この手を、握り返したら

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文月

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 その年は気象観測史上初の事が起こった。関東の梅雨がなんと六月の最終日に明けてしまったのだ。十日予報も晴れマークが並んでいる。突然夏が到来してしまった。
 
 丘の上はるは、テレビの天気予報を見ながら、今年はまだ長谷寺の紫陽花を見に行っていないと不満を漏らす。
 
 長谷寺は鎌倉にある由緒正しき寺であり、紫陽花が有名な寺でもある。ぶ厚い階段を登り切ると、観音堂の隣に眺望散策路がある。

 この散策路に、色とりどりの紫陽花が無数に咲き誇っている。そこから由比ヶ浜の海も望めた。はるが住んでいる街から鎌倉までは小一時間程で、ちょっとした小旅行気分が味わえた。
 
 はるは悔しがる。梅雨の小雨が降るいい雰囲気の時に見に行こうと思っていたのだ。見頃の一番いい時に。炎天下の中、紫陽花を見る気にはあまりなれなかった。
 
「本当は力餅が食べたいだけでしょ」
 
 母親の幸恵が洗い物をしながら呟いた。長谷寺の近くにあるお餅の店は、はるが必ず立ち寄る場所だ。遅い時間に行くと売り切れてしまうほどの人気店でもある。
 
「違うよ。あれはデザート! メインは紫陽花なの」
 
「メイン。デザートがあるなら前菜もありそうだな」 
  
  父親の心太が歯を磨きながらリビングに入ってきた。よれた古いシャツにトランクス姿だ。

 仕事で朝が早い父は、いつもは七時台のこの時間にはもう出掛けて居ないが、今日は遅番でまだゆっくりしていた。
   
「人を食いしん坊みたいに言わないでよね。まあ、あそこのドイツパンも買うけど」
  
 はる長谷寺の近くにあるカフェが併設されているパン屋の事を言った。
  
「この分だと口直しのソルベもありそうだ。今日の天気は?」
 
 父の心太は配達の仕事をしている。屋外の勤務のせいか、天気をいつも気にしていた。
 
 大雨や台風の予報が出ると、心太は妻の幸恵に両手を合わし「シャーマン頼む」と拝む。すると幸恵は、目を閉じ両手を上げて何かを払うように両手を動かす「またこれかい」という表情をしながら。
 
 母の幸恵は祈祷師の家系なのか。はるは最初は怪訝に思ったが、母の幸恵は晴れ女というのが真相らしい。 
 
「これがまた馬鹿に出来ない確率で晴れるんだ」

 父心太はそう感想を漏らす。
 
「台風が来るかもね」
 
 テレビを見ながら突然母がつぶやく。ニュースの予報では台風の発生など報じていない。母はたまに予言じみたような事をポツリと言う人だった。父はそれを「幸恵予言」と命名している。

 だがその予言の的中率についての統計データは丘ノ上家に今の所無かった。父と母は昔の鎌倉デートの話をはるにしてくれた事があった。二人がまだ付き合う前の事だ。
 
 鶴岡八幡宮の境内を下る階段で、父は母に手を差し出した。そして母は、それを即座に払い拒否した。
  
「階段から足を踏み外さないように、手を差し伸べたんだよ」
 
「いや、あれは下心を感じたね」
 
 そんな始まり方で結婚までたどり着くのだから、男と女は不思議だ。はるはしみじみそう思っていた。
 
「はるは紫陽花を一緒に見にいく相手でも見つかったか?」

 心太は唐突に娘に問いかける。  

「朝からセクハラ発言やめてくれる?」

 父の質問に対して娘の反応は冷淡だった。
 
「セ、セクハラじゃない! 父と娘のコミュニケーションだ」
 
「擦り切れそうなパンツ履いてる人に、言われたくないんだけど」
  
 心太はトランクスの後ろを触り確認する。
 
「大丈夫。あと三回は履ける」
  
「前も同じ事言って、パンツ切れてたじゃない!後その靴下も穴空いてる!」
  
「はるが注意してくれるから母さん楽だわあ」
 
 幸恵はヨモギ茶を飲みながらテレビに見入っていた。
 
「青い春の時期は、あっという間にすぎるぞ。誰か気になる人もいないのか?」

 心太は重ねて娘に踏み込んだ質問をする。 
 
『睨みつけた男子ならいたが』と思った瞬間、なぜかはるの頭には中津川守の緩んだ顔が浮かんだ。その途端にはるは憤慨する。

『なんで気になる人を聞かれてアイツの顔が出てくるのよ! 人にぶつかっておいて謝りもしない奴の顔が』
 
 急に険しい表情をする娘に心太は怯み、歯磨きが終わったフリをして台所に消えた。
    
「韓国ドラマって、主役の男女が絶対最悪の出会い方をするのよね。でも最後は結ばれるのよね」
 
 はるは幸恵と一瞬目が合った。

「はるもそんな恋をするかもね」
 
 朝放送されている韓国ドラマを見ながら、幸恵はつぶやいた。

『······お母さん。それ只の世間話だよね? 幸恵予言じゃないよね?』
 
 今日も空は快晴で、温度計は朝から二十八度を指していた。にも関わらず、幸恵の言葉にはるは悪寒を感じていた。
 
 普段から緩んでる顔を今日ばかりは引き締めると決意したかのように、中津川守は口を真一文字にしていた。
  
 あれから二週間。ついに高坂徹を口説き落とした。仕方なくという感じだったが、文化祭で演奏するメンバーに引き入れる事に成功したのだ。
 
 しかし、ボーカルまでは了承してくれなかった。その頑なさに、ここで妥協するべきと守は判断した。これ以上要求して徹の機嫌を損ね、ピアノ演奏者を失う訳には行かなかった。   
 
「中やんにしては潔く諦めたんだね」
 
 熊本元康は呑気な口調で話しながら、椅子から床に座る。ベルトからはみ出したお腹がリズムよく揺れた。

 ワイシャツのボタンは外しており、中に着ている白いシャツには〔この出会いは、運命か? 必然か?〕と習字の書体風で字が書かれていた。
 
「仕方ないだろ。深入りしすぎると、必ず反撃を喰らうもんだ。追いつめられた相手ってのは怖いんだぜ」    
   
「マモーはその高坂君を追いつめてたんかい?」
  
 尖ったアゴをさすりながら、彦根五郎は関西弁口調で答えた。その体は本人が口にした細見の高坂徹より更に細かった。
  
「例えだよ例え。高坂を説得するの大変だったんだぜ。あいつの頑固さったら無かったぜ」

   守はこの二週間の苦労を目を閉じながらしみじみ思った。学校での休み時間。放課後の帰り道。そして休日。守は可能な限り徹と過ごし、なだめすかし取り入った。   
 
「中やん高坂君をバンドに入れる為無理して仲良くしてたんだっけ?」
 
「うわっ。マモーえげつないなあ。真実を知ったら高坂君。ヘコむで」
 
 守は熊本元康と彦根五郎に同時に非難される。人の苦労も知らない癖に。そう思った守は何か言い返してやろうと思ったが、口にだしたのは意外な言葉だった。
 
「いや。最初はもちろん演技だったんだけど。なんつーかアイツ。音楽の趣味もいいし。気も使えるし結構いい奴だぜ」
 
「へえ。高坂君ええ奴なんやなあ」

 彦根五郎が細い顎を愛おしそうに撫でながら反応する。
 
「中やん。それ「嘘から出た誠」って言うんだよ」 

 熊本元康は太い指を立て賢しげ知識を披露する。 
 
「え? 何から草津誠が飛びたしたって?」

 今春メジャーリーグに挑戦する為、渡米したプロ野球選手の名を守は口にした。 
 
「なんでやねん! なんで、諺の回答間違いに草津誠出てくるんや。しかも草津ワードが、一文字もないし」 
 
 彦根五郎はすばやくツッコミを入れる。
 
「いや、別にボケてないぞ? お前ら二人の漫才に俺を巻き込むなよ」
  
 守は真顔で五郎のツッコミを否定する。守は熊本元康、彦根五郎の二人とは、中学時代からのバンド仲間だった。熊本元康はドラ厶。彦根五郎はベース担当だった。
 
 熊本元康は、そのぽっちゃり体型と呑気な性格からは想像できないドラムさばきを見せる。

 演奏が始まると鬼の形相で頭を振り回し、荒々しく。そして力強くスティックを叩きつける。元康の見た目のギャップから、その姿を見た者は驚愕する。
 
 対照的に彦根五郎は、氷の様な冷静さでベースを弾く。その痩せ細った体からは、想像出来ないほどの攻撃的な演奏をする。目にも止まらない指さばきは見るものを魅了した········
 
 それが、熊本元康と彦根五郎が結成している漫才コンビのバンドネタの設定だった。実際の二人の演奏は温和な風貌通り平和的。のんびりとしたものだった。

 三人は放課後誰もいない音楽室にいた。段差がある階段教室で、一番低い場所にはグランドピアノが置かれている。

 防音設備も施され、バンドの練習場所に不足はなかった。
 
 音楽室の管理責任者であり、吹奏楽部顧問でもある各務勤とは話がついていた。守は各務に部員不足で休部中の吹奏楽への入部をチラつかせた。

 また、文化祭に向けて仲間たちと一生懸命練習し友情を育む素晴らしさを大いに脚色し熱弁した。
 
 各務勤はポカンと口を開けて聞いていたが、守は自分の演説に各務が圧倒されたのだろと確信していた。

 ともかくその結果、放課後担任の各務勤が帰宅するまでの条件で使用許可がおりた。
 
 しかボーカルが見つからない。守は頭を抱えた。もう全体練習を始めなければならない時期に差し掛かっていた。
 
「中やん。六組の大須賀加奈子は? 彼女歌がかなり上手いみたいだよ」
 
「女子は駄目だ! 中学の時に痛い目にあったの忘れたのか?」 
 
 熊本元康は苦笑しながら「そうだね」と答えた。三人は中学生時代、バンド演奏で手痛い経験をしていた。
 
 中学二年生の時。守。元康。五郎はバンドを結成し、今と同じように文化祭で演奏するつもりだった。

 ボーカルには歌声が評判なクラスメイトの柿生加奈子を勧誘した。真面目に練習を重ね、未熟ながらもそれなりに手応えを守達は感じていた。 
 
 文化祭当日。体育館の壇上ステージでは、守達より先の順番のバンドグループが演奏していた。観客もかなり盛り上がっている。
 
 壇上横の舞台の袖で、守達は自分達の出番を待っていた。メンバーは全員パイプ椅子に座りながら各々緊張の面持ちだ。

 このまま座りっぱなしでは、緊張で体が硬くなって演奏に支障を来す。  
 
 守はそう判断し、緊張をほぐすため全員で軽い柔軟体操をしようと提案した。 
 
 元康と五郎が素直に賛成した所で異変が起きた。ボーカルの柿生加奈子が椅子から立ち上がらない。

 顔をうつむかせて、肩が少し震えている。守が加奈子に近づき、何か軽口を叩いた所で加奈子は震えた声で答えた。
 
「······ごめん······私、歌うの無理······」 

 三人が絶句した瞬間、加奈子は泣き出した。 
 
 大粒の涙が、この晴れ舞台の為につけたマスカラを落としていく。加奈子は本番に弱いタイプだったのだ。必死に三人は説得したが、加奈子は椅子を立つことは無かった。
 
 それからが悪夢の様な時間だった。守は三人で舞台に立つ事を決断した。今更あの努力を無駄には出来なかった。

   何か結果が欲しかった。守が本来のギターとボーカルを担当した。
 
 しかし結果は散々だった。一度動揺した三人の平常心はとうとう最後まで戻る事は無かった。噛み合わない演奏。

 出てこない歌詞。間違える曲順。それを聴いていた観客の白けた反応。
 
「思い出しただけで吐きそうやわ」
 
 彦根五郎が天を仰ぎながら呻いた。
 
 それ以来、守は硬く誓った。ボーカルに女子は絶対駄目だと。その時ふと守の脳裏に丘ノ上はるの顔が一瞬浮かんだ。あの時、自分を睨みつけてきた顔だ。
 
『ふん。あれくらい気の強そうな女だったら、大舞台でも平然としていられそうだな』
 
 しかしあんなに睨みつける事ないだろうと守は不満気に思う。守は丘ノ上はるの順位を一つ下げる事に決めた。
 
 中津川守ランキング。これは彼の独断と偏見と趣味によるクラス内女子のランキングだった。

 守のクラスは生徒数三十五人。その内訳は男子生徒十八人。女子生徒は十七人である。その女子十七人を守はランキング分けしていた。
 
 その選考基準は容姿。スタイル。性格。学力。運動神経と多岐に渡る。その他にも守に親切にしてくれたり、笑いかけてくれたりした場合に特別加点があった。
 
 この厳正で公平な審査の結果、丘ノ上はるは十一位にランキングされた。否。されていた。中の下。それが守の丘ノ上はるの評価だった。

 しかしあの睨みつけ事件の結果。マイナス点が入り、丘ノ上はるの順位は一つ下がりクラス内で十二位になった。

 今後、丘ノ上はるがこの順位をあげる要素はこの時点で全く無いように思われた。


「残念ながら今日の最下位十二位は牡牛座のあなた。ごめんなさい」
 
  最近人気が上がってきた女子アナウンサーが明る声で謝る。土曜の朝、はるは朝食を済ませ出かける支度の途中だった。
 
 支度と言ってもツバの付いた帽子に無地の白い半袖のシャツ。ハーフパンツとお洒落とは無縁の格好だ。

 肌があまり強くないので、日焼け対策に薄いパーカーも羽織る。今朝も快晴で日差しが強い。
  
 今日の自分の星座占いは十二位らしい。占いに全く興味が無いはるだったが、最下位と言われてはあまり気分がいいものではない。
 
「はる。出掛けるならついでに本を返してきて」
  
 母の幸恵が図書館で借りた本を渡してくる。
 
「その格好はデートじゃなさそうだな」
  
 出勤中で不在の父が居たらそうつぶやいたかもしれない。
 
 人付き合いの無いはるの休日の過ごし方は決まっていた。昼寝をするか。散歩をするかだ。健全で健康的。はるは密かにそう自画自賛していた。
 
 空手教室に通うのは、今は月にニ回程度だった。一通りの技術は習得できたので、練習は体が鈍らない程度でいい。  
 
 はるはそう思っている。より上の段に挑戦したり、大会で上位を目指したりと言った事には興味が無かった。
 
 水筒を黒いリュックに入れた所で、また幸恵が声をかけてきた。
 
「帰りにコアラでパン買ってきて」
 
 コアラとは、近所のお気に入りのパン屋の名前だ。その他にも美味しいパン屋が二つある。
 
 各々の店に個性があり、噛めば噛むほど味わい深い雑穀ブレット。芳醇なバターの香りがする柔らかすぎる食パン。揚げ物や卵の惣菜パンなど、それぞれの店で楽しめる。
 
 パンを好む人にとっては、なかなか魅力的な街かもしれない「はーい」と答え、はるは家を出る。 
 
 今日の散歩コースはもう決まっていた。マンション出入口の階段を降りると、四世帯が入居する集合住宅が五棟ほど並んでいる。

 はるの家もその五棟のうちの一つにあった。下り坂を歩いていると、前から坂道を登る子連れの親子とすれ違った。

 母親に抱き抱えられている女の子が、こちらを見ている。一歳かニ歳くらいに見えた。はるが微笑むと、女の子は笑い返してくれた。

 その様子を伺っていた母親は「お姉さんに笑ってもらって良かったね」と我が子に話しかける。
   
 軽く母親と会釈しながら「可愛いな」と、はるの心はほころんだ。はるの両親は昔の写真を見ている時必ず異口同音に口にする。
 
「この頃のはるは可愛かったわあ」

「この頃のはるは可愛かったな」
 
「なんでこの頃限定なのよ!」
 
 兄弟は居なかったが、寂しいと思った事は無かった。心配性の父とおおらかな母。子育てにはバランスが取れていたのかもしれない。
 
 はるは曲がり角の手前で足を止めた。先日、高坂徹が突然消えた場所だ。やはり徹はこの道を右に曲がった筈だ。

 そしてその先にある丘登園総合病院に向けて、はるは再び歩き出した。
 
 気になる人が通っている場所に自分も行ってみたい。と、いう事は無く。総合病院の周囲にある緑地がはるの目的地だった。
 
 幸い病院にお世話になる機会が無かったので、この緑地に行った事が無かった。徹はあくまで緑地を思いつかせるキッカケに過ぎなかった。
 
 病院までの道のりもまた坂道だった。具合の悪い人にとって、この長い坂道を歩けというのは少し酷な話だろうとはるは感じた。

 病院側がはるの要望に答えた訳ではないが、無料定期バスが駅からちゃんと出ていた。
  
 やっと坂を登りきると、病院の正面入り口付近に出た。左手をみると病院の庭になっており、芝生のあちらこちらに木製のベンチが置かれていた。

 近くに若木が植えられいる。その若木はベンチに腰掛ける人間達を、夏の日差しから健気に守っていた。
 
 そのベンチの一つに座っている女性がはるの目に入った。点滴を吊るしたカートが女性の隣にある。

 その女性は顔がうつむき、体が前後に揺れているように見えた。何か変だとはるは注意深くその女性を見る。

 その体の揺れがだんだん大きくなってきた時、はるはもう駆け出していた。
 
「大丈夫ですか?」

 はるは女性に声をかける。玉の様な汗が額から流れ落ちる。女性は驚いたようにはるを見た後、小さく左右を見回した。
 
「······私ったらまた居眠りしちゃったみたい。ご親切に起こしてくれてありがとうございます」
  
 女性は深々とはるに頭を下げる。女性の腕から繋がっている点滴の容器が少し揺れた。女性は四十代半ばに見えた。

 肩までの髪を後ろで束ね、白いパジャマに薄いカーディガンを羽織っている。

 服の上からもハッキリと分かるくらい女性は痩せていた。病的な痩せ方だ。若く健康なはるから見たそれは、何か痛みを感じるような姿だった。
 
「いえ。こちらこそお休みの所お騒がせしてすいませんでした」
 
 はるは姿勢を正し頭を下げる。
 
「まあ。お若いのに礼儀正しいお嬢さんね。薬のせいでいつもすぐ眠くなってしまうの。駄目ねえ。本当に」
 
 女性が目を細め苦笑する。優しい目だった。女性の目は端が少し下にさがっていた。笑った表情をすると本当に優しそうに見える。
 
「あの。もしご迷惑じゃなかったら、部屋に戻るお手伝いをしましょうか?」
  
「まあ。ありがとう。でも大丈夫。若い人の貴重な時間を奪う訳にはいかないわ。ここには誰かのお見舞いに来られたの?」
 
 質問する女性は健康そうなはるを見て、少なくとも自身の体の不調でここに来たのではないと半ば確信していた。
 
「いえ。病院の周りにある緑地を散歩する為に来ました」
 
「あら緑地に? ここの緑地は人が入れるように整備されてないから、散歩には不向きだと思うわ」
 
「そうなんですか? 知らなかったです。なら、たった今暇になりました」
  
 はるは所在なさげに肩をすくめた。
 
「まあ。それは残念ね。せっかくここまで来たのに」
  
 この痩せた女性と会話して感じる感覚。安心してホッと出来るそんな感覚。はるは以前、同じように感じる事があった。

 ごく最近だったか。いつ誰との会話だったか。はるは思案したが、記憶は答えてくれなかった。
 
「あの。この病院にはいつから入院されてるんですか?」
 
 言い終えてはるはすぐに後悔した。立ち入った事を聞いてしまったと。全く自分は世間話一つ満足に出来ないと内心赤面する。
 
「結構長いのよ。入院したり退院したりで。時々住んでいるのが家と病院、どっちが本当の家か分からなくなるのよ。困ったものね」
  
  女性はそんなはるの後悔を「気にしないでね」と言っているように微笑んだ。はるはイタズラを許してもらう子供になった気分だった。
 
 太陽が傾き、女性の座っていたベンチにも日差しが差し込んできた。
 
「あの。余計なお世話かもしれませが、やっぱりもうお部屋に戻ったほうが。体に障りますから」
 
「そうねえ。そうしようかしら。ところであなた、甘い物はお好き?」
 
「え? あ、はい。大抵のものは好きです」
  
   もう少し他の言い方がある筈だとはるは再び心の中で赤面した。 
 
「好き嫌いが無いって良いことだわ。私の病室に果物のゼリーがあるのだけど、とても食べ切れないの。良かったら食べるの手伝ってくれるかしら? ご迷惑じゃなかったらだけど」
 
「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えてご馳走になります。その変わり、戻るのをお手伝いしますね」
 
「ありがとう。私、百合子っていいます。あなたのお名前は?」
 
「はる。といいます」
 
「まあ。はるちゃん。可愛らしいお名前ね」
 
 百合子はベンチから立ち上がり歩き始めた。はるは点滴カートに手をかけ、百合子に寄り添いながら歩く。
 
 散歩の目的は果たせなかったが、失望とは程遠い気分がはるの心を満たしていた。
 
 
 七月もニ週目に入った月曜日。高坂徹は放課後の音楽教室にいた。十六時を過ぎても日はまだ高く、夕暮れはしばしその出番を待たされていた。
 
 期末テストが終わった開放感と近づく夏休みへの期待感から、学校中がそわそわしている感じがしていた。
 
 徹はたまにこの教室のピアノを借りて演奏していた。子供の頃始めたピアノもいつしか只の趣味になり、今唯一弾く機会があるのはこの教室のピアノだけだった。
 
 徹はそれで充分だった。時間の全てを練習に充てる時期もあった。その過程が自分を成長させているのか。苦しめているのか。徹はいつの間にか分からなくなった。
 
 そして自分よりピアノが上手い人は星の数ほどいると分かった。その時からピアノは徹にとって、人生の厳しい教師から優しい隣人に変わった。
 
 守達との全体練習はまだ始まっていなかった。ボーカル探しが難航を極めているらしい。気の毒だな。と徹は思わないでもなかった。

 しかし守が頼んできたボーカルの役目は自分には無理な相談だった。徹にとってそれは絶対だった。
   
 徹の細く綺麗な指が静かに動きだした。優しい隣人も、それに答えるように音色を奏で始める。徹が好きな曲だった。 
 
 もし自分の歌声が人から上手いと言われるぐらいのレベルだったら。否。普通のレベルで構わない。

 ピアノを弾きながらこの曲を歌ったら。あの時自分を笑ったあの娘は、自分を見直してくれるだろうか。
 
 ありもしない。起こりもしない妄想をしながら徹は鍵盤を弾き続ける。その妄想が致命的だった。気づいた時、徹はこの曲の詩を口づさんでいた。

 もちろん無人の教室だからこそだが、普段なら絶対にしない行為だった。まさかこの教室に人がいたなんて誰が予想できただろうか。
 
「高坂って本当にピアノ弾けるんだね」
 
 後ろから声がした。それはクラスメイトである丘ノ上はるの声だった。
 
「お、丘ノ上!?」
  
 徹の心臓と脳みそが、仲良く手をつないでタップダンスを始めた。徹の眼鏡がズレた。
 
「ど、どうしてここに? いや、いつからここに!?」
 
「音楽の補修に来たんだけど、誰も来なくて寝てたの。そしたらピアノの音が聴こえて」
 
 ここは階段教室になっていて、徹が座るピアノのは一番低い場所にある。はるが今いる机は階段の中段の位置し、そこで横になって寝ていたら徹が気づくはずがなかった。
 
『聴かれた! 確実に······!』
 
 絶望感が徹を襲った。はるがゆっくり階段を降りてくる。心臓と脳のタップダンスはその激しさを増してきた。

 徹は判決を待つ被告人の気分になった。さしずめ丘ノ上はるは判決を下す裁判長か。だが判決は二者択一と決まっていた。嘲笑か。失笑のどちらかだ。裁判長が口を開く。

「今弾いてたのなんて曲? すごくいい曲だね」
 
「え? い、今の?」
 
 それは長年不動の人気を誇るモンスターバンドの曲だった。徹は「知らないの?」とはるに説明する。
 
「音楽あんまり聴かなくて。成績悪いのもそのせいかな? でも、そのバンド名くらいは知ってるよ」
 
 丘ノ上はる裁判長はそう言い終えると何やら黙りこんだ。その沈黙に、心臓と脳のタップダンスの激しさは最高潮に達した。
 
「あの。もし嫌じゃ無かったら、もう一度弾いて聴かせてくれない?」
 
「え? 今の? 俺のピアノで?」
  
 自分は今何回聞き返したのだろうかと徹は混乱する。とにかく裁判長は、判決の前に被告人に演奏を要求してきた。被告人はただ従うしかなかった。
  
「う、うん。いいよ」
  
 再び徹は弾き始めた。もちろん歌は歌わずに。丘ノ上はるは目を閉じながら聞いている。
  
『丘ノ上って、まつ毛が長いんだな』
  
 はるが閉じていた目を開けたので、徹は慌てて視線を自分の指先に戻した。次の瞬間、徹の耳に声が聴こえてきた。

 それは鼻歌だった。徹のピアノに合わせて、はるがハミングしている。それは小さくか細い声だったが、徹の全身に目に見えない衝撃が通過していった。寒くもないのに徹の両腕に鳥肌が立った。

『この声は······この歌声は······』
   
「あ、そうだ!」

 突然はるが大きな声を出した。いつもの彼女の声だ。
 
「ど、どうしたの?」  
   
 徹も演奏の指が止まってしまった。
  
「補習、第ニ音楽教室だった。ごめん。私行くね。弾いてくれてありがとう」
  
 はるはカバンを抱え足早に去ろうとする。茫然とその姿を見送る被告人。その去り際に、裁判長は判決文という名の爆弾を落として行った。
 
「高坂の歌声、悪くないよ」
 
  

 
 
 
 

 
 
 



  
 
 
 
 
 


 
 
 


 
 
 


 
 

 
 
 



  
 
 
 
 
 


 
 
 


 
 
 

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