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本編

16 泡沫の夢

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「セレス様、どうかしたんですか? 顔色が悪いみたいですけど……」

 そう言いながら、心配そうに私の顔を覗き込んでくる真紅の髪の青年──彼はアルメルの双子の兄のアドレーだ。
 今日は兄妹揃って私の部屋を訪れている。どうやら、元気がない私を心配したアルメルの提案で、部屋の模様替えをしてくれることになったらしい。少しでも私の気分が晴れるようにと気を遣ってくれたんだと思う。
 二人の優しさが身にしみる。もし仮に、二人に真実を話したとしたら、きっと彼らは躊躇することなく私の逃亡のために手を貸してくれるだろう。
 けれども……私は常にリヒトに監視されているから他者との会話が筒抜けだし、契約の指輪がある限りここから逃げることは不可能だ。
 それに、私に手を貸したら二人が酷い仕打ちを受けるのは目に見えているし……。

 ──お前の心を壊して、俺のことしか考えられないようにすればいい。

 リヒトに言われた言葉を頭の中で何度も反芻してみる。
 リヒトはきっと、私の心を壊して自分のことしか考えられないように洗脳するつもりなんだろう。
 この部屋に閉じ込められてまだ一ヶ月くらいだけれど、私はすでに気が狂いそうになっている。
 精神力の強さで抵抗するにも限界がある。こんな状態が続けば、私の精神が崩壊するのは時間の問題だ。このままでは、彼の思う壺になってしまう。

 昨夜、寝る前にふと『記憶を消す魔法』のことを思い出した。
 もしかしたら、リヒトはその魔法を使って私の記憶を消すつもりなのかもしれない。そう考え不安になった私は、その魔法の詳細を今朝自分を起こしに来たアルメルに聞いてみた。

 アルメルの答えは、私の予想に反するものだった。どうやら、その魔法では断片的にしか記憶の消去ができないらしいのだ。
 しかも、記憶を消去する魔法の乱用は法律で禁止されているのでいちいち許可を貰いに行かないといけないし、余程特別なことがない限り使用できないのだとか。
 そうなると、じわじわと洗脳していくしかないわけだ。いずれにせよ、リヒトは本気だ。本気で私の心を壊そうとしている。

 私はこの一ヶ月間、豹変する前のリヒトを思い出して現実逃避をしてきた。そうすることで何とか精神の安定を保っていた。
 リヒトが帰宅して、私が「お帰り」と出迎えれば、笑顔で「ただいま」と言って優しく頭を撫でてくれる気がした。
 けれども、そんな束の間の夢は彼が私に向ける冷酷な笑みによってすぐに崩れ去る。
 あの笑顔が好きだったのに……彼がもう以前のように穏やかな笑みを浮かべることはないのだと思うと、たまらなく悲しい。

「セレス様……?」
「……あ、その……大丈夫です! 気にしないで下さい!」

 私はアドレーに慌てて返事をする。

「それならいいんですけど……体調が優れないようなら、言って下さいね。すぐにリヒト様に連絡しますから」
「……はい」

 今の彼とは、できることなら顔を合わせたくない。けれど、そんなことを言えるはずもなく私はただ頷くしかなかった。

「ああ、それと。言い忘れていました。さっき、セレス様を訪ねてきた人がいまして……」
「……?」
「リヒト様に『今は特に体調が悪いから、誰かが訪ねて来ても会わせないように』と念を押されていたので、帰って貰いましたけど……。熱心にセレス様のことを聞いてきたので、対応に困りましたよ。最初は『ロゼッタ』と言っていたので、誰のことかと思って戸惑ったんですけど……そう言えば、体調が悪化する前は、外出する時にそう名乗っていたんですよね」
「えっ……」
「名前は確か、ネイトさん……と言っていました。灰色の髪で、歳はセレス様と同じくらいの……」
「そ、そうですか……」
「お知り合いなんですか?」
「ああ、ええと……はい。そんなところです」

 私の曖昧な返答に、アドレーは不思議そうに首を傾げていた。もっと詳しく聞きたかったけれど、この会話もリヒトに聞かれているのだと思うとそれ以上話を続けることはできなかった。
 でも……案の定、ネイトは私を探しにきた。彼は顔が広いから、人づてに『ロゼッタ』がここの使用人であることを聞いたのだと思う。
 あれからもう一ヶ月経っているし、せっかく現世で再会できたのに姿を見せず音沙汰なしなんて、誰でも不審に思うだろう。





 その日の夜、私はひたすらネイトの身を案じていた。
 でも、帰宅したリヒトは意外にもその事について言及しなかった。
 あれだけネイトを敵視していたのに、一切彼のことについて触れようとしなかったのだ。何も聞かれないと逆に不安になる。

 とりあえず、リヒトが自室に戻ったので漸く一息つくことができる。
 そう思った私は、鏡台の引き出しから白い花があしらわれた髪飾りを取り出した。この髪飾りは、以前ネイトがくれたものだ。ある日、いつものように会計を済ませた後、ネイトに「これ、おまけです」と言われ小さな紙袋を手渡された。帰って紙袋を開けてみたら、これが入っていたのだ。一緒に添えられていた手紙には「君に似合いそうだと思って。いつも店に来てくれるお礼だよ」と書かれていた。
 結局、その日を最後に店に行かなくなってしまったのでお礼を言いそびれてしまったけれど、それ以来私はずっとこの髪飾りを大事にしてきた。
 きっと、もう会えないと思う。だから、これからは彼と過ごした僅かな思い出を胸に、閉鎖されたこの部屋で生きていこう。

「……っ」

 その途端、自分はもう一生この屋敷から出られないのだと実感してしまい思わず嗚咽が漏れた。
 そうやって暫く声を押し殺して泣いていると、ドアをノックする音と共に「セレス、どうした?」と私を気遣う声が聞こえた。
 リヒトだ。たぶん、泣いていることがばれたんだと思う。

「ごめん。なんでもないから……」

 そう返したけれど、彼はそれを無視してすぐに部屋に入ってきた。
 私は急いで髪飾りを引き出しにしまい、涙を指を拭って何事もなかったかのように振る舞う。
 けれども、明らかに目を赤く腫らしている私を見て、リヒトは怪訝そうな表情をしていた。

「泣いていたのか……?」
「……」

 心情的には文句の一つでも言いたい気分だったが、「全部あなたのせいだ」なんて言えるわけがない。私は言葉を飲み込むと、黙って俯いた。
 リヒトは無言のままこちらに近づくと、背後に回りふわりと私の体を抱きしめた。

「大丈夫だ。俺がそばにいる。──いや、お前には俺しか居ないんだ。その悲しみも、一時的なものにしか過ぎない。もうすぐ、全ての苦しみから解放されるから……」

 リヒトは私の耳元でそう囁くと、抱きしめる腕に力を込めた。『全ての苦しみから解放される』という言葉は、きっと私の精神が完全に崩壊する時を意味しているのだと思う。

「ああ、そうだ。久しぶりに、一緒に寝ようか」
「え……?」

 リヒトはそう言うと、狼狽える私をひょいっと抱えてベッドに横たえた。そして、明かりを消して隣に並び横になると、彼は私の肩を抱いて自分のほうに向かせた。
 どういうわけか、向かい合って寝ることになってしまった。

「……!?」
「どうしてそんなに驚いた顔をしているんだ? 添い寝するだけだから、別に何もしないぞ。……な」
「……」
「ああ、それとも……気が変わって、その気になったのか? 昨日は投げやりな態度とはいえ、お前からの方から誘ってきたからな。お前が本気で求めてくれるなら、俺は──」
「違っ……違うから……!」

 私が必死にかぶりを振ると、リヒトはくすくすと妖艶な笑みを浮かべて「冗談だ」と返した。
 毎日恋人のように接してくるリヒトを見ていると、たまに弟だということを忘れそうになる。
 だからと言って、彼を恋人として見ることはできないのだけれど……そんな風に思い始めた時点で、もうだいぶ洗脳されているのかも知れない。
 私はこのままリヒトの操り人形になってしまうのだろうか……。

「前世でも現世でも、昔はよくこうやって一緒に寝ていたな。お前が『今日から一人で寝る』と言い出した時は、かなり落ち込んだのを覚えている」
「……」

 本当によく覚えているな、と感心してしまう。けれども、それを口に出すことはできなかった。
 何が彼の逆鱗に触れるかわからないからだ。言葉を選んで発言しないといけない現状を考えると、また涙が込み上げてくる。
 私は孤独だ。すぐそばに弟がいるのに、孤独だ。月明かりが差し込む暗い部屋が一層孤独感をそそった。
 途端に、一筋の涙が頬を伝った。私はその涙を見られないように、リヒトの胸に顔を埋める。
 それが嬉しかったのか、リヒトは私の背中に手を回し優しく抱きしめてきた。
 豹変したリヒトが怖いことには変わりない。でも、彼の胸に抱かれる安心感は昔のままだった。心臓の鼓動と、肌に触れる体温が心地よい。

 全部、夢ならいいのに。リヒトが変わってしまったことも、私達三人が死んで異世界に転生したことも、全部長い夢だったらいいのに。
 目が覚めたら元いた世界に戻っていて、また三人で平穏な日常を過ごせたらいいのに……。
 叶わぬ夢を思い描きながら、私はリヒトの腕の中で眠りについた。
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