堕ちる犬

四ノ瀬 了

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俺以外の人間の方がお前を可愛がってくれるかもしれないし、お前を逃がしてくれるかもしれない。

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 川名が、構成員のAを粛正したという話を、霧野は書類に押印する作業を続けながら、ラジオでも聴くように流し聞いていた。印がずれると気になり、頭の奥の方に何か引っかかったような感じになる、逆に奇麗に刻まれれば気持ちが良い。『霧野』ではなく『澤野』の印にもようやく慣れた。ヤクザ稼業でも書類仕事をするとは実に億劫だが、仕方がない。
 
 何度か川名の扱う書類の一部について代理で押印をしたことがある。彼の印章は複雑だった。彫が多く、均等に紅い朱肉を付けるのにも少し工夫がいる。組の代紋と、飾り文字とで構成される印で、一目で解読できない紋様であった。素人目に見ても美しいと思える印である。霧野は、自ら押印した印と川名が押印した印については、他の書類からすぐに見分けがついた。他の者にさせたのより際立って質が良いのだ。

 美里にやらせたりすれば、まず、真っすぐになっているものも、朱肉が均等についているのものも見たことが無い。どれをとっても絶対にどこか掠れるか激しく滲み、傾いている。「一体どうやったらこうなるんだ……」一度ぼやいたら、本人も自覚があって気にしていたのか、三日ほど口をきいてくれなくなった。
 本人の性格に似て云々……とまで言ってやろうかと思ったが、やめた。パソコンが普及した今だからこそ良いが、手書き文字など他の誰が読めるのだろう。中身が合っていればいいという。それはそうなのだが。

 Aは、ひそかに他の組織Nから引き抜きの声をかけてられていた。川名の報復はAに限らず、Nにも及び、いやもっといえば、Nの人間の方が酷い打撃をおうことになり、上層部から川名自身、厳重注意を受けるまでにおよんだが、誰一人長を諫める様子も反省する様子もなく、畏れるどころかむしろ楽しんでいる様子だった。

 Aは命をとられるまでには及ばなかった。この一件を機に川名は取り入るように、今まで興味を持っていなかったNの資産に目をつけ始めた。それは、川名組にとって大して必要でもない資産だったというのに、どこまでも陰湿に苛め抜き、狡猾に奪い取っては、Nを苦しめ、組の者に厳重に管理を任せた。川名は明らかに資産云々ではなく、AやNをどこまで苦しめられるのかの方に重きを置いているように見えた。
 
 報復の皮を着ながら、川名自身AやNに脅威も恨みもそれほど感じていない。川名は内にも厳しければ、それ以上に外に厳しい。Aの件については、Aに非があったが、例えばこれが末端構成員が他の組から吹っ掛けられて嫌な目に遭うなどあれば、川名は彼の未熟さを認知して責め教育はするものの、同時に相手方を陰で狡猾に責め苛み、見本を見せるように、時に破滅させた。同系組織内でこれが起こると、もちろんすぐに問題に上がるのだが、川名は「存じ上げない」の一点張りで通し、確実な証拠は上がらないよう、全てが出来上がっている。霧野は川名の手際の良さにしばしば感動を覚える程だった。

「困るよなぁ。」

 美里が事務所の庭で遊ばせていたノアの頭を撫でながら、霧野を振り向いた。川名の、今回の蛮行のことを珍しく諫めるのかと思えば、面倒くさげな顔をして「こういうことがある度に、しばらくの間ノアが餌を選り好みするようになるんだよ。」と、ため息ついた。褒められたと勘違いしたかノアが愉し気に啼いてプルプルと尻尾を振った。霧野は胃に不快感を覚えて顔を覆い、拭った。

「俺が、連れて行こう。」

 美里にノアを川名の元に連れて行くことを伝えると、彼は早く帰れることを喜んだ。何故か川名に会いたい気分だった。荒廃し、焼き尽くされた土地に、彼がひとりで立っているように思えた。彼の家には愛人の蓉子だけがおり、まだ帰っていないことを霧野に伝えて、ノアを引き取った。ノアは蓉子にもよくなついていた。霧野は蓉子に初めて会った時からどこか不思議な女だという印象を抱いていた。年齢も、霧野より上ということは察せられるが、はかれず、眠たげな、美しいながらも腫れぼったさがある目が、どこか川名の雰囲気と似ていた。

「そうだ、これを持っていきなさい。」

 蓉子は霧野に傘を二本差し出した。空模様が怪しく今にも雨が降り出しそうだった。
 霧野は心当たりのある場所に足を向ける。彼は居た。町はずれにひっそりと佇むジャズ喫茶である。白いゆったりとしたシャツを着て、ソファに深く腰掛け、川名は霧野が現われたことにも対して驚いた様子も見せず、まるで初めからそこで待ち合わせることになっていたように、現れた霧野に微笑みかけた。逆に周囲の客の方が一瞬ぎょっとした調子で霧野の方を見たくらいだった。身体の調子が狂う。

「お前……そんな恰好のまま、ここに来るなよな……」

 川名は霧野のいかにもな服装を見ながら、「座れよ。」と向かいの席を勧めた。しばらくの間どちらも話さなかったが、それでも良かった。川名も特に霧野に何か話すことを強制する雰囲気でもない。音楽が流れ続けていた。Aのことに、誰よりも早く気が付いたのは霧野だった。Nのことを調べたのも霧野だった。信用を勝ち取るためだ、霧野は自分に言い聞かせながらも、苦しみと後悔とそれから強烈な愉楽の間で揺れていた。

「何か言いたいことがあって、来たんじゃないのか。」

川名が呟いたが、それは事務所で誰に対してもやるような詰問するような調子でなく、極めて優しい調子だった。

「……、来る途中に、忘れてしまったか?そういうこともあるな。でも俺はきっとお前がやってくるんじゃないかと思って、そして、その通りにお前が来た。それが一番大事なことだ。」
 
雨が降り始めていた。



 炎が揺れている。パチパチと薪が音を立てた。仄暗い地下室の中で、暖炉の中が煌々と輝いていた。責めを負い霧野の朦朧としていた意識は、炎の揺らめきによって導かれるように戻りつつあった。全身が熱く痛んだ。特に身体の孔という孔が、自分が凌辱された存在であるということを意識させるように強く脈打って痛むのだ。
「……。……。」
 小さく開いた口から何かが音を立てて漏れ出ていった。身体が酷く臭う。目の前に奇妙な臭いがする水たまりがあった。霧野は風呂のことを考え、シャワーのことを考え、無遠慮に霧野の方に向けられ、ホースからあふれ出る冷たく新鮮な水のことを考えた。
 身体がむずがゆくなった。美里が霧野の身体を洗う時の手つきが皮膚に蘇ってきたからであった。

『は???何だお前、何もしてねぇのに、何デカくしてんだよムカつくなぁ……何もせずに帰ろうかな。』

 そういえば、どうしたんだろうと思う。三島の代わりにここに居たっておかしくないのに。まさか、美里を操って外の世界と接触しようとしていることが、川名にバレたのではなかろうか。しかし、だとすれば、もっと厳しい責め苦を負わされているはずだろう。

「家一戸分くらいか。」

 声の方に視線を動かした。視線一つ動かすのも億劫だった。本当に物になってしまったかのように、身体がだるいのだ。川名が、クリップで止められた書類をぺらぺらとめくりながら男達と何か喋っていた。彼は、霧野の意識がしっかりしてきたのに気が付いて、目を霧野の方に向けた。目がゆっくりと帳が下がるように軽く細められて、彼のすぐ足元で揺れる大きな炎が、その涼しげな顔に影を作った。

「聞いてたか?ばらしてもばらさなくても、そう変わらんな。」
川名は手元の書類に目を再び向け、書類をめくった。
「姫宮にはお前の内臓の売値、ここでは、生きたままでどうにかする場合のお前の売値をみてもらってたんだ。いろいろと。」
彼はわざとらしい笑いを見せた。
「うん。迷っていたけど、やっぱり二条を連れてこなくて正解だったな。」
川名は紙束から一枚写真を抜き取り、指で挟んで霧野の方に向けた。そこには、もともと人だったと言われなければわからないそうとはわからない、何かが映っていた。喉の奥が詰まり、音を立てた。

 生きたままでどうにかする。その意味を霧野は今でこそ、現実感を持って想像することができた。川名は、男達、そして三島にノアを連れさせて、地下室から下がらせた。川名は椅子を霧野の目の前まで引きずってきて、座った。霧野は、川名の足元に、霧野は首輪以外一糸まとわぬ姿で横たわっていた。上半身をずり起こし、川名を上目遣いに見上げた。川名は、素知らぬ様子で、手元を見ていた。伏し目がちになって視線が合わないせいか、不思議と優し気な表情に見えた。男達にあんなに残酷なことを行わせ、遠回しに売り飛ばすぞ脅した後だというのに。

「そのまま、横になっていれば。」
命令されているわけでもないのに、命令されているように聞こえる。
「たくさん仕事して、もう、眠たいだろ。いますぐ寝たっていいぞ、別に。用件はもう済んだんだからな。」

 暖炉の中で薪が爆ぜて大きな音を立てた。眠たいことは確かだった。川名の声が心地よく脳に入ってくるのも、よくなかった。瞼が重い、しかし、ここで意識を飛ばして、目覚めた後、川名が側にいる保証は無いのではないだろうか。常に彼に見られ、忠誠の度合いを測られ続けている。気が付いたら全く知らぬ土地に売り飛ばされ、どうにもならなくなるような終わり方も考えられる。

「それとも、一芸でも披露してくれるのかな?俺のために。」

 川名は手に持っていた紙束を、床へ放り投げた。値段の刻まれた書類が散らばった。今度は彼の視線がしっかりと霧野を見下げた。炎が彼の顔を照らし陰影を際立たせることで、笑っていることがわかった。

「どうすれば俺が悦んで、どうすれば俺が失望するのか、わかるだろ。前以上に、よく。」

 彼が身を屈めて、その手を伸ばしてくる。その指が、首輪のリングに引っ掛けられ、ほんの、羽のように軽く、首輪を前に引っ張っる。霧野の口から、意図せず小さな声が漏れた。今まで、全く声を出さないままでいたのに。

「どうするんだっけ。こういう時。」

 彼の小さな声が耳を擽って、気がつくと霧野は床に手をついていた。川名は立ち上がり、また、紙束を拾い集め目の前に戻ってきて、座った。下げた頭の上で、紙がパラパラと音をたてていた。

「どうだろう。俺以外の人間の方がお前を可愛がってくれるかもしれないし、愚かな人間であれば万に一つくらい、お前を逃がしてくれるかもしれない。お前ならよくわかっていると思うが、一般的尺度から測れば、俺は人として、かなり最悪の部類に入ると思うからな。俺のところに居たところで、苦しいだけだな。あんな馬鹿共の元に、未だに帰ろうと必死なのが良い証拠だ。」

馬鹿共、昼間の警官たちのことだろう。

「買われてしまえば、二度と俺の顔も拝まなくて済むわけだぜ。」
「………、それは、そうかもしれませんけど、……、」

霧野は体を起こし、正座姿で川名を見上げた。
名は叱るでもなく先を促すように黙っていた。背後で炎が燃えていた。

「貴方は人として最悪の部類に入るんでしょう……?だったら、きっと貴方は別れの間際、いや、それ以降も俺にとって一番最悪な出来事でありたいはず。そもそも二条に私を殺させようとしてたところからして大して変わってない。だから、値段なんか関係なく、私が一番不幸になる相手に、貴方は私を明け渡すはずです。まあ、たいてい、貴方を筆頭に、金持ちであるほどに悪趣味である率は貧乏人より高いものですから、私の身と引き換えに結構な金と、悪趣味なご友人がまた一人、手に入るでしょうけどね。」

 霧野は口から溢れ出る言葉に身を任せる内、言ってはいけないと思う程、身体の奥の方によからぬ気持ちよさ、高まりを感じ、中は熱いのに外側にはじっとりとした冷や汗がながれていくのを感じた。身体が肉感的に光り、炎の揺らめきが余計に身体の蒸れた様子を際立たせた。霧野の意志薄弱として漠としていた目つきは、だんだんと、挑発するような吊り上がった感じに戻り、見方によっては、微かに笑ってさえいた。

「その、悪趣味なご友人が私の過酷な様子を貴方に逐一伝えるとして、きっと最初こそあなたは悦ぶでしょうね。でも、組長、俺は貴方の性質の一つを理解しています。きっと他の奴より。貴方自身もおわかりのはずだ……。俺は売り飛ばされたとしてもその先で、惨めな感情を身に秘めた貴方を想像して、そこがどんな地獄だろうと、その時だけは、いい気持ちになるね、絶対に。貴方が実際にそうなるかどうかは実はそこまで重要じゃないんだ、俺がそう思い続けてやるというだけだ。」

語尾を強め、含みを持たせ、黙った後、霧野は川名が黙っているのをいいことに続けた。

「馬鹿共、警官を馬鹿共と言いましたね。でも……それはある意味同感です。私は、別に彼らには大した期待もしていませんし、心底くだらねぇ……あほらしい……俺の方がやれる……そう思うことも多かったのは事実。それでも警察官としての自分のこと、本来の職務は好きだったのです、…‥‥…。」

 言葉が止まり、代わりに何故か一筋涙が流れた。少しの間、沈黙が流れた。

「なるほど、お前の気持ちはわかった。」
 
 川名が立ち上がると、周囲の空気も彼にまとわりついて移動するかのようだった。霧野は、空気が締り、冷えたような感じを覚えた。彼は足音を響かせながら、暖炉の方へ向かっていって、中に何か潜んで居るかのように、しばらく炎を眺めていた。ゆっくりとした調子でかがみこんだ。

 また、薪が鳴いた。炎の光が強いのか、煙いのか、彼は目を細めて、床に手を伸ばした。炎が衣服の袖を照らし、色を変える。川名の手を伸ばす方向に、何か、棒状の持ち手のようなものがひとつ、炎の中から突き出ていた。川名はそれを握って、ずるずると炎の中から引っ張り出していった。少なくとも霧野が目覚める前から、それは炎の中に晒され続けていたようだった。

 炎の中から引っ張り出されくるのは黒く焼けた鉄の棒で、先端は熱で赤く煌々と変色していた。赤はまるで生きているかのようになまめかくしく明滅、もうもうと小さく湯気が立ち昇っていた。川名が棒を片手に戻ってくる。棒の先端部は平たく伸ばされ、面になっている。

 霧野はそれが何か理解するまでに、数秒を要し、喉の奥から悲鳴が上がりかけるのをこらえたが、正座していた脚を崩しかけた。熱が近づいてくる。霧野は目を見開いて半笑いの調子で戻ってきた川名を見上げていた。

「冗談だろ、」
「おい、動くなよ。まだ、場所を決めかねているんだ。顔面にするか?」

 川名はさも不思議なものを見るような目でともすれば泣き出しそうな霧野を見下げ、手にもった灼熱の棒を、普段ケインを扱う時のような手さばきで扱って、首を傾げるのだった。

「どうしたんだ?急にしおらしくなって。お前が長々と講釈を垂れてまで、俺の元に居たいと惨めな姿で這い願うから、望み通りに、どこにも行けぬよう、ひとつ、わかりやすい印をつけておいてやろうというんだ。お前の、外の世界に対する付加価値を下げてやろうというんだよ。……どこに押すかな、身体をそこに横たえてみろ。……ほら、はやく。」

 霧野が身体をもたつかせていると、熱棒が顔のすぐ側に寄せられ、強烈な熱を皮膚で感じるのだった。

「ばっ、馬鹿、…‥っ」
「お前のお得意の肛門に挿しいれて焼いてやろうか。挿入どころか排泄もマトモにできなくなるだろうが。一体どうなるのか、好奇心が無いわけでもないな。お前のような変態のことだ。一度きりしかできんが、さっきまで散々溢れさせたのに、また溢れさせて、喜ぶんだろうな。その飾り物の肉塊に押してやっても良いが、歪むかな。」

 霧野は姿勢を整え、吸う息が喉に引っかかり、吐こうとすると上手く吐けず、震えながら肉体を横たえ、目を伏せた。情けない、そう思いながらも、視線を上げる。するともう、熱棒の先端の真っ赤になった部分、印の部分から目を離せない。息を荒げている内に心拍数が高まり、殺すなら早く殺してくれと心が懇願してやまない。甘やかな恐怖が、身体を支配した。震えるな、息を強く吸って、川名を流し見た。

「……なんて顔をしてる。早く印がほしくて仕方が無いか。そうだな、どこにあると似合うだろうな。」

 川名の靴が霧野の身体を踏み押し広げ、仄暗い瞳が、値踏み鑑定するように足の下で蠢く肉体を隅々までよく見ていた。人からそこまで真剣に身体を観察された記憶が今まで無い。霧野の滲む視界の中に赤い刻印が輝く。川名の元に来てから、よく見慣れた紋章が、鉄の棒の先端で血のにじむように赤い光の線になって揺れていた。霧野の肉体を味わうように、川名の足にかかっていた体重が軽くなり、表面をしごくように撫でた。皮膚が、赤くなった。

「うん……この辺りがいい……」
川名が足をどけ、焼印の紋の上下を今一度確認し、傾けた。
「……て、……」
「あ?なんだ…‥?」
「やめて、……ください、」
「それで?俺がやめると本気で思うか?お前が一番、俺のことわかってるんだろ。」
「それは、…‥、……」
川名は「呆れた……」と霧野をゴミでも見るように見下げた。特に名前も認識しているかどうか怪しい末端構成員にするのと全く同じかそれ以下の表情だった。

「じゃあ……、止めるか……別にいいよ。一生そこで寝てろ。」

 彼は床に熱棒を置いたかと思うと、投げやりな調子で椅子に座った。霧野は床に蹲るようにしていたが、息の調子は収まることが無く、荒れ続けていた。川名は霧野の方を一切見ようとせず、一本煙草を吸うと緩慢に立ち上がり、燃えがらを霧野の目の前に落とし靴底で床にこすりつけ、地下室を出て行こうとする。

 川名の足首に霧野の手が触れた。川名は緩慢な仕草で立ち止まった。
「待ってください、」
「……何故?俺はもうお前に用はない。”大変申し訳ないが、手を放していただけるかな”。」
「『置いてください、……』」
手は離れず、やっと聞き取れるような小さな声だった。
「『どうか私を、貴方の元に置いてください……』」
震えた息の混じった啼き声が、川名の足元から立ち昇った。

「何故?お前が、あんな焼き如きに耐えられない雑魚とは思ってなかった。お前を買い被っていたことに自分で失望して気分が悪い。大体お前は、自分の身を金銭に替え償う機会を、くだらない犬語で俺に止めさせたくせに、代わりに俺が簡単に売られないように印をつけてやるというのを拒否するとは、一体、どういう理屈でそうなるんだよ。」
「……もうしわけございません……どうか、どうかもう一度……」
「……、手を放せ。」
川名は手を離した霧野をようやく見下げ、その姿に、一つの予感を抱いた。
「……。……身体を、もう一度見せてみろ。」
恥ずかし気に開かれた犬の豊かな身体は、意気消沈とした懇願とは裏腹に、川名の予感の通りのあり様となっていた。惨めに来い縋る自分に失望するうちに、みるみるとその欲望を疼かせ、高めていたのだ。

「ああ、本当に……、本当に最悪だな、お前というやつは。」

川名の足元で誘惑するように白い塊が蠢いて息づいていた。
もう一度、棒が熱せられ、いれる位置も定められ、準備が整えられた。

「楽にしてろ。あまり動くとぶれて形が穢くなるからな。刺青した時と同じだ。駄目で、何回も試して汚くなったお前を適当な人間に言い値で卸すかもしれん。おやおや、おかしい、それでは本末転倒だな。」

 霧野が二の句を継ごうと開かれた口から濁った声が漏れ出、息を切らせ長引き、断続的に空気を震わせた。その音に交じるように甘美なため息のような者が一瞬地下室の中に立ち上った。

「そうだ、そのままだ。」
 
 真っ赤に焼かれた鉄の線飾りが、桃色がかった白い皮膚に張り付き噛みついて、膨れ、肉の焼ける音と肉の焼ける臭いを狭い地下室に充満させる。悲鳴を上げても良いが、大事な場所を動かしては、いけない。開かれかけた口が食いしばられ、歯が軋みなった。霧野は、朦朧と、散漫とした意識が汗ばんだ身体を弛緩させようとするのに反抗して、肉体を動かさないことに集中させた。集中するほど、川名に忠誠を誓うことになってしまう。それでも彼を深く、受け入れた。精神と肉体とを焼かれながら、彼の中に溺れていき、彼に近づいた感じがした。焼き印の位置からはじまり、全身を貪り、喰われている。じくじくと、脈動と共に、全身を蝕む強烈な痛みが、永遠と思える時間、川名と霧野の間を結び付けた。

 皮膚が引っ張られ、音を立て、それは外れた。終わったぞ、と、声をかけられると同時に張り詰めていた緊張の線がぷつりと切れたか、声は上げずとも、涙があふれ出ていった。零れ落ちる程に、疼き、霧野の中の何かが、外の世界へ零れ流れ落ちていくようだった。
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