに何とも美しい鮮血が混ざっているのに気が付いた。
殺意の籠った鋭い獣の視線。川名は視線の元を見て微笑んだ。霧野の首輪から伸びた鎖は短く檻に接合されて、その上に、獣性を高めたノアが覆いかぶさって霧野の背面から、一段と雄を突き立て唸っていた。霧野は血走った眼光を控え、首を垂れて呻くのだったが、ぶるぶる震えながら、よほど歯を食いしばったか、口の中を噛んだか、口から一筋二筋と血を垂れ流しており、床にもところどころ血痕が付いていた。それが、川名の手の上に舞ったのだ。
「今回の1発勝負もしくは6発勝負の延長戦で俺が死ねば、お前が今すぐ救われた可能性があった。でも、神崎が一発勝負にして帰ってくれて、お前、どちらかといえば、安心しただろう。もし今のお前のこんな姿を神崎に見られたら、きっともう生きていかれないな。そういう意味では、彼が今のお前の姿を見てどういう反応をするのか、見てみたくもあったわけだけどな。皆も混乱し、お前はその状態から動けないわけで、釘は刺しておいたものの俺はいないから、まるでハムレットの終幕のように、この場が血の海と化して誰も彼もみんな死んじまってたかもしれない。」
川名は言いながら嬉しそうであった。
ノアの獣が中で激しく膨張したらしかった。
川名の方を向いていた殺意の視線は、下を向いて、人間とは思えない声を出して猛っていた。
川名は檻の下部に備え付けられた餌を出し入れするための小窓を開いて、ハンカチを差し入れた。
「お前達の行為が終わったら、床を奇麗に拭いておけ。お前のためにあつらえた部屋とはいえ、ここは俺の家の敷地だ。埃1つ落ちていても気になる。奇麗に床掃除まで終わったら、また別の調教がてら少し外の空気を吸わせたり、散歩させたりして遊んでやる。ただし、汚れ一つ残っているようだったら、今日明日は少しの散歩も餌も無しだ。代わりにもう一発ノアに強めの強壮剤を打ち込んでやる。わかったな。」
「ぐ、ぅぅ……」
川名は自分が汚れるのも気にせず徐に檻の中に手を突っ込んだかと思うと、霧野の首輪をわしづかみ、小窓にひきよせ、首輪と首の間で三本の指を折り曲げ、喉ぼとけをぐぅと押し込み顔を近づけた。
「おい゙!返事はどうしたっ!!犬!!」
「ぁ゛、……っ゛、ぐ………ぇ、わん゛……っ、わん゛!」
吠えながら、霧野の瞳は再び殺意と少しの淫欲の表情を持って川名を睨んでいた。指をもう一本足すと、吠え声さえ出なくなって空気を求めて喘いだ。喘ぎ始めると殺意が薄まり、少し媚びるような雰囲気が出る。川名は霧野をよく観察した。殺意が欲望にとりこまれて、もっとキツい責め苦を求めていることを。
「駄犬め、何度目だ、俺が今まで飼育調教してきた歴代の犬の中で、お前は特別駄目な犬だ。ダントツ最下位だな。お前のような駄犬を表に出すのは恥でしかない。せめてお前がノアの仔でも孕めたらまだ使いようもあるのに、それさえできないで!一体何をやっている。ノアはお前などより余程優秀だ。ノアの優秀な精液を少しずつ恵んでもらって、一人前の犬として、まともになることだ。辺境の部族などではイニシエーションとして飲精が未だ行われている。誇り高い戦士がこれから成人する未熟者に精液を恵んでやり、雄として成長させるのだ。」
川名は霧野から手を離し、小窓を閉めた。
背中に恨みと切なさの籠った啼き声を聞きながら、黒い布はそのままに屋敷の方へと取って返した。
巻が、玄関に立っていた。
「巻、奥の部屋へ来い。今から続きをやる。」
巻がすぐさま川名の背後に現れ、彼に付き従った。2つの影が廊下を歩いていく。
「今日のお客様は、刑事さんなのですか。」
「神崎のことだな。ああ、そうだ。なかなか見どころのあるいい男だろう。官職に就いている人間の中に、時々ああいう間違った黒いのがまぎれている。澤野もそうだ。」
「澤野さんはいつまでああなんでしょう。」
「さぁ、いつまで”も”かもしれないし、今夜まで、かもしれない。」
「というと?」
「俺は今、この時点で、神崎も澤野のことも、ある意味、大事と思っている。でも数刻後にはわからない。一時期、神崎のことに、飽いたこともある。あの馬鹿が、もういっそ、どうにもならないなら、殺そうかと計画し寸前まで行ったこともある。しかし、止めたんだ。なぜ急に止めたくなったか、今になって、わからない。覚えてない。俺にとって、都合の悪い記憶なのだろうな。しかし、今、止めて良かったと思っている。ああいう者を、簡単に殺してしまうのはある意味、敗北だ。どうでも良い者とは違うから。奴の、今日の目つきを見たか、あれは人殺しと寸分変わらない目つきをしていた。狂気、俺は感動したよ。もっとおかしくなればいい。いや、もっと正しくなればいい。澤野の奴にも似ているじゃないか。」
奥の部屋に着き、巻は衣服を取り払って寝そべった。その皮膚はなめらかで、背中半分に途中まで彫り込まれた龍が舞い踊っていた。川名は久しくしていなかったこと、人の皮膚に自らの手で絵を刻み始めていた。新しく入ってきた身寄りのない若者か、あるいは死に値する人間の中で、もし良い皮膚を持っている男がいたら、皮を剥ぎとって、もしくは死後の新鮮な肉体を、練習に使おうと思っていたのだ。ブランクも長い。皮で久々に腕を試そうと思っていた。しかし、話してみれば多少の見どころがあり、こうして生きたまま施しを与えることにしたのだ。川名が、入ってきたばかりの巻に、お前の皮が欲しいが、いくらか剥いでも良いか、と声をかけたところ、巻は「全部あげてもいい、そのために別に殺してもいい。」と言ったのだった。
「貴様は自殺志願者か?自殺志願者は基本的にはウチの組には入っちゃいけないことになってるんだ。俺に殺されたい好奇者なら、敵対する組にでも入って、攻めてくることだな。だが俺はもうお前の顔は覚えたから、お前が俺のところに突っ込んでこようが、一切相手にしない。雑魚に一撃で殺させてやるか、よくてノアの肥やしにしてやろう。一体誰がお前みたいのを推挙してウチにいれたんだ。自殺志願者は扱いにくく、弱い。鉄砲玉に使うにしても、生命力があり、イキが良いのが必要だ。その方が失敗の確立がぐんと下がるんだ。これは俺の経験則に基づいて言っている。」
「いいえ、違います。私がさしあげたいと思うから、さしあげるので、自殺志願とは違います。」
「命さえ?」
「ええ、私の父はこことは別の地方のここには到底及ばない、しがないヤクザ者でしたが、ずっと悔いていました。それなりに自分の能力に自負があったのに、使役されず、鉄砲玉にさえなれず、うだつのあがらないまま、年だけ重ね、死んでいくことを。父はその組の長を崇拝していましたが、長は父のことなど、見ていなかった。これは私が父から断片的に聴いた話をまとめているだけなので、真実は全く、違うかもしれません。実際父の死後、組からは様々な恩恵を受けましたからね、恩恵については、母が受け取り、私は全て断り、姿を消しました。私は私が尊敬できる私のことを望む人に、望むこと全てを与えたい、そう思っていました。父の影響が血が、あると思います。だから、貴方の下に入れただけでも嬉しいのに、なおかつ私の肉体の一部を欲しいとまでおっしゃるのだから、どうして断れる、謙遜できるでしょう。だから、これは私の欲望です。強い、穢い、欲望です。でも、もし、それを自殺志願とあなたがおっしゃるなら、否定することは私には到底できません。貴方が私の絶対ですからね。」
「なるほど、理解した。お前のようにはっきり欲望を認識している人間は話が速い。そういうことなら、今のお前のそのままの皮を使わせてもらおう。新参者は先に事務所に回して学ばすことが多いが、お前は皮膚として利用価値がある。試しにしばらく皮としてウチで仕えると良い。そして、空いた時間に別な仕事でも覚えるがいい。しかし、お前がそこまでいうのなら、どこに何をされようが、失敗しようが、泣き言1つ言わないな。」
「ええ、言いません。いくらでも、使って下さい。」
死んだ汐の車で三か月程の間、各地を放浪していた義孝が加賀家に現れたのは、深夜も零時に近い遅い時間だったが、忍は加賀家の門を開き、中に彼を招き入れた。
奥の間で、忍と取り巻きが義孝を囲んでいた。当主加賀徹は旅行中で不在、元々汐の配下に義孝と一緒に居て、理解ある高橋などは屋敷に在駐してあない。四面楚歌の体であった。
「傷心旅行、ですよ。」
義孝は取り囲まれても一切動じる様子もなく、忍を、人をなめた目つきで見上げた。
「戻ってきたのは私の意志じゃない、汐様の意志です。」
義孝が汐の名前を出したことが忍の余計に気に障った。そして汐に被る、軽薄さ、自由さが忍を乱した。忍は義孝が不在にしていたこの3か月の間、義孝に一つ疑念を抱いては心の内に仕舞い込むことを繰り返していた。
葬儀の前、汐の遺体は一時的に屋敷奥の和室に安置されて、交代で外廊下に見張り番を立てていた。潮凪会の者が率先して役を買って出たのは当然の成り行きだった。
夜、高橋の見張り番の時、たまたま部屋の前の廊下を通った忍は、部屋の中に何かの気配を感じて、足を止めたのだった。廊下には高橋一人佇んでいたが、忍の姿を認めると首を傾けて、彼を見た。何の感情も無い目をしていた。主を喪った喪失感もあるだろうが、汐を慕う者は皆、汐を見る時以外何処か妖しい瞳を持っていた。
「誰だ?誰か中に通しているのか。」
「いえ、誰も通しておりません。」
高橋は即答の上、廊下の上を音もたてずに忍の方に近づいてき、障子に手をかけた。
「気になるならば、ご覧になったらよろしい。」
高橋は妙にゆっくりした調子で言って、忍がうなずく前に、余裕を持たせ障子を開けた。
部屋には布団1つ、月明かりの中で顔に白い布のかけられたままになった汐が眠っていた。高橋が中まで進み出て、部屋の明かりをつけた。
「……」
「汐様以外だれもいらっしゃらないでしょう。ああ、待て、どこから入ったやら。」
まるまるとしたスズメ蛾が一頭、電燈の辺りから飛びあがり、ぽとり、と、畳の上に落下し蠢いた。
高橋は蛾を掌の上に拾い上げ、優しく包み、外へ放った。
「蛾のせいで、音が立ったのでしょう。」
「なるほどな。」
言いながら、忍も部屋の中に一歩中に足を踏み入れた。死人の部屋にしては、やけに肌に温く感じるのが気味が悪かった。どう見ても、汐と忍、そして高橋以外この場にいないのだが、忍の直感はそう言っていない。
高橋の間を持たせるような緩慢な動作も怪しいといえば怪しい。念のため床の間、床脇の下にある引き戸を開けてみるが、中には人どころか、物ひとつ入っておらずただ闇が拡がっていた。
部屋に隠れる場所は他に無い。他に、考えられるとすれば、忍の来る数刻前までは誰か居て、入れ違いに出ていったか、或いは……。忍は汐の遺骸をしばらく見降ろしてたが、頭を振って異様な考えを消し、汐の遺骸に背を向けた。もう一度振り返り見たら、あり得ない考えが頭から離れなくなる。
まさか、死体と同衾しているなど、そんな人間が、あり得るだろうか。
「確かに、俺の勘違いだった。悪かったな、引き続き頼む。」
「はい。」
高橋は忍に続いて廊下に出、障子を閉め、亡き主の番の役目に戻った。高橋は、去っていく忍の大きな背中を見送りながら、義孝が、彼のような体格でなくて良かったと思った。
高橋は、義孝から汐が生前彼に宛てた遺書の一部を見せられていた。折りたたまれた遺書の見える部分に、汐の筆跡で確かに汐から義孝に一つの頼みごとが記されていた。
『抱いてくれないか』
文字通りとるならば、抱擁、しかし、汐と義孝の関係を側から眺めていた高橋には、汐と義孝の真の意思が読めてしまった。そしてそこに、高橋は意外にも嫌悪感も拒否感覚えない自分に驚いた。
以前の自分なら嫌悪、吐き気さえ催しただろうに、一切なく、文字通り、そうか、と腑に落ちる。彼らの側に居すぎて、知らぬ間に毒を受けた結果なのかもしれなかった。
「本気か。」
義孝は高橋の質問に答えず、ただ要求を繰り返す。
「私と汐様が二人になれる時間を下さい。棺に納められてからではもう遅い。高橋さん、アンタが番をする時に俺を中へいれてくれ。俺はそもそも番さえさせてもらえない身分です。高橋さん、これは俺の願いでなく、あなた方のボスの願いですよ。そこをわかってくれますね。」
「もしコトの最中に見られたりしたら、お前、本当に、終わりだぞ。そして、俺も終わりだ。」
「大丈夫。汐が守ってくれるから。」
確信に満ちた様子で言う彼に従う以外の選択肢が、高橋には無かった。
義孝は布団の中で汐の遺体にぴったりと同化するように身を寄せ、瞼を閉ざしていた。忍が入って、部屋を回り、高橋と話している。流石、次期当主候補様、勘がよろしいようだ。しかし、ちと度胸が無いよな、汐。
お前だったら戸惑いもせず即座に布団をめくり上げ、闖入者を発見し、大声で笑い立てるだろうよ。
明かりが消え、忍の気配が消え、高橋が障子を閉めてからも義孝は、しばらく冷たい汐に身体を寄せていた。
充分な時間が経ってから、義孝は布団をめくり上げ、白装束のはだけた青白い身体の上に再び身を這わせ始めた。白布をめくりあげる。まだ死斑も出ておらず、死化粧もされていない。
もともとの虚弱体質から来る不自然に透き通って白すぎた皮膚のおかげで、死人となっても彼の容貌は殆ど変わっていないどころか、生前顔面を覆う表情筋が彼のある種の野蛮の性格を現して癖を持ってよく動いていたところが、一切動かないことで歪みもなくなり、美しかった。
その中で半ば開きかけていた口を、義孝が手でもって閉じさせると唇端に笑みに似たものが浮かんだまま固定され、弥勒の微笑むような、先に逝った渚にも似た顔になった。
命の無い冷たい人形になった彼は義孝の思うままに蠢いた。
硫化水素自殺は最も美しく身体を保ったまま死ねる方法の一つである。
汐の魂がこの場に漂っていたら、今の自分達の姿を見て悦ぶに違いなかった。先刻まで、義孝は、頭上を飛ぶ一頭の蛾を汐の魂の依代になぞらえて、汐に覆いかぶさっていた。
いつまでたっても汗ばまない空っぽの身体が、肉となって義孝を受け入れる。返ってくるものはないが、死後硬直が始まった肉体は、今までには無い力強い力で義孝を拒絶しながら同時に受け入れる。
今、障子の向こう側から、穏やかで静かな月光が射しこんで褥を照らしている。
お前は見ている、そう感じる。お間の身体全てが今、死を通して、俺の完全な支配の下にある。
その後、義孝は自分のいた痕跡を消し、屋敷から汐の車に飛び乗って屋敷を出ていった。高橋さえ、義孝が再びこの魔窟へ戻ってくるとは思っていなかった。
忍はあの夜、布団をめくらなかったことを後悔していると同時に安堵していた。今、目の前に立つ男に、あの夜のことを聞く、忍にはどうしてもそれができない。聞いたところで、何とでも言える。忍はそう自分に言い聞かせたが、本心で畏れた。彼が淡々と「ええ、あの晩確かに同衾していました。私が汐様を抱いていたのです。」と答えることを。汐も、義孝も、彼らの配下だった人間も、いつからか、忍の理解からは遠く離れていた。
当主加賀徹が帰ってくるまでの三日三晩の間、義孝は加賀家の古い土蔵の奥で代わる代わる、私刑を受けた。理由は様々、組織に対する不遜の態度、汐の車の無断持出し、拭いきれぬ汐を殺したのではという嫌疑等。
私刑はヤクザの行うにふさわしい壮絶な物だったが、幸いなことには義孝の五体に欠損は出ず、無事であった。それは、忍が父徹、弟汐、それから目の前の不遜な男の怨念、報復を、無意識に考えていたからかもしれなかった。
高橋は2日目夜の時点で彼の帰郷を知ったが、忍を前に、義孝を助けることにより自分の立場、何より自分の配下の者たちが危うくなることを案じ、何もできなかった。高橋は潮凪会の仕事を殆ど引き継ぐような形で高橋組として汐の配下の者たちを引き取り、甲武会の一幹部となっていた。
今では汐の後ろ盾も無く、何をするにも責任が自分にのしかかる。何事も、自分一人の問題ではなくなってしまった。義孝が遁走などせず、あのまま家に残り続ければ、高橋と共に穏便に組に残ることもあり得、高橋も心の隅でそうなることを望んでいたし、汐だってそう思って死んだに違いなかったのだ。だから、高橋は義孝が消えたと聞いて、らしいなと納得したと共に落胆していた。
そのような折の、急の帰還であった。何の説明もなく黙って出ていった挙げ句、忍のところに直接乗り込むなど、少し考えれば彼の逆鱗に触れることがわからないわけがない。高橋はせめて自分を挟んで対面するなどすれば、こんな惨劇は起こらなかったはずなのにと、義孝の行動の意味が測りかねた。それほどに彼も主、義孝が汐を主と思っていたかは謎としても、主を喪ったことで心乱され、判断力を喪失していたとでもいうのか。
加賀徹の帰還により、義孝はすぐさま土蔵から解放され、即時病院に送られた。
全治2か月の大怪我であった。手当にあたった看護師の中に一人、卒倒した者が出た。
2週間ほど経ってようやく高橋は見舞いに行くことにした。助けようと思えば助けられたかもしれないのに、それをしなかった。会わせる顔が無いと思い、なかなか直ぐに駆けつけることができなかったのだ。
義孝には病院の個室を与えられて、そこは高橋も数度訪れた、汐の姉、渚の病室と全く同じ間取りをしていた。高橋が見舞うと、義孝はベッドの上で全身を包帯に巻かれながらも、本人は何も気していないという顔で、身を起こして新聞を広げていた。入ってきた高橋を見て彼は微笑んだ。
「ああ、高橋さん、久しぶりですね。お元気そうで。」
彼は爽やかな調子で言って高橋を見て笑った。顔半分が包帯と眼帯に隠れて見えない。忍からの私刑の凄まじさが伝わってきて直視していられない。しかし、包帯の下の彼の顔は普段と変わらないどころか寧ろ血色よく、生気に満ち満ちていた。
助けに入らなかったことで義孝に恨まれているのではないかと思っていたのが表に出ていたのか、義孝は「ふふ、なにをびくびくしているんですか。」と逆に高橋をからかう様な口をきいた。
「アンタを恨んじゃないよ。寧ろ感謝しかない。忍が俺をああすること位わかっていたし、組長がちょうどいない時期をわざわざ狙って戻ってきたんだから。」
「なに、」
「組長がいたんじゃ、忍の奴、俺を面と向かって虐められなくって、余計に怨嗟を貯め込むだろ。そうすると後から面倒くさいんだ。自由に動きにくくなる。だから、手っ取り早く発散させてやろうと思って。忍があそこで一番で王様してられる時期を伺ってたのさ。指の一本や二本くらい覚悟してたから安いもの。だから助けてくれようなんて考えは逆に、邪魔なことだ。アンタは正しいことをしてくれてたのさ。」
「……」
「それに、この件で余計に物事がはっきりとして、組織の中での俺の存在が明確になったようなものだ。組長は俺に目をかけていて、たかが若造の、チンピラ上がりの俺に、地位とある程度の自由とを与えるのも時間の問題ということが、ハッキリとね。良い意味で想定外なことに、アンタ達以外に見舞いに来てくれたものも少なくなかった。組長がこうして俺を丁重に入院させること、皆の前で、あのプライド高い忍を叱責、流石に手は出ないが金銭の面で罰しまでして灸を据えてくれたこと。この事件が、全組員にも俺のことを知らしめてくれたわけですよ。なるほど何が面白いのかと傍から見ていたが、今になって汐と渚の気持ちが少しわかった気がするな。」
義孝は、ふふふ、と笑って高橋を舐めるように見据えた。高橋は嘗てのボスの面影を見た。
「汐の子飼いだった連中は今、殆ど高橋さんの下にいるんだって?そうだろうな。俺達が、今さら他の腑抜けた奴らとつるめるか。時期が来て、希望する人間がいたら、俺の元に少しよこして下さってもかまいません、きっと、悪い思いはさせません。」
◆
神崎と川名の向かい合う部屋に入ってきた男達の5人の中には、巻も居た。神崎が立ち上がると、川名は思いついたように手を叩いた。神崎は彼の芝居がかった仕草が昔から嫌いで、舌打ちを交りに「なんだよ」と素っ気なく言い捨てた。
「そうだ、お帰りいただく前に、せっかくだから1つ、俺とゲームでもしていかないか。」
川名は懐から手帳を取り出し、ページを2枚千切ってそれぞれに何か書き込んだ後、折りたたんでテーブルの上に並べ、手帳を懐にしまった。
次に川名の懐から手が出てきた時、そこに、拳銃が握られていた。リボルバー式の漆黒の拳銃。ただし銃口は斜め下、テーブルの上に向けられており、誰に向けられている訳でもない。
神崎は川名の取り出した物を見ても思いの外冷静でいる自分に気が付き、冷めた目で川名を見降ろしていた。どこかで彼がただで帰してくれようとは思っていなかったからかもしれない。寧ろ川名の男達、巻以外の4人の方が明らかに動揺を隠せずにいるようだった。
彼は手の中でシリンダーを開放した。開放されたシリンダーの中には実包が1弾だけ装てんされていた。川名はリボルバーから神崎に視線を移して言った。
「1/6の確率だ。どうだ、1発ずつ、試しに自分の頭蓋に向かって撃ってみないか。1周目、1往復無事に終われば、左側の紙片、アンタが彼の無事を目にするために役立つ情報をやるよ。」
彼は手の中で弄ぶようにしてシリンダーを回転させ、閉じた。
「そして、右側の紙片には、今彼がどこにいるかまで書いてある。できるものなら、そのまま彼を迎えにいって持ち帰っても良い。ただし、これが欲しいなら3往復、6回シリンダーが回る。つまり、どちらかが死ぬまでやる。どうだ、俺と遊んでいくか、神崎。アンタが今、何を考えているか当ててやろうか。こんな馬鹿げたゲームなどせず、令状を片手に家宅捜索すれば済む、と、表面上考えている。しかし、今更すぐ令状なんか出るもんか。今までだって簡易なのを除けば、出たためしがない。たとえ出せたとして、発行するまでにはずいぶん時間がかかり、その間にこの情報は双方とも無意味なものになる。情報ってのは鮮度だ。アンタならわかるだろ。」
神崎は川名の前に座りなおし、川名を真正面から見据え、軽く左目を細めた。懐から煙草を取り出し咥えた。川名が灰皿を神崎の方へ滑らし、神崎は一吸いして首を垂れ、俯いたまま煙を吐き、もう一度、川名を、久しくしなかったような力を持った目つきで見たのだった。神崎の顔の上には、怒りとも微笑ともとれる不思議な表情が漂っていた。
「なぁるほどォ……、なるほどねェ……、そいつは……、実にありがたい申し出だぜ、川名、……そう、お前の言う通り、ボンクラだらけだからな、アイツらでは、令状一通出すのに阿保ほど、1世紀ほどかかるかもわからないな。あの阿保、霧野はボンクラ共の中でもまだ随分マシな方な阿保だったから、元々俺がケツ持ち、面倒を見てやってたんだ。だから、そうだな、俺が糞ボンクラ共を代表して、1回分くらい、御屋敷のお嬢様の御遊びに、お付き合いしてさしあげようかな。大体、お前のその情報っていうのも怪しいもんだ。開いたら白紙でしたってこともお前ならやりかねないし、ここに居るのは俺以外全員お前側の人間だ。だから、お前のお遊びに付き合ってやるのは1回だけだ。文句ないな。」
神崎は川名に言い放ったが、背中には汗がつたっていた。今、自分がここで生の命を賭ける程のことが在るのだろうかと考えないではなかった。しかし、何事もリスクなしで何か得ようというのは傲慢だ。霧野がリスクを背負って今俺が今いる場所に居て助けを求めていたかもしれないのに、俺が逃げてどうする。それではいずれ救うにしても、とても顔向けできない。
川名は拳銃をテーブルの中央、2人の間に置き、髪を後ろに撫でつけるようにして触った。
「心配せずとも、ちゃんと書いた。1回だけか。それでも大したもんだ。1回だけでも、1/6なことに変わりはない。16.7%の確率で確実に死ぬ。おいそれと命を賭けられる者はそう多くない。しかも、これは自分のためじゃなく、他人のためにやろうというゲーム、やらなくてもいい勝負だ。たいていの奴、蛆は、やらざる得ない状況になっても最後まで嫌がり、人を気狂い扱いするのだからな。酷いと思わないか?まいったもんだよ。じゃ、どっちが先する?俺はどっちでもいいぞ。」
川名にとって、少なくとも霧野の存在は蛆では無いのだろうと神崎は思った。蛆ならばすぐに殺す、いや殺すという言葉も勿体ない。駆除する。
「どっちでもいいなら、先がいい。1回、されど1回だぜ。念のため確認しておくが、もちろんお前が弾を引当て、この場でおっ死んだら、勿論その紙両方持って、あの阿保も持って帰っていいんだよな?」
神崎は拳銃に手を伸ばし、慣れた手つきでリボルバーを回転させ、閉じた。
「いいよ、俺が死んだら全部意味が無いのだから。神崎さんみたいなのと遊んで死ぬなら本望さ。」
川名は静かにそう言って、表情を長の顔に戻し、配下の男達を見上げ「わかっているな。お前らは正当な審判であり、証人であれ。」と釘を刺した。
「万が一俺が死んでも、この男に決して手を出すんじゃない。巻、もしこの件の結果について不正を働く、もしくは働きかけた奴が居たら、そいつらの名を一人残らず二条に伝えろ。でもな、残念ながら、どうせ俺は死なないのさ、こんなところでは。」
「随分自信があるようだな。まさか、何か仕掛けてるんじゃないだろうな。」
「せっかくアンタと遊べるのに、そんなつまらないことするか。気になるなら、隅々まで点検してくれ。」
念のため調べてみるが、銃に仕掛けは特に見当たらない。一発弾が装てんされているだけだ。
「その煙草、最後の一本になるかもしれないからな、よく味わってから消せよ。」
「言われなくともそのつもりだ。」
神崎は煙草を三分の二程吸ったところで灰皿に押し付けた。また、煙草を止めろと五月蠅かった霧野を思い出してしまった。拳銃をこめかみにあてた。ひんやりとした感触と反対に熱く脈打つ感じ。その時、銃を持つ手が自分の手ではないように感じた。自分の手の上に、もう一つ重なる手がある。そう、まるで霧野の手で銃をこめかみに突き付けられているように感じる。責任を感じているというのか。
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銃の感覚。
緊迫した空気の中でただ一人、目の前の男がとろんと弛緩した甘い目つきで神崎を眺めていた。手が汗ばんできて、震えていた。3秒が経った。3秒とはいえ、神崎の体感ではもっと長く、その間に思考が駆け巡っていた。やめようか、一瞬思う、しかし、ここまで来て、引けない。ここまで来てやめというなら、いっそ、死んだほうがいい。俺のためにも、霧野のためにも。神崎の全身に力が入った。そして、真正面を睨みつけたまま、引き金を引いた。
カチッ!弾は出ない!神崎は、汚物にでも触っていたように手を離し、すぐさま銃をテーブルの上を滑らせた。まだ鼓動が速いまま、収まらないでいる。呼吸が乱れている。川名の視線は神崎から、滑ってくる銃の方へとすとん、と落ちた。
川名は、滑ってくる銃を流れるまま受け止め手にし、何のためらいもなく銃身を自分の口の奥まで突っ込み咥え、引き金に指をかけ、神崎を見ていた。神崎は信じられないもの見るようになって、自分が引き金を引いた時と殆ど同じくらい、心臓をつかまれたような気になって、息をのんだ。化物。
銃身を噛み咥えているせいで、彼の口は大きく横に開いて並んだ歯がよく見え、笑っているように見えた。見開いた瞳は、虹彩が鳶色がかって発色し、その中で皆既日食のように吸い込まれそうな程黒い瞳孔がみるみる拡がっていく。その笑顔に、神崎は直接胃に手を突っ込まれたような吐き気を覚えた。彼は何一つためらいなく、流れ作業のように引き金を引いた。
カチッ、弾は出ない。川名はそのまましばらく銃を噛み咥えたまま神崎を見ていたが、緩慢な動作で口の中から引き出した。さっきまでの笑顔も瞳の色もすっかり掻き消えた。瞼は半ば降りてしまい、眠そうに見える。
「ほらな、死なないだろ。」
彼はつまらなそうにぼやき、濡れた銃をハンカチで丁寧にぬぐい懐にしまった。そして、左側の紙片を神崎の方に指で滑らせて渡し、右側の紙片を握りつぶしながらポケットに入れ立ち上がり、もう神崎の方を振り返りもせず、そのまま部屋の出口に向かった。
「玄関まで送って差し上げろ。丁重にな。」
川名は神崎が屋敷の外に出ていくのを屋敷の中から見送ってから、庭にひらりと降り立った。そのまま庭の闇の奥の方へと一人、歩を進めていく。
「起きてるだろうな。」
黒い箱。檻に向かって声かけた。
川名は足で檻にかけられた黒い布を払い落とし、檻の前に屈みこんで、檻の隅に設置していた小さな機械に手を伸ばした。それは盗聴器の受信機だ。かつて霧野が任務のために使っていたもの。さっきまでの神崎と川名のいた部屋には盗聴器がしこまれ、全てのやり取りが、この小さな檻の中に聞こえるように設置されていた。川名はポケットに入れていたくしゃくしゃの紙片を開きなおし、霧野に見える位置に置いた。
『キリノハルカ ハ スグ メノマエ ニワサキノ オリノナカ !』
川名の手の上に獣の涎が垂れたのを川名はハンカチでぬぐい取った。涎が手の甲に水彩絵の具のように伸びた時、透明な中に微かに何とも美しい鮮血が混ざっているのに気が付いた。
殺意の籠った鋭い獣の視線。川名は視線の元を見て微笑んだ。霧野の首輪から伸びた鎖は短く檻に接合されて、その上に、獣性を高めたノアが覆いかぶさって霧野の背面から、一段と雄を突き立て唸っていた。霧野は血走った眼光を控え、首を垂れて呻くのだったが、ぶるぶる震えながら、よほど歯を食いしばったか、口の中を噛んだか、口から一筋二筋と血を垂れ流しており、床にもところどころ血痕が付いていた。それが、川名の手の上に舞ったのだ。
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川名は言いながら嬉しそうであった。
ノアの獣が中で激しく膨張したらしかった。
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川名は檻の下部に備え付けられた餌を出し入れするための小窓を開いて、ハンカチを差し入れた。
「お前達の行為が終わったら、床を奇麗に拭いておけ。お前のためにあつらえた部屋とはいえ、ここは俺の家の敷地だ。埃1つ落ちていても気になる。奇麗に床掃除まで終わったら、また別の調教がてら少し外の空気を吸わせたり、散歩させたりして遊んでやる。ただし、汚れ一つ残っているようだったら、今日明日は少しの散歩も餌も無しだ。代わりにもう一発ノアに強めの強壮剤を打ち込んでやる。わかったな。」
「ぐ、ぅぅ……」
川名は自分が汚れるのも気にせず徐に檻の中に手を突っ込んだかと思うと、霧野の首輪をわしづかみ、小窓にひきよせ、首輪と首の間で三本の指を折り曲げ、喉ぼとけをぐぅと押し込み顔を近づけた。
「おい゙!返事はどうしたっ!!犬!!」
「ぁ゛、……っ゛、ぐ………ぇ、わん゛……っ、わん゛!」
吠えながら、霧野の瞳は再び殺意と少しの淫欲の表情を持って川名を睨んでいた。指をもう一本足すと、吠え声さえ出なくなって空気を求めて喘いだ。喘ぎ始めると殺意が薄まり、少し媚びるような雰囲気が出る。川名は霧野をよく観察した。殺意が欲望にとりこまれて、もっとキツい責め苦を求めていることを。
「駄犬め、何度目だ、俺が今まで飼育調教してきた歴代の犬の中で、お前は特別駄目な犬だ。ダントツ最下位だな。お前のような駄犬を表に出すのは恥でしかない。せめてお前がノアの仔でも孕めたらまだ使いようもあるのに、それさえできないで!一体何をやっている。ノアはお前などより余程優秀だ。ノアの優秀な精液を少しずつ恵んでもらって、一人前の犬として、まともになることだ。辺境の部族などではイニシエーションとして飲精が未だ行われている。誇り高い戦士がこれから成人する未熟者に精液を恵んでやり、雄として成長させるのだ。」
川名は霧野から手を離し、小窓を閉めた。
背中に恨みと切なさの籠った啼き声を聞きながら、黒い布はそのままに屋敷の方へと取って返した。
巻が、玄関に立っていた。
「巻、奥の部屋へ来い。今から続きをやる。」
巻がすぐさま川名の背後に現れ、彼に付き従った。2つの影が廊下を歩いていく。
「今日のお客様は、刑事さんなのですか。」
「神崎のことだな。ああ、そうだ。なかなか見どころのあるいい男だろう。官職に就いている人間の中に、時々ああいう間違った黒いのがまぎれている。澤野もそうだ。」
「澤野さんはいつまでああなんでしょう。」
「さぁ、いつまで”も”かもしれないし、今夜まで、かもしれない。」
「というと?」
「俺は今、この時点で、神崎も澤野のことも、ある意味、大事と思っている。でも数刻後にはわからない。一時期、神崎のことに、飽いたこともある。あの馬鹿が、もういっそ、どうにもならないなら、殺そうかと計画し寸前まで行ったこともある。しかし、止めたんだ。なぜ急に止めたくなったか、今になって、わからない。覚えてない。俺にとって、都合の悪い記憶なのだろうな。しかし、今、止めて良かったと思っている。ああいう者を、簡単に殺してしまうのはある意味、敗北だ。どうでも良い者とは違うから。奴の、今日の目つきを見たか、あれは人殺しと寸分変わらない目つきをしていた。狂気、俺は感動したよ。もっとおかしくなればいい。いや、もっと正しくなればいい。澤野の奴にも似ているじゃないか。」
奥の部屋に着き、巻は衣服を取り払って寝そべった。その皮膚はなめらかで、背中半分に途中まで彫り込まれた龍が舞い踊っていた。川名は久しくしていなかったこと、人の皮膚に自らの手で絵を刻み始めていた。新しく入ってきた身寄りのない若者か、あるいは死に値する人間の中で、もし良い皮膚を持っている男がいたら、皮を剥ぎとって、もしくは死後の新鮮な肉体を、練習に使おうと思っていたのだ。ブランクも長い。皮で久々に腕を試そうと思っていた。しかし、話してみれば多少の見どころがあり、こうして生きたまま施しを与えることにしたのだ。川名が、入ってきたばかりの巻に、お前の皮が欲しいが、いくらか剥いでも良いか、と声をかけたところ、巻は「全部あげてもいい、そのために別に殺してもいい。」と言ったのだった。
「貴様は自殺志願者か?自殺志願者は基本的にはウチの組には入っちゃいけないことになってるんだ。俺に殺されたい好奇者なら、敵対する組にでも入って、攻めてくることだな。だが俺はもうお前の顔は覚えたから、お前が俺のところに突っ込んでこようが、一切相手にしない。雑魚に一撃で殺させてやるか、よくてノアの肥やしにしてやろう。一体誰がお前みたいのを推挙してウチにいれたんだ。自殺志願者は扱いにくく、弱い。鉄砲玉に使うにしても、生命力があり、イキが良いのが必要だ。その方が失敗の確立がぐんと下がるんだ。これは俺の経験則に基づいて言っている。」
「いいえ、違います。私がさしあげたいと思うから、さしあげるので、自殺志願とは違います。」
「命さえ?」
「ええ、私の父はこことは別の地方のここには到底及ばない、しがないヤクザ者でしたが、ずっと悔いていました。それなりに自分の能力に自負があったのに、使役されず、鉄砲玉にさえなれず、うだつのあがらないまま、年だけ重ね、死んでいくことを。父はその組の長を崇拝していましたが、長は父のことなど、見ていなかった。これは私が父から断片的に聴いた話をまとめているだけなので、真実は全く、違うかもしれません。実際父の死後、組からは様々な恩恵を受けましたからね、恩恵については、母が受け取り、私は全て断り、姿を消しました。私は私が尊敬できる私のことを望む人に、望むこと全てを与えたい、そう思っていました。父の影響が血が、あると思います。だから、貴方の下に入れただけでも嬉しいのに、なおかつ私の肉体の一部を欲しいとまでおっしゃるのだから、どうして断れる、謙遜できるでしょう。だから、これは私の欲望です。強い、穢い、欲望です。でも、もし、それを自殺志願とあなたがおっしゃるなら、否定することは私には到底できません。貴方が私の絶対ですからね。」
「なるほど、理解した。お前のようにはっきり欲望を認識している人間は話が速い。そういうことなら、今のお前のそのままの皮を使わせてもらおう。新参者は先に事務所に回して学ばすことが多いが、お前は皮膚として利用価値がある。試しにしばらく皮としてウチで仕えると良い。そして、空いた時間に別な仕事でも覚えるがいい。しかし、お前がそこまでいうのなら、どこに何をされようが、失敗しようが、泣き言1つ言わないな。」
「ええ、言いません。いくらでも、使って下さい。」
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全12話 本編完結済み
雄っパイ●リ/モブ姦/獣姦/フィスト●ァック/スパンキング/ギ●チン/玩具責め/イ●マ/飲●ー/スカ/搾乳/雄母乳/複数/乳合わせ/リバ/NTR/♡喘ぎ/汚喘ぎ
一文無しとなったオジ兄(陸郎)が金銭目的で実家の工場に忍び込むと、レーン上で後転開脚状態の男が泣き喚きながら●姦されている姿を目撃する。工場の残酷な裏業務を知った陸郎に忍び寄る魔の手。義父や弟から容赦なく責められるR18。甚振られ続ける陸郎は、やがて快楽に溺れていき――。
※闇堕ち、♂♂寄りとなります※
単話ごとのプレイ内容を12本全てに記載致しました。
(登場人物は全員成人済みです)
執事の嗜み
桃瀬わさび
BL
数奇な縁でヴィルフリートの執事となったケヴィンには、裏の顔がある。
当人が「執事の嗜み」とのたまうその手練手管を用いて、ヴィルフリートの異母兄・マティアスにお仕置きをしたのがきっかけで、ケヴィンとマティアスの運命の糸が絡まっていきーーー。
執事✕元王子。
転生したら精霊になったみたいです?のスピンオフです。前作をお読みいただいてからの方が楽しくお読み頂けると思います。
メス堕ち元帥の愉しい騎士性活
環希碧位
BL
政敵の姦計により、捕らわれの身となった騎士二人。
待ち受けるのは身も心も壊し尽くす性奴化調教の数々──
肉体を淫らに改造され、思考すら捻じ曲げられた彼らに待ち受ける運命とは。
非の打ちどころのない高貴な騎士二人を、おちんぽ大好きなマゾメスに堕とすドスケベ小説です。
いわゆる「完堕ちエンド」なので救いはありません。メス堕ち淫乱化したスパダリ騎士が最初から最後まで盛ってアンアン言ってるだけです。
肉体改造を含む調教ものの満漢全席状態になっておりますので、とりあえず、頭の悪いエロ話が読みたい方、男性向けに近いハードな内容のプレイが読みたい方は是非。
※全ての章にハードな成人向描写があります。御注意ください。※
僕が玩具になった理由
Me-ya
BL
🈲R指定🈯
「俺のペットにしてやるよ」
眞司は僕を見下ろしながらそう言った。
🈲R指定🔞
※この作品はフィクションです。
実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
※この小説は他の場所で書いていましたが、携帯が壊れてスマホに替えた時、小説を書いていた場所が分からなくなってしまいました😨
ので、ここで新しく書き直します…。
(他の場所でも、1カ所書いていますが…)
新しいパパは超美人??~母と息子の雌堕ち記録~
焼き芋さん
BL
ママが連れてきたパパは超美人でした。
美しい声、引き締まったボディ、スラリと伸びた美しいおみ足。
スタイルも良くママよりも綺麗…でもそんなパパには太くて立派なおちんちんが付いていました。
これは…そんなパパに快楽地獄に堕とされた母と息子の物語…
※DLsite様でCG集販売の予定あり
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