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第6章

16.守りたいもの

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 メラニーは体を起こす。人や物にぶつかることなく受け身を取ることができたのは幸いだった。
 左右を確認するが探す相手は近くにいなかったので、大声で名を呼ぶ。

「ローゼ様!」

 周囲は激しい混乱状態となっている。悲鳴と怒号、呻き声が響く中で声をうまく届けられたようには思えない。同様に、望む相手の声をメラニーが聞き取ることも容易だとは思えなかった。

 探そうと思って立ち上がろうとした途端、メラニーは膝をつく。右足に力が入らない。怪訝に思って確認すると、足首が赤く腫れあがっていた。痛みを感じないのは焦りの方が強いためだろう。
 腰に着けた物入れを探ると、幸いなことに薬の入った小瓶は割れていなかった。蓋を開けて中身を足首にかけると、腫れが急速に引いていく。

 この薬は「万一の時のために」と言って、あらかじめ主人ローゼが渡してくれたものだった。

「メラニーさんは護衛なんだもんね。もしかしたら、あたしより必要かもしれないでしょ?」

 だがこれは、彼女が大切に想っている相手からもらった品だとメラニーは知っている。申し訳なさから固辞しようとすると、ローゼは笑って首を横に振った。

「別にいいのよ。あたしのぶんはちゃんと持ってるし……それに、村へ戻ったら、アーヴィンはあたしが持てないくらいたくさん作ってくれるもの」

 彼女は村に戻る日が来ることを露ほども疑っていなかった。それは平民出身の彼女が世間を知らずに楽観視していたせいかもしれないし、聖剣という不思議な力を持っているという安心感からかもしれない。もしかすると、ほんの少しくらいはメラニーへの信頼もあったのだろうか。
 いずれにせよメラニーは、最後まで彼女には笑顔でいてもらうつもりだった。故郷へ送り届ける、その手助けを全力でしようと思っていた。そのはずだったのに。

 山裾の森にある小さな地の神殿で、カーリナが扉を開けた直後に衝撃が走った。抵抗することもできないまま、メラニーやカーリナ、それに術士たちは瞬く間に森の外へ押し返された。

 ローゼも一緒に飛ばされたのならまだ良い。この混乱する人々の中のどこかにいて、怪我をしても生きているのなら。
 しかしメラニーはローゼだけが建物の中へ吸い込まれたところを見てしまった。直後に扉が閉まり、ひとりだけが完全に離されてしまったところを。

「ローゼ様、どちらにおられますか!」

 それでもメラニーは「もしかしたら」という思いだけで赤い髪の娘を探す。

 土にまみれたカーリナは気を失っているらしい。使用人が必死に介抱している。
 術士たちは何かを聞いているらしく、青ざめて震えているものや、腰を抜かしてへたり込んでいるものまでいる。
 状況が分からない見物客はそんな術士に詰め寄り、状況の説明を求めていた。

 倒れ込む人々を避け、散乱する荷物をなるべく踏まないようにしながら端から端までを確認する。結局、ローゼは見つからない。

「ローゼ様!」

 何度目かの名を叫んだ時、覚えのある鳴き声が聞こえた。見ると、数人の使用人がおろおろとする中で、ローゼの愛馬が森の木に体当たりをしている。

 ――どうして止めないのか。

 咎めるために近寄ると、メラニーを目にした使用人が弁明する調子で訴えてきた。

「制止しようとしているのですが、言うことを聞いてくれないんです。森に入ることができなくて、怒っているようで……」

 何を言っているのだろうと思いながらセラータを見て、メラニーは納得した。

 確かにセラータは木へ体当たりをしているわけではない。先へ進もうとし、そのたびに弾かれているのだ。メラニーも試しに森の中へ入ろうとしてみたが、一歩も入らないうちに押し出されてしまう。
 どういうことだ、とメラニーは心の中で呟いた。

 山の精霊が守護するこの森は、先ほどまで特に問題もなく入ることができた。

 森はなぜ、急に来訪者を拒みはじめたのだろう。
 どうしてセラータは必死に森へ入ろうとするのだろう。
 見当たらない主はどうなっているのだろう。

 嫌な予感が湧き上がってきた時、セラータが動くのを止めた。顔を上向けて大きく嘶く。その視線を追って、メラニーは小さく首を傾げた。

 青い空を背景にして、何かがあった。

 それが何なのか、本当はすぐに分かったのだと思う。ただ、本来は空になど在るべきではないもののため、あまりに意外過ぎて信じられず、頭が拒否をしただけだ。だからだろうか。それが『本来在るべき場所』へ向かい始める姿は嘘のようにゆっくりとして見えた。

 やがて、遥か上空のそれ――赤い髪をなびかせるその人がかなり地上に近くなる頃、メラニーは絶叫する。

「ローゼさまああああ!!」

 人々もそれに気が付いたようで、辺りは更なる悲鳴や叫び声に包まれる。
 横のセラータは狂ったように前へ進もうとしているが、メラニーからは動く気力が失われてしまった。

 ――何が護衛だ。また、守れなかったではないか。

 1度目は、取り返したはずの、布に包まれた赤子。
 2度目は、「今までありがとう」と言って、笑顔で去ってしまった女性。
 母子に続き、3度目は赤い髪の娘だ。

 己の無能さに打ちのめされ、メラニーは地に伏して慟哭する。そのため彼女は、横のセラータが体当たりを止めていることにも、周囲の状況にも、気が付かなかった。


   *   *   *


 『聖剣に宿るもの』の中には、北の城にいる時からごくわずか人への嫌悪が湧きあがっていた。

 シャルトス領内にいる時にはまださほど気に留めてはいなかった。
 精霊は仲間とだけいるべきだ、と常に心の中で囁かれてはいたが、シャルトス領にいた精霊たちは陽気で人が好きだったこともあり、単に気の迷いとして片づけることができていた。

 しかし高峰がその姿を大きくするごとに黒い感情もじわじわと心を侵食し、最後には人々と共にいる己を憎悪するほどまでに膨れ上がっていた。

 なぜ精霊ばかりが人間の役に立たねばならないのか。人間は精霊のため何かしてくれるわけではないのに。
 考えては聖剣に宿らされてしまった運命を恨み、人であった過去を呪ったが、残念なことにあったものを消すことはできない。
 ならばせめて意識の奥、ずっと深くに『レオン』を沈めて、名も、記憶も、すべての過去も忘れ去ってしまいたかったのだが、近くにはいつも願意を阻む存在があった。

「ほら、見てよレオン。この彫刻って、シャルトスの城にあったのと似てる。交流があったから、お互いに文化の影響も受けてるんだね」

 溌剌はつらつとした声が、ことあるごとに『レオン』を引き戻す。
 鬱陶しいとは思ったが、反応をすればきっと彼女は図に乗ると思った。だから警告の攻撃を行った後は、一切の返事をしないと決めていたのだが。

「ねえ。レオン、聞いてる? レオンったらレオーン、レ・オ・ン。レオンさーん!」

 どれほど無視をしても、彼女は『レオン』の名を呼び続けた。偉大な山の方に逆らって落ちているこんな時でさえも、小さく「……レオン……」と呼ぶのだ。

(……落ちている……)

 この高さから地上へ叩きつけられて生きていられる人間などいない。
 これでようやく、彼女から解放される。

(生きられるはずがない)

 死ぬ。

(誰が?)

 この人間が。

(……どうして守ってやらない?)

 どうして守る必要がある。

(……だって、こいつは……)

 ただの人間。

(こいつは、俺の……)

 聖剣に宿るもの、の。

(俺、の)

 聖剣に宿るもの、の。

(……俺、の、娘)

 ――聖剣レオン、の、ローゼ

 じんと強く痺れ、どこかがぐるりと捻じれる。
 それはいつか味わったものと同じだ。豪華な部屋でひとりの女が指輪の石を柄に触れさせた途端、流れ込んだものが強い力で思考を絡めとっていくあの時のものと。

 引きちぎられ、高速で回転させられ、高熱を帯びて灼かれながら押しつぶされる。悲鳴を上げたいのに声を出すことすらできない。
 あまりにつらく、苦しいために、せめぎあいの時はまるで永劫にも感じられるほどだった。しかし表の思考を、奥底に押しやられていたものが圧倒的な意志でねじ伏せるのに要した時間は、人の瞬きひとつよりもずっとずっと短いものだった。

 いましめを断ち切って、レオンは叫ぶ。

【ローゼ!】

 青ざめたかおの彼女は答えない。閉じられた瞼は開くことがなく、こぼれた涙だけが心を表して宙を舞っている。

 もう一度ローゼに呼びかけようとしてレオンは思い返す。今必要なのは彼女の意識を戻すことではない。
 代わりに「誰か」とレオンは呼びかけた。

【誰か力を貸してくれ!】

 呼びかけには3つの応えがあった。

 ひとつは聖剣に結んだ銀色の狼の毛から。

 レオンは遠くにいる銀狼が変わっていないことに安堵する。
 しかし銀狼の心遣いはありがたいが、山の精霊の前では精霊の力を役立たせることができない。友への感謝をしつつ、レオンは次の力へ意識を転じる。

 ふたつめは、ローゼの左手首から。銀色の腕飾りだ。

(ずっと守ってくれていたのか)

 腕飾りの力の元となっているのは精霊の力だ。本来ならば大いなる意思の前には塵にも及ばないほどの力だが、この腕飾りはローゼの無事を祈る神官アーヴィンによって作られたもの。山の精霊の心に抗って、持ち手の身を守るべくすべての衝撃を和らげ続けた。おかげでローゼはまだここにいる。

 そして3つ目はもちろん、聖剣だ。
 これだけの力があれば何か手段が見出せそうだと思ったのだが、レオンが戻ってくるのは遅すぎた。良い考えが見つかる前に地面は目前となってしまったのだ。

【ローゼ、ローゼ!】

 焦燥の中、レオンはローゼを抱きしめようと咄嗟に手を伸ばした。――伸ばしたような気持ちになった。

 そのとき力を貸してくれたのは、やはり聖剣だった。

 聖剣。
 人だったレオンとも、時を過ごしてきた相棒。

 神から生み出された剣だけあって、聖剣にはほんのわずかではあるものの意思がある。
 だからこそ「魔物となった俺を殺せ」という最期の望みは叶えられたのだと、レオンは自身が聖剣に宿ってから初めて知った。

 ただし代償として、聖剣は歪んでしまった。
 神によって生み出された聖剣は、誕生と同時に与えられた『人を殺してはならない』という制約を曲げたため、存在を維持することができなくなったのだ。

 そのとき聖剣は地のものを取り込み、『天』と『地』を融和させた新たな存在となることで消滅を逃れた。取り込まれたのは、最も近くにいた地のもの。すなわち『精霊』。だから今のレオンは聖剣の中にいる。

(――ローゼは、絶対に守る!)

 聖剣が強く輝き、呼応するように腕飾りも輝く。その瞬間レオンは、黄金こがね色をした腕で、大事な娘を包んだように思った。

 直後、辺り一帯に光が満ち、弾けた。
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