この手を、握り返したら

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葉月

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 八月に入ってもテレビのニュースでは連日の暑さを伝えていた。アナウンサーは頼みもしないのに多彩な表現でそれを何度も強調する。
 
 各地で記録的な温度を観測し、熱中症患者数。エアコン業者の嬉しい悲鳴。アイスの売れすぎによる販売一時停止などがニュースになっていた。
 
 小豆アイスが好物の丘の上はるは、もう少しアイスを買い溜めしておけば良かったと後悔していた。

 幅広い年齢層に人気があるこのアイスは、スーパーの売り場からその姿を消した。
 
 惜しむようにアイスの棒を口にくわえながら学校の門をくぐる。演奏の練習は連日続いていた。
 
「彦根。出だしの頭、やっぱもう少し抑え気味で頼む」
 
 練習場である音楽教室内で中津川守の指示が飛ぶ。音を出しては止め、また音を出していく。延々とその繰り返しだ。
 
 はるは最後までちゃんと通しで曲を演奏しなくても良いのかと質問する。
 
「もちろんそれが一番なんだけどな。練習でクリア出来るパートをやるより、苦手で上手く行きにくい箇所を繰り返し練習したいんだ」
 
 守が言うには、本番では練習で出来た成果を六割出せればいい方らしい。それだけ本番は緊張を伴い難しい物らしい。
 
「え? だって歌は歌でしょ? それ以外何かあるの?」
 
 はるは守に渡された曲を歌詞さえ見れば歌えるようにまでになっていた。だが、それだけでは駄目だと守から注文される。
 
「丘ノ上に覚えてもらう歌はさ。有名な曲ばかりで歌詞も皆知ってる。でもそれをコピーして歌うだけじゃ意味がないんだ」
 
 守の言っている事がはるには分からない。同じように歌うだけでは何が問題なのか。
 
「曲にはさ。それぞれテーマがちゃんとあるんだ」
 
 それぞれの曲のテーマをメンバー全員が理解し、同じ方向を向いて演奏する事が大切だと守は言う。
  
「例えばさ。さっき練習した曲、丘ノ上は歌っててどう思った? 歌詞の内容とかさ」
 
 守は「Goodbye my  dear star」と言う曲を引き合いに出した。十代から二十代の女性に人気がある女性シンガーの曲だ。
 
「ええと。好きな人に会えなくて。あっちこっち探して大変かな」
 
 ボーカルの返答を聞き、守はハリセンがあったら確実に彼女の頭を叩いていたとため息をつく。
 
「い、いや。そうじゃなくてさ。例えば丘ノ上が彼氏とずっと会えなかったらどう思う?」
  
 守の親切かつわかり易い質問に、はるは両腕を組み神妙な面持ちで考え込む。
 
「······彼氏いた事ないから、分かんないんだけど」

「そ、そうか。じゃあ好きな人と会えなくなったらどう思う?」
 
 守の更に寛容な問いかけに、はるは組んでいた左手を唇に当てて数秒黙り込む。
 
「······好きな人も出来た事ないから分かんない」
 
『一体どんな乾いた学生生活送って来たんだ、このサボテン女!!』
 
 と、いう台詞を口から出る寸前で、中津川守は言葉を飲み込んだ。守は心の中で嘆き悲しんだ。なんだってこんなサボテン女を好きになったのかと。
 
『······俺。今なんて言った? 誰を好きになったって?』
 
 守が石像のように動かない。自分自身で気づかなかった。否。認めようとしなかったか気持ちが、突然どこからかこぼれ落ちてきた。

 落ちて来た物をたまたま拾ってしまった。そこには、自分の好きな人の名前が書かれていた。
 
 中津川守の好みは可愛い女子か。美人な女子だった。中学の時も。高校一年生の時も。皆が羨む女子と付き合っていた。

 好みの女子に近づき、仲良くなって付き合う。守にとっての恋愛は分かりやい物だった。
 
 だが今この時は違った。別に好みでも無かった外見のこのサボテン女子に何故惹かれるのか。笑顔一つ見ただけでなぜ心が乱されるのか。
 
 守の今までの恋愛とは何もかもが違った。だからやり方がまるで分からなかった。このサボテン女と一体どうすれば正解なのかと。 
 
 途方に暮れた守は、茶色く染まったその髪を無造作にかき上げていた。
 
 その日は午後から危険な気温になると予報があったので、練習は午前中で切り上げられた。教室を軽く清掃し短くミーティングをしてメンバーは解散した。
 
 携帯電話を持っていないはると徹には、練習日が書かれているスケジュール表が渡されていた。守が作成したものだか、本番までの段取りが分かりやすく書かれていた。
 
 文化祭当日の日付には〔お楽しみの時間!〕と書かれていた。
 
 中津川守は案外マメな奴かもしれない。はるはそう思いながら廊下を歩いていた。家の鍵が入ったポーチを忘れた為、音楽室に戻る途中だった。

 しかし音楽室の鍵を持っている高坂はもう帰宅している筈だった。おそらく鍵は閉まっていると思われた。
 
 扉に手をかけると、予想に反して鍵はかけられていなかった。高坂にしては珍しく鍵をかけ忘れたのか。だか、はるにとっては幸運だった。
 
 扉を開けると、中からピアノが聴こえてきた。あの時の曲。はるは直ぐに分かった。高坂徹が音楽教室で一人残っていた。
 
「あ。どうしたの?丘の上」
 
 徹は指を止め、ズレた眼鏡を直しながら顔を上げた。
 
「うん。忘れ物。高坂がまだ居てくれて助かったよ」
 
 はるは机の中に入れていたポーチを手に取った。
 
「一人で自主練習?」
 
 はるはポーチを団扇代わりに顔を扇ぐ。ここは空調が効いているとは言え、外から来たばかりだと汗が止まらない。
 
「うん。それもあるけど、静かな場所で一人で弾くの好きなんだ」
 
 徹は両手を上に伸ばし、軽いストレッチをする。
 
「あ。なんかそれ分かる。誰も居ない体育館とか私も好き。聞こえてくるの蝉の鳴き声だけとか」
 
 徹は一瞬キョトンとする。そしてその光景を徹は想像してみた。
 
「確かに。そこでボーッとするのも悪くないね」

 徹は無邪気な笑顔を返してくる。
 
『今から二人で体育館行ってみる?』
 
 はるの頭にその言葉が浮かんだか、すぐに止めた。自分は何を言おうとしたのだろうか。相手の迷惑も考えずに。

 行きたければ自分一人で行動すればいいのにと。内心、かなり動揺したはるの一重の瞳は激しく泳いでいた。
 
「丘ノ上?」
 
 はるの瞳が迷走しているのを心配したかの様に徹が声を掛ける。
 
「い、今弾いてたの。前に高坂が歌っていた曲だよね。確か「君を想うって曲」だったっけ」
 
 その言葉に徹は一瞬固まった。が。すぐに平静を取り戻した。徹は以前この曲を歌っていた時、それをはるに聴かれていた事があった。
 
「今日は歌っていなかったね」
 
 徹はまた固まってしまった。せっかく取り戻した平静さが足早に去っていく。
 
「う、歌わないよ。前にも言ったけど。俺。酷い音痴なんだよ」  
 
 はるはピアノの側板に寄りかかって来た。
 
「高坂の歌声。私は悪くないと思うけど」
 
 徹は自分の目を疑った。はるは悪戯っぽい表情で微笑している。彼女のこんな顔は見た事が無かった。

 先程足早に去っていった平静さは駆け足で遙か遠くに消えて行った。
 
 徹の胸の鼓動が早くなる。
 
「お、丘ノ上。もしかして歌えって要求してる?」
 
 徹の疑問を受けてはるの微笑が笑顔に変わった。
 
「無理だって。人前で歌うのは」
 
 徹は、はるの破顔した顔を見ていられず、眼鏡を直すふりをして下を向いた。
 
「そっか。残念。気が向いたらいつか聴かせてね」
 
 徹は忙しく動く心臓を持て余すと同時に、はるに近づきたいという衝動に駆られた。
 
『今から体育館に行ってみない?』
 
 徹はその言葉を間一髪で飲み込んだ。危うく考え無しに喋る所だった。必死にさっきから姿を消した平静さを探すが、何処にも見当たらなかった。
 
「じゃあピアノだけだったら聴いてもいい? あ。練習の邪魔じゃなかったら」
 
 はるの言葉に、徹の平静さは当分行方不明になりそうだった。
 
 
 
 八月もお盆休みに入り、世間はいつもの喧騒を一時的に控えていると思わせる静けさだった。
 
「こんにちは。お邪魔します」
 
 その日、音楽教室に多々野薫がやって来たのは練習の昼休憩中だった。長い髪をポニーテールにし、キャミソール姿の薫は眩しいくらい若々しかった。首から包帯でぶら下がった左腕を除いては。
 
「多々野。もう出歩いて大丈夫なん?」
 
 守が来訪者に質問し、徹と共に薫に近づく。
 
「うん。中津川君と高坂君にもお世話になったね。ありがとう」
 
 薫が二人に頭を下げる。
 
「良かった。もう一安心だね」
 
 徹がズレたメガネを直しながら微笑む。薫は奥の机に座っていた、はるの前に立った。
 
「丘ノ上さん。あの時は、助けてくれてありがとう」
 
 薫は笑顔ではるに感謝を伝えた。
  
「気にしなくていいよ。それより傷口はどうなりそう?」
 
 食事中だったはるは、行儀悪く左手にお箸を持ったままだ。
 
「ノコギリの刃が割と綺麗に入ったみたいなの。時間はかかるけど、傷跡は消えるだろうって」
 
 傷跡が残るかどうか。女子にとってどれだけ重要か男子には分からない話だろう。
 
「これお菓子なんだけど、お礼の気持ち。良かったら皆で食べて」 
 
 薫は可愛くラッピングされた包みを差し出した。
 
「ありがとう。頂くね」
 
 薫は教室に置かれている楽器を見回した。
 
「今日。皆がここにいる事も各務先生に聞いたの。文化祭で演奏するんだね」
 
 はるは流石に食事を断念しお箸をおいた。
 
「おお。多々野も良かったら聴きに来いよ」
 
 中津川守が如在なく観客を増やそうとする。薫から差し入れされた手作りクッキーは、既に男子達の餌食になっていた。
 
「うん。知り合い全員に声かけて見に行くね」
 
 薫は封筒をはるに差し出した。後で読んでねと言い残し、薫は颯爽と去って行った。
 
 薫と入れ替わりに、担任の各務勤が入って来た。両手にはジュースやお菓子が入った袋を持っている。
 
「各務先生! 差し入れあざっす!」
 
 守が調子良く愛想を振りまく。
 
「まだ何にも言ってないだろう」
 
 各務勤は苦笑しながらも袋を守に渡した。
 
「先生。当日使う機材なんとかなりそう?」
 
 袋の中身を物色しながら守は各務の方を見た。
 
「ああ。前日のリハーサルまではなんとか揃いそうだ。セッティングも俺がやるよ」
 
 守の話では、各務勤は昔バンドをやっていたらしい。そのバンド仲間から必要な機材を借りてくれるとの事だ。
 
「なんや。先生にはエライお世話になるなあ。なんかお礼せんと」
 
 彦根五郎が差し入れのチョコクッキーを早速かじる。
 
「そうだ。文化祭当日、先生にも一曲歌ってもらったら?」
 
 熊本元康が常人では有り得ない速さでクッキーを平らげながら提案した。
 
「いいじゃんそれ。先生の十八番。藤沢サンシャインの曲でさ」
 
 守も調子を合わせる。守の情報によると、各務勤は藤沢サンシャインの曲なら全てソラで歌えると言う。
 
「そんなアホな。あのバンド。二百曲以上あるで」
 
「すごいねえ。先生」
 
 五郎と元康によって、差し入れのお菓子は見る見るうちに減っていく。
 
「いや止めとくよ。若者のステージにおっさんは似合わない」
 
 各務勤はマイペースに断った。思えば各務は丘の上はるにとって不思議な先生だった。高校二年になった初日。各務の最初の話をはるはよく覚えていた。
  
「えーと。先生はとてもじゃないが、お前ら全員の面倒は見きれない。先生のプライベートの時間も削るつもりもない。だがお前らから俺に相談に来るなら話は聞く。可能な限りな」
 
 教師の責任を自ら放棄宣言しているとも取れるこの言葉に、はるは変わった教師だと思った。 
 
 実際、各務は細かい事にイチイチ小言や指導を一切しなかった。だが、生徒から声をかけられると無視したりせず話は聞いていた。
 
 この放任主義気味なやり方は、はるは楽で気に入っていた。
 
「各務先生。さっき職員室でまた万福寺先生とやり合ってたでしょ?」
 
 守が人が悪い笑顔で各務をからかう。現国の教師。万福寺妙子は、自分の教育方針と正反対な各務勤と度々口論を交わす間柄だった。
 
 各務勤はつい先程起こった口論を思い出したのか、ため息をつく。教室を出る時に各務勤は思い出したように守に伝える。
 
「中津川。そんな事より実行委員から急かされたぞ。正式なバンド名、早く決めろよ。じゃないと仮で届けてる名前で登録されるぞ」
 
「仮って。どんなバンド名なんですか?」
 
 はるは再開した昼食の合間に担任に質問する。
 
「中津川守とその他」 
 
 そう言い残し各務は去って行った。 音楽教室に不穏な空気が漂う。
 
「か、仮のバンド名だって。正式な名前が決まるまでの」
 
 八つの冷たい視線に晒されて、耐えかねたのか守は必死に弁明する。
 
「マモー怪しいで。そのまま仮のバンド名で通すつもりだったんちゃう?」
 
「中やんなら考えそうな事だね」
 
「中津川。これはちょっと酷いよ」
 
「最低」
 
 彦根五郎。熊本元康。高坂守。丘の上はるの非難の言葉に、当の本人は両手を大袈裟に振り更に抗弁する。
 
「本当だって! 信じてくれよ!」

 だが、守の熱弁は虚しく更に非難は続く。
 
「マモーは基本、私利私欲のキャラやしなあ」
 
「中やん。悪い事は出来ないね」
 
「中津川。やっぱりこれはちょっと」
 
「最低」
 
 締め上げられた守を除く四人で、バンド名を決める事になった。守は何やら小声でブツブツ言っている。
 
 四人がそれぞれ紙にバンド名を書き、それを投票で決める事になった。彦根五郎が発表していく。
 
 五重奏
 Gluttony
 Music entertainer
 セプタンブル
 
「おい。熊本。Gluttonyってどんな意味だ?」

 中津川守は不貞腐れながら熊本元康に質問する

 
「大食いって意味だよ。中やん」

「却下だ! 却下!」
 
 呑気な元康の返答を聞き、守は血相を変えて抗議した。
  
「セプタンブルって誰が書いたの?」
 
 徹が瞳に興味の色を浮かべて質問する。
 
「あ。それ私。フランス語で九月って意味らしいよ。昨日クイズ番組で言ってたの。」

「なるほど。文化祭が九月だからか。英語じゃない所がお洒落でいいね」
 
 徹の賛辞に、はるは照れ笑いを見せる。
 
「そやなあ。はるっち。いいセンスしとる」
 
「はるやんの提案でいいんじゃない?」
 
 五郎と元康も徹の高評価に共に乗っかかる。そして約一名を除くメンバーの満場一致でバンド名が決まった。茶髪とピアスの少年は、その日ずっと小声で文句を言っていた。
 
 その日、練習を終えたはるは男子達のファミレスへの誘いを丁重に断り一人体育館にいた。階段を登り二階の細い通路の床に腰を下ろす。 
 
 先程多々野薫からもらった猫の絵が書かれた封筒をカバンから出した。中には可愛らしい便箋に綺麗な字が書かれていた。

『丘ノ上さんへ あの日、私を助けてくれてありがとう。本当は丘ノ上さんて、ちょっと怖い人だと思ってました。でも今は感謝しています。これがキッカケで、友達になれればいいなと思うけど、きっと丘ノ上さんは、そう言うのは望んでないと思うので、我慢します。
 もし丘ノ上さんが何か困った事があったら、声をかけてください。私に出来る事があったら何でもします。ありがとう。
                多々野 薫 』
 
 薫の実直さが伝わる文章を読み終えたはるは、窓の外から聞こえてくる音に耳を澄ませた。運動部のかけ声がかすかに響いてくる。

 蝉の声は珍しく聞こえない。あとは無音だ。昼間とは言え体育館の中は薄暗かった。
 
 薫は、はるの性格を的確に見抜いていた。はるも特段これから薫と仲良くするつもりは無かった。
 
『可愛くない女なんだろうな。私』

 目を閉じ。耳が痛くなるような静寂の中ではるは自問自答した。自分は自分。変える事なんて。変わる事なんて出来ないと。
 
 鳴き止んでいた蝉が合唱を再開するまで、はるはその目を開かなかった。
 
 
 
 お盆休みも終わり、世間はまたいつもの喧騒を取り戻した。
 
 だか夏休み中の校舎は、そんな世間とは隔絶されたように静まりかえっている。記録的酷暑も峠を越えたのか、幾分か凌ぎやすい気温になってきた。
 
 音楽教室に茶髪とピアスの少年の声が響く。
 
「だからさ。違うんだって丘ノ上。この曲のテーマは一歩踏み出す。そう言ったろ?」
 
 中津川守はギターを床に置き、丘の上はるに歌詞を見せた。曲タイトルに〔恋船来航〕と書かれていた。最近デビューしたばかりの、人気ガールズユニットの曲だ。
 
「そこらの情感を歌に込めないと、ただのカラオケになっちまうぞ」
 
 はるは歌詞が書かれた紙を見て、黙って考え込む。
 
 守は、はるに高いハードルを求めている事は自覚していた。はるの歌声は文句無しで上手い。だか感情がまるで入っていなかった。
 
 バンド演奏が全く初めての初心者に完璧は求めないが、可能な限り精度を上げたいと守は考えていた。
 
 練習は小休止になり、はるは教室の外に出ていった。
 
「中津川。ちょっと丘ノ上に厳しいよ」
 
 高坂徹がペットボトルの水を飲みながら守に抗議する。
 
「分かってるよ。でも俺らの演奏は、アイツの歌の引き立て役だ。主役がもう少しパッとしないと、引き立て役も救われないだろ?」
 
 徹が黙り込む。それぐらい丘の上はるの歌声は常人とは一線を画している。メンバー全員が認めている所だ。
 
「はるやんって自覚ないだろうけど、たまにスイッチ入る時あるよね」
 
 熊本元康が持参してきたチョコを口に入れる。
 
「わかるでそれ。長く続かんけど、その時の歌声。鳥肌立ちっぱなしになるもん」
 
 彦根五郎の言葉は、他の三人も同意する所だった。
 
 体育館の二階ではるは休憩していた。守の言っていた事を頭の中で反芻していたが、今ひとつよく分からなかった。
 
 これは自分が今まで人間関係を遠ざけ、一人でいた事が原因なのか。普通の人には感じられる事が自分には出来ないのか。

 どうにも八方塞がりの状況に陥ってしまったはるは、練習に戻るのが憂鬱になった。
 
「丘ノ上。ここにいたんだ」
 
 徹が姿を見せたのはそんな時だった。ペットボトルの水を差し入れに来てくれたのだ。
 
「よくここって分かったね」
 
 ありがたく左手で水を受け取る。声を出す練習の後の水は格別に美味しかった。
  
「静かな体育館が好きって前に言ってたから。もしかして落ち込んでる?」
 
 徹もはるの隣に腰を降ろす。
 
「歌って。ただ歌詞通り歌えばいいと思ってた。そうじゃないんだね」
 
 はるは小さくため息をつく。
 
「感情移入が難しかったら、身近な人との事を考えたらどうかな?」

 徹のその提案に、はるは間の抜けた声を返す。
 
「身近な人?」
    
 その瞬間、はるの頭に最初に浮かんだのは徹の顔だった。慌ててはるは、それを猛然とかき消した。
 
「例えば親とか」

 そんなはるの動揺を他所に、徹のアドバイスは続く。

「お、親?」
 
 そう返すはるの左手にあるペットボトルの中の水は激しく揺れていた。
 
「親に対しての感情って、色々あるでしょう。好きとか。嫌いとか。それこそ数えきれないくらい」
 
「なんか分かるような。分からないような」
 
 徹の折角のアドバイスもはるには響かなかったが、徹は不快ではなかった。
 
 この娘はこういう娘なんだと。人と関わるのが苦手で。でも本人は、それを負い目とは思わず堂々としている。
 
 それを困らせているのは自分だと。徹はそう思った。自分の母、百合子の為にはるは慣れない集団行動を強いられ、ボーカルとしての役目に戸惑い悩んでいる。
  
「丘ノ上。俺······」
 
 徹が何か言いかけた時、校内放送が聞こえてきた。静寂の体育館には十分過ぎる程マイク音が響き渡る。
 
 それは、はるの隣にいる高坂徹を呼び出す放送だった。
 
「職員室に来いって。なんだろうね高······」
 
 はるは言いかけた言葉を中断させられた。高坂の様子がおかしいと感じたからだ。徹は目の焦点が合わず肩が震えていた。その顔は血の気が引き、蒼白になっていた。


 

 
 
 
  
 
 

 


 
 

 
 
 

 

 
 
 
 


 

 

 

 
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