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その1
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朝起きてまず目に入るのは真っ黒な長毛だ。ちょうど目の上にあたりにそのモフモフの尻尾は乗せられている。
アパートなのでばれないよう実家から荷物と一緒に持ってきたオスのメインクーン、モクローは僕の顔の横がお気に入りらしく、昔から真夜中のころにベッドに上がってきては、尻尾を僕の顔に乗せて寝る。最初は抜け毛が目に入るのでこの習慣を、文字のとおりに毛嫌いしていた。だが、それももう4年前の話だ。今となってはこのふさふさの尻尾がないと安眠できない。
ところで、なぜ僕がここまでいもしない誰かに向かって自分の飼い猫の話をしたかというと、ガッツリ授業を遅刻したからである。しかも1限だけでなく2限もだから、無駄に芸術点が高い。
というわけで、今日の予定はすっかりなくなってしまった。だからこうしてベッドに横になってかれこれ1時間、何をするでもなく猫の尻尾を顔に乗っけてぼーっとしている。だがそれにも限界があるので、
「ギターの手入れしよ」
僕はゆっくり上体を起こして掛け布団を足元に押しやると、本当に猫か疑うほど熟睡しているモクローを尻目に、ベッドから足を下ろし、やっと立ち上がることに成功した。そのままの勢いで部屋の角のスタンドに立てかけてある白いストラトキャスターを手に取って、足元に置きっぱなしになっているギターケースからクロスとポリッシュを取り出し、勉強机兼作業机に向かった。その上に白いストラトを傷かつかないよう慎重に横に置き、まずは少し湿らせたクロスで、丁寧にほこりをふき取り始めた。更にポリッシュで小一時間ほど磨くと、胴の部分は光沢を取り戻し、白いボディーは窓から入る日光をきらきらと反射させていた。
「うーん、腕がなまったぜ、こりゃあ」
その出来栄えに満足しながらも、僕は熟練の職人みたいにそう言うと、ストラトを所定の位置に収めた。手入れがひと段落したので、とりあえず大学に行くことにした。授業はなくともこのまま家にいるのは退屈だ。あんまり気が進まないが、空き教室を経由して教授たちと会わないよう我が軽音サークルの部室に行くしかない。最悪段ボールでもかぶっていくつもりだ。僕はいつものジーンズと、アニメのプリントTシャツを着ると(甲〇機動隊の奴)、ポケットに財布とスマホを突っ込み、もしもの時のために適当な参考書を入れたリュックをしょって家を出た。
「飯はコンビニだな」
時計を見ながら僕はつぶやいた。この時の僕の頭の中に学食という選択肢は無い。あそこの学食は壊滅的にまずいのだ。
コンビニでカップラーメンとオリジナルブランドのほうじ茶を買うと、最寄り駅の西松原駅に入った。ちょうど二番線の各停が出てしまったところで、五分ほど次の電車を待つことになった。
電車を待つ最中、ふと一番線のホームに目をやると、ある白いワンピースの女性に目が止まった。その人は一目見ただけでわかるとてもきれいな容姿をしていた。もっとよく観察してみると、顔つきからしてどうやら僕と世代が近いようだった。大学生だろうか、僕はその人があまりにタイプだったのと、どこか見覚えのある顔だったこともあり、目を離すことが出来なかった。
「あ」
僕は小さく声をあげた。その女の人と目が合ったのだ。僕はすぐ目をそらし、下を向いてやり過ごそうと思ったのだが、なぜか相手のほうが慌てた様子でホームを走り始めた。どうやら改札のほうに向かっている。忘れ物だろうか、ちらちらその様子を見ていると、けたたましい警笛とともに僕の待っていた電車が二番線のホームに滑り込んできた。僕は彼女の行方が気になったが、視界が電車によって遮られたため断念した。
乗り込んだ車内はがらがらだった。時間はもう一時半を過ぎているのだ、当然といえば当然だ。電車に揺られる間、僕はずっと先ほど見た女の人を思い出していた。なんというか、顔のパーツのおさまりというか、形容しがたいのだけど、とりあえず、顔がタイプだった。彼女のいる身でこんなことを思っているのはあまりよくないと思うが、そう思わずにいられなかった。
僕は渋谷についても、スクランブル交差点をわたっても、山手線に乗ってもほかのことを考えられなかった。やばい、頭からあの顔が離れない。僕は彼女に電話をかけることにした。幸いなことに電話はすぐつながった。
「もしもし?」
「ああ、幸。今大学いる?」
「いるけど、どうしたの?」
僕の彼女、府海幸はめんどくさそうにそう聞いた。彼女とはちょうど2年付き合っている。
「いや、なんとなく、声聞きたいなあって」
「声聞きたいって、人成君そんなキャラだったっけ」
「今日はそんなキャラだよ」
「えー、私そういう人好きじゃない」
相変わらず物言いがストレートだ。
「俺、もうちょっとで最寄りつくから部室でまってて」
「分かった」
駅に着いたので僕は会話を切り上げホームに降りた。降りたのは恵比寿駅だ。ここから徒歩で大学に向かう。
結局、幸との電話で彼女のことを完全に思考から消し去ることはできなかった。どうしても最初に見た時の顔が忘れられないのだ。それは一瞬だったが、僕の記憶に強烈に作用した。
一目見てわかるほど彼女は、とても辛そうだった、何かに耐えているような顔をしていた。その何かは当然分からないが、例えるなら、まるで何かに呪われているように見えた。そして、僕は同じ表情をしていた人を一人だけ知っていた。その人は、ある意味で僕に強烈なインパクトを残して、残したまま僕の前から、みんなの前から姿を消した。
「もしかして…」
僕はその答えにどきりとした。あの人、東京にはいないはずじゃないのか?本当にあの人なのか?
考えているうちにかなり早足になっていたようで、あっという間に目的地に着いてしまった。
目的地とは、そう、中下大学渋谷キャンパスだ。ここの学生である僕が言うのもなんだが、いわゆるFラン大学である。
僕は一旦裏門から中に入ると、いつから放置されているのか分からないビオトープを抜け、部室のあるB棟にたどり着いた。渡り廊下からそっと中に入ると、ダッシュで廊下を疾走し、階段を駆け上がり、やっとの思いで三階に到達すると、その勢いのまま、ちょうど階段を上がったところにある部室に転がり込んだ。
「おう、ヒトナリ。お疲れ」
扉の近くであおむけに倒れる僕にそう声をかけるイケメンは、友達の加賀良人だ。
「いい加減ジンセイって呼べよ、良人」
息も切れ切れに僕はそう突っ込んだ。
「そうだぞ加賀、こいつのことは…」
「黙れ岡志」
今、多分しょうもないことを言おうとしたのが多田岡志。こいつも僕の友達で、大学生にもなっていまだに下ネタが大好きな野郎で、勿論モテない。そんな多田が思い出したように言ってきた。
「バテてるとこ悪いんだけどな、辺野。おまえのこと探してる奴いたぞ。結構美人だった」
そして僕の名前は辺野人成、これでへんのじんせいと読む。結構珍しい名前だと思う。てか、
「俺のこと探してる奴がいた?だれだよそれ」
「名前はわからなかったけど、学生課でお前のこと話してたぞ。」
「誰だ?」
美人ってもしかして…、いや流石にないか。
「学生課ってここの一階だよな。あがってきてるんじゃないか?三階に」
「覗いてみろよ、廊下」
二人に言われるまま廊下を見てみたが、人影は全くない、だれもいなかった。僕は次に階段を覗いてみた。そこに人影は、あった。白いワンピースを着た女性が三階に続く階段を上がってきていた。
「あの」
僕は思わず声をかけた。その女性は一番上に立つ僕を見上げると目が合った。そして言った。
「人成君?」
僕はどきりとした。それは初対面の人が自分の名前を知っていたということではない。僕はその声と言葉に確かな覚えがあった。
「…青井空」
青井空、僕の高校時代の同級生、そして僕の初恋の人だ。
「やっぱり人成君だ!」
彼女は嬉しそうにそういうと階段を一段飛ばしで上がると、僕の目の前に立った。
「久しぶり!」
「久しぶり」
彼女は高校生の時と見た目はあまり変わっていなかった。変わっているのは周りにまとう雰囲気だけだ。あの頃にはなかった、大人の雰囲気。
「あお…」
僕が言いかけて、それを遮るように彼女は言った。
「人成君、突然で悪いんだけど、話があるの」
「話」
僕は彼女の言葉を反復した。
「人成君、バンド、組んでくれない?」
「え?」
それは全く予想外のものだった。
アパートなのでばれないよう実家から荷物と一緒に持ってきたオスのメインクーン、モクローは僕の顔の横がお気に入りらしく、昔から真夜中のころにベッドに上がってきては、尻尾を僕の顔に乗せて寝る。最初は抜け毛が目に入るのでこの習慣を、文字のとおりに毛嫌いしていた。だが、それももう4年前の話だ。今となってはこのふさふさの尻尾がないと安眠できない。
ところで、なぜ僕がここまでいもしない誰かに向かって自分の飼い猫の話をしたかというと、ガッツリ授業を遅刻したからである。しかも1限だけでなく2限もだから、無駄に芸術点が高い。
というわけで、今日の予定はすっかりなくなってしまった。だからこうしてベッドに横になってかれこれ1時間、何をするでもなく猫の尻尾を顔に乗っけてぼーっとしている。だがそれにも限界があるので、
「ギターの手入れしよ」
僕はゆっくり上体を起こして掛け布団を足元に押しやると、本当に猫か疑うほど熟睡しているモクローを尻目に、ベッドから足を下ろし、やっと立ち上がることに成功した。そのままの勢いで部屋の角のスタンドに立てかけてある白いストラトキャスターを手に取って、足元に置きっぱなしになっているギターケースからクロスとポリッシュを取り出し、勉強机兼作業机に向かった。その上に白いストラトを傷かつかないよう慎重に横に置き、まずは少し湿らせたクロスで、丁寧にほこりをふき取り始めた。更にポリッシュで小一時間ほど磨くと、胴の部分は光沢を取り戻し、白いボディーは窓から入る日光をきらきらと反射させていた。
「うーん、腕がなまったぜ、こりゃあ」
その出来栄えに満足しながらも、僕は熟練の職人みたいにそう言うと、ストラトを所定の位置に収めた。手入れがひと段落したので、とりあえず大学に行くことにした。授業はなくともこのまま家にいるのは退屈だ。あんまり気が進まないが、空き教室を経由して教授たちと会わないよう我が軽音サークルの部室に行くしかない。最悪段ボールでもかぶっていくつもりだ。僕はいつものジーンズと、アニメのプリントTシャツを着ると(甲〇機動隊の奴)、ポケットに財布とスマホを突っ込み、もしもの時のために適当な参考書を入れたリュックをしょって家を出た。
「飯はコンビニだな」
時計を見ながら僕はつぶやいた。この時の僕の頭の中に学食という選択肢は無い。あそこの学食は壊滅的にまずいのだ。
コンビニでカップラーメンとオリジナルブランドのほうじ茶を買うと、最寄り駅の西松原駅に入った。ちょうど二番線の各停が出てしまったところで、五分ほど次の電車を待つことになった。
電車を待つ最中、ふと一番線のホームに目をやると、ある白いワンピースの女性に目が止まった。その人は一目見ただけでわかるとてもきれいな容姿をしていた。もっとよく観察してみると、顔つきからしてどうやら僕と世代が近いようだった。大学生だろうか、僕はその人があまりにタイプだったのと、どこか見覚えのある顔だったこともあり、目を離すことが出来なかった。
「あ」
僕は小さく声をあげた。その女の人と目が合ったのだ。僕はすぐ目をそらし、下を向いてやり過ごそうと思ったのだが、なぜか相手のほうが慌てた様子でホームを走り始めた。どうやら改札のほうに向かっている。忘れ物だろうか、ちらちらその様子を見ていると、けたたましい警笛とともに僕の待っていた電車が二番線のホームに滑り込んできた。僕は彼女の行方が気になったが、視界が電車によって遮られたため断念した。
乗り込んだ車内はがらがらだった。時間はもう一時半を過ぎているのだ、当然といえば当然だ。電車に揺られる間、僕はずっと先ほど見た女の人を思い出していた。なんというか、顔のパーツのおさまりというか、形容しがたいのだけど、とりあえず、顔がタイプだった。彼女のいる身でこんなことを思っているのはあまりよくないと思うが、そう思わずにいられなかった。
僕は渋谷についても、スクランブル交差点をわたっても、山手線に乗ってもほかのことを考えられなかった。やばい、頭からあの顔が離れない。僕は彼女に電話をかけることにした。幸いなことに電話はすぐつながった。
「もしもし?」
「ああ、幸。今大学いる?」
「いるけど、どうしたの?」
僕の彼女、府海幸はめんどくさそうにそう聞いた。彼女とはちょうど2年付き合っている。
「いや、なんとなく、声聞きたいなあって」
「声聞きたいって、人成君そんなキャラだったっけ」
「今日はそんなキャラだよ」
「えー、私そういう人好きじゃない」
相変わらず物言いがストレートだ。
「俺、もうちょっとで最寄りつくから部室でまってて」
「分かった」
駅に着いたので僕は会話を切り上げホームに降りた。降りたのは恵比寿駅だ。ここから徒歩で大学に向かう。
結局、幸との電話で彼女のことを完全に思考から消し去ることはできなかった。どうしても最初に見た時の顔が忘れられないのだ。それは一瞬だったが、僕の記憶に強烈に作用した。
一目見てわかるほど彼女は、とても辛そうだった、何かに耐えているような顔をしていた。その何かは当然分からないが、例えるなら、まるで何かに呪われているように見えた。そして、僕は同じ表情をしていた人を一人だけ知っていた。その人は、ある意味で僕に強烈なインパクトを残して、残したまま僕の前から、みんなの前から姿を消した。
「もしかして…」
僕はその答えにどきりとした。あの人、東京にはいないはずじゃないのか?本当にあの人なのか?
考えているうちにかなり早足になっていたようで、あっという間に目的地に着いてしまった。
目的地とは、そう、中下大学渋谷キャンパスだ。ここの学生である僕が言うのもなんだが、いわゆるFラン大学である。
僕は一旦裏門から中に入ると、いつから放置されているのか分からないビオトープを抜け、部室のあるB棟にたどり着いた。渡り廊下からそっと中に入ると、ダッシュで廊下を疾走し、階段を駆け上がり、やっとの思いで三階に到達すると、その勢いのまま、ちょうど階段を上がったところにある部室に転がり込んだ。
「おう、ヒトナリ。お疲れ」
扉の近くであおむけに倒れる僕にそう声をかけるイケメンは、友達の加賀良人だ。
「いい加減ジンセイって呼べよ、良人」
息も切れ切れに僕はそう突っ込んだ。
「そうだぞ加賀、こいつのことは…」
「黙れ岡志」
今、多分しょうもないことを言おうとしたのが多田岡志。こいつも僕の友達で、大学生にもなっていまだに下ネタが大好きな野郎で、勿論モテない。そんな多田が思い出したように言ってきた。
「バテてるとこ悪いんだけどな、辺野。おまえのこと探してる奴いたぞ。結構美人だった」
そして僕の名前は辺野人成、これでへんのじんせいと読む。結構珍しい名前だと思う。てか、
「俺のこと探してる奴がいた?だれだよそれ」
「名前はわからなかったけど、学生課でお前のこと話してたぞ。」
「誰だ?」
美人ってもしかして…、いや流石にないか。
「学生課ってここの一階だよな。あがってきてるんじゃないか?三階に」
「覗いてみろよ、廊下」
二人に言われるまま廊下を見てみたが、人影は全くない、だれもいなかった。僕は次に階段を覗いてみた。そこに人影は、あった。白いワンピースを着た女性が三階に続く階段を上がってきていた。
「あの」
僕は思わず声をかけた。その女性は一番上に立つ僕を見上げると目が合った。そして言った。
「人成君?」
僕はどきりとした。それは初対面の人が自分の名前を知っていたということではない。僕はその声と言葉に確かな覚えがあった。
「…青井空」
青井空、僕の高校時代の同級生、そして僕の初恋の人だ。
「やっぱり人成君だ!」
彼女は嬉しそうにそういうと階段を一段飛ばしで上がると、僕の目の前に立った。
「久しぶり!」
「久しぶり」
彼女は高校生の時と見た目はあまり変わっていなかった。変わっているのは周りにまとう雰囲気だけだ。あの頃にはなかった、大人の雰囲気。
「あお…」
僕が言いかけて、それを遮るように彼女は言った。
「人成君、突然で悪いんだけど、話があるの」
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