堕ちる犬

四ノ瀬 了

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しっぽでも振って媚びを売り、『使って下さい』と自分を売り込めよ。

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美里が外に出た時、奇妙な熱気が充満していた。
「なんだ…?」
組の人間達が川名を中心として集まり、他に組織外の人間が車にも乗らず、何をするでもなく外に立って、一つのところ注目している。どうも近くに行く気が起きない。嫌な感じがした。煙草を一本だけ燻らせた。気持ちを落ち着かせたい。吸い終わったら奴らの方へ向かおう。ポケットの中で携帯が震え、神崎の番号が表示されていた。
「……、気安くかけてくれるなと言ったのに。」
流石に今電話に出るのは自殺行為だと思い着信を切った。神崎は一人で霧野をどうにかしようとしているようだった。一人の力など微力、どうせ誰も協力などしない。さっきまでの余韻がまだ身体の中に残っていた。間宮の陶酔しきった濡れた瞳を思い出す。湿った風が手の甲にあたり、遠く西の方に暗い雲が見えた。夕方から雨と聞いていた。

人混みの方へと向かい、状況を理解した。
衆目の中、霧野が、店の外で身体を引きずるようにしながら、一糸まとわぬ姿でリードをつけられて散歩させられていた。結われた片足を不器用に扱って引き回されている様子に現実感がなくなっていく。川名が美里の気配に気が付いた。
「遅かったな。」
やりすぎなんじゃないですか、といおうかと思うが、川名の目が楽しそうに歪んだので何も言えなくなった。
「何だ、言いたいことあるなら言え。」
川名がまるで美里の心を読んだように言った。遠回しに彼を諭そうと思った。
「外の人間もいるんすよ。」
「だから?」

だから、って。以前澤野と交流があったはずの人物も気味悪そうに、人によっては好色気な目つきを浮かべてその様子を見ていた。誰一人なにか言おうとも帰ろうともしないではない。異常な光景だ。組織の中で見せるならまだ良い。しかし、外に見せては、異常性がバレるだけ、それこそ組織にとって何のメリットも無いのではないか。組織を大きくしたいといって、矛盾だ。

「俺から伝えてあるから。」
「え?」
川名が再び美里の心を読んだように言って、瞳だけをゆっくり美里の方に向けた。支配的な黒い瞳だった。
「下の人間一人折檻しているところだから、良ければ見て帰ったらどうかと俺から勧めたんだ。見たくなければ早めに帰れとも伝えた。だから、なにも、矛盾していない。」

こちらを覗き込む川名の瞳の奥で、一瞬だけ何故か炎のような気迫が燃えた。何かを見て悦んでいる。何か、それは美里だ。こちらを見て何か悦んでいる。しかし、すぐにその視線は、外されて霧野の方へ戻っていった。後からやってきた二条が美里の背後に立って、川名の方を見ていた。

川名の視線は二条の方には向かず霧野の方を追っていたが、しばらくして、また美里の方を向いた。
「どうした、普段に増して顔色が優れないな。」
「いえ……」

霧野がようやく川名の元に戻ってきた。近くで見ると余計にその惨めさが際立った。

野外で川名の前で首を垂れて地面に手をつき膝をついている犬の姿は、とてもつい最近まで川名や美里の横に立っていた人物と同じとは思えなかった。首輪を嵌め、全身を土と体液と精液で汚れさせて、息が上がって上気した身体が、尻から生えた尻尾と一緒に震えて汗ばんでいた。

明らかに美里が最後に見た時より痣が増えていた。見える範囲では下半身にさっきつけられたばかりであろう複数の重なり合って線になった痣が、赤く浮かび上がり始めていた。
「……」
軽く触れてさすってやるだけで、ぞくぞくと泡立ちそうな感じ切った良い皮膚の色をしていた。美里はそこをさすってやりたい、同時に指できつく痣になった部分をつねり上げて、苦しみに堪え、悶える反応を見てやりたいと思ったが、今、彼の側に屈みこんでそんなことをするわけにもいかなかった。

「おかえり。愉しかったか?」
川名が話しかけた。霧野の頭が上を向く前に、ひときわ大きく彼の腹が鳴り、また周囲を沸かせた。今更羞恥心があるのか、上げかけられた頭が再び伏せられて首輪に結わえられたリードが揺れた。
「運動して、お腹がすいたのか?」
川名が優しげな声を出して霧野の前に中腰になった。
「餌が欲しいかな。」

霧野の頭が軽く上がり、髪の隙間から飢えた瞳が恥ずかし気に上目遣いに川名の方だけを見上げて、また下を向いた。

「いらないのか?俺はお前に今限りじゃなくてこれからのことを聞いてるんだけど。餓死したいか?別にお前がそうしたいなら良いが、なかなかきついぞ、餓死は。どうするんだ、欲しいか。」

川名が姿勢を戻し、靴先を霧野の顔の下にねじ込ませ、無理に顔をあげさせた。疲弊し紅潮した頬もまた汚れ、悔しさに歪んでいた。しかし、気力の乏しい瞳で開いた口の端から涎を垂らし、荒い息遣いをするその姿からは最早、元の人間性が失われつつあった。

「………ほしいです」

川名が霧野の顔から脚を外しても、その顔は上をじっと向いて川名の方を見ていた。いや、他の景色を視界にいれぬようにそうしていたのかもしれない。川名と霧野自身だけの世界に没入して、他のことを考えないようにしているのだ。彼なりの自衛だろう。美里は、こちらの存在にさえ気が付いていなそうな霧野に対して、横からちょっかいを出そうかと一瞬だけ考えたが、どうもやる気が起きない。

川名はジャケットの中を探り、そこから取り出した物を霧野の前に落とすようにしてばらまいた。霧野の頭が再び下を向き、それから動かなくなった。それは食べ物などではなく、コンドーム五枚だった。

「ソレ、全部使い切ったら戻ってこい。証拠として出された分全部持って帰って来いよ。そうしたら食わせてやる。俺の言ってる意味が分かるかな?お前自ら懇願してお前の身体を使って稼いでくるんだ。自分の飯代くらいは自分で稼がないとな。宮下、リードを外してやれ、自分で行かせるから。」

彼はリードが外されてもすぐに動くことができずにいたが、逡巡する仕草の後、コンドームを一枚咥えて川名、それから周囲の人間をじっと見上げた。周囲からどっと笑いが沸き起こり、貧血気味で顔色の悪かった霧野の顔がまた羞恥に紅く染まった。誰もが面白がって、わざと名乗りをあげないのだ。川名が追い詰めるように霧野の前に屈みこんだ。

「ふふふ、誰もお前のような小汚い獣とはヤりたくないんだって、自分の姿をよく見てみろ泥だらけじゃないかよ。もっとお願いするか、しっぽでも振って媚びを売り、『使って下さい』と自分を売り込めよ。お前の得意なことだろう。別に俺達だけじゃなくて、ここにいる誰にだって使ってもらっていいんだ。さっきから感じてるだろう。」

霧野の視線が、川名から組織の人間、それからそれ以外の人間の方へ揺れるようにして移ろっていった。
「可哀そうなことをする、私が買ってあげましょうか。」
いつからいたのか、客人の一人であった某巨大商社の役員の男が近くにやってきて嫌な微笑みを称えていた。
「お客がついたぞ、良かったな。」

美里は再び群れから距離をとるようにして離れた。役員の男のその下卑た表情を見た時、何故か、記憶の底に封じ込めた嫌な記憶がフラッシュバックして、背中に嫌な汗をかいていた。普段であれば何ということも無いのに、何もかも不快だった。
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