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第2章 灰色の帳に包まれて
5.告げられた内容
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(この子が妖……)
正直なところ、司が漠然と考えていた“妖”とは、隠邪のような異形だった。
考えようによっては獣の耳や尾を持つユクミは異形と言えなくもないが、しかし見た目が五歳程度の幼女というのはさすがに想像の範疇外だ。
果たしてこんな小さな子をあの強大な隠邪と戦わせて良いのだろうか。そもそもそれだけの力を、この子は持っているのだろうか。
どういった態度を取るのが正解なのかが分からずに当惑する司がまじまじとユクミを見つめる一方で、当のユクミは「司が動きを止めたのは体の不調のせいだ」と考えたらしい。
「どうした? やっぱり苦しいのか? 痛いのか?」
問いかけてユクミは司の近くへ寄り、真剣な表情で手を伸ばしてくる。その躊躇のない様子に戸惑いつつも彼女の動きを追って、司はようやく気が付いた。
司の上半身に服は無かった。辛うじて首に包帯らしきものは巻かれているがそれだけだ。驚きのあまり司は叫び声をあげる。――あげたつもりで実際に出たのは引き攣った小さい音だけだったが、これは未だにうまく声が出せないせいであって、別に司が耐えたわけではない。
司だってこの場で起きてから自身の首やら背やらを触った。何より腕はきちんと視認までしていたというのに、服がないことに気づかないのはあまりに間が抜けている。やはりこれはユクミの言う通り何かしらの影響で頭が少々ボケていたのだろうか。
混乱する司とは対照的に、ユクミは何も感じていないらしい。まるで「ここにあるのはヌイグルミだ」とでも考えているかのような気安さで、司の額、頬、肩、胸、と順に触れていく。
正直なところ「布団の上で半裸の男が幼女と一緒にいる」との状況は犯罪のニオイがする、気がする。しかしユクミの手のぬくもりは、その昔、病気で寝ていたときに触れてくれた優しい手を思い出す。それがなんだか懐かしくて、司は内心で葛藤しながらも結局されるがままになっていた。
そんな司の胸中にユクミは気づくことがなかったようだ。ちらちらと様子を窺いながら上半身を触り終え、「大丈夫みたいだな」と言ってホッと息を吐く。
「さて、次は……」
「あ、いや、ここまでで十分だ。ありがとう」
「どうしてだ? きちんと全身を確認したほうが司も安心できるだろう?」
「ばっちり安心できたからもういいんだよ。ほら、問題なく動くし、平気平気」
司の下半身は何故かズボンのままだったが、さすがに下を触られるのは憚られる。きっぱり固辞して立ち上がった司がついでにその場で軽く体操をしてみせると、ユクミは少々腑に落ちない顔をしつつも「分かった」と言っておとなしく引き下がってくれた。
「どこかおかしい部分があったら、いつでも言ってほしい。ただ……」
顔を曇らせたユクミが瞳を伏せる。
「……血は出ないけど、首の怪我はもう、治らないんだ。ごめん……」
「治らない? ああ、隠邪に噛まれてたからか? それともここから隠邪の生気が流れ込んできたせいで?」
司は「隠邪という相容れない存在に関わったせいで怪我が治らない」と解釈したが、きゅっと唇を噛んだユクミは首を左右に振る。
「違う。私が、お前を救えなかったからだ」
「救えなかった……? いやいや、俺は今、ユクミと話してるじゃないか」
「……そうだな。話しはしている。……だが、お前は……」
その硬い表情を見た司は改めて自分でも体を確認してみる。あちこちを触り、どこも異常なほどに冷たいのだと知った。狼狽えながら両手に視線を落とすとそこに赤みは無く、不自然なほどの白さだけがある。それだけではない。服のない上半身はどこも同じように白い。
嫌な予感がする。それを振り払えるだけの理由を探す前に、小さな小さな声が聞こえた。
「お前は死んだ」
その言葉は司の嫌な予感を肯定するものだったが、もちろん死んだとは信じたくない気持ちの方が強い。司は無理にも笑って明るい声を出す。
「何を言ってるんだよ。ほら、俺は今も喋ってるし、動いてるじゃないか。だから――」
嘘なんだろう、と続けたかった。つまらない冗談だぞ、と笑い飛ばしたかった。しかし目に映るユクミの無念そうな、申し訳なさそうな、今にも泣きそうな表情を見て司の言葉は続かなくなる。
司の声の残響がやんで、しん、とした部屋の中で、ユクミがぽつぽつと話し出した。
「隠邪が、お前に生気を分け与え始めたのは、本当に、死ぬ直前だったんだと思う。……この社の前で、隠邪が最後の生気をお前に使って、崩壊したとき……」
いったん口をつぐんだユクミは、改めて言葉を押し出す。
「お前は、死んだ」
「……死……死んだ……?」
「あと、もう少しだったんだ」
ユクミの声が震える。
「呼吸一つ、瞬き一つ……いや、瞬きの半分の時間でもいい。私が早ければ、きっとお前は死ななかった……」
うつむくユクミの顔が白い髪に遮られて見えなくなる。
「私はまた、間に合わなかった。……ごめん、司。……本当に、ごめん……」
少女の声が震え、だんだん小さくなるのを司は黙って聞いていた。辺りに再び静寂が満ちる頃、ユクミの言葉が司の心にコトンと落ちる。
(……死んだ……)
告げられた言葉に衝撃はあったが、それは凪いだ水面に小さな小石が波紋を作った程度だった。騒めいた心はすぐに落ち着きを取り戻す。
(そうか。……俺は、死んだのか)
自分でも意外なことに、悲しみや悔しさという気持ちは生まれてこなかった。
それはもしかすると、自分が生き残るという道は塚の下に置いてきてしまったせいかもしれないし、あまりに短時間のうちにたくさんの死を見たせいで恐怖が麻痺してしまったせいかもしれない。あるいは、佐夜子の「ごめんね」という言葉に含まれた意味を理解したせいかもしれなかった。
司は死んだ。
ユクミがどれほど早く動こうと無駄だった。
人間だった司は、隠邪の生気を得た瞬間すでに死んでしまっていたのだ。
正直なところ、司が漠然と考えていた“妖”とは、隠邪のような異形だった。
考えようによっては獣の耳や尾を持つユクミは異形と言えなくもないが、しかし見た目が五歳程度の幼女というのはさすがに想像の範疇外だ。
果たしてこんな小さな子をあの強大な隠邪と戦わせて良いのだろうか。そもそもそれだけの力を、この子は持っているのだろうか。
どういった態度を取るのが正解なのかが分からずに当惑する司がまじまじとユクミを見つめる一方で、当のユクミは「司が動きを止めたのは体の不調のせいだ」と考えたらしい。
「どうした? やっぱり苦しいのか? 痛いのか?」
問いかけてユクミは司の近くへ寄り、真剣な表情で手を伸ばしてくる。その躊躇のない様子に戸惑いつつも彼女の動きを追って、司はようやく気が付いた。
司の上半身に服は無かった。辛うじて首に包帯らしきものは巻かれているがそれだけだ。驚きのあまり司は叫び声をあげる。――あげたつもりで実際に出たのは引き攣った小さい音だけだったが、これは未だにうまく声が出せないせいであって、別に司が耐えたわけではない。
司だってこの場で起きてから自身の首やら背やらを触った。何より腕はきちんと視認までしていたというのに、服がないことに気づかないのはあまりに間が抜けている。やはりこれはユクミの言う通り何かしらの影響で頭が少々ボケていたのだろうか。
混乱する司とは対照的に、ユクミは何も感じていないらしい。まるで「ここにあるのはヌイグルミだ」とでも考えているかのような気安さで、司の額、頬、肩、胸、と順に触れていく。
正直なところ「布団の上で半裸の男が幼女と一緒にいる」との状況は犯罪のニオイがする、気がする。しかしユクミの手のぬくもりは、その昔、病気で寝ていたときに触れてくれた優しい手を思い出す。それがなんだか懐かしくて、司は内心で葛藤しながらも結局されるがままになっていた。
そんな司の胸中にユクミは気づくことがなかったようだ。ちらちらと様子を窺いながら上半身を触り終え、「大丈夫みたいだな」と言ってホッと息を吐く。
「さて、次は……」
「あ、いや、ここまでで十分だ。ありがとう」
「どうしてだ? きちんと全身を確認したほうが司も安心できるだろう?」
「ばっちり安心できたからもういいんだよ。ほら、問題なく動くし、平気平気」
司の下半身は何故かズボンのままだったが、さすがに下を触られるのは憚られる。きっぱり固辞して立ち上がった司がついでにその場で軽く体操をしてみせると、ユクミは少々腑に落ちない顔をしつつも「分かった」と言っておとなしく引き下がってくれた。
「どこかおかしい部分があったら、いつでも言ってほしい。ただ……」
顔を曇らせたユクミが瞳を伏せる。
「……血は出ないけど、首の怪我はもう、治らないんだ。ごめん……」
「治らない? ああ、隠邪に噛まれてたからか? それともここから隠邪の生気が流れ込んできたせいで?」
司は「隠邪という相容れない存在に関わったせいで怪我が治らない」と解釈したが、きゅっと唇を噛んだユクミは首を左右に振る。
「違う。私が、お前を救えなかったからだ」
「救えなかった……? いやいや、俺は今、ユクミと話してるじゃないか」
「……そうだな。話しはしている。……だが、お前は……」
その硬い表情を見た司は改めて自分でも体を確認してみる。あちこちを触り、どこも異常なほどに冷たいのだと知った。狼狽えながら両手に視線を落とすとそこに赤みは無く、不自然なほどの白さだけがある。それだけではない。服のない上半身はどこも同じように白い。
嫌な予感がする。それを振り払えるだけの理由を探す前に、小さな小さな声が聞こえた。
「お前は死んだ」
その言葉は司の嫌な予感を肯定するものだったが、もちろん死んだとは信じたくない気持ちの方が強い。司は無理にも笑って明るい声を出す。
「何を言ってるんだよ。ほら、俺は今も喋ってるし、動いてるじゃないか。だから――」
嘘なんだろう、と続けたかった。つまらない冗談だぞ、と笑い飛ばしたかった。しかし目に映るユクミの無念そうな、申し訳なさそうな、今にも泣きそうな表情を見て司の言葉は続かなくなる。
司の声の残響がやんで、しん、とした部屋の中で、ユクミがぽつぽつと話し出した。
「隠邪が、お前に生気を分け与え始めたのは、本当に、死ぬ直前だったんだと思う。……この社の前で、隠邪が最後の生気をお前に使って、崩壊したとき……」
いったん口をつぐんだユクミは、改めて言葉を押し出す。
「お前は、死んだ」
「……死……死んだ……?」
「あと、もう少しだったんだ」
ユクミの声が震える。
「呼吸一つ、瞬き一つ……いや、瞬きの半分の時間でもいい。私が早ければ、きっとお前は死ななかった……」
うつむくユクミの顔が白い髪に遮られて見えなくなる。
「私はまた、間に合わなかった。……ごめん、司。……本当に、ごめん……」
少女の声が震え、だんだん小さくなるのを司は黙って聞いていた。辺りに再び静寂が満ちる頃、ユクミの言葉が司の心にコトンと落ちる。
(……死んだ……)
告げられた言葉に衝撃はあったが、それは凪いだ水面に小さな小石が波紋を作った程度だった。騒めいた心はすぐに落ち着きを取り戻す。
(そうか。……俺は、死んだのか)
自分でも意外なことに、悲しみや悔しさという気持ちは生まれてこなかった。
それはもしかすると、自分が生き残るという道は塚の下に置いてきてしまったせいかもしれないし、あまりに短時間のうちにたくさんの死を見たせいで恐怖が麻痺してしまったせいかもしれない。あるいは、佐夜子の「ごめんね」という言葉に含まれた意味を理解したせいかもしれなかった。
司は死んだ。
ユクミがどれほど早く動こうと無駄だった。
人間だった司は、隠邪の生気を得た瞬間すでに死んでしまっていたのだ。
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