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第4章 露れるのは真実と嘘

6.届かない手

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 司が最初に思ったのは「友介は聡一と通じていたのではないか」ということだった。
 行先は分からないまでも、友介は司とユクミがどこかへ向かおうとしていたのだと知っている。それを知った聡一がアヤの店にあたりをつけていたのだとしたら。

(くそ、友介め! こっちのお前はやっぱり聡一の味方なのかよ!)

 内心で毒づきながら司は聡一を睨みつける。
 一方で、自身の前に膝をつかれたユクミは警戒の色を濃くしている。

「納賀良、聡一。……それは、司の」

 眉を寄せたユクミが少し右手を上げるのを司は見た。しかし聡一はまったく動じることなく、相変わらず目線を合わせるために片膝をついたままで微笑みも絶やさない。

「はい。司の師にあたる者です」

 やましさも、罪悪感も、悔悟かいごも。何一つ感じないその声を聞いて司の視界が真っ赤になる。もう流れていない血が沸騰したかのような気持ちになる。

「――て、めぇ」

 声はかすれた。あの灰色のやしろで目覚めた後、上手く出せなかったときのようだ。

「よくも、のうのうと、そんなことを」

 チキチキ、というカッターナイフの音を合図に、司の足は先ほど退すさった距離を詰めようとした。その距離は約二メートル、大きく踏み込めば聡一の首筋にこのカッターナイフを突き刺すことができる。
 そう思っていたのになぜか目標は遠くなった。今は五メートルくらいあるかもしれない。しかも見下ろしていたはずの首筋を今は見上げているのは司の頭が地面からほど近い場所にあるせいだ。司は今、先ほどより離れたアスファルトの路面に倒れ込んでいる。

 どうしてこんなことになっているのだろう。四肢に力を入れて立ち上がろうとし、そこで司は気がついた。両足と両手は四つの何かによってがっちりと拘束されている。揺すった程度では離れる気配がない。力を入れて抵抗しても、まだ。

(これはなんだ)

 視界の中では、司の背後に顔を向けるユクミが目を見開いている。血の気が引いているのはアヤの件の衝撃から抜け切れていないせいだろうか。それとも、司の背後に何かあるのか。
 ユクミは青い顔を下げて司へ向け、左の手を伸ばす。

「司!」

 駆け寄ろうとしたユクミの右手は聡一につかまれた。小さな体が後ろに倒れ込み、聡一の腕の中におさまる。彼女の右足の草履だけが宙を舞って司の近くに落ちた。

「私の話はまだ終わっていませんよ」
「離せ!」

 もがくユクミの髪が黒から白に変わり、狐の耳と三本の尾が姿を見せる。続いて黄金の瞳が炯々とした光を帯びた、そのとき。司の後ろから顔をしかめたくなるほど酷い生臭さが漂って来た。司はこれを知っている。

(聡一がいるんだから、こいつがいてもおかしくない……!)

 司は奥歯を噛んだ。

『聡一にぃぃぃ、手をだしたらぁぁぁぁ、駄目だぜぇぇぇぇぇ?』

 金属の軋む音にも似た声を聞いて、瞳から光を消したユクミが悔しげにうつむく。

『今度はぁぁぁ、オレぇぇぇぇ、油断しないぃぃぃぃ。司をぉぉぉぉ、離したりぃぃぃぃ、しないぃぃぃ』

 その声を聞く司の脳裏にはいくつもの光景がよぎる。

 暗い野原に散らばる服の切れ端。地面の上から頼りない光で空を照らすひび割れたスマートフォン。影よりもなお暗い姿をしたもの。頼りにしていた人が背を向ける姿、そして頼りにしていた人が血染めになる姿――。

 あのときと同じようにうつ伏せにされた屈辱と、それに伴う怒りが体を巡る。今、司を押さえているのはあの猿の四本の手だ。ならばこれのうちどれか一本でも切ってしまえば。
 しかしいくら力を籠めても司の手足はがっちりと掴まれたまま、猿の手が離れる様子はない。

『また会ったなぁぁぁぁぁ、司ぁぁぁぁぁ。会いたくぅぅぅぅ、なかったけどぉぉぉぉ』

 どこかのんびりとした声で隠邪は言う。

『お前はぁぁぁ、いらないからぁぁぁぁ、あんまりぃぃぃぃ、バタバタするならぁぁぁぁ。手足をぉぉぉぉ引きちぎっちゃうぅぅぅ、ぜぇぇぇぇぇ』
「やめろ」

 どこか冷ややかな声は聡一のものだ。

「ユクミの決定を待て。今の段階で司を壊すと、ユクミは絶対に仲間にならない」

 ギィギィとした声が「ちぇぇぇぇぇ」と返す。不服そうなその言葉に被せるように、ユクミの「ふざけるな!」という怒号が辺りの空気を震わせた。

「仲間だと? 私がお前たちの仲間になるとでもいうのか? ありえない!」
「ありえないかどうかは、こちらの話を聞いてから考えてください」

 聡一はユクミを抱いたまま立ち上がる。数年前には聡一がこうして知穂を抱いているところを司は何度も見た。抱かれているユクミはその状況に心奪われたように見えたが、しかしハッとしたように首を振ると、聡一の肩に手を置いて体をのけぞらせながら、

「離せ! 私は『約束の者』つかさの仲間だ! お前たちは司の敵なんだから、私は絶対に仲間になんてならない!」

 と抵抗する。
 その姿を見る司は思わず「ああ……」と呟いた。

 祓邪師である司には隠邪の強さが分かる。だが、妖の強さは分からない。司の生きる時代にはもう妖がいないからだ。
 しかしユクミは妖はもちろんのこと、隠邪の力の強さも分かっているらしい。それはきっとユクミが過去に隠邪と戦ったことがあるためだろう。
 そのユクミは口では抵抗の意思を示している。しかし聡一だけしかいなかったときはともかく、猿の隠邪が姿を見せてからは力に訴える様子がない。
 つまりユクミは、自分が猿よりも弱いと判断したのだ。そしてそれは猿も分かっている。だから猿は司を押さえるために四本の腕すべてを使い、聡一にユクミを任せているのだ。

 司にとってみれば強大な隠邪に対抗できる唯一の希望がユクミだった。しかしそのユクミは隠邪に敵わない。

(だったら、俺は)

 司が悟った内容はユクミにも伝わったのかもしれない。彼女は聡一の肩に置いていた両の手のうち左側を外し、再び司に向けて必死に叫ぶ。

「司、司、大丈夫だ! 私がすぐにお前を助け――」
『そうだなぁぁぁぁ、すぐにぃぃぃぃ、助けないとぉぉぉぉ、間に合わなくぅぅぅ、なるもんなぁぁぁぁぁ』

 ぐぎぎぎぎぎ、という嫌な音はきっと猿の隠邪が笑う声だ。

『お前のぉぉぉ、母ちゃんみたいにぃぃぃ、なぁぁぁぁ』

 妖は風や木、岩といった自然の魑魅すだま変化へんげしたものだ。しかし長く生きた獣が妖となる場合もあった。司もユクミはそのようなものだと思っている。長く生きた狐が妖になったのだと。
 だから「母ちゃん」と聞いても、ユクミにだって母がいるのは普通だと考えた。普通の獣だったユクミには当然、母狐だっていたはずだ。
 しかしユクミはビクリと身体を震わせ、応える。

「わ、私には母なんて……い、いない……」

 意外に思ったのは司だけではなかったようだ。

『いないぃぃぃ?』

 怪訝そうな猿に向かって白いおもてのユクミがうなずく。しかし彼女の視線はちらちらと司に向けられている。一体なにが気になるのだろうかと司は思った。

「そうだ。私は妖なんだから、は、母親なんていう存在は……」
『そぉいうぅぅぅことかぁぁぁ? ほおぉぉぉぉ? 何だぁぁぁぁ、お前ぇぇぇぇ、いっぱしのぉぉぉぉ、妖のぉぉぉぉ、つもりぃぃぃかぁぁぁぁ?』
「もちろん、私は、れっきとした妖だ!」

 揶揄する猿の声をかき消すようにユクミは叫ぶ。ただ、その様子は虚勢を張っているように司には見えた。
 猿が、グググ、と喉の奥で嫌な音を立てる。

『へぇぇぇぇ? そうかぁぁぁぁ? よく言うなぁぁぁ?』

 言ってからも猿は、グググ、という耳障りな音を何度も響かせた。どうやら笑っているらしい。

『なぁぁぁ、司ぁぁぁぁ、どぅ思うぅぅぅぅぅ?』

 なぜか司に話を振った猿は、司を押さえつける力を少し緩める。

『あいつぅぅぅ、妖だってぇぇぇぇ、言ってるぜぇぇぇぇ。でもぉぉぉぉ、おかしいよなぁぁぁぁ?』

 何かに気づいたらしいユクミが「やめろ!」と叫ぶ。だが、それよりも猿の声の方が大きい。

『だってよぉぉぉぉ、半分がぁぁぁぁ、人間のぉぉぉぉ、半端な妖ぃぃぃぃ、なのにさぁぁぁぁぁ』

 ユクミが声にならない叫びをあげて顔を覆う、その姿を司は不思議な気持ちで見ていた。
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