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第三章 『嫌な展開』

羽衣冬の足あと

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「ふぅ、疲れた疲れた」
「そうですね。羽衣さんには申し訳ないですが、思った以上に疲労が溜まりますよね」
「申し訳ないなんて思う必要ないわよ、あの子に」
「そ、そうでしょうか。まぁ、メイさんがそう仰るのも無理はありませんが……。そんなことより、一つ、訊いてもいいですか?」
 ぴたりと歩みを止め、人差し指を天井に向けた愛ちゃん。それに合わせて加納院さんもその場で止まり、「何を?」と質問する。
「羽衣さんのことなのですが、『トラウマ』とは一体どんなものなのでしょうか?」
 訊くか訊かないか、愛ちゃんは頭の中で相当葛藤していたのだろう。言い終えた今でも少し後ろめたそうな表情である。
「どんなもの、ねぇ。……あまり人の過去をべらべらと喋りたくはないけど、匂わせるようなことを言った私が悪いものね──冬には、過去のこと聞いたって絶対に言うんじゃないわよ?」
 俯き加減で腕を組んだ加納院さん。愛ちゃん、俺、小熊さんの順に目配せし、彼女はおもむろに口を開く。
「……もう十年以上も前のことなんだけど、とある地域に、互いに支え合いながらつつましく暮らしている夫婦が居たの。夫の給料はあまり多いとは言えないみたいだったけど、妻もパートをしながら家計を支えていたらしいわ。
 夫にはパチンコ好きな同僚がいて、時折誘われることもあったようだけれど、彼はずっと断り続けてきたの。でも、ある日突然、その同僚の羽振りが良くなったものだから、夫はパチンコというものに少し興味を示したみたい。そのことを件の同僚に話して、社会勉強のつもりで店に向かったの。
 その日の夫の調子がよかったのか、なんと魔法にでもかけられたみたいに、がっぽり儲けたんだとか。経験初日にこんなに良い思いをしちゃった夫は、勿論毎日のようにパチンコに通うようになったわ。それだけならまだ良かったんだけどね。例の同僚とすっかり仲良くなった彼は、色んなギャンブルの知識を得て、その沼に嵌まり込んでしまったわ。
 昔からコツコツと貯めてきた夫婦のお金を全て使い尽くし、未遂で終わったけど、社員の財布から一万円札を盗み取ろうとまでした夫。気づいた頃には解雇され、家も真新しいマンションから小汚いアパートに変わっていたの。
 そんな頃、冬とその姉はこの世に誕生してしまった。二人は双子だったけど、まるでそれぞれが別の遺伝子を受け継いだみたいに、異なった外見をしていたらしいわ。私は姉の方を見たことがないから分からないけど、冬が容姿端麗ってことはつまり、姉はそうじゃなかったんでしょうね。
 彼女達姉妹の存在がきっかけとなって、妻は夫に離婚を切り出したの。けれど夫はそれに応じなかった。美人で性格も良くって、旦那に尽くしてくれる最高の女性を手放したくなかっみたいよ。
「離婚してくれないのならせめて、働いてよ」って妻は頼んだみたいだけど、夫は「ふざけるな! 今まで俺が稼いできたんだから今度はお前の番だろう!」と返すだけ。自分が楽をして生活するには、力とか圧で支配する方法しかないとでも考えてたんでしょうね。
 そんな夫を説得する術はなく、一人で働き出す妻。家に帰れば、家事に育児に夫からの暴行が待っている日々……。相談できる相手も居なくて、本当に辛い状況だったみたい。
 それでも『娘』の存在に励まされ、妻は頑張って生きていたの。母親の愛よね。夫にも、「娘達だけは傷付けないで」って頼んでいたみたいだから、相当大事にしていたことが分かるわ。
 でも所詮、口約束よ。娘達が十歳になった頃、とうとう夫は手を出してしまった。それを知った妻はいても立ってもいられず、夫を刺し殺してしまったらしいわ」
「え!? じゃあその殺害の瞬間が、羽衣さんのトラウマってこと?」
 “殺してしまった”という単語に驚愕し、結構なボリュームで喋り出してしまう。まさかあの自由奔放な羽衣さんが、そんな経験をしていたとは夢にも思わなかったからである。
「違うわ、多田さん。あの子のトラウマは、父親という存在なの」
「父親……そのもの?」
「そうよ。冬は幼い頃からずっと、薄汚い恰好をした、飲んだくれの父の姿を見てきた。勿論、母に暴力を振るっているところも全てね。だから姉妹の間で、彼は『最悪な男』って呼ばれていたの。……これでもう、分かったでしょ? 冬が躍起になって、「自分は最悪じゃない」と主張した理由」
「う、うん……」
 過去とは、その人を見ただけでは判断できない。そんなのは当たり前である。
 だが、これはあまりにも、ショッキングというか、なんというか……意外過ぎる。
「しかし、そのような事を経験していらっしゃるというのに、何故現在のような性格に?」
 不服そうな顔の小熊さん。言われてみれば、確かに不思議だ。
「あぁ……、それね。ざっくり言うと、羽衣家に引き取られてからというもの、とんでもないくらいに甘やかされたからなのよ。情けない話だけど」
「そうなのですね。確かに、甘やかされても何らおかしくない美しさですもんね」
 事情が事情とはいえ、殺人犯の娘であることには変わりない。普通なら少し避けてしまうというか、警戒するというか、進んで「この子を娘として受け入れよう」とはならないだろう。
 羽衣さんの現両親がそんなものを気にしない人だったのか、はたまた羽衣さんの美しさが警戒心などを払拭してしまう程のものとして彼らの瞳に映ったのか、それは定かではない。
 ただ一つ確かなのは、俺の中での羽衣さんの印象が、少し変わったということだけだ。
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