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警官ごっこは愉しかったか?
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まだ生きてるんですか、アイツ、あれで
男の声が、たびたび黒木の耳のなかに入っては、直ぐ眠りに落ちていく。眠るというより、意識の混濁。昔の夢と悪夢と、現実とを見て、混ざっていく。「死ね!」悪夢の中の黒い輝きが叫び出す。声は次の朝まで耳の奥深くに残っている。耳の中に針を入れていくと、脳に到達する。長いぬいぐるみ針、鋭い針が皮膚や爪の奥に何度も通された。黒木井は床を這いずり回りながら、針を探し回った。一本で良い。細いの一本でいい、奴ら、置き忘れてないだろうか。しかし漆黒の床は己の姿を反射するほどに美しく磨かれて、塵一つも落ちていない。針を入れてそこにいる黒いもやもやを掻きだしたくて、頭を抱えて唸っていた。
次に目を覚ました時、爛れた拷問部屋に見たことが異質なものがひとつあった。畳まれた布生地だ。喪服だとわかり、直ぐに全てを察した。叫び出したい衝動に駆られたが、声が出ず、代わりに、ああああ、と獣じみた声がどこかから聞こえてきて、自分の喉に手を当てるとそこが動いているので、自分から出た声だとわかった。
着ろよ、と頭上から声が降ってくる。久しぶりに衣服に袖を通す作業は不思議な感覚だった。例えば蝉、蝉は脱いで成虫になるのに、人は育てば育つほどに身につけるものが、背負うものが増えていく。人はいくら皮を剝がれても、進化しない。しかし黒木は喪服を着こみながら、本当にそうだろうかと自問した。皮を剥がれるたびに、心の中の何かが変容し、それも一つの進化と言えるのではないか。
知らない男が運転する車の助手席に座りながら、鏡に映った自分があまりにやつれているのに気が付いた。自分の顔を認識するのにしばらく時間がかかる。やはり、進化しているのだろうか。酷い笑顔。隣の男が何か話していたが、何も頭に入ってこない。「はぁ」とか「あぁ……」とか言っていると、煙草を一本咥えさせられ、横から伸びてきた手で、火をつけられた。気持ちが少しだけ落ち着いて、男の言葉を理解できるようになった。車は夜道を走っていく。紫煙が鏡の中の己を霞ませた。見慣れた景色の中を、黒い車が全てを押しのけるように走っていく今が、現実なのか夢なのか、夢なら夢でいいし、現実なら現実でいい。
車の中の電子時計が深夜二時に緑に発光していた。繁華街を抜けて、閑静な住宅街に車は滑り込んで、隣の男は、無表情で瘦せており、機械のようだった。彼は事務的な調子で黒木に時間は30分だけ、きっかり30分後に同じ場所に戻ってくることを指示した。「はい。」ようやく出た声はそれだけだった。
身体の記憶。吸い込まれるように脚が一軒の民家の中に入っていく。彼らがしつらえたのか、民家の鍵は開いていたし、しんとして、自分の他には民家の中に人の気配がない。線香の香りが目に染みる程濃く漂っている。身体が匂いの出所を目指して、光に吸い寄せられる蛾のように、ふわりふわりと、進んでいった。どこか地に足がついてない感覚だ。蛾。民家の中の電気は全て消されて闇に満ちていた。しかし、スイッチをつけなくても、この家の間取りは知っている。
一階奥の和室。目が慣れてくる。白い箱が、棺が暗闇の中で不自然に浮いて見えた。身内で行われる葬儀の最中に、ほんの半刻、忍び込むことを許されたらしい。遠くから虫の啼く音が響いてきていた。虫が脳の中に忍び込んできて、りーんりーん。頭の中で鳴っているようで五月蠅く、それから、喉がまた、いがらっぽくなりはじめた。
ノイズのような自分の呼吸が嫌に大きく感じる。これが夢ではないだろう証だ。乾いた唇の隙間から空気の抜ける音が出ていく。畳はつやつやとして靴下越しの足裏に染みる。長箱の前に佇んで、無意識にポケットを探っていた。見おぼえのある柄のあるライターひとつ、シガレットケースひとつ。鼓動が高まってくる。震える手で煙草を吸って、薄甘い香りが闇の中に渦巻いて溶け、線香の香りを誤魔化した。煙草を吸うことで、ここに自分が居た痕跡が残ってしまうことに思い至ったが、彼らが用意した30分。その後の30分の内に、自分がここに居た痕跡など後かたもなく消されるはずだ。世界から一人の人間を消すのも簡単にやってのける連中なのだから。
目の前のひんやりした長箱をしばらく見降ろして、ゆっくり屈みこんだ。煙草に火が付いたままなのに気が付いて、棺の前に置かれていた線香立ての中にひねりつぶしていれてやった。これくらいでアイツは怒らないだろう。ひんやりとした、アイツが入るには上出来すぎる棺を指でなぞって、小窓を開いたところで、頭がある場所には何もなかった。黒木の口の端に笑みが浮かんでいた。一度小さく息を吸い込んでから、まだ釘打ちされてない棺の蓋を開けて中を覗きこんだ。
石膏像のような人間の断片がある。青白い腕の周囲を、葬儀屋がやったのか、やましいことを誤魔化すように白百合で大げさに飾られて、片腕だけが棺の底に眠っているのだった。また笑みが渇いた口元を歪ませた。重たかった瞼が軽くなっていき、開眼していく。身体の中で死にかけていた百合が首をもたげ始めていた。
土の奥に潜り込むように、棺の底に手を伸ばして、腕の、手首をつかむ。脈を測るように。もちろんそこに脈はなどはなく、骨を感じる。防腐処理された腕からは、百合の香りしか漂わない。鼻の奥を判田が生前吸っていた煙草、香水の匂いが一瞬かすめて、消えた。判田が生前つけていた香水とは正反対の清らかな香りが棺からは漂っていた。強く握る。まだ、肉感がある。手首から、するする手を這わせ、死体の指に、自分の生きた指を埋めるように絡めて、指を絡めようとした。死後硬直した白く硬い肉片は黒木を拒絶するように軋んで最初うまくいかなかったが、何度も、ぎしぎしと、無理やり開かせるようにして、指と指を絡ませ、握った。再び心臓の高まり、熱が彼との皮膚の間を満たした。結局、彼そのものが隣に居た時には、一度もできなかったことだ。想像もしなかった。体温はもう永遠にそちらには伝わらないが、彼が生きていたとして、今のようにできていたかといえば、きっとできない。
棺の縁にもたれながら、そのまま目を閉じると、ありありと、もう、消しかけていた、彼の姿が瞼の裏に浮かぶのだった。初めて声をかけられた時のこと、笑った時の顔、怒った時の顔、匂い、良い遊び、悪い遊びをしたこと、やりたくない仕事をさせられたこと、刺した時の柔らかな肉の感覚、唇、彼の内臓と、血の温かさ、全てが、混濁していた意識を冴えさせていく。
握りあった手の間に、異質な感覚、彼の手が握り返してきたように思えたがそうではなかった。生ぬるいものが手と手の境い目に滴って、目を開くと、次から次へと生暖かい雫が、彼らの指と指の微かに開いた隙間をすっかり塞ぐように、目から堕ちていくのだった。握られている方の手が動かないが、握っていた方の腕が、がくがくと震えだした。限界だ。もう手を離したいのに、放すことができず、向こうが放してくれないように思われ、離したいと思う程手に力が入り、骨を折るほどに、余計に強く握ってしまう。判田の骨が軋む音がするが悲鳴一つ上げない。折っても、何も言わない。俯いた。畳の上にもっと大粒の雫が垂れていくのを、他人事のように眺めていた。雫の後を膝でぬぐってもぬぐっても、溢れるのだった。諦めて雫の流れるままにしている内に、頭の中にある虫も一緒に流れ出ていってほしいと思った。どれくらい経っただろう、壁に架けられた時計の針が、カチと音を立てるのを聞いて、この現実、時間のことをはっきり意識させられた。硬く握っていた手の筋肉の感触がようやく和らいできて、手を離して、顔を上げた。
時計の秒針がやけに大きく音を立て始め、虫の声が遠くに差って言った。チクチク、さっきまで生きているように見えた腕は、今はもうただの彫像だった。涙を流す資格など無い。今更手を握って感傷に浸る資格など、自分にはない。何もかもが遅すぎる。生きるべき人間を殺して、死ぬべき人間が生きている。自殺などできない、これはお前からの刑罰でもあるのだから。
重い身体を引きずるようにして、蓋をぴったり閉ざして立ち上がった。彼に、いや、もはや物にすぎない塊に、背を向けた。背後から呼ばれたような気がしたが、振り返らない。振り返ったら、また逃げ出そうとするだろう。幻想を抱え込むだろう。すべて、自分の都合の良い妄想なのだ。
◆
街から離れた丘の上、半ば大破しヘッドライトの片方とれた美里の車の横に、黒木と美里は立っていた。
「本当に来るのかよ、アイツ。」
美里は苛々した調子でスマホを眺めていた。ちょうどその時丘の向こうから一台の黒い外国車がやってきて、二人の前にゆったりとした調子で止まった。八代一人だった。彼は後部座席からトランクを引っ張り出して二人の前にどさりと置いて、そのまま去ろうとする。
「じゃあ私はこれで」
「待てよ。」
八代が帰りかけるのを黒木が諫めた。八代が面倒くさげな眼を黒木に向けた。
「中身を確認してからじゃないとな。受け渡しの基本だろ。」
八代は、どうぞお好きに、というように手を広げた。黒木は美里を振り返った。
「君が開けな。」
美里は意外そうな顔を一瞬浮かべたが、黙って置かれたトランクケースの側に屈みこみ、黒木は背後に下がった。開いた瞬間、風に乗って黒木の方まで獣くさい蒸れた臭いがし、もろに臭いを受けたらしい美里は反射的に腕で鼻と口を覆っていた。臭いは風にのり多少は薄まって、彼は顔を覆っていた腕を外しトランクの中に手を伸ばしていった。黒木からは、美里に重なって中身の頭が見えないが、1人の人間が胎児のような格好で格納されているのが見えた。黒木は八代の方へ冷めた目を向けた。
「万が一死着なら貴様の死を持って償ってもらうぞ。」
八代は苦笑いして、トランクの方には、もう興味を失ったとでもいうように、一瞥もくれずに黒木を見ていた。
「強めの薬を打っただけだ。良く寝てるよ。あと一時間くらいは起きないだろうな。」
八代は腕時計を見て、時間を気にして居るそぶりを見せた。
「何だ?忙しいってか。30分も約束の時間を破っておいて。謝罪も無しか。」
黒木は揶揄するように言ってトランクの向こう側に居る八代の方にずかずかと回り込んで顔を近づけた。
「ダルいからよォ~、一体コイツと何をいちゃこらしてたのかいちいち聞く気もないけど、随分遊んだくせして、約束の時間にも遅れてくるってのはどうなのォ~?」
「……。」
八代はまた面倒くさそうに目を細め「あーあー、悪かったよ、ちゃんと返したんだから文句言うなよ。」と言ってさっさと車に乗り込もうとする。黒木はまだ言い足りないことがあったが、絡むのも億劫で、どうしても気が収まらなければ川名にチクるという手もある。それが八代にとって最も痛手のはずだ。それよりも中身のことの方を気にすることにした。さっさと運び出すに越したことはない。美里が彼の近くに屈んだまま動く気がない。見れば、背後から脈を確認するように手を握っているのが見えてしまった。黒木はポケットに手を突っ込んでしばらく彼らを眺めていた。風が吹いて、ごう、と谷を滑り、音を立てた。
「俺が抱え出すから、君は空のトランクの方を積んでくれ。」
美里は声をかけられると素早く手を離して立ち上がった。黒木は見なかったふりをして気さくにそう言った。霧野を引きずり出した。霧野の身体は相変わらず重かった。抱え上げながら、そういえば、こんな風に彼を運ぶのは二度目だと思った。
◆
「ああ、起きたのか。」
霧野は走行する見慣れた車の後部座席で寝かされていた身を起こした。黒字のTシャツと短パンを着せられていた。ヘリオガバルスのロゴマークが入っている。身体がまだ重く、痛むが、珍しいことには、どこにも拘束は施されていなかった。首輪さえ外されて。間宮が助手席から覗き込むようにして、後部座席に起き上がった霧野を見ていた。それからバックミラーに目をやると運転している美里とミラー越しに目が合ったが、彼は舌打ちをしすぐ前を向いてしまった。憎しみの籠った眼だった。開けっぱなしにされた窓から、ごうごうと激しく風が車の中を通過していって、美里は大声で叫ぶように言った。
「くっせぇんだよてめェ!どんだけ換気してもおさまらねぇ。てめェの臭いで車が臭くて臭くてたまんねぇんだよ、お前ら2人して、俺の車をどうしたいわけ?しねよ!まったく!」
彼はそう言ってアクセルを踏み込むのだった。
間宮は霧野の前で、やれやれという顔をして美里とは対照的な笑顔を見せるのだった。
「霧野さん、これから風呂屋に行くんだよ。ああ、ソープじゃないぜ!本当の風呂屋、銭湯さ。アンタも行ったことがあるだろ。俺達が行ける時間に貸しきりにしてくれた。久しぶりの風呂だぜ。嬉しいだろ~。」
ヤクザでなくとも刺青の入った人間の入湯を断る銭湯が多い中、この街に一つだけ、自分達を受け入れてくる風呂屋がある。前もって連絡をしておけば、本来閉まっている時間に使わせてくれることも可能だ。昔から組と親交があるらしい、昔ながらの銭湯だった。
「ああ……」
霧野は起きたばかりにしても、頭が異様にぼんやりとしていた。身体の奥の方に、強い憎しみがあるのがはっきりわかるのに、それが表に出てこない。憎しみは、間宮の顔を見ている内に心の底の方へ沈んでいった。
「変な真似したら風呂抜きでその穢ぇ臭ぇ身体のまま次の目的地に直行して死ぬほどしごいてやるからな!」
美里が怒鳴りながら、煙草の煙を吐いた。
貸し切りとは、川名組の貸し切りであり、間宮と美里の他に、既に何人か顔のみ知った刺青の入った男達が脱衣所にたむろしていた。互いに身体をじろじろと見合うようなことはないが、霧野の拷問を受けた、まるで戦場がえりのような肢体を、美里と間宮のそれぞれの特徴的な肉体が他者の視線を誤魔化してくれるのだった。
常に二人の監視の視線を受けながらになるとしても、人間らしい自然な振る舞い、行為、入浴であった。
監視されている関係上、度々彼ら2人とは目が合う。目が合うと美里は不機嫌に眉間にしわを寄せ、間宮は反対に怪しいくらいに朗らかな笑みを浮かべた。頭を洗い流している間に、左隣に大きな気配を感じ、薄眼を開けると間宮がどっかりと座っていた。彼は自分の背中を流しながら、独り言のように「最悪だったろ?アイツら。」と気さくな調子で言った。霧野は、お前が言える口か、と口から出かかった言葉を止め、黙っていた。
「……。」
「俺は何があったか知らないし、聞いてない。」
間宮はそう言いながら頭を洗っていた。
ああ、そう、と曖昧な返事をした。シャワーからあふれ出る湯に身体が痛み、染みたが、汗やその他体液が流れ、それでも気持ちが良さが大いに勝った。
「どこまで行ったって腐ってるよ。」
隣からまた離しかけられる。
「何が?」
間宮は先に頭を流し終え、ぶるぶると獣のように身体を震わせて、横目で霧野を見て微笑んだ。
「そんなこと、俺の口からわざわざ言わなくても、自分が一番わかってるくせに。」
酷く落ち着いた、低い声だった。それ以上の会話は無かった。今日のお前なんか変だぜ、と言いたかったが、お互い様な気がした。
湯船の奥の方に美里が浸かっていた。湯気の充満する大浴場で脚を伸ばして、当然霧野が自分の側に来るかのような空間をわざと空けているように見えた。湯けむりの中でも、ここが男風呂か錯覚するような清らな肉体が温まって紅潮しながら湯の中にのびる。彼は両腕を壁側の縁にかけて、霧野を見上げて、ようやく皮肉な笑みを浮かべるのだった。
「愉しかったか?」
霧野は黙ったまま少し離れて彼の横に浸かった。霧野が黙っていると、彼はもう一度念を押すようにゆっくり言った。
「久々の警官ごっこは愉しかったか?」
先刻あそこであったことに限れば、警官ごっこと言うより、ヤクザごっこに違いなかった。本当は自分が誰か、あそこで主張と言う手も無いでもなかった。しかし、信用されたかと言えば、八代もいることもあり、おそらくあの二人に信用されることはなく恥をかくだけであり、奇跡的に信用されたとして、一生醜聞が付きまとうのだから、素性を明かすことはどちらにしてもできなかった。美里は霧野の黙っている煩悶の表情を愉しんで気が済んだのか、わざとらしく話題を変えた。
「それにしても、いつ入っても熱いな、ここは。」
数度、ここで彼と風呂に入ったことがあったが、霧野はそもそも自分以外の男の身体に目が行ったことが無かったから、今までは彼の肉体についての記憶がほとんど無かったのだった。湯の表面の揺らめきの下にある細身の肉の締った身体にはところどころ痣があったが、それすらも気にならない形をしていた。怪我の原因を聞いたら、また彼は機嫌を悪くするだろうと思い、霧野は黙ったままたった数刻のこの時間を有意義に使うことにした。
どれほど長い間湯につかっていたかわからないが、身体は、芯から温まっていくのだった。二人は霧野を急かすこともなく、三人そろって風呂を後にした。
◆
銭湯を後にして、美里は間宮と共に霧野を川名の屋敷に送り届けた。間宮とはその場で別れた。迎えにいった霧野を風呂に入れて奇麗にして、彼の家まで送り届けることが川名から命じられたことだった。門をたたくと、川名の代わりに愛人の女がノアと一緒に門の外にまで出てきて、「ご苦労様でした」と、霧野と荷物とを受け取るのだった。
ノアはやってきた霧野を歓迎するように身体を霧野の脚元にこすり付けてちぎれるそうな程に尻尾をふっていた。霧野はそれを払いたがっていたが、ノアは余計にまとわりついて、めずらしく、高い声できゃうきゃう吠えさえした。女は礼を言って霧野を連れ、厚く黒い門は閉ざれた。しん、としている。閉ざされた門の向こう側に居る霧野が、何も言わず、こちらを振り返りもしなかったことが、美里の心をざわつかせた。
川名は、屋敷の中にいるはずだった。今まで美里が訪れる時は、本人が直接出てくることがほとんどだった。だから、今回も、それも霧野の件だから、本人が出てきても良いはずなのに彼は屋敷の奥にこもって出てこない。一言二言、彼に言いたいことがあったが、代わりに女を出してくるとは。
車の修理費は、間宮のポケットマネーではなく、組の経費から出るという。
車を修理屋に回してから、美里はまた繁華街を徘徊していた。誰もいない家に帰りたくなかった。大破した高級車のように、ブランド物の家具も、服も、家さえも、なにもかも、全部、燃えてなくなってしまっても良い気がした。ただ一つ欲しい物さえ手に入らないのに、馬鹿らしい。似鳥のところにも今は行く気もしない。行きつけの店には行きにくくなった。自分の蒔いた種だった。自分のまいた種で自分をがんじがらめにして、行き場所を失い続けて生きている。
どこからか、赤子のような鳴き声が聞こえてきた。酔ったせいかと思ったが、薄汚い路地の奥の方から確かに聞こえるのだった。ふらふらと導かれるように音のする方に歩いていく。いりくんだ路地の奥へ潜る程に、喧騒が背後に遠のいて、辺りの闇が濃く、深くなる。居酒屋から出た生ごみの据えた臭いがしたが、そのまま進んでいった。路地奥のゴミだめの底に何か黄色く光っている。
ライターに火をつけて屈みこんだ。ボロ雑巾か何かと見違えるような物が動いていた。よくよく目を凝らせば、子猫が血を流しながら泥の中をを這いまわっていた。誰かが悪戯したのか左前脚と右後脚の関節が反対の方に曲がっていた。ゴミとは違う腐敗臭も漂い、泥と血にまみれて生きているのが不思議なほどで、生き物としては完全に終わっていた。
美里はしばらくゴミの中で這いまわる不具の猫を眺めていた。動かなくなるまで見ていてやろうと思ったのだ。しかし、鳴くほどに、動くほどに、命をすり減らし痛みを増すだけと言うのに、猫は一向に止まることなく、生きようとしていることが分かった。
「んだよ……、しぶてぇ奴だなァ……イライラするんだよ……」
美里はライターを消し勢いよく立ち上がり、猫の上に左脚を振り上げた。獣がひときわ大きくわなないた。
脚がゆっくりと再び地面を踏みしめていた。美里は今度は火を灯さず、闇の中に屈みこんで、しばらくそうしていた。身体が闇の中に溶け込んで、獣の呻き声と這いずり回る音だけが響いていた。気が付くと、腕が獣の方に伸びて、両腕に臭い塊を抱え込んでいた。
「あーあ、何やってんだ俺は。」
抱え込んだ瞬間に胸に激しい痛みを感じ、後悔した。小さくせに一人前の鋭い爪でシャツ越しに胸を激しくひっかかれていた。
「ほほぉ、なるほど、コイツは腕の1本や2本折られても仕方がねぇ奴だな。」
シャツに血がにじんでいた。暴れまわる死にかけの猫をがっしりと抱えこんだまま、美里は姫宮診療所に向かった。その間にも腕に胸にひっかき傷が増えた。
「……なんだいそれは。」
姫宮は束ねていない長い髪をかきむしるようにしながら、深夜に訪れた美里を欠伸をして見下ろしていたが、すぐに「わかったわかった……」とため息まじりに言って、1人と一匹を、中に入れてくれた。姫宮は、暴れる猫の爪を自分に一切掠めさせることも許さず、美里と対称的に無傷のまま、こなれた様子で猫を洗い、治療を施していった。
猫は治療され薬を打たれ、すぐに眠り始めた。姫宮は一仕事終え煙草をふかしながら、ゴミから猫の形にかろうじてもどったそれをタオルを引いた籠に横たえた。
「ま、明日生きてるか死んでるかは五分五分だな、でも、生き残ったとしても、一生普通には歩くことはできないだろう。便だってマトモにできるかどうかな。要介護だ。こんなの逃がしたって結局すぐ死ぬよ。殺してやった方が俺は良いと思うけど。まさか君が飼う気なのか?飼えるの?ここに置いて行かれるのが一番困るよ。」
美里は、もし猫をこのままにして去れば姫宮は何の感慨も無くこれをダストボックスに入れるだろうと思った。
「さぁ、わからんです。今日、ここで寝ても良いですか。」
「ああ、ああ、ご勝手に。好きにすると良い。君らに振り回されるのにはもう慣れたよ。じゃ、もし明日の朝になっても生きてたら教えてくれ。治療の続きをしてやるよ。おや、随分としゃれた服の模様かと思ったら、君も怪我してるじゃないか。そいつにやられたのか?ほっといたら破傷風になるぜ、そこの消毒液を使いなよ。君の自業自得の治療まで俺がやってやる義理はないからね。」
姫宮は再び欠伸をして診療所の奥に引っ込んだ。
残された美里は自分の治療を済ませて、猫の横たわった籠の傍らに置いた椅子に座り込んだ。消毒液が身体中に染みた。猫の横で、一睡もできないまま、朝まで同じ姿勢で椅子に腰かけていた。家に睡眠薬を忘れた。
姫宮が起きてきたのは朝の11時で、猫はまだしぶとく生きていた。姫宮はやれやれといいながら、約束通り治療の続きと、美里にもできる猫の介抱の仕方を教えた。猫はまだ食べ物を受け付けないらしく、ミルク交じりの白いゲロを吐いて、また臭くなったのを美里が洗い流した。
「間宮の記憶障害が治ることってあるんですか。」
美里は、引っ掻かれながら猫を洗っている最中にふと思い出したことを聞いた。
「ああ、あるよ。ある程度はまだ。」
姫宮はさらりと答えた。
「ただ二条も本人も、そして俺も、治療をしたく、ないんでね。」
「本人も?」
「そうだよ、誰にも思い出したくもないことのひとつやふたつくらいあるだろう。」
「ひとつやふたつどころじゃないけどね。」
美里は猫の吐いたゲロを片付けながら言った。また猫の体液が洗ったばかりの服を汚したが、服の1つや2つどうでもよかった。姫宮が一瞬獲物を見る獣のような眼になったのを美里は横目で見て鼻で笑った。人の不幸を食い物にする人間はすぐにわかる。
「あんな阿保になるのはごめんだ。姫宮先生、俺はアンタの実験動物じゃありませんよ。アンタの精神分析なんか俺は受けなくても大丈夫だ。大丈夫。」
姫宮は、美里が自分に言い聞かせるように呟いているのを見て、自分の口元が緩みかけるのを抑えた。猫からは、昨夜と違って温かな香りがし始めていた。姫宮はこれから診察があるからと、言い残して、書斎に戻った。姫宮の書斎には書籍、書類、医療器具、酒瓶、吸いさしの煙草などが雑多に置かれていたが、本人の法則に従って置かれていて、姫宮にだけはどこに何があるかはすぐにわかるのだった。
日光が樫の木でできた上等な戸棚に光線を浴びせていた。光線はまっすぐに、一番高い位置に置かれた瓶詰めの中の肉体を照らしていた。姫宮は光に目を細めた。塵がきらきらと陽光の中を輝きながら舞っていた。
「今日もいい天気だね、間宮君。」
男の声が、たびたび黒木の耳のなかに入っては、直ぐ眠りに落ちていく。眠るというより、意識の混濁。昔の夢と悪夢と、現実とを見て、混ざっていく。「死ね!」悪夢の中の黒い輝きが叫び出す。声は次の朝まで耳の奥深くに残っている。耳の中に針を入れていくと、脳に到達する。長いぬいぐるみ針、鋭い針が皮膚や爪の奥に何度も通された。黒木井は床を這いずり回りながら、針を探し回った。一本で良い。細いの一本でいい、奴ら、置き忘れてないだろうか。しかし漆黒の床は己の姿を反射するほどに美しく磨かれて、塵一つも落ちていない。針を入れてそこにいる黒いもやもやを掻きだしたくて、頭を抱えて唸っていた。
次に目を覚ました時、爛れた拷問部屋に見たことが異質なものがひとつあった。畳まれた布生地だ。喪服だとわかり、直ぐに全てを察した。叫び出したい衝動に駆られたが、声が出ず、代わりに、ああああ、と獣じみた声がどこかから聞こえてきて、自分の喉に手を当てるとそこが動いているので、自分から出た声だとわかった。
着ろよ、と頭上から声が降ってくる。久しぶりに衣服に袖を通す作業は不思議な感覚だった。例えば蝉、蝉は脱いで成虫になるのに、人は育てば育つほどに身につけるものが、背負うものが増えていく。人はいくら皮を剝がれても、進化しない。しかし黒木は喪服を着こみながら、本当にそうだろうかと自問した。皮を剥がれるたびに、心の中の何かが変容し、それも一つの進化と言えるのではないか。
知らない男が運転する車の助手席に座りながら、鏡に映った自分があまりにやつれているのに気が付いた。自分の顔を認識するのにしばらく時間がかかる。やはり、進化しているのだろうか。酷い笑顔。隣の男が何か話していたが、何も頭に入ってこない。「はぁ」とか「あぁ……」とか言っていると、煙草を一本咥えさせられ、横から伸びてきた手で、火をつけられた。気持ちが少しだけ落ち着いて、男の言葉を理解できるようになった。車は夜道を走っていく。紫煙が鏡の中の己を霞ませた。見慣れた景色の中を、黒い車が全てを押しのけるように走っていく今が、現実なのか夢なのか、夢なら夢でいいし、現実なら現実でいい。
車の中の電子時計が深夜二時に緑に発光していた。繁華街を抜けて、閑静な住宅街に車は滑り込んで、隣の男は、無表情で瘦せており、機械のようだった。彼は事務的な調子で黒木に時間は30分だけ、きっかり30分後に同じ場所に戻ってくることを指示した。「はい。」ようやく出た声はそれだけだった。
身体の記憶。吸い込まれるように脚が一軒の民家の中に入っていく。彼らがしつらえたのか、民家の鍵は開いていたし、しんとして、自分の他には民家の中に人の気配がない。線香の香りが目に染みる程濃く漂っている。身体が匂いの出所を目指して、光に吸い寄せられる蛾のように、ふわりふわりと、進んでいった。どこか地に足がついてない感覚だ。蛾。民家の中の電気は全て消されて闇に満ちていた。しかし、スイッチをつけなくても、この家の間取りは知っている。
一階奥の和室。目が慣れてくる。白い箱が、棺が暗闇の中で不自然に浮いて見えた。身内で行われる葬儀の最中に、ほんの半刻、忍び込むことを許されたらしい。遠くから虫の啼く音が響いてきていた。虫が脳の中に忍び込んできて、りーんりーん。頭の中で鳴っているようで五月蠅く、それから、喉がまた、いがらっぽくなりはじめた。
ノイズのような自分の呼吸が嫌に大きく感じる。これが夢ではないだろう証だ。乾いた唇の隙間から空気の抜ける音が出ていく。畳はつやつやとして靴下越しの足裏に染みる。長箱の前に佇んで、無意識にポケットを探っていた。見おぼえのある柄のあるライターひとつ、シガレットケースひとつ。鼓動が高まってくる。震える手で煙草を吸って、薄甘い香りが闇の中に渦巻いて溶け、線香の香りを誤魔化した。煙草を吸うことで、ここに自分が居た痕跡が残ってしまうことに思い至ったが、彼らが用意した30分。その後の30分の内に、自分がここに居た痕跡など後かたもなく消されるはずだ。世界から一人の人間を消すのも簡単にやってのける連中なのだから。
目の前のひんやりした長箱をしばらく見降ろして、ゆっくり屈みこんだ。煙草に火が付いたままなのに気が付いて、棺の前に置かれていた線香立ての中にひねりつぶしていれてやった。これくらいでアイツは怒らないだろう。ひんやりとした、アイツが入るには上出来すぎる棺を指でなぞって、小窓を開いたところで、頭がある場所には何もなかった。黒木の口の端に笑みが浮かんでいた。一度小さく息を吸い込んでから、まだ釘打ちされてない棺の蓋を開けて中を覗きこんだ。
石膏像のような人間の断片がある。青白い腕の周囲を、葬儀屋がやったのか、やましいことを誤魔化すように白百合で大げさに飾られて、片腕だけが棺の底に眠っているのだった。また笑みが渇いた口元を歪ませた。重たかった瞼が軽くなっていき、開眼していく。身体の中で死にかけていた百合が首をもたげ始めていた。
土の奥に潜り込むように、棺の底に手を伸ばして、腕の、手首をつかむ。脈を測るように。もちろんそこに脈はなどはなく、骨を感じる。防腐処理された腕からは、百合の香りしか漂わない。鼻の奥を判田が生前吸っていた煙草、香水の匂いが一瞬かすめて、消えた。判田が生前つけていた香水とは正反対の清らかな香りが棺からは漂っていた。強く握る。まだ、肉感がある。手首から、するする手を這わせ、死体の指に、自分の生きた指を埋めるように絡めて、指を絡めようとした。死後硬直した白く硬い肉片は黒木を拒絶するように軋んで最初うまくいかなかったが、何度も、ぎしぎしと、無理やり開かせるようにして、指と指を絡ませ、握った。再び心臓の高まり、熱が彼との皮膚の間を満たした。結局、彼そのものが隣に居た時には、一度もできなかったことだ。想像もしなかった。体温はもう永遠にそちらには伝わらないが、彼が生きていたとして、今のようにできていたかといえば、きっとできない。
棺の縁にもたれながら、そのまま目を閉じると、ありありと、もう、消しかけていた、彼の姿が瞼の裏に浮かぶのだった。初めて声をかけられた時のこと、笑った時の顔、怒った時の顔、匂い、良い遊び、悪い遊びをしたこと、やりたくない仕事をさせられたこと、刺した時の柔らかな肉の感覚、唇、彼の内臓と、血の温かさ、全てが、混濁していた意識を冴えさせていく。
握りあった手の間に、異質な感覚、彼の手が握り返してきたように思えたがそうではなかった。生ぬるいものが手と手の境い目に滴って、目を開くと、次から次へと生暖かい雫が、彼らの指と指の微かに開いた隙間をすっかり塞ぐように、目から堕ちていくのだった。握られている方の手が動かないが、握っていた方の腕が、がくがくと震えだした。限界だ。もう手を離したいのに、放すことができず、向こうが放してくれないように思われ、離したいと思う程手に力が入り、骨を折るほどに、余計に強く握ってしまう。判田の骨が軋む音がするが悲鳴一つ上げない。折っても、何も言わない。俯いた。畳の上にもっと大粒の雫が垂れていくのを、他人事のように眺めていた。雫の後を膝でぬぐってもぬぐっても、溢れるのだった。諦めて雫の流れるままにしている内に、頭の中にある虫も一緒に流れ出ていってほしいと思った。どれくらい経っただろう、壁に架けられた時計の針が、カチと音を立てるのを聞いて、この現実、時間のことをはっきり意識させられた。硬く握っていた手の筋肉の感触がようやく和らいできて、手を離して、顔を上げた。
時計の秒針がやけに大きく音を立て始め、虫の声が遠くに差って言った。チクチク、さっきまで生きているように見えた腕は、今はもうただの彫像だった。涙を流す資格など無い。今更手を握って感傷に浸る資格など、自分にはない。何もかもが遅すぎる。生きるべき人間を殺して、死ぬべき人間が生きている。自殺などできない、これはお前からの刑罰でもあるのだから。
重い身体を引きずるようにして、蓋をぴったり閉ざして立ち上がった。彼に、いや、もはや物にすぎない塊に、背を向けた。背後から呼ばれたような気がしたが、振り返らない。振り返ったら、また逃げ出そうとするだろう。幻想を抱え込むだろう。すべて、自分の都合の良い妄想なのだ。
◆
街から離れた丘の上、半ば大破しヘッドライトの片方とれた美里の車の横に、黒木と美里は立っていた。
「本当に来るのかよ、アイツ。」
美里は苛々した調子でスマホを眺めていた。ちょうどその時丘の向こうから一台の黒い外国車がやってきて、二人の前にゆったりとした調子で止まった。八代一人だった。彼は後部座席からトランクを引っ張り出して二人の前にどさりと置いて、そのまま去ろうとする。
「じゃあ私はこれで」
「待てよ。」
八代が帰りかけるのを黒木が諫めた。八代が面倒くさげな眼を黒木に向けた。
「中身を確認してからじゃないとな。受け渡しの基本だろ。」
八代は、どうぞお好きに、というように手を広げた。黒木は美里を振り返った。
「君が開けな。」
美里は意外そうな顔を一瞬浮かべたが、黙って置かれたトランクケースの側に屈みこみ、黒木は背後に下がった。開いた瞬間、風に乗って黒木の方まで獣くさい蒸れた臭いがし、もろに臭いを受けたらしい美里は反射的に腕で鼻と口を覆っていた。臭いは風にのり多少は薄まって、彼は顔を覆っていた腕を外しトランクの中に手を伸ばしていった。黒木からは、美里に重なって中身の頭が見えないが、1人の人間が胎児のような格好で格納されているのが見えた。黒木は八代の方へ冷めた目を向けた。
「万が一死着なら貴様の死を持って償ってもらうぞ。」
八代は苦笑いして、トランクの方には、もう興味を失ったとでもいうように、一瞥もくれずに黒木を見ていた。
「強めの薬を打っただけだ。良く寝てるよ。あと一時間くらいは起きないだろうな。」
八代は腕時計を見て、時間を気にして居るそぶりを見せた。
「何だ?忙しいってか。30分も約束の時間を破っておいて。謝罪も無しか。」
黒木は揶揄するように言ってトランクの向こう側に居る八代の方にずかずかと回り込んで顔を近づけた。
「ダルいからよォ~、一体コイツと何をいちゃこらしてたのかいちいち聞く気もないけど、随分遊んだくせして、約束の時間にも遅れてくるってのはどうなのォ~?」
「……。」
八代はまた面倒くさそうに目を細め「あーあー、悪かったよ、ちゃんと返したんだから文句言うなよ。」と言ってさっさと車に乗り込もうとする。黒木はまだ言い足りないことがあったが、絡むのも億劫で、どうしても気が収まらなければ川名にチクるという手もある。それが八代にとって最も痛手のはずだ。それよりも中身のことの方を気にすることにした。さっさと運び出すに越したことはない。美里が彼の近くに屈んだまま動く気がない。見れば、背後から脈を確認するように手を握っているのが見えてしまった。黒木はポケットに手を突っ込んでしばらく彼らを眺めていた。風が吹いて、ごう、と谷を滑り、音を立てた。
「俺が抱え出すから、君は空のトランクの方を積んでくれ。」
美里は声をかけられると素早く手を離して立ち上がった。黒木は見なかったふりをして気さくにそう言った。霧野を引きずり出した。霧野の身体は相変わらず重かった。抱え上げながら、そういえば、こんな風に彼を運ぶのは二度目だと思った。
◆
「ああ、起きたのか。」
霧野は走行する見慣れた車の後部座席で寝かされていた身を起こした。黒字のTシャツと短パンを着せられていた。ヘリオガバルスのロゴマークが入っている。身体がまだ重く、痛むが、珍しいことには、どこにも拘束は施されていなかった。首輪さえ外されて。間宮が助手席から覗き込むようにして、後部座席に起き上がった霧野を見ていた。それからバックミラーに目をやると運転している美里とミラー越しに目が合ったが、彼は舌打ちをしすぐ前を向いてしまった。憎しみの籠った眼だった。開けっぱなしにされた窓から、ごうごうと激しく風が車の中を通過していって、美里は大声で叫ぶように言った。
「くっせぇんだよてめェ!どんだけ換気してもおさまらねぇ。てめェの臭いで車が臭くて臭くてたまんねぇんだよ、お前ら2人して、俺の車をどうしたいわけ?しねよ!まったく!」
彼はそう言ってアクセルを踏み込むのだった。
間宮は霧野の前で、やれやれという顔をして美里とは対照的な笑顔を見せるのだった。
「霧野さん、これから風呂屋に行くんだよ。ああ、ソープじゃないぜ!本当の風呂屋、銭湯さ。アンタも行ったことがあるだろ。俺達が行ける時間に貸しきりにしてくれた。久しぶりの風呂だぜ。嬉しいだろ~。」
ヤクザでなくとも刺青の入った人間の入湯を断る銭湯が多い中、この街に一つだけ、自分達を受け入れてくる風呂屋がある。前もって連絡をしておけば、本来閉まっている時間に使わせてくれることも可能だ。昔から組と親交があるらしい、昔ながらの銭湯だった。
「ああ……」
霧野は起きたばかりにしても、頭が異様にぼんやりとしていた。身体の奥の方に、強い憎しみがあるのがはっきりわかるのに、それが表に出てこない。憎しみは、間宮の顔を見ている内に心の底の方へ沈んでいった。
「変な真似したら風呂抜きでその穢ぇ臭ぇ身体のまま次の目的地に直行して死ぬほどしごいてやるからな!」
美里が怒鳴りながら、煙草の煙を吐いた。
貸し切りとは、川名組の貸し切りであり、間宮と美里の他に、既に何人か顔のみ知った刺青の入った男達が脱衣所にたむろしていた。互いに身体をじろじろと見合うようなことはないが、霧野の拷問を受けた、まるで戦場がえりのような肢体を、美里と間宮のそれぞれの特徴的な肉体が他者の視線を誤魔化してくれるのだった。
常に二人の監視の視線を受けながらになるとしても、人間らしい自然な振る舞い、行為、入浴であった。
監視されている関係上、度々彼ら2人とは目が合う。目が合うと美里は不機嫌に眉間にしわを寄せ、間宮は反対に怪しいくらいに朗らかな笑みを浮かべた。頭を洗い流している間に、左隣に大きな気配を感じ、薄眼を開けると間宮がどっかりと座っていた。彼は自分の背中を流しながら、独り言のように「最悪だったろ?アイツら。」と気さくな調子で言った。霧野は、お前が言える口か、と口から出かかった言葉を止め、黙っていた。
「……。」
「俺は何があったか知らないし、聞いてない。」
間宮はそう言いながら頭を洗っていた。
ああ、そう、と曖昧な返事をした。シャワーからあふれ出る湯に身体が痛み、染みたが、汗やその他体液が流れ、それでも気持ちが良さが大いに勝った。
「どこまで行ったって腐ってるよ。」
隣からまた離しかけられる。
「何が?」
間宮は先に頭を流し終え、ぶるぶると獣のように身体を震わせて、横目で霧野を見て微笑んだ。
「そんなこと、俺の口からわざわざ言わなくても、自分が一番わかってるくせに。」
酷く落ち着いた、低い声だった。それ以上の会話は無かった。今日のお前なんか変だぜ、と言いたかったが、お互い様な気がした。
湯船の奥の方に美里が浸かっていた。湯気の充満する大浴場で脚を伸ばして、当然霧野が自分の側に来るかのような空間をわざと空けているように見えた。湯けむりの中でも、ここが男風呂か錯覚するような清らな肉体が温まって紅潮しながら湯の中にのびる。彼は両腕を壁側の縁にかけて、霧野を見上げて、ようやく皮肉な笑みを浮かべるのだった。
「愉しかったか?」
霧野は黙ったまま少し離れて彼の横に浸かった。霧野が黙っていると、彼はもう一度念を押すようにゆっくり言った。
「久々の警官ごっこは愉しかったか?」
先刻あそこであったことに限れば、警官ごっこと言うより、ヤクザごっこに違いなかった。本当は自分が誰か、あそこで主張と言う手も無いでもなかった。しかし、信用されたかと言えば、八代もいることもあり、おそらくあの二人に信用されることはなく恥をかくだけであり、奇跡的に信用されたとして、一生醜聞が付きまとうのだから、素性を明かすことはどちらにしてもできなかった。美里は霧野の黙っている煩悶の表情を愉しんで気が済んだのか、わざとらしく話題を変えた。
「それにしても、いつ入っても熱いな、ここは。」
数度、ここで彼と風呂に入ったことがあったが、霧野はそもそも自分以外の男の身体に目が行ったことが無かったから、今までは彼の肉体についての記憶がほとんど無かったのだった。湯の表面の揺らめきの下にある細身の肉の締った身体にはところどころ痣があったが、それすらも気にならない形をしていた。怪我の原因を聞いたら、また彼は機嫌を悪くするだろうと思い、霧野は黙ったままたった数刻のこの時間を有意義に使うことにした。
どれほど長い間湯につかっていたかわからないが、身体は、芯から温まっていくのだった。二人は霧野を急かすこともなく、三人そろって風呂を後にした。
◆
銭湯を後にして、美里は間宮と共に霧野を川名の屋敷に送り届けた。間宮とはその場で別れた。迎えにいった霧野を風呂に入れて奇麗にして、彼の家まで送り届けることが川名から命じられたことだった。門をたたくと、川名の代わりに愛人の女がノアと一緒に門の外にまで出てきて、「ご苦労様でした」と、霧野と荷物とを受け取るのだった。
ノアはやってきた霧野を歓迎するように身体を霧野の脚元にこすり付けてちぎれるそうな程に尻尾をふっていた。霧野はそれを払いたがっていたが、ノアは余計にまとわりついて、めずらしく、高い声できゃうきゃう吠えさえした。女は礼を言って霧野を連れ、厚く黒い門は閉ざれた。しん、としている。閉ざされた門の向こう側に居る霧野が、何も言わず、こちらを振り返りもしなかったことが、美里の心をざわつかせた。
川名は、屋敷の中にいるはずだった。今まで美里が訪れる時は、本人が直接出てくることがほとんどだった。だから、今回も、それも霧野の件だから、本人が出てきても良いはずなのに彼は屋敷の奥にこもって出てこない。一言二言、彼に言いたいことがあったが、代わりに女を出してくるとは。
車の修理費は、間宮のポケットマネーではなく、組の経費から出るという。
車を修理屋に回してから、美里はまた繁華街を徘徊していた。誰もいない家に帰りたくなかった。大破した高級車のように、ブランド物の家具も、服も、家さえも、なにもかも、全部、燃えてなくなってしまっても良い気がした。ただ一つ欲しい物さえ手に入らないのに、馬鹿らしい。似鳥のところにも今は行く気もしない。行きつけの店には行きにくくなった。自分の蒔いた種だった。自分のまいた種で自分をがんじがらめにして、行き場所を失い続けて生きている。
どこからか、赤子のような鳴き声が聞こえてきた。酔ったせいかと思ったが、薄汚い路地の奥の方から確かに聞こえるのだった。ふらふらと導かれるように音のする方に歩いていく。いりくんだ路地の奥へ潜る程に、喧騒が背後に遠のいて、辺りの闇が濃く、深くなる。居酒屋から出た生ごみの据えた臭いがしたが、そのまま進んでいった。路地奥のゴミだめの底に何か黄色く光っている。
ライターに火をつけて屈みこんだ。ボロ雑巾か何かと見違えるような物が動いていた。よくよく目を凝らせば、子猫が血を流しながら泥の中をを這いまわっていた。誰かが悪戯したのか左前脚と右後脚の関節が反対の方に曲がっていた。ゴミとは違う腐敗臭も漂い、泥と血にまみれて生きているのが不思議なほどで、生き物としては完全に終わっていた。
美里はしばらくゴミの中で這いまわる不具の猫を眺めていた。動かなくなるまで見ていてやろうと思ったのだ。しかし、鳴くほどに、動くほどに、命をすり減らし痛みを増すだけと言うのに、猫は一向に止まることなく、生きようとしていることが分かった。
「んだよ……、しぶてぇ奴だなァ……イライラするんだよ……」
美里はライターを消し勢いよく立ち上がり、猫の上に左脚を振り上げた。獣がひときわ大きくわなないた。
脚がゆっくりと再び地面を踏みしめていた。美里は今度は火を灯さず、闇の中に屈みこんで、しばらくそうしていた。身体が闇の中に溶け込んで、獣の呻き声と這いずり回る音だけが響いていた。気が付くと、腕が獣の方に伸びて、両腕に臭い塊を抱え込んでいた。
「あーあ、何やってんだ俺は。」
抱え込んだ瞬間に胸に激しい痛みを感じ、後悔した。小さくせに一人前の鋭い爪でシャツ越しに胸を激しくひっかかれていた。
「ほほぉ、なるほど、コイツは腕の1本や2本折られても仕方がねぇ奴だな。」
シャツに血がにじんでいた。暴れまわる死にかけの猫をがっしりと抱えこんだまま、美里は姫宮診療所に向かった。その間にも腕に胸にひっかき傷が増えた。
「……なんだいそれは。」
姫宮は束ねていない長い髪をかきむしるようにしながら、深夜に訪れた美里を欠伸をして見下ろしていたが、すぐに「わかったわかった……」とため息まじりに言って、1人と一匹を、中に入れてくれた。姫宮は、暴れる猫の爪を自分に一切掠めさせることも許さず、美里と対称的に無傷のまま、こなれた様子で猫を洗い、治療を施していった。
猫は治療され薬を打たれ、すぐに眠り始めた。姫宮は一仕事終え煙草をふかしながら、ゴミから猫の形にかろうじてもどったそれをタオルを引いた籠に横たえた。
「ま、明日生きてるか死んでるかは五分五分だな、でも、生き残ったとしても、一生普通には歩くことはできないだろう。便だってマトモにできるかどうかな。要介護だ。こんなの逃がしたって結局すぐ死ぬよ。殺してやった方が俺は良いと思うけど。まさか君が飼う気なのか?飼えるの?ここに置いて行かれるのが一番困るよ。」
美里は、もし猫をこのままにして去れば姫宮は何の感慨も無くこれをダストボックスに入れるだろうと思った。
「さぁ、わからんです。今日、ここで寝ても良いですか。」
「ああ、ああ、ご勝手に。好きにすると良い。君らに振り回されるのにはもう慣れたよ。じゃ、もし明日の朝になっても生きてたら教えてくれ。治療の続きをしてやるよ。おや、随分としゃれた服の模様かと思ったら、君も怪我してるじゃないか。そいつにやられたのか?ほっといたら破傷風になるぜ、そこの消毒液を使いなよ。君の自業自得の治療まで俺がやってやる義理はないからね。」
姫宮は再び欠伸をして診療所の奥に引っ込んだ。
残された美里は自分の治療を済ませて、猫の横たわった籠の傍らに置いた椅子に座り込んだ。消毒液が身体中に染みた。猫の横で、一睡もできないまま、朝まで同じ姿勢で椅子に腰かけていた。家に睡眠薬を忘れた。
姫宮が起きてきたのは朝の11時で、猫はまだしぶとく生きていた。姫宮はやれやれといいながら、約束通り治療の続きと、美里にもできる猫の介抱の仕方を教えた。猫はまだ食べ物を受け付けないらしく、ミルク交じりの白いゲロを吐いて、また臭くなったのを美里が洗い流した。
「間宮の記憶障害が治ることってあるんですか。」
美里は、引っ掻かれながら猫を洗っている最中にふと思い出したことを聞いた。
「ああ、あるよ。ある程度はまだ。」
姫宮はさらりと答えた。
「ただ二条も本人も、そして俺も、治療をしたく、ないんでね。」
「本人も?」
「そうだよ、誰にも思い出したくもないことのひとつやふたつくらいあるだろう。」
「ひとつやふたつどころじゃないけどね。」
美里は猫の吐いたゲロを片付けながら言った。また猫の体液が洗ったばかりの服を汚したが、服の1つや2つどうでもよかった。姫宮が一瞬獲物を見る獣のような眼になったのを美里は横目で見て鼻で笑った。人の不幸を食い物にする人間はすぐにわかる。
「あんな阿保になるのはごめんだ。姫宮先生、俺はアンタの実験動物じゃありませんよ。アンタの精神分析なんか俺は受けなくても大丈夫だ。大丈夫。」
姫宮は、美里が自分に言い聞かせるように呟いているのを見て、自分の口元が緩みかけるのを抑えた。猫からは、昨夜と違って温かな香りがし始めていた。姫宮はこれから診察があるからと、言い残して、書斎に戻った。姫宮の書斎には書籍、書類、医療器具、酒瓶、吸いさしの煙草などが雑多に置かれていたが、本人の法則に従って置かれていて、姫宮にだけはどこに何があるかはすぐにわかるのだった。
日光が樫の木でできた上等な戸棚に光線を浴びせていた。光線はまっすぐに、一番高い位置に置かれた瓶詰めの中の肉体を照らしていた。姫宮は光に目を細めた。塵がきらきらと陽光の中を輝きながら舞っていた。
「今日もいい天気だね、間宮君。」
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