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第四幕〈クラウド〉
宿主と龍の御徴 3
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レスタは昔から乗馬は得意だ。
ただしそれはあくまで娯楽としての乗馬であって、ここまでの長時間、それも数日に及ぶ長距離の移動など真似事ですら経験にない。
おかげで通常の馬車移動に較べて格段の時短になった反面、レスタは全身の筋肉痛に苦しめられることになった。
食事と睡眠と小休止、それ以外のすべての時間を早駆けの馬上で過ごしているのだから無理もない。
思えばこの距離の移動は、レスタがナーガの帝都から帰国したとき以来だ。
もっともあのときは特使が本来ありえない顔ぶれだったため、急ぎとはいえ移動はもっぱら箱馬車だった。
確かナーガの移動に七日、ブァンレイクの移動に五日かかった。馬車ではあれが限界だったと思う。
今回は四日でノエルの領都までたどり着いたので、ここからナーガの帝都までは六日以内を目指したいところだが。
「それならば是非、湯治をなさって行かれませ」
出迎えたノエル夫人の勧めを受けたレスタは、今回ばかりはゆっくりめの休憩で身体を休めることにした。
まず温めの湯で疲れを癒し、次に熱めの湯で全身をしゃっきりさせ、最後にまた温めの湯に少し浸かった。
湯浴みのあとは城代の手で全身をほぐしてもらいながら、ついでに国境周辺の近況を聞くことにした。個別にかかる時間を惜しんだレスタの指示だ。
内容は先日シドが耳にしたカムリ領の賑わいであったり、その詳細であったりした。
カムリの本邸に立ち寄ったシドは、近々レスタがこちらへ訪れることを彼らに伝え、その際レスタにカムリの近況を伝えてくれるよう事前に頼んでいったらしい。
領どころか帰属する国すら違うのに図々しいことこの上ないが、二つ返事で承諾したカムリの連中も大概だ。
むろん彼らの多くはレスタと接したことのある者たちばかりだ。
そしてその中には、訳ありの人物もひとり混じっていた。
レスタの到着を待ってノエル本邸を訪れたのは、レスタがカムリに預けたイゼルの元従者だった。
カインは新たに身につけたナーガ流の一礼で、レスタに過日の感謝を伝えた。
それからすぐ、話題はカムリの近況に移った。
賑わいの理由は言わずと知れた辺境伯総領の成人の祝いだという。
多くの隊商が入れ替わり立ち替わり帝都からやってきて、カムリの領都を中心にさまざまな市が立っているらしい。
「六月からずっとです。かなり長いですね」
確かに、かれこれ二ヶ月以上というのは長い。
たとえ領主の慶事とはいえ、通常はひと月も賑わえば充分長期と言えるだろうに。
「先月は一旦落ち着いていたようですが、今月に入ってからはまた賑やかです。どちらしても今年は秋までこんな感じだそうで、カムリというよりナーガそのものが今年は慶事の年らしく、誰もが朝廷の神事が重なるのは喜ばしいと言っていました」
「…慶事か、…そうだな」
今年はクラウドが成年を迎えた。
それはすなわちナーガが龍の太子を得たということで、まさしく国を挙げての慶事であり、神事でもある。
ナーガは皇子が誕生したからといって、それを大々的に公布することはない。隠すのではなく、単にその必要がないからだ。
そして玉座に君臨する帝であっても、己の後継だけは己で選ぶことが叶わない。
玉座を継ぐのは龍神のさだめた龍の太子、これに外ならないからだ。
ナーガの民がそういった事情や詳細を知ることはまずないが、それでも今年の降臨の儀に立太子礼が執り行われ、次代の御名が公布される運びだというのは市井にもすでに伝わっている。
だからこそ立太子礼は民にとっても特別な慶事なのかもしれない。
何しろナーガの今上帝はかなりの高齢のはずだ。皇孫の世代ですらクラウドより少し年上ではなかったか。
そうなると、これは立太子から帝位継承までそう遠い話ではないのかもしれない。
仮に二十なら、あと二年。急に現実味を帯びてくる話だ。
それでもユアルはまだ十七で、成人まであと一年足りない。
「……こっちはこっちで難しいな…」
喫緊ではないにしろ、それでもこんな状況だといろいろ考えてはじめてしまう。
報告を聞き終えたレスタはカインを下がらせ、ついでに客室の人払いを指示した。
さて、全身さっぱりしたところで着替えを済ませ、ここ数日ですっかり慣れた旅装の乗馬服に身を包んだレスタは、最後に髪を整えてから客室のソファに身を沈めた。
おそらくクラウドの立場を知っているのは、ナーガの高位貴族ですら正確なところはごく少数だろう。
当事者と国の中枢を除けば、兄のリヒトと、そしてレスタ。
レスタは龍神の巫者という立場にあるので、そういう意味では当事者に近い。
だとしたら、いま現在のクラウドの状況を知るのも、ごく限られた人物だけなのかもしれない。クラウドの立場ではなく、レスタが案じるクラウドのいまの状況だ。
「……どう思う、このちぐはぐ感」
レスタの問いに城代は思案顔で頷いた。
横並びのソファに腰をおろし、人払いをしたとはいえ、念のため声は小さく。
「ちぐはぐではあるが、いずれの状況であれ国の慶事ということだろうな」
西の離宮の城代、レスタの育ての父ともいわれるブレダ・クルムは、完全な部外者にして唯一クラウドの事情と立場を知る者だ。
春にクラウドが離宮に滞在した際、レスタが少し意外に思ったほどクラウドは城代を気に入っていた。対する城代もそうだった。
性格も気性もまったく似ていないのに、どちらもそれぞれ自然体の対応で、なるほどこういうのを馬が合うと言うんだなと感心まじりに思ったほどだ。
それに城代はレスタとクラウドの関係も理解している。
彼らの感情も、この先のレスタの選択も、クラウドの重い立場も。
だからこそレスタの最も身近な大人として、彼らの客観的な味方でいてくれている。それがどれほど心強く有り難いことか。
「慶事にかこつけて隠蔽する、じゃなくてか?」
「…いや、おそらく何らかの異変がクラウド殿の身に起きているのは確かだと思うが、ただそれも含めて、すべてが予定調和だとしたらどうだ?」
「……それは俺も考えた、…けど、」
「腑に落ちないか」
「…ていうか」
これが予定調和だとしたら、はっきりいってレスタは蚊帳の外だ。
誰より当事者に近い関係者がこんなに振りまわされる予定調和なんてあるか?
これまでレスタは龍神の巫者を自認してきたつもりでいたが、これでは自認ではなくただの自称だ。
そして当然そんなわけはなく、だからよけいにしっくりこない。
「たぶん違うと思う…」
「…では、逆に何かが予定調和を外れたんだろう」
「………」
その何かが収まるところに収まれば、たぶん事態は好転するはずだ。
とはいえ、立太子礼を目前に控えたクラウドにとって、何が予定調和で、何がそうではないなのか。
これまでは何の問題もなかった。
それがこの期に及んで重要な齟齬を見落としていたのだとしたら、それは何だろう。
最初はただ不測の事態が起きたのだと思っていたが、起きただけでなく、対処のための何かが足りなかったのだとしたら。
ナーガの次代、龍の太子として、クラウドに必要不可欠な要素。
「…あ、」
まさしく正鵠を得た答えに、レスタは小さく声をあげた。
「―― 俺だ」
レスタはクラウドの、龍神の巫者だ。
そのレスタがクラウドの傍にいないことで、立太子礼を控えたクラウドの身に不測の事態が起きたのかもしれない。
そもそも龍神の巫者が龍国にいないということ自体、稀といえば稀のはずだ。
(…うっかりしてた……)
こんなことなら最初から立太子礼に参列するつもりで、この夏の予定を立てておけばよかった。
春は静養がてら辺境で過ごしたし、十月には貴賓を招いての秋の式典が控えていたので、夏くらいおとなしくしておこうと思ったのだ。
もともと降臨の儀も立太子礼もナーガ国内の行事だし、秋にまた会えるならいいかと思ったのもある。
早い話が、こんなことになるとは思わなかった。
いまさら言っても仕方がないので、レスタは気合いを入れ直して残りの旅程を急ぐことにした。
さいわい五日ぶりにしっかりした休憩も取れたし、身体の痛みもだいぶほぐれた。
小蛇は移動用の小さな巾着袋の中だ。それを腰のベルトに括りつけたレスタは、城代と近衛とともにノエル邸をあとにした。
国境の橋を渡ったとき、少しの頭痛と声を聴いた。
呼ばれているような感じだった。
結局のところレスタは、龍神の巫者という己の立場を自覚しつつも、それが実際どういった役割を持っているのか、そこまでは理解が及んでいなかった。
信仰の厚い薄いはべつにして、大陸で龍神を奉る国は少なくない。
仮に呼び方が違っても、精霊や霊獣といったべつの括り、べつの呼び名で総体的に信仰し、龍神をはじめとした人智の及ばぬ存在には誰もが自然の畏怖を感じている。信心の薄いとされるヴァンレイクでもそれは同じだ。
そんな大陸でナーガだけが〈龍国〉という尊い二つ名で呼ばれているのは、ナーガこそが龍神の棲まう唯一の国だからだ。
人びとのこころが創り生みだした宗教ではなく、そこに厳然と存在するモノ。
信仰などするもしないも万人の自由だが、否定だけは誰にもできない。なぜなら実在しているからだ。
これまでの数度の接触を経て、レスタも少しずつそれを知ってきたところだった。
だからつまり早い話、レスタはまったくの知識不足、認識不足だったわけだ。そして肝心のクラウドでさえ、きっとそこまで深くは理解していなかった、と思われる。
理解していれば辺境で再会した際にレスタに伝えていたはずだ。
結局どちらも宿主や巫者について、知識も認識も不足だったとしか言いようがない。
これについてはレスタが帝都に到着し、クラウドと再会したあとで諸々片づけていくことになるわけだが。
果たして、ナーガに入って六日目の朝。
帝都まではまだあるものの、昨夜遅くに郊外の宿で夜を明かし、残りの道を急ぐべく早朝から出立の支度をしていた。
夏は夜明けが早いため、気温が上がりきるまえの早朝の行動は必須だ。距離的にも時間的にも午前中のうちに帝都の城下に入れるはずなので、なるべく昼までにはカムリの官邸に到着したかった。
レスタ来訪の経緯はシドに持たせた書簡で報せておいたし、もしいまクラウドが屋敷以外のべつの場所、たとえば治療院や神殿などで過ごしているとしても、双方速やかに動けるだろう。
さすがに楽観視はできないが、無事であってくれればいいと思う。
宿の室内で手早く朝食を済ませたレスタは、ナーガ貴族がお忍びで着用するような平服姿で部屋を出た。
―― そして、
「レスタ・セレンというのは貴殿か。すまないがご同行願おう」
階下の受付で待ち構えていた物々しい様相の騎士数名から、なぜかいきなり慇懃無礼に行く手を遮られたのだった。
何だコレは。どんな連絡の行き違いだ。
ただしそれはあくまで娯楽としての乗馬であって、ここまでの長時間、それも数日に及ぶ長距離の移動など真似事ですら経験にない。
おかげで通常の馬車移動に較べて格段の時短になった反面、レスタは全身の筋肉痛に苦しめられることになった。
食事と睡眠と小休止、それ以外のすべての時間を早駆けの馬上で過ごしているのだから無理もない。
思えばこの距離の移動は、レスタがナーガの帝都から帰国したとき以来だ。
もっともあのときは特使が本来ありえない顔ぶれだったため、急ぎとはいえ移動はもっぱら箱馬車だった。
確かナーガの移動に七日、ブァンレイクの移動に五日かかった。馬車ではあれが限界だったと思う。
今回は四日でノエルの領都までたどり着いたので、ここからナーガの帝都までは六日以内を目指したいところだが。
「それならば是非、湯治をなさって行かれませ」
出迎えたノエル夫人の勧めを受けたレスタは、今回ばかりはゆっくりめの休憩で身体を休めることにした。
まず温めの湯で疲れを癒し、次に熱めの湯で全身をしゃっきりさせ、最後にまた温めの湯に少し浸かった。
湯浴みのあとは城代の手で全身をほぐしてもらいながら、ついでに国境周辺の近況を聞くことにした。個別にかかる時間を惜しんだレスタの指示だ。
内容は先日シドが耳にしたカムリ領の賑わいであったり、その詳細であったりした。
カムリの本邸に立ち寄ったシドは、近々レスタがこちらへ訪れることを彼らに伝え、その際レスタにカムリの近況を伝えてくれるよう事前に頼んでいったらしい。
領どころか帰属する国すら違うのに図々しいことこの上ないが、二つ返事で承諾したカムリの連中も大概だ。
むろん彼らの多くはレスタと接したことのある者たちばかりだ。
そしてその中には、訳ありの人物もひとり混じっていた。
レスタの到着を待ってノエル本邸を訪れたのは、レスタがカムリに預けたイゼルの元従者だった。
カインは新たに身につけたナーガ流の一礼で、レスタに過日の感謝を伝えた。
それからすぐ、話題はカムリの近況に移った。
賑わいの理由は言わずと知れた辺境伯総領の成人の祝いだという。
多くの隊商が入れ替わり立ち替わり帝都からやってきて、カムリの領都を中心にさまざまな市が立っているらしい。
「六月からずっとです。かなり長いですね」
確かに、かれこれ二ヶ月以上というのは長い。
たとえ領主の慶事とはいえ、通常はひと月も賑わえば充分長期と言えるだろうに。
「先月は一旦落ち着いていたようですが、今月に入ってからはまた賑やかです。どちらしても今年は秋までこんな感じだそうで、カムリというよりナーガそのものが今年は慶事の年らしく、誰もが朝廷の神事が重なるのは喜ばしいと言っていました」
「…慶事か、…そうだな」
今年はクラウドが成年を迎えた。
それはすなわちナーガが龍の太子を得たということで、まさしく国を挙げての慶事であり、神事でもある。
ナーガは皇子が誕生したからといって、それを大々的に公布することはない。隠すのではなく、単にその必要がないからだ。
そして玉座に君臨する帝であっても、己の後継だけは己で選ぶことが叶わない。
玉座を継ぐのは龍神のさだめた龍の太子、これに外ならないからだ。
ナーガの民がそういった事情や詳細を知ることはまずないが、それでも今年の降臨の儀に立太子礼が執り行われ、次代の御名が公布される運びだというのは市井にもすでに伝わっている。
だからこそ立太子礼は民にとっても特別な慶事なのかもしれない。
何しろナーガの今上帝はかなりの高齢のはずだ。皇孫の世代ですらクラウドより少し年上ではなかったか。
そうなると、これは立太子から帝位継承までそう遠い話ではないのかもしれない。
仮に二十なら、あと二年。急に現実味を帯びてくる話だ。
それでもユアルはまだ十七で、成人まであと一年足りない。
「……こっちはこっちで難しいな…」
喫緊ではないにしろ、それでもこんな状況だといろいろ考えてはじめてしまう。
報告を聞き終えたレスタはカインを下がらせ、ついでに客室の人払いを指示した。
さて、全身さっぱりしたところで着替えを済ませ、ここ数日ですっかり慣れた旅装の乗馬服に身を包んだレスタは、最後に髪を整えてから客室のソファに身を沈めた。
おそらくクラウドの立場を知っているのは、ナーガの高位貴族ですら正確なところはごく少数だろう。
当事者と国の中枢を除けば、兄のリヒトと、そしてレスタ。
レスタは龍神の巫者という立場にあるので、そういう意味では当事者に近い。
だとしたら、いま現在のクラウドの状況を知るのも、ごく限られた人物だけなのかもしれない。クラウドの立場ではなく、レスタが案じるクラウドのいまの状況だ。
「……どう思う、このちぐはぐ感」
レスタの問いに城代は思案顔で頷いた。
横並びのソファに腰をおろし、人払いをしたとはいえ、念のため声は小さく。
「ちぐはぐではあるが、いずれの状況であれ国の慶事ということだろうな」
西の離宮の城代、レスタの育ての父ともいわれるブレダ・クルムは、完全な部外者にして唯一クラウドの事情と立場を知る者だ。
春にクラウドが離宮に滞在した際、レスタが少し意外に思ったほどクラウドは城代を気に入っていた。対する城代もそうだった。
性格も気性もまったく似ていないのに、どちらもそれぞれ自然体の対応で、なるほどこういうのを馬が合うと言うんだなと感心まじりに思ったほどだ。
それに城代はレスタとクラウドの関係も理解している。
彼らの感情も、この先のレスタの選択も、クラウドの重い立場も。
だからこそレスタの最も身近な大人として、彼らの客観的な味方でいてくれている。それがどれほど心強く有り難いことか。
「慶事にかこつけて隠蔽する、じゃなくてか?」
「…いや、おそらく何らかの異変がクラウド殿の身に起きているのは確かだと思うが、ただそれも含めて、すべてが予定調和だとしたらどうだ?」
「……それは俺も考えた、…けど、」
「腑に落ちないか」
「…ていうか」
これが予定調和だとしたら、はっきりいってレスタは蚊帳の外だ。
誰より当事者に近い関係者がこんなに振りまわされる予定調和なんてあるか?
これまでレスタは龍神の巫者を自認してきたつもりでいたが、これでは自認ではなくただの自称だ。
そして当然そんなわけはなく、だからよけいにしっくりこない。
「たぶん違うと思う…」
「…では、逆に何かが予定調和を外れたんだろう」
「………」
その何かが収まるところに収まれば、たぶん事態は好転するはずだ。
とはいえ、立太子礼を目前に控えたクラウドにとって、何が予定調和で、何がそうではないなのか。
これまでは何の問題もなかった。
それがこの期に及んで重要な齟齬を見落としていたのだとしたら、それは何だろう。
最初はただ不測の事態が起きたのだと思っていたが、起きただけでなく、対処のための何かが足りなかったのだとしたら。
ナーガの次代、龍の太子として、クラウドに必要不可欠な要素。
「…あ、」
まさしく正鵠を得た答えに、レスタは小さく声をあげた。
「―― 俺だ」
レスタはクラウドの、龍神の巫者だ。
そのレスタがクラウドの傍にいないことで、立太子礼を控えたクラウドの身に不測の事態が起きたのかもしれない。
そもそも龍神の巫者が龍国にいないということ自体、稀といえば稀のはずだ。
(…うっかりしてた……)
こんなことなら最初から立太子礼に参列するつもりで、この夏の予定を立てておけばよかった。
春は静養がてら辺境で過ごしたし、十月には貴賓を招いての秋の式典が控えていたので、夏くらいおとなしくしておこうと思ったのだ。
もともと降臨の儀も立太子礼もナーガ国内の行事だし、秋にまた会えるならいいかと思ったのもある。
早い話が、こんなことになるとは思わなかった。
いまさら言っても仕方がないので、レスタは気合いを入れ直して残りの旅程を急ぐことにした。
さいわい五日ぶりにしっかりした休憩も取れたし、身体の痛みもだいぶほぐれた。
小蛇は移動用の小さな巾着袋の中だ。それを腰のベルトに括りつけたレスタは、城代と近衛とともにノエル邸をあとにした。
国境の橋を渡ったとき、少しの頭痛と声を聴いた。
呼ばれているような感じだった。
結局のところレスタは、龍神の巫者という己の立場を自覚しつつも、それが実際どういった役割を持っているのか、そこまでは理解が及んでいなかった。
信仰の厚い薄いはべつにして、大陸で龍神を奉る国は少なくない。
仮に呼び方が違っても、精霊や霊獣といったべつの括り、べつの呼び名で総体的に信仰し、龍神をはじめとした人智の及ばぬ存在には誰もが自然の畏怖を感じている。信心の薄いとされるヴァンレイクでもそれは同じだ。
そんな大陸でナーガだけが〈龍国〉という尊い二つ名で呼ばれているのは、ナーガこそが龍神の棲まう唯一の国だからだ。
人びとのこころが創り生みだした宗教ではなく、そこに厳然と存在するモノ。
信仰などするもしないも万人の自由だが、否定だけは誰にもできない。なぜなら実在しているからだ。
これまでの数度の接触を経て、レスタも少しずつそれを知ってきたところだった。
だからつまり早い話、レスタはまったくの知識不足、認識不足だったわけだ。そして肝心のクラウドでさえ、きっとそこまで深くは理解していなかった、と思われる。
理解していれば辺境で再会した際にレスタに伝えていたはずだ。
結局どちらも宿主や巫者について、知識も認識も不足だったとしか言いようがない。
これについてはレスタが帝都に到着し、クラウドと再会したあとで諸々片づけていくことになるわけだが。
果たして、ナーガに入って六日目の朝。
帝都まではまだあるものの、昨夜遅くに郊外の宿で夜を明かし、残りの道を急ぐべく早朝から出立の支度をしていた。
夏は夜明けが早いため、気温が上がりきるまえの早朝の行動は必須だ。距離的にも時間的にも午前中のうちに帝都の城下に入れるはずなので、なるべく昼までにはカムリの官邸に到着したかった。
レスタ来訪の経緯はシドに持たせた書簡で報せておいたし、もしいまクラウドが屋敷以外のべつの場所、たとえば治療院や神殿などで過ごしているとしても、双方速やかに動けるだろう。
さすがに楽観視はできないが、無事であってくれればいいと思う。
宿の室内で手早く朝食を済ませたレスタは、ナーガ貴族がお忍びで着用するような平服姿で部屋を出た。
―― そして、
「レスタ・セレンというのは貴殿か。すまないがご同行願おう」
階下の受付で待ち構えていた物々しい様相の騎士数名から、なぜかいきなり慇懃無礼に行く手を遮られたのだった。
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