堕ちる犬

四ノ瀬 了

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お前の代わりに俺が全て考えてやろう。お前はお前がすべきことをしてろ。

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冷めた視線を感じながら霧野は再び衣服に腕を通した。
川名は霧野の手の辺りを見ていた。左手の小指の爪は半ば剥がれかけていたが、出血はほとんど止まっていた。じんじんと鼓動の速さに合わせて小さく痛んだ。

机の上に川名の手帳が置かれていた。霧野は頭の中で手帳に残っている罰の数を律義に数えあげていた。反故にしたいが、川名は一度行ったことは余程のことが無ければ取り消さない男で、実際ほとんど消化されているのである。

×爪はぎ2本
△舌で灰皿2本(残1)
〇陰部火炙り20秒
〇陰部に鞭打ち30回
〇アナル拡張9センチ

指を曲げ、爪を眺めた。女が塗ったマニキュアを確認するような仕草だ。
これは俺の身体だ、誰の物でも無い。

「そんなに欲しいなら、あげますよ。」

霧野ははげかけた爪をシールをはがすような仕草でいっきに剥がしとった。痛みに一瞬声を上げかけるが、歯を食いしばって耐える。

止まりかけていた血が、再び一筋の線を描きながら指を、手を伝い落ちていった。焼けるような痛みだが、日々与えられる恥辱に比べれば何と言うことも無かった。

「ほら、欲しいんでしょう、これが。」

彼の方に歩み寄って血に濡れた爪を卓上に置いた。川名は嫌悪も好奇もない、動物ような目で血濡れの霧野の身体の一部だった物をじっと見ていた。それから視線を残っている指の方に動かした。

「もう一枚も、今やってやるよ。」

左手の薬指に触れ、右手の親指と人差し指で摘まんだ。その仕草は、左手の薬指に指輪を嵌める仕草によく似ていた。

ピリピリと肉から爪が剥げていく感覚、ゆっくりやるほど痛い。ゆっくりと息を吐きながら、力をこめて左手の薬指をひねった。指の先から手の正面まで神経が焼けるような痛みとともに、白いそれは剥がれ出血した。薬指と小指が、血の中に浸したかのように紅く染まっていた。
丁寧な仕草で身体の一部を小指の爪の横に置いた。

「くれてやりますよ、ああ……、頭がスッキリしてちょうどいいくらいだ。」
「ああ、そう。それは良かったな。」

川名は無表情であったが、珍しく聞いたことがないほど優しい口調に聞こえた。
彼はハンカチ越しに爪を摘んで覆い、卓に零れ落ちた血痕をハンカチの端で拭きとって、そのままポケットに入れた。てっきりゴミだと言って嫌がるか捨てると思っていた霧野にその仕草は意外に写った。

川名は手帳を開いて爪はぎ2本の上に一本線を引いいて消し、後ろに「澤野」の名前を書き込んでいた。実行者の名前を書き込んでいるのだった。閻魔帳を彷彿とさせる手帳にはその時々に組員の情報が刻まれていった。川名の頭の中で組員たちの性質や気質、有能か無能かという分類が整理されていった。川名は手帳の1ページを眺めた。

〇爪はぎ2本(澤野)
△舌で灰皿2本(川名)
〇陰部火炙り20秒(二条)
〇陰部に鞭打ち30回(美里)
〇アナル拡張9センチ(川名/二条)

「なるほど、せっかくだから、やっていくことにするか?」

目的語の代わりに川名は煙草に火をつけた。紫煙があがり霧野の鼻をくすぐった。匂いを嗅ぐだけで、霧野の口の中にはだくだくとこぼれ落ちそうな程の涎が溜まっていった。パブロフの犬のように。餌を与える時にベルを鳴らされ続けた犬は、餌を与えられずとも、ベルの音を聞いただけで涎が出るようになるのだ。川名は霧野の方に向かって煙を吹きかけた。

「お前がやりたいならこっちにこい。やりたくないなら、とっとと出ていけよ。」

霧野は言い返したい衝動をこらえながら川名の方に近づいていった。彼のすぐ横まで来た瞬間に、ペンと紙を咥えて彼の横にやってきて、位置が悪いと叱られたことがフラッシュバックして、体の芯の方が冷める感じがした。
「う……」
「ん?どうしたんだ。」
頭の中でイライラする自分がいるのを抑え込んで、彼のすぐ横に膝をついた。川名に何かを仕込まれている自分がいる。

川名は褒めることさえせずにさも当たり前と言う顔をして横に膝をついた霧野を見下げ煙草を吸っていた。収まってきていたはずの脈拍が上がって、さらに涎が溢れた。
「息が上がってるが、何も興奮する要素はないぞ。」
口の中に溜めた唾液を飲み込んで言い返しても良かったが、何故唾液が溜まるかといえば、唾液を溜めた方が痛みを「いい具合」にコントロールできるからだった。だから、口も開けず、代わりに見下げてくるその男の目を見た。

目を逸らしたくもそらせない。煙草の吸い口が彼の薄い唇から離れ、まだ半分も残っている煙草が近づいてきた。怖いと思ってしまう気持ちを抑え込んで、口を小さく開く、唇がかすかに震えていた。

無遠慮に川名の左手の親指が霧野の口内に刺し込まれ掻き回すようにぐちゃぐちゃと蹂躙した。躊躇のない、物に対してするような仕草だったが、彼がそのような事をするのが信じられなかった。顎を掴まれるようにして開かれた口から涎がだらだらとこぼれ出て床と川名の手を汚した。

「随分汚い灰皿だな。」
焦げ臭い匂いが顔のすぐ近くまで近づけられ、口内に入って舌を焼いた。じゅううと嫌な音をたてる。
「あ゛あっ……」
「オマケにうるさい。」

覚悟はできていても慣れるものではなく、唾液のおかげで薄まったとはいえ痛いことに変わりなかった。しかし、いつ来るのかと溜めに溜めていた恐怖、いや、期待が達成さえ、何かよからぬ快楽が霧野の脳内を痛みと共に満たしていった。じわじわとした、水滴が布に染み込んでいくような。

川名は吸い殻を霧野の喉の奥に突っ込むことはせず口内から取り出して机の上に置かれた灰皿の中に落とした。

「なんだ?その顔は。仕方ないな、汚いとはいえ灰皿できたわけだし、しゃぶらせてやるよ。」
「……は?」

言ってる意味をすぐに理解できずにいる霧野を尻目に、川名は机の引き出しから黒いコンパクトミラーを取り出して霧野の方に向けて開いた。

「これがお前だよ。お前の本当の姿だ。」

小さな鏡の中に、口から涎を滴らせ苦しさに目を潤ませ、淫靡に紅潮し、口元を緩めた顔をした誰かが写っていた。それは、目を合わせた途端みるみる絶望的な表情に変わっていった。

「せっかくいい顔してたのに。」

目の前で鏡がパタンと閉じられ、その向こう側で川名のスーツのベルトが外された状態になって、薄い布の下で川名の物が屹立しかけていた。

「我慢しなくていいぞ、近くに寄ってもいいと言ってるんだ。」

甘く響く声に導かれるようにして、身体が勝手にそちらに吸い寄せられていった。拒否できるが、拒否したところで……と、遅れて頭がそう考えた。自分の身体が勝手に動くのに任せていると、頭の奥の方がぼーっとしてきて、思考するのを放棄する。また、上から川名の淡々とした脳に響く声が響いてくる。

「人間の意識について、お前はどう考えている?」

口内に彼の先端を頬張り始めていて、答える代わりに視線を上にあげた。彼の底なしの泥の様な黒い瞳に意識が吸い込まれていくようで、思考がうまくできない。その瞳を見ていると身体に刻まれた傷が疼いた。背中から腰にかけての1本1本の鞭の痕が、蘇ったかのように熱く霧野の身体の上を這いまわった。心地の良い暖かい痛みが、縄と合わさって、全身が性器の様に、柔らかな快楽が体を包みはじめた。

川名の双眸が軽く細まったかと思うと、彼の細い、しかし力のある手が後頭部に触れ、撫でるように掴んだ。ゆっくりと押されていき、口内が犯され、彼で満たされた。肉棒の先端が喉の奥をくすぐり、欲望を鎮めるように舌が勝手に動いた。

「これからはお前の代わりに俺が考えてやろう。」
彼が話すと口の中に振動が伝わり、脳内に直接語り掛けられているような錯覚を覚える。
「人間の意識は全て、後付けなんだ。お前なら聞いたことがあるだろう。」
「…、…」
確かに、何かで読んだことがある。言葉で返事をする代わりに音を立てて彼の一物を満足させようと身体が動いていた。後頭部に添えられた手がより一層深く押し込むようにして頭を押し、粘着質な音がたつ。
「ん゛っ!……ふ、」
霧野が苦しそうな顔をすると、口の中のものはより一層大きくなった。
「結局のところ、人の意識というのは行動ありきだ。自分では肉を食べたいと思って肉を食べたと思っていても、実際は意識が『肉を食べたい』と思うコンマ数秒前に身体は動いている。行動を納得させるために意識は後からそう考えているだけだ。映画を見てるのと同じだよ。日常的な行動はすべて考えるより先に身体が実行している。それなのに多くの人間は、見ているだけの意識で生の実感を得て、自分で考え行動していると満足している。羨ましい限りだな。」
「……」
「じゃあ、何故意識があるのか?といえば、どう思う?」
口内から欲望から引きはがされ、音を立てて口から飛び出、目の前に現れた。そそり立つペニス越しに川名の方を見上げた。はあはあと息が上がり、身体の奥の方で霧野自身の出口を失った欲望が渦巻いてて止まらない。
「どう思う。」
異常な状態の中で頭を回しても、言葉が出てくるはずもなく、目の前のものを達せさせたい、下半身を扱きたいという単純な欲望が頭の中を支配する。
「……、……」

目の前に差し出されたものを口に入れなければいけない、差し出されたものは口に入れる、以外何も考えることができず、さっき見せられた鏡の中の誰かの表情がフラッシュバックしては、頭が羞恥に支配された。容量がいっぱいになった頭で何も考えることが出来なくなっていた。

「駄目だな、これじゃ。やはりお前の代わりに俺が全て考えてやろう。お前はお前がすべきことをしてればいいよ。したいことさせてやってるんだ、俺は優しいだろう?」

再び口内に肉棒が挿し込まれて塞がれる。腹の奥の方の内臓が締めつけるように疼いた。元々話す言葉一つ浮かばない哀れな口なのだから、これでいい。

「人の意識は基本的には後付けだが、例外はある。本能で身体が動けない時にこそ、異常な状態の時こそ、意識は本当の意味で覚醒してようやく身体の支配権を得るんだ。……選択を迫られる状況、非日常的な行動、出来事に触れると、生きているという感覚が起こる。お前もそうなんだろう。同じ考え方をしている。」
「……」
霧野は頭の中を肉体的な意味でも精神的な意味でも犯されながら、川名の言っていることに対して何か意見を持とうとしたが、普段と違ってその通りとしか思えず、イキそうに高まっている川名の欲望を舐め上げていた。不快なはずなのに、不快であるほど下半身によく響くのだった。

「お前はもうその辺の娼婦より余程うまいよ。お前はなにをやらせてもうまくできるから。だからといって、お前をこんなところに飛ばして良いって話にはならないよな。」

川名の手がくしゃくしゃと霧野の頭をなでていた。何の話、何を言ってるのか理解できない。

「アイツらも酷いことをするよな。疲れただろう。もう何も考えなくていいよ。」

何かがおかしいのに、何がおかしいのか理解できない。苦しいからか涙が自然と零れて止まらなくなった。

その時、部屋のドアがノックされる音がし、霧野の意識が、思考が、常識が、理性が、何もかもが一気に現実に引き戻されていき、口を塞いでいるソレに不快感しか覚えられなくなった。川名が面倒くさそうな顔をして珍しく軽く舌打ちしているのが見えた。
「思ったより早かったな。もう少し遅くても良かったんだけど。」
川名がそう独り言ちた後、誰かの声がしたが、霧野には聞き取れなかった。

「……入っていい。なんだ、そんなところに突っ立てないで、こっちまで来ていいぞ。面白いものを見せてやるから。……そうだ、もっとこっちに寄れ。」

我に返った霧野が身体を川名から離そうとするのに対して、川名は霧野の頭を強くつかみあげて、喉をえぐるように一物を挿し込んで離そうとしなかった。
「う゛っ、うぐ……、」
「大人しくしてろよ。さっきまでいい気分だっただろ?そのままでいろ。」

誰かがこちらに近づいてきて、すぐそばで足音が止まった。美里か誰かかと足元を見るが見知った革靴ではなかった。
「う゛あ……」
嫌な想像が頭の中に浮かんだ。徐々に体温が冷めていき、さらに意識がはっきりと冷めてくる。何故、こんなことをしているのだろう。

「すみません、お邪魔したようで……、」
誰かの声が震えていた。視線を上げたくなかった。

「邪魔?そんなことはない。」
「こういう関係だとは知らず、」
「別に。澤野が自分が仕事した見返りにしゃぶりたいと煩いからしゃぶらせてやってるだけだ。お前は自分からやったもんな?」

さっきと打って変わって頭を雑に掴まれ、口からグロテスクな物体が引き抜かれていき、視界が広がった。すぐ横に綾瀬が立って絶望的な表情をしてこちらを見下げているのと目が合った。
「舐めてやれよ。お前のような淫乱は俺のだけでは不満足だろ。」
「ちがう、……これは、」
綾瀬に向かって何を言っても言い逃れできる状況じゃない。意思と反比例して霧野の息が上がっていくと、綾瀬の顔が軽く紅潮し、絶望以外の別の何かが沸き上がり始めているように見えた。
「何してる。俺の命令が聞けないのか、死にたいか?」
さっきまでとは別人のような冷たい声色だった。胸の奥に刺されたような痛みとさっきまでは無かった恐怖を感じた。
「……」
「綾瀬、どうだ。この淫売の顔は。正直に言っていいぞ。俺がここにいる限り噛みついても来ない。」
「……エロいですね、」
「そうだろう、お前も使ってみたいだろ。」
「それは……、」
「遠慮するなよ。」

それは最早命令であった。霧野にも綾瀬にも選択権など初めから無かった。

川名の目の前で立っている綾瀬の前に膝立ちになって、綾瀬の一物を咥え、他の人間にしたのと同じように無感情になって舐め上げていった。多少むらむらとした気分が出てしまい、なんとも言えない気持ちよさが下半身に響く。

「澤野、何を躊躇してる。もっと『いつもみたく』ちゃんと舐めてやらなきゃ駄目じゃないか。お前の大好きな舎弟の雄だ、日頃の感謝を込めてしっかり奉仕してやれよ。自分1人だけいい気分になってるんじゃないよ。」
「……。」

しかし、誤魔化せるレベルだ。とにかくここをやりすごせばいいだけだ。後から何とでも綾瀬には言い訳すればいい、それくらいできる。綾瀬は徐々に気持ちよさそうな表情になって、軽く声さえ上げ始めた、罵倒ひとつ無し。ぬるかった。

サディスティックな美里や二条、今まで霧野を責めてきた他の者達に比べれば随分と楽な仕事だった。口の中に苦みが広がると同時に吐き出すようにして物を口から出した。唾液と一緒に精液を吐き出して、床と綾瀬の革靴とが汚れたが、どうでもよかった。川名の方を向くと、いつの間にか勃起したペニスはしまわれいて、再び冷めた目でこちらを見降ろしていた。

徐々に恥や絶望を苛々とした怒りの感情が塗りこめていき、川名も目の前の腑抜けた表情でこちらを見降ろす男も、殺したくなってくる。なぜ川名に対して一瞬でも心を開くような気持ちになってしまったのだろうか、欲望に負けて、情けがない……。

1週間前の自分が今の自分を見たらどう思うだろうか、自分と認識できないのでは?そう思うと惨めさに笑えてきた。

綾瀬も綾瀬だ、ずっと、絶望的な表情をされていたほうが良かった。そのまま嫌って罵って欲しいくらいだ。人を平気で性的な目で見る。口元を執拗にぬぐいながら立ち上がると、無感動な川名と呆けた綾瀬の視線がついてきた。

「……良かったか?」
霧野は腕を組んで綾瀬を見降ろし、威圧的な口調で言った。川名が面白そうな顔をしているのと対照的に綾瀬は打って変わって事後で紅潮させていた顔を白くしていった。
「おい、良かったのかと聞いているんだが。黙ってんなよ。」
「……よかったに決まってます、」
綾瀬はまた顔面を軽く紅潮させ、媚びるような表情を見せた。気持ちが悪い。
「ああ、そう。俺なんかになめられて良かったとはお前は相当な変態だな。とっとと目の前から消えろ。このことを誰かに言ったら殺すからな。」
彼はまた表情を青くした。赤くなったり青くなったり白くなったり、忙しい奴だと思った。
「言いません、けど……」
綾瀬はその後に何か言葉を紡ごうとしてようだが飲み込んで黙っていた。
「そうだな、それが正解だ、わかってるじゃないかよ。」

綾瀬は霧野から目線を外して川名の方を見た。川名は「出てっていいぞ、もう用は済んだから」と言った。川名がこのためだけに綾瀬を呼んでいたことを悟り、さらに嫌な気分になってきた。

綾瀬が出ていった部屋の中で、冷静になり、呆けた頭で川名に奉仕していた自分を思い出して発狂しそうになっていた。爪を剥がしまでして頭をスッキリさせたつもりでいたのに、少し優しい声をかけられただけで、付け込まれ、洗脳されかけ、一体何をしているのだろうか。川名の手の平の上で転がされているだけではないか。

「霧野、ここは楽しいだろう。」

何を言うかと思えば、川名はよくわからないことを言った。まださっきの延長のつもりだろうか。愛人ごっこは終わりだ。

「どういう意味です…?」
「自分の頭で考えろよ、それともまた俺に全て考えて欲しいか?気持ちよかったんだろ。」
「何言ってる、理解できないんだよ、」
「できないんじゃなくて、したくない、だろ。……もう行け。」
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