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第3章 共鏡の世界にのぞむ

4.正しいもの

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 司はもう一度『梓津川』と書かれた表札を見上げる。
 連綿と継がれてきた祓邪師・梓津川家の人々は代々ここに住んできたのだが、それも佐夜子の代で終わったわけだ。

 佐夜子の息子、つまり司の父であるたかしはこの梓津川の家に住んでいない。佐夜子と折り合いが悪かった彼は早々に一人暮らしをしており、司と会った際にも「あの家に戻るつもりはない」と何度も言っていた。だから大学を卒業したら、あるいは祖母が他界したのなら、司は「十七年過ごしたこの家に戻ってこよう」と漠然と考えていた。

(……そのつもりだったんだけどなあ……)

 目の前にある梓津川家は佐夜子の死後だれも住んでいないらしい。こちらの世界の孝や司が何を考えて放置しているのかは分からないが、これは司のいた“本来の世界”でもあと何年後かに見られる光景のはずだ。

 塚の前で血まみれだった佐夜子はおそらく助かっていない。そして、司は既に死人しびととなっている。孝はあの夜の討伐に参加していなかったので生きているかもしれないが、どちらにせよここには住まない。梓津川の家は放置されてこんな風になるか、あるいは売却されてまったく違う建物になる運命だ。

 すべては聡一のせい。聡一が司を、佐夜子を、殺したも同然で、更に梓津川の歴史も絶えさせた。梓津川だけではない。あの夜、あの場にいたいくつかの祓邪師の家も同様だ。

 聡一を許すわけにはいかない。
 だが、もしもこの世界に本当に知穂がいるのだとしたら。

 心の奥の方で怒りとは違う感情が動く。司は唇を噛みしめ、自身に「いけない」と釘を刺した。それを考えてはいけない。その思いに飲まれてはいけない。あの夜を、皆のことを忘れてはいけない。佐夜子に顔向けができないことをしてはいけない――。

 突然「カシュカシュカシュカシュ」という奇妙な音が響いて司はハッと顔を上げた。辺りを見回すと、ユクミが友介にもらった飴の小袋の両端を持って手をぐるぐると動かしていた。司を現実に引き戻したのはユクミと飴の小袋らしい。
 一つ首を振って、司はユクミの方へ腰をかがめる。

「どうした、ユクミ? 開け方が分からないのか?」

 司が問いかけるとユクミは手を止め、顔を上げた。

「これは開けてしまうものなのか? 眺めたり遊んだりするものではなくて?」

 ユクミは袋を開けようとしていたわけではなく、音を出して遊んでいたらしい。何百年も灰色の異界にいたユクミが一目で飴だと分からないのも当然だと気づき、司は説明を怠っていたことを申し訳なく思う。

「それはただの包みだよ。中に飴が入ってるんだ」
「飴!」

 ユクミの声が弾んだ。

「飴というと、甘いものだな!」
「そう。食べたいなら開けようか」

 司が手を出すとユクミは勢い込んで飴を渡そうとするが、なぜか途中で動きを止める。そのまま少し考える様子を見せ、首を横に振った。

「やっぱり、まだいい」

 腕を引き寄せたユクミは両手で飴を握りこむ。かと思いきや、すぐにちらちらと手を開いて中を見始めた。余程あの包みが気に入ったらしい。小さく笑って、そこで司はふと思い付く。
 死人となった司は飲食の必要がないとユクミは言っていた。では、当のユクミ自身はどうなのだろうか。あの社に水はあったが、食べ物の類は見ていない。

「ユクミは何かを食べたり、飲んだりするのか?」

 尋ねてみると、ユクミは小さく首を傾げた。

「食べようと思えば食べられるし、飲もうと思えば飲める。でも別に、必要というわけではない」
「そうか」

 では食事分の代金を考える必要はないのだ。
 節約できて助かるな、と俗っぽいことを考えながら司は、先ほど友介から渡されたモバイルバッテリーのケーブルをスマートフォンへ差し込んでみた。残念ながらランプは付かない。モバイルバッテリー側はフル充電がなされているので、司のスマートフォンに問題があるようだ。

 財布は“あちらの世界”で脱ぎ捨てたコートの中に入っていた。スマートフォンが使えたのなら電子マネー決済ができたかもしれないのに、と司は歯噛みする。このままだと手持ちの金額は友介からもらった紙幣だけだ。

「……まずいな」

 もちろんこの異界で司の電子マネーが使えたとは限らないし、隠邪や聡一を早めに倒せばすぐに元の世界へ帰れるかもしれない。ただ、金銭の存在がある以上はこの異界だって本来の世界と同じシステムだろう。きっと何をするにも金が必要だ。ならばできるだけ使わないに越したことはない。
 やらなくてはいけないことを考えたあと、友介から渡された金額を改めて確認する。――とりあえず、十分なだけはある。

「俺さ、行きたいところがあるんだけど。いいかな?」

 声をかけると、ユクミは真っ黒い瞳で司を見る。

「私に許可を求める必要はない。私は司の手助けをするためにいるんだから、司は自分の思う通りに行動すればいいんだ。私は司についていくし、危険があれば警告する。助けが必要になったときは言ってくれたら力を貸す」
「ありがとう」

 司が礼を述べてこの会話は終わるかと思った。しかしユクミは視線を泳がせたあと、思い切ったように口を開く。

「司。私は、司のいる世界を良く知らない。そのせいで何か変なことをするかもしれないんだ。今、飴が分からなかったみたいに。……だから、そのときは……」

 声は徐々に小さくなる。

「そのときは……ええと、教えてもらっても、いいか? あまりうるさくは、しないから……」

 少し遠慮がちな声の奥には何かしらの感情が窺えたように思う。このシチュエーションで言うべきことがあるように思ったものの、では何を言えばよいのかというとそれはそれで考え付かなかった。

「……もちろんだ。分からないことがあったら聞いてくれ。俺に分かることなら答えるよ」

 迷った末に司が述べたのは無難なことだけになったが、ユクミには不満そうな様子が見られなかったので、きっとこれで正解だったのだろう。
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