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第5章(後)
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湯を使った後、ほとんど眠ることなく翌日を迎えたローゼは、まだ辺りが暗いうちに自分から侍女を呼び出して身支度を済ませ、廊下へ出る。もちろん行き先はアーヴィンの部屋だったが、しかし残念なことに彼はもう部屋にいなかった。
【なんだ。ずいぶん早いな】
侍女から渡された紙には見慣れた流麗な字で「ローゼは気ままに過ごして欲しい」「ただし身辺には気を付けるように」といったことだけが書いてある。
【じゃあ今日のローゼはひとりきりってことだな。……いや、違うか。護衛もいるし、何より俺がいるわけだから、ひとりにはならないな】
何度紙に目を通しても、アーヴィンが部屋に居ない理由や行き先については書いておらず、彼の動向はさっぱり分からない。
【この後はどうする、ローゼ? いつものように書庫へ行くか?】
言って、レオンは思案する口調で言葉を続ける。
【……いや、明日にはフィデルへ行くわけだしな。せっかくだから外へ出て精霊たちと話すっていうのもいいんじゃないか? ……そうだ、銀狼にも挨拶を……あー、まあ、あいつはいいか】
昨夜、アーヴィンに対して見せた高圧的な態度はすっかり消え、レオンの様子は普段通りに戻っている。
ただ、普段と違うのは饒舌な点だ。さすがに夜の間は静かだったが、ローゼが動き出してからの彼は今のように、ローゼにとも、あるいは独り言ともつかないことを取り留めもなく話している。
何となく奇妙な感じはするが、もしかするとレオンは、昨日の気まずい空気を無かったことにしたくて、ローゼの気を紛らわせるために必死なのかもしれない。
そう考えてローゼは自室の扉に背を向け、廊下を歩きだす。
結婚披露の宴はあと4日続く。今日も城内は人が多く、どことなく慌ただしい。
(アーヴィン、どこへ行ったのかな……)
口を開くことのないままローゼは、護衛として来てくれている静かな女性騎士と、やかましい聖剣とを携えてあてもなく歩き始めた。
* * *
結局この日のローゼは朝から夜までほぼ室外で過ごした。
宴が開かれている大広間の付近や、人通りが多そうな場所を避けてひっそりした場所を巡ったが、残念ながらどこにもアーヴィンの姿はない。
もしかして、と思いながら何度も部屋へ確認に戻ったが、侍女からは毎回「アーヴィン様はおられません」との答えが戻るばかりだった。
【これはあいつなりの気遣いだろう】
ローゼを励ますつもりなのか、小さな庭で精霊を見せてくれながらレオンは言う。
【お前に会うと「行くな」と口にしてしまうからな。だったらお前がフィデルへ出発するまで会わないようにしようと思ってるんだろ】
「……あたしは、フィデルへ行くなんて……」
【まだそんなことを言ってるのか?】
聖剣に小さな精霊たちを纏わせるレオンは、強い口調で続ける。
【お前は行くはずだ。あの山があるジェーバー領へな】
昨日からの空は、まるで公爵の結婚を祝うかのようにすっきりと晴れ渡っている。おかげで現実味がないほどに大きな山も、珍しく全容を晒していた。
【偉大な方も、きっと俺たちを呼んでいる。だから姿を見せて下さってるんだ。ローゼだって本当はジェーバー領へ行きたいだろ?】
「……あたしは……」
途中まで言いかけて黙り、ローゼは山へ視線を移す。
西の端にある村で、本を読みながら外の世界の想像はしていたのだが、聖剣を手にしてから見聞きした外の世界は想像以上のものばかり。ローゼは自分の頭の中にあった世界がいかにちっぽけなものだったかをいつも実感していた。
自分が各地を巡るのは役目のため。物見遊山でないことは百も承知している。だが、まだまだ色々なところへ行き、色々なことを知りたい。
今回だってそうだ。危険が待っているかもしれないと聞いた時は尻込みもしたが、シグリが危険は無いと約束してくれた今、ローゼの心はほぼ決まっている。
あの山を近くで見てみたい。近くで見たのならどれほどに大きく見えるか興味がある。しかも、この世と共に生まれたというほどに古い精霊の山だ。誕生から1000年にも満たない銀狼の『銀の森』ですらたくさんの精霊がいたのだから、あの山の近くにはきっと想像もできないほどたくさんの精霊がいるに違いない。
銀に輝く精霊のおかげで、あの辺りは夜でも昼と同じくらい明るいのだろうか。だとすればお喋りな精霊たちの声で、昼は驚くほどの喧騒に包まれているのだろうか?
精霊の存在が広く認知されているジェーバー領での暮らしにだって興味がある。町中は、人々は、どのような様子だろう。
シャルトス領と同様に精霊のための木や花が多く植えられているかもしれないし、人々が集まって雑談をしているとき精霊が一緒にいるという光景は、ジェーバー領でも見られるかもしれない。
考えるだけでローゼの心は浮き立つ。
しかし、最後の一歩を踏み出せない。レオンに向かって、行く、と言い切ることができない。
(……あたしが外へ出られるのは帰る場所があるから。笑顔で送り出して、笑顔で迎えてくれる人がいるって分かってるから、あたしは思い切り外へ目を向けられるの)
ローゼは左腕に目を落とす。日の光を弾いて、銀の腕飾りは今日も美しい。
(……でも、そうじゃないのなら……)
* * *
ローゼは今日、ひとりで昼食を終えた。アーヴィンのいない食事は王都にいる時以来だ。
同様に寂しくとった夕食の後に部屋へ来訪者があったので、もしかしたらと期待したのだが、侍女の開いた扉の向こうから顔を出したのは会いたくもないダリュースだった。
「明日の朝はお部屋までお迎えに上がりましょうか?」
「あたしはフィデルへ行くなんて言ってません」
硬い声のローゼに対し、微笑むダリュースは気にした様子もなく答える。
「でしたら明日の朝は外で。城の内門でお待ちしております」
そう言いおき、ダリュースは悠然と立ち去っていく。どうやら彼はローゼが共に来ることをまったく疑っていないようだった。
小さくため息を吐き、ローゼは寝室側の扉を開ける。中央にある寝台の横には整えられた旅の荷物が置いてあった。明日の出発に向けて、少しずつ用意してきたものだ。その荷物の前に座り込んでローゼはうつむく。
フィデルへ行ってしまうと、次にアーヴィンと会うのはかなり先のことになるだろう。仲違いのようになってしまっている今、このまま長く別れるのはつらい。
(だったら…)
左腕を上げ、寂しい気分で銀の腕飾りに唇を寄せる。
(……あたしの行き先は、フィデルじゃなくて……)
心が決まりかけたその時、背後から扉を叩く音がする。力なく返事をすると、声をかけてきたのは侍女だった。
「失礼いたします、ローゼ様。あの――」
「ローゼ」
しかし続いて穏やかな声が耳に届き、ローゼは反射的に振り返る。
開かれた扉の向こうにいたのは、今日1日探し続けていたアーヴィンだった。
「アーヴィン!」
顔を歪めてローゼは立ちあがる。彼の元へ駆け寄ろうとして裾を踏むが、倒れ込む前に力強い腕が支えてくれた。
「ほら、気を付けて」
「だって!」
床に座って抱き合うような形になった彼の肩越しに、侍女が頭を下げて扉を閉める光景がある。他人の目がなくなったので心置きなく広い胸にしがみつくと、彼はローゼの背を優しく撫でてくれた。
「ねえっ! どこにいたの!?」
「公爵の執務室だよ」
答えを聞いたローゼは目を見開く。まったく予想していなかった場所だ。
「フロランから許可を得られたから、調べ物や準備をしていたんだ」
アーヴィンはローゼの肩をそっと押して体を離させ、肩から掛けていた袋を床に下ろし、開く。中には綴じた紙や絵本、小さな布袋と、いくつもの薬の瓶が入っていた。
それらへ視線を落としたアーヴィンは、ひとつずつ示す。
「これは傷薬。神殿と同じ薬草は手に入らなかったから、魔物の傷に効果があるどうかは不明だ。ただ、神聖術は籠められたし、傷にも即効性はあった。おそらく大丈夫だと思う」
「……え?」
「こちらはいつもの虫除けや獣除けだ。あとは――」
「あの……どういうこと?」
戸惑うローゼの声を聞き、袋から顔を上げたアーヴィンは言う。
「フィデルは精霊の多い国だが、シャルトス領と違ってウォルス教を排除しているわけではない。神殿もあるし、神官が作る品も売られているから買い足すことはできるが、これから旅へ往くローゼに品々を用意をするのは、どんな時でも私だ」
「うん……?」
「ローゼが何かを決めたときには、前へ進めるようできる限りの準備を手伝う。これが私の役目だ。自分でそう決めた。他の誰かから言われるのではなく、自分で」
言い切るアーヴィンの表情は誇らしげだ。
「私はもう、エリオット・シャルトスではない。アーヴィン・レスターだ。――そうだろう、ローゼ?」
その表情からローゼは、彼の言いたいことを理解した。
エリオットは母と妹を助けたくて、祖父から役目を受けた。
あれは、祖父のために神官となり、北方へ戻って公爵の位に就いた後、やがて命を落とすという役目だった。
だがアーヴィンは今回、自ら役目を見出してくれた。
ローゼを生かしてくれるために。共に生きてくれるために。
「もしも迷いがあるのなら出来る限りで助言はするけれど、それが妨げになってはいけなかった。ローゼの行く道を決めるのは、ローゼ自身でなくてはならないんだ。……今回は私が悪かった。本当にごめん」
「ううん!」
ローゼは大きく首を左右に振る。
「あっ、あたし。まだ、聖剣の主になって1年くらいなんだし。知識もないし、世間も知らないし、ぜんぜん、頼り甲斐なんてないし。アーヴィンが心配するのも、無理もないっていうか……」
「そんなことはない。ここまで見てきただけでも、ローゼはずいぶん立派になっていた。本当に、驚くくらいに。フィデルへ行っても、今のローゼならきっと大丈夫だ」
「……アーヴィン……」
見つめてくる力強い眼差しと温かさを秘めた声に、こみ上げて来るものがある。それを堪え、できる限りの笑顔でローゼは口を開いた。
「あたし、頑張ってくるわ! アレン大神官が何を企んでるのか知らないけど、逆に『こんなはずじゃなかった』って泡を吹かせてやる! 絶対に大丈夫よ。だって、アーヴィンが後押ししてくれるだけじゃなくて、レオンだって一緒にいるんだもの!」
微笑んでうなずいたアーヴィンは、ふと思いついたように周りを見回した。
「レオンは?」
「ああ、あっち」
ローゼは大窓の外、露台へ顔を向ける。
「精霊の言葉をもっとちゃんと喋れるようになりたいんだって。小さい庭へ行った時に誰か連れて来たみたいでずっとブツブツ言ってるから、うるさくて表に出しちゃった」
「……そうか……」
露台を見るアーヴィンの横顔は何か言いたそうだったが、ローゼに向き直る彼からはその様子が消え、ただ微笑みだけがあった。
「ローゼ」
「ん?」
「ローゼと聖剣が互いに互いのものであるように、ローゼと私も互いに互いのものだ」
だから、とアーヴィンは続ける。
「例え共に居なくとも、私はローゼのために在る。……待っているから、必ず帰っておいで」
「うん」
うなずき、ローゼは大きな背に回して目を閉じた。神殿の香によく似た清涼な香りが心の中をも満たす。
「あたし必ず、ここへ帰る。約束するわ」
ローゼの囁きを聞き、アーヴィンも強く抱きしめてくれる。
別れの夜は更けていくが、ローゼはもう、寂しさを感じなかった。
【なんだ。ずいぶん早いな】
侍女から渡された紙には見慣れた流麗な字で「ローゼは気ままに過ごして欲しい」「ただし身辺には気を付けるように」といったことだけが書いてある。
【じゃあ今日のローゼはひとりきりってことだな。……いや、違うか。護衛もいるし、何より俺がいるわけだから、ひとりにはならないな】
何度紙に目を通しても、アーヴィンが部屋に居ない理由や行き先については書いておらず、彼の動向はさっぱり分からない。
【この後はどうする、ローゼ? いつものように書庫へ行くか?】
言って、レオンは思案する口調で言葉を続ける。
【……いや、明日にはフィデルへ行くわけだしな。せっかくだから外へ出て精霊たちと話すっていうのもいいんじゃないか? ……そうだ、銀狼にも挨拶を……あー、まあ、あいつはいいか】
昨夜、アーヴィンに対して見せた高圧的な態度はすっかり消え、レオンの様子は普段通りに戻っている。
ただ、普段と違うのは饒舌な点だ。さすがに夜の間は静かだったが、ローゼが動き出してからの彼は今のように、ローゼにとも、あるいは独り言ともつかないことを取り留めもなく話している。
何となく奇妙な感じはするが、もしかするとレオンは、昨日の気まずい空気を無かったことにしたくて、ローゼの気を紛らわせるために必死なのかもしれない。
そう考えてローゼは自室の扉に背を向け、廊下を歩きだす。
結婚披露の宴はあと4日続く。今日も城内は人が多く、どことなく慌ただしい。
(アーヴィン、どこへ行ったのかな……)
口を開くことのないままローゼは、護衛として来てくれている静かな女性騎士と、やかましい聖剣とを携えてあてもなく歩き始めた。
* * *
結局この日のローゼは朝から夜までほぼ室外で過ごした。
宴が開かれている大広間の付近や、人通りが多そうな場所を避けてひっそりした場所を巡ったが、残念ながらどこにもアーヴィンの姿はない。
もしかして、と思いながら何度も部屋へ確認に戻ったが、侍女からは毎回「アーヴィン様はおられません」との答えが戻るばかりだった。
【これはあいつなりの気遣いだろう】
ローゼを励ますつもりなのか、小さな庭で精霊を見せてくれながらレオンは言う。
【お前に会うと「行くな」と口にしてしまうからな。だったらお前がフィデルへ出発するまで会わないようにしようと思ってるんだろ】
「……あたしは、フィデルへ行くなんて……」
【まだそんなことを言ってるのか?】
聖剣に小さな精霊たちを纏わせるレオンは、強い口調で続ける。
【お前は行くはずだ。あの山があるジェーバー領へな】
昨日からの空は、まるで公爵の結婚を祝うかのようにすっきりと晴れ渡っている。おかげで現実味がないほどに大きな山も、珍しく全容を晒していた。
【偉大な方も、きっと俺たちを呼んでいる。だから姿を見せて下さってるんだ。ローゼだって本当はジェーバー領へ行きたいだろ?】
「……あたしは……」
途中まで言いかけて黙り、ローゼは山へ視線を移す。
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自分が各地を巡るのは役目のため。物見遊山でないことは百も承知している。だが、まだまだ色々なところへ行き、色々なことを知りたい。
今回だってそうだ。危険が待っているかもしれないと聞いた時は尻込みもしたが、シグリが危険は無いと約束してくれた今、ローゼの心はほぼ決まっている。
あの山を近くで見てみたい。近くで見たのならどれほどに大きく見えるか興味がある。しかも、この世と共に生まれたというほどに古い精霊の山だ。誕生から1000年にも満たない銀狼の『銀の森』ですらたくさんの精霊がいたのだから、あの山の近くにはきっと想像もできないほどたくさんの精霊がいるに違いない。
銀に輝く精霊のおかげで、あの辺りは夜でも昼と同じくらい明るいのだろうか。だとすればお喋りな精霊たちの声で、昼は驚くほどの喧騒に包まれているのだろうか?
精霊の存在が広く認知されているジェーバー領での暮らしにだって興味がある。町中は、人々は、どのような様子だろう。
シャルトス領と同様に精霊のための木や花が多く植えられているかもしれないし、人々が集まって雑談をしているとき精霊が一緒にいるという光景は、ジェーバー領でも見られるかもしれない。
考えるだけでローゼの心は浮き立つ。
しかし、最後の一歩を踏み出せない。レオンに向かって、行く、と言い切ることができない。
(……あたしが外へ出られるのは帰る場所があるから。笑顔で送り出して、笑顔で迎えてくれる人がいるって分かってるから、あたしは思い切り外へ目を向けられるの)
ローゼは左腕に目を落とす。日の光を弾いて、銀の腕飾りは今日も美しい。
(……でも、そうじゃないのなら……)
* * *
ローゼは今日、ひとりで昼食を終えた。アーヴィンのいない食事は王都にいる時以来だ。
同様に寂しくとった夕食の後に部屋へ来訪者があったので、もしかしたらと期待したのだが、侍女の開いた扉の向こうから顔を出したのは会いたくもないダリュースだった。
「明日の朝はお部屋までお迎えに上がりましょうか?」
「あたしはフィデルへ行くなんて言ってません」
硬い声のローゼに対し、微笑むダリュースは気にした様子もなく答える。
「でしたら明日の朝は外で。城の内門でお待ちしております」
そう言いおき、ダリュースは悠然と立ち去っていく。どうやら彼はローゼが共に来ることをまったく疑っていないようだった。
小さくため息を吐き、ローゼは寝室側の扉を開ける。中央にある寝台の横には整えられた旅の荷物が置いてあった。明日の出発に向けて、少しずつ用意してきたものだ。その荷物の前に座り込んでローゼはうつむく。
フィデルへ行ってしまうと、次にアーヴィンと会うのはかなり先のことになるだろう。仲違いのようになってしまっている今、このまま長く別れるのはつらい。
(だったら…)
左腕を上げ、寂しい気分で銀の腕飾りに唇を寄せる。
(……あたしの行き先は、フィデルじゃなくて……)
心が決まりかけたその時、背後から扉を叩く音がする。力なく返事をすると、声をかけてきたのは侍女だった。
「失礼いたします、ローゼ様。あの――」
「ローゼ」
しかし続いて穏やかな声が耳に届き、ローゼは反射的に振り返る。
開かれた扉の向こうにいたのは、今日1日探し続けていたアーヴィンだった。
「アーヴィン!」
顔を歪めてローゼは立ちあがる。彼の元へ駆け寄ろうとして裾を踏むが、倒れ込む前に力強い腕が支えてくれた。
「ほら、気を付けて」
「だって!」
床に座って抱き合うような形になった彼の肩越しに、侍女が頭を下げて扉を閉める光景がある。他人の目がなくなったので心置きなく広い胸にしがみつくと、彼はローゼの背を優しく撫でてくれた。
「ねえっ! どこにいたの!?」
「公爵の執務室だよ」
答えを聞いたローゼは目を見開く。まったく予想していなかった場所だ。
「フロランから許可を得られたから、調べ物や準備をしていたんだ」
アーヴィンはローゼの肩をそっと押して体を離させ、肩から掛けていた袋を床に下ろし、開く。中には綴じた紙や絵本、小さな布袋と、いくつもの薬の瓶が入っていた。
それらへ視線を落としたアーヴィンは、ひとつずつ示す。
「これは傷薬。神殿と同じ薬草は手に入らなかったから、魔物の傷に効果があるどうかは不明だ。ただ、神聖術は籠められたし、傷にも即効性はあった。おそらく大丈夫だと思う」
「……え?」
「こちらはいつもの虫除けや獣除けだ。あとは――」
「あの……どういうこと?」
戸惑うローゼの声を聞き、袋から顔を上げたアーヴィンは言う。
「フィデルは精霊の多い国だが、シャルトス領と違ってウォルス教を排除しているわけではない。神殿もあるし、神官が作る品も売られているから買い足すことはできるが、これから旅へ往くローゼに品々を用意をするのは、どんな時でも私だ」
「うん……?」
「ローゼが何かを決めたときには、前へ進めるようできる限りの準備を手伝う。これが私の役目だ。自分でそう決めた。他の誰かから言われるのではなく、自分で」
言い切るアーヴィンの表情は誇らしげだ。
「私はもう、エリオット・シャルトスではない。アーヴィン・レスターだ。――そうだろう、ローゼ?」
その表情からローゼは、彼の言いたいことを理解した。
エリオットは母と妹を助けたくて、祖父から役目を受けた。
あれは、祖父のために神官となり、北方へ戻って公爵の位に就いた後、やがて命を落とすという役目だった。
だがアーヴィンは今回、自ら役目を見出してくれた。
ローゼを生かしてくれるために。共に生きてくれるために。
「もしも迷いがあるのなら出来る限りで助言はするけれど、それが妨げになってはいけなかった。ローゼの行く道を決めるのは、ローゼ自身でなくてはならないんだ。……今回は私が悪かった。本当にごめん」
「ううん!」
ローゼは大きく首を左右に振る。
「あっ、あたし。まだ、聖剣の主になって1年くらいなんだし。知識もないし、世間も知らないし、ぜんぜん、頼り甲斐なんてないし。アーヴィンが心配するのも、無理もないっていうか……」
「そんなことはない。ここまで見てきただけでも、ローゼはずいぶん立派になっていた。本当に、驚くくらいに。フィデルへ行っても、今のローゼならきっと大丈夫だ」
「……アーヴィン……」
見つめてくる力強い眼差しと温かさを秘めた声に、こみ上げて来るものがある。それを堪え、できる限りの笑顔でローゼは口を開いた。
「あたし、頑張ってくるわ! アレン大神官が何を企んでるのか知らないけど、逆に『こんなはずじゃなかった』って泡を吹かせてやる! 絶対に大丈夫よ。だって、アーヴィンが後押ししてくれるだけじゃなくて、レオンだって一緒にいるんだもの!」
微笑んでうなずいたアーヴィンは、ふと思いついたように周りを見回した。
「レオンは?」
「ああ、あっち」
ローゼは大窓の外、露台へ顔を向ける。
「精霊の言葉をもっとちゃんと喋れるようになりたいんだって。小さい庭へ行った時に誰か連れて来たみたいでずっとブツブツ言ってるから、うるさくて表に出しちゃった」
「……そうか……」
露台を見るアーヴィンの横顔は何か言いたそうだったが、ローゼに向き直る彼からはその様子が消え、ただ微笑みだけがあった。
「ローゼ」
「ん?」
「ローゼと聖剣が互いに互いのものであるように、ローゼと私も互いに互いのものだ」
だから、とアーヴィンは続ける。
「例え共に居なくとも、私はローゼのために在る。……待っているから、必ず帰っておいで」
「うん」
うなずき、ローゼは大きな背に回して目を閉じた。神殿の香によく似た清涼な香りが心の中をも満たす。
「あたし必ず、ここへ帰る。約束するわ」
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