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第5章(後)
28.翻弄
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「……あたしはフィデルへ行っても平気なの?」
ローゼが問うと、シグリは力強くうなずく。
「もちろんです。そもそも義姉上はなぜ、フィデルで危害を加えられるとお思いになりましたの?」
「……だって、ダリュースが……」
「ダリュース? ……ああ、義兄上が心配しておいでなのですね。でも本当に、義姉上に関しての心配はありません」
「……あたしに危害を加える人はいないってこと?」
「はい。間違いなく」
シグリはきっぱりと言い切った。
「フィデル国内にはたくさんの精霊がいます。おかげで術士も数多くいるのですが、精霊の息子や娘になれるのはほんの一握り。更に主の心を捉えることができた人物など、歴史を紐解いてすら何人もいるわけではありません」
なのに、とシグリは続ける。
「私が住むことになるこの城には今、主の子どもたちが3人もおいでになる。しかもその内のおふたりは、過去の人物の血筋だからという理由で愛されたわけではない方です。そんな偉大な方を敬愛こそすれ、手に掛けることなどなど絶対にありえません」
途端にローゼは居心地が悪くなる。
主の子ども3人のうち、フロランが大精霊の息子になれたのは、古に生きた女王の血を引いているためだ。いわば他人が元となって愛されたわけだが、ローゼとアーヴィンは違う。己の魅力で主の娘・息子になった。
――と、シグリは言いたいのだろう。
(でもあたしだってフロランと同じよ。レオンがあたしを選んだ理由は、エルゼの血を引いてるからなんだもの)
神の選んだ魂が、たまたまローゼだっただけ。これが弟や妹でも、レオンはきっと彼らを聖剣の主にしただろう。もしかするとこうしてシグリと話しているのが、弟のマルクだった可能性もあるのだ。
(だとしたら、あたしが危害を加えられる可能性も残ってるんじゃないのかな……)
わずかな不安が、ローゼに口を開かせた。
「……ねえ、シグリ。ダリュースは、どうしてあの人を殺したの?」
部屋の中は静かになる。これは理由を知らないための沈黙ではないはずだ。分かっているからこそローゼは続ける。
「刃物は近くにあったから自害だろうって話になって、実際そう片付けられてる。でも、兵たちに人払いを通達した前公爵の側近は、その日から姿を消した。どこへ行ったのかと思ったら、ジェーバー辺境伯のお嬢様と一緒にまたここへ来て……」
ローゼはシグリの瞳を見据える。
「ダリュースは最初からフィデルの人だったの? もしかしてあれはフィデル側の差し金?」
しばらく黙ったままだったシグリは、やがて艶やかな笑みを浮かべた。
「誰が、誰を、殺しましたの?」
「え……。だから、ダリュースが……その、前公爵――」
「義姉上。私は今、申し上げました。義姉上を害するような者がいましたら、ジェーバー辺境伯家が許さないと」
言葉を遮るシグリの意図は良く分からないものの、言ったことは間違いない。ローゼが曖昧にうなずくと、シグリは歌うような調子で続ける。
「ジェーバー家だけではありません。シャルトス家も、アストラン大神殿も、きっと許してなどおかないでしょう。だって義姉上は、聖剣を持ち、精霊に愛される、この世にふたりといない方。そんな義姉上へ危害を加えようと考えるのは、大いなる愚か者か、さもなくば大いなる力を持つ者くらいです」
褒め言葉は面映ゆいが、否定は重要なことでない気がしてローゼがシグリの言葉を待っていると、彼女は微笑みの奥に真剣さを秘めた瞳で逆にローゼを見つめる。
「ところで義姉上の仰る『誰かを殺害した者』というのは、刑罰を受けたのでしょうか?」
「え? ……ええと……」
シグリの供として来ているのだから、ジェーバー家がダリュースを処罰しているはずがない。そしてこの城で堂々と姿を見せている以上、彼はきっとシャルトス領でも罪人となっていない。
(……あれ? でも、ダリュースが殺したのは公爵家の当主だった人よね? なのに……どういうこと?)
口ごもるローゼの態度から、シグリは答えを導き出したらしい。
「でしたらその者は、誰も殺していないのです」
あまりの言いように唖然とするローゼに向け、微笑んだシグリはもう一度、歌うような調子で話し始めた。
「シャルトス公爵家はフィデル国内でも尊敬を集めているんですよ。だって、古き精霊からの加護が篤い一族ですもの。領地は豊かな恵みに満ち、妙なる力で守られている。……はずだったのに」
シグリはうっとりとしていた表情を一変させる。
「誉れ高き一族の長が、精霊たちからそっぽを向かれ、精霊術も使えなくなる。なんと愚かで醜悪な、許されざることでしょう」
楽の音のような声が、呪わしい言葉を吐き捨てるように言ったその時、こと、と小さな音がした。年若い侍女がシグリの前に茶を置いた音だ。
どことなくぎこちない様子は、この侍女の経験がまだ浅いことを示している。動かしたローゼの視線の先には、離れた場所で不安そうに見守る年配の侍女の姿があった。
シグリに一礼した若い侍女がローゼの方へ歩を進めると、彼女を追いかけるようにしてシグリの声が続く。
「旧き時の頃は仕方ありません。自身がなんと言おうと、大精霊はやはりシャルトス家の人物が失われることを嘆くでしょうから。……でも、大精霊は世を去った。新たな時代が始まった。なのに公爵の地位に就いている者は変わらぬまま。そんなことで良いの?」
シグリはカップを手に取って中身を一口飲み、ほう、と満足げに息を吐く。
「義姉上はいかが? ――そう、例えば今、『公爵閣下』と呼ばれる方がフロランでないとすれば、義姉上は義兄上と一緒にこの城へお越しになったのかしら?」
「来ないわ」
即答するローゼの脳裏にはアーヴィンのことが浮かぶ。
彼はダリュースの発した「でないと後で、厳しいお仕置きがございますからね」という言葉で身を強張らせた。あれはおそらく恐怖からだったはずだ。
きっと小さなエリオットは、前公爵の側近だったというダリュースから何度もこの言葉を聞いた。大人になった今でもアーヴィンは言葉の影に、いや、もしかするとダリュースの影にも祖父が見え、反射的に恐れてしまうのだろう。
ならば祖父本人を前にした場合、アーヴィンはどうなってしまうのか。そう考えるとローゼの中に『ラディエイルが健在である城にアーヴィンを近づける』という選択肢はあろうはずがなかった。
――しかし。
「でしたら理由はともかく、この現状はお互いにとって良いことですわね」
シグリの美しい笑みを見ながら、ローゼは複雑な気分になる。
(……良いこと……)
今年見たシャルトス領の村や町は、昨年のように閉塞した空気を感じなかった。
イリオスの城内も明るくなり、働く人々が増えている。
なにより、シャルトスの姉弟たち。アーヴィンはもちろんのこと、リュシーも、フロランでさえ、伸び伸びとした様子を見せていた。
これらのことが起きた理由はひとつだ。
ならば公爵が代わったのは、シグリの言う通り『良いこと』なのかもしれない。もしかするとフロランがダリュースを追うことなく放置しているのはそれが原因なのだろうか。
しかし、どんなに嫌な人物だったとしても、裏に誰かの死が存在しているという事実が、ローゼを手放しで喜べなくさせていた。
どう返事をすれば良いのか分からないローゼの左側に若い侍女が来て、シグリの時と同じように茶を置こうとする。
――と、その時もたつきを見せ、小さな匙を落とした。
「も、申し訳ありません」
慌てた様子の侍女は、指輪のはまった手を伸ばしながら、ローゼの傍で屈む。
途端に胸が大きく脈打ち、目の前が霞んだ。
体が灼けるように熱くなり、どんなに口を開いても空気が入って来ない。ローゼは胸を押さえて机に伏し、悲鳴を上げる。
【――っ、ぐ、あぁぁぁぁっ!!】
いや、口は大きく開いただけで、ローゼの声は出ていない。悲鳴を上げたのは、左腰に佩いた聖剣に在るレオンだ。
自分が悲鳴を上げたと思ったのは、カップの倒れる音やシグリのあげる悲鳴がどこか遠くに聞こえる中でも、苦しそうなレオンの声が耳の奥でしているのかと思うほどに近くで聞こえたせいだった。
(レオン!?)
今までレオンが悲鳴を上げるところなど聞いたことがない。不安で潰されそうな思いはあるが、それ以上に体へ苦しみが押し寄せていて、声を出す余裕などない。
口を開いたままもがき、一体どれほどの間苦しみが続くのだろうかとの恐怖にかられていたのだが、不意にすとんとすべてが落ち着いた。
「……え?」
苦しみの余韻すら微塵も感じない。
にわかに信じがたい思いを抱きながら顔を上げると、隣で声がする。呆然としながら顔を向けると、膝をついたシグリが不安そうにローゼを見ていた。
「義姉上、どこか具合を悪くされました?」
「……ううん……平気……」
呟いて、はっと腰を見る。
「そうだ、レオン!」
【俺も平気だ】
彼の声はどこか戸惑った調子だが、しっかりしており、苦しそうな感じは受けない。
「本当に、平気?」
【ああ。もう何ともない】
「……今、何があったの?」
【なんというか……強い痺れが来た後に、焼かれるような熱さと、押しつぶされるような苦しさが来て、意識が混濁して……。お前の方は大丈夫か?】
「あたしも、まったく何ともないわ」
答えながらローゼは周囲を確認する。
近くでは護衛として来てくれた女騎士が安堵の様子を見せた後に周囲へ厳しい目を走らせ、部屋の隅では年配の侍女が項垂れる若い侍女を叱りつけていた。
(本当に、何だったんだろう……)
どんなに体を動かしても、苦しかったこと自体が幻だったかのように何の変化も感じられなかった。
「義姉上、本当に何ともありませんの? よろしければ長椅子で少しお休みになって行かれます?」
「ううん」
心配そうに見つめるシグリに笑ってみせたローゼは、時計に目をやって立ちあがる。
「それより、ずいぶん長くお邪魔しちゃったみたい。急に来たのに話してくれてありがとう、シグリ」
「いいえ。私も楽しい時間を過ごすことができましたもの。どうぞお気をつけてお戻りくださいませ」
部屋の主へ頭を下げ、ローゼは護衛として来た女騎士と共に出入口へ向かう。
侍女が扉を開いた途端、廊下側にいた使用人と対面した。目を丸くする使用人は腕を上げている。どうやら扉を叩こうとしていたようだ。
「うぇっ? ローゼ? な、なんで……」
更に、使用人の近くで上がった頓狂な声はフロランのものだ。
顔を向けると、護衛を従える彼は唖然とした表情で立ち尽くしている。
「えーと、ちょっとシグリに用があったんです。でも、もう帰りますから」
【よう、フロラン! 今夜はしっかり励めよ!】
ローゼの後に、レオンが陽気な声を上げる。ぐっと詰まったフロランがゲホゲホと咳き込み始めたので、気まずくなったローゼは慌てて一行に背を向けた。
「ちょ、ちょっと、レオン! 今のは何? あんなこと言ったら、フロランだけじゃなくてあたしも気まずくなるでしょ?」
【なあ、ローゼ。あいつの顔見たか?】
ローゼは苦情を述べるが、レオンには意に介した様子が無い。
【いつも気取ってるくせに、間の抜けた顔して……いやあ、面白いなあ……くっ、くくく】
来た時同様にドレスの裾を持って廊下を早足で進むローゼは、笑うレオンの声を聞いて眉をひそめる。
【ん、どうした? 折角のめでたい夜なのに、何でそんな顔をするんだ?】
「めでたいのはその通りなんだけど……なんだろう。レオンらしくないね」
口調に粗野なところはあっても、レオンが気遣いをしてくれる方だということはローゼにも分かっている。いつもならばフロランにあんなことを言ったりしないはずだ。
【そうか?】
しかし当のレオンはローゼの不安をよそに、口笛でも吹きそうな軽い調子で答える。
【俺は事実を言っただけだしなあ。別に何も……ああ、それよりほら、お前の王子様がお迎えにいらしたみたいだぞ】
「王子様って……レオン、やっぱりなんか」
変、と言いかけたものの、こちらへ向かっているアーヴィンの不機嫌な様子を見て言葉は続かなくなる。彼にどう説明しようかということでいっぱいになったローゼの頭からは、レオンの発言に関することがすっかり抜け落ちてしまった。
ローゼが問うと、シグリは力強くうなずく。
「もちろんです。そもそも義姉上はなぜ、フィデルで危害を加えられるとお思いになりましたの?」
「……だって、ダリュースが……」
「ダリュース? ……ああ、義兄上が心配しておいでなのですね。でも本当に、義姉上に関しての心配はありません」
「……あたしに危害を加える人はいないってこと?」
「はい。間違いなく」
シグリはきっぱりと言い切った。
「フィデル国内にはたくさんの精霊がいます。おかげで術士も数多くいるのですが、精霊の息子や娘になれるのはほんの一握り。更に主の心を捉えることができた人物など、歴史を紐解いてすら何人もいるわけではありません」
なのに、とシグリは続ける。
「私が住むことになるこの城には今、主の子どもたちが3人もおいでになる。しかもその内のおふたりは、過去の人物の血筋だからという理由で愛されたわけではない方です。そんな偉大な方を敬愛こそすれ、手に掛けることなどなど絶対にありえません」
途端にローゼは居心地が悪くなる。
主の子ども3人のうち、フロランが大精霊の息子になれたのは、古に生きた女王の血を引いているためだ。いわば他人が元となって愛されたわけだが、ローゼとアーヴィンは違う。己の魅力で主の娘・息子になった。
――と、シグリは言いたいのだろう。
(でもあたしだってフロランと同じよ。レオンがあたしを選んだ理由は、エルゼの血を引いてるからなんだもの)
神の選んだ魂が、たまたまローゼだっただけ。これが弟や妹でも、レオンはきっと彼らを聖剣の主にしただろう。もしかするとこうしてシグリと話しているのが、弟のマルクだった可能性もあるのだ。
(だとしたら、あたしが危害を加えられる可能性も残ってるんじゃないのかな……)
わずかな不安が、ローゼに口を開かせた。
「……ねえ、シグリ。ダリュースは、どうしてあの人を殺したの?」
部屋の中は静かになる。これは理由を知らないための沈黙ではないはずだ。分かっているからこそローゼは続ける。
「刃物は近くにあったから自害だろうって話になって、実際そう片付けられてる。でも、兵たちに人払いを通達した前公爵の側近は、その日から姿を消した。どこへ行ったのかと思ったら、ジェーバー辺境伯のお嬢様と一緒にまたここへ来て……」
ローゼはシグリの瞳を見据える。
「ダリュースは最初からフィデルの人だったの? もしかしてあれはフィデル側の差し金?」
しばらく黙ったままだったシグリは、やがて艶やかな笑みを浮かべた。
「誰が、誰を、殺しましたの?」
「え……。だから、ダリュースが……その、前公爵――」
「義姉上。私は今、申し上げました。義姉上を害するような者がいましたら、ジェーバー辺境伯家が許さないと」
言葉を遮るシグリの意図は良く分からないものの、言ったことは間違いない。ローゼが曖昧にうなずくと、シグリは歌うような調子で続ける。
「ジェーバー家だけではありません。シャルトス家も、アストラン大神殿も、きっと許してなどおかないでしょう。だって義姉上は、聖剣を持ち、精霊に愛される、この世にふたりといない方。そんな義姉上へ危害を加えようと考えるのは、大いなる愚か者か、さもなくば大いなる力を持つ者くらいです」
褒め言葉は面映ゆいが、否定は重要なことでない気がしてローゼがシグリの言葉を待っていると、彼女は微笑みの奥に真剣さを秘めた瞳で逆にローゼを見つめる。
「ところで義姉上の仰る『誰かを殺害した者』というのは、刑罰を受けたのでしょうか?」
「え? ……ええと……」
シグリの供として来ているのだから、ジェーバー家がダリュースを処罰しているはずがない。そしてこの城で堂々と姿を見せている以上、彼はきっとシャルトス領でも罪人となっていない。
(……あれ? でも、ダリュースが殺したのは公爵家の当主だった人よね? なのに……どういうこと?)
口ごもるローゼの態度から、シグリは答えを導き出したらしい。
「でしたらその者は、誰も殺していないのです」
あまりの言いように唖然とするローゼに向け、微笑んだシグリはもう一度、歌うような調子で話し始めた。
「シャルトス公爵家はフィデル国内でも尊敬を集めているんですよ。だって、古き精霊からの加護が篤い一族ですもの。領地は豊かな恵みに満ち、妙なる力で守られている。……はずだったのに」
シグリはうっとりとしていた表情を一変させる。
「誉れ高き一族の長が、精霊たちからそっぽを向かれ、精霊術も使えなくなる。なんと愚かで醜悪な、許されざることでしょう」
楽の音のような声が、呪わしい言葉を吐き捨てるように言ったその時、こと、と小さな音がした。年若い侍女がシグリの前に茶を置いた音だ。
どことなくぎこちない様子は、この侍女の経験がまだ浅いことを示している。動かしたローゼの視線の先には、離れた場所で不安そうに見守る年配の侍女の姿があった。
シグリに一礼した若い侍女がローゼの方へ歩を進めると、彼女を追いかけるようにしてシグリの声が続く。
「旧き時の頃は仕方ありません。自身がなんと言おうと、大精霊はやはりシャルトス家の人物が失われることを嘆くでしょうから。……でも、大精霊は世を去った。新たな時代が始まった。なのに公爵の地位に就いている者は変わらぬまま。そんなことで良いの?」
シグリはカップを手に取って中身を一口飲み、ほう、と満足げに息を吐く。
「義姉上はいかが? ――そう、例えば今、『公爵閣下』と呼ばれる方がフロランでないとすれば、義姉上は義兄上と一緒にこの城へお越しになったのかしら?」
「来ないわ」
即答するローゼの脳裏にはアーヴィンのことが浮かぶ。
彼はダリュースの発した「でないと後で、厳しいお仕置きがございますからね」という言葉で身を強張らせた。あれはおそらく恐怖からだったはずだ。
きっと小さなエリオットは、前公爵の側近だったというダリュースから何度もこの言葉を聞いた。大人になった今でもアーヴィンは言葉の影に、いや、もしかするとダリュースの影にも祖父が見え、反射的に恐れてしまうのだろう。
ならば祖父本人を前にした場合、アーヴィンはどうなってしまうのか。そう考えるとローゼの中に『ラディエイルが健在である城にアーヴィンを近づける』という選択肢はあろうはずがなかった。
――しかし。
「でしたら理由はともかく、この現状はお互いにとって良いことですわね」
シグリの美しい笑みを見ながら、ローゼは複雑な気分になる。
(……良いこと……)
今年見たシャルトス領の村や町は、昨年のように閉塞した空気を感じなかった。
イリオスの城内も明るくなり、働く人々が増えている。
なにより、シャルトスの姉弟たち。アーヴィンはもちろんのこと、リュシーも、フロランでさえ、伸び伸びとした様子を見せていた。
これらのことが起きた理由はひとつだ。
ならば公爵が代わったのは、シグリの言う通り『良いこと』なのかもしれない。もしかするとフロランがダリュースを追うことなく放置しているのはそれが原因なのだろうか。
しかし、どんなに嫌な人物だったとしても、裏に誰かの死が存在しているという事実が、ローゼを手放しで喜べなくさせていた。
どう返事をすれば良いのか分からないローゼの左側に若い侍女が来て、シグリの時と同じように茶を置こうとする。
――と、その時もたつきを見せ、小さな匙を落とした。
「も、申し訳ありません」
慌てた様子の侍女は、指輪のはまった手を伸ばしながら、ローゼの傍で屈む。
途端に胸が大きく脈打ち、目の前が霞んだ。
体が灼けるように熱くなり、どんなに口を開いても空気が入って来ない。ローゼは胸を押さえて机に伏し、悲鳴を上げる。
【――っ、ぐ、あぁぁぁぁっ!!】
いや、口は大きく開いただけで、ローゼの声は出ていない。悲鳴を上げたのは、左腰に佩いた聖剣に在るレオンだ。
自分が悲鳴を上げたと思ったのは、カップの倒れる音やシグリのあげる悲鳴がどこか遠くに聞こえる中でも、苦しそうなレオンの声が耳の奥でしているのかと思うほどに近くで聞こえたせいだった。
(レオン!?)
今までレオンが悲鳴を上げるところなど聞いたことがない。不安で潰されそうな思いはあるが、それ以上に体へ苦しみが押し寄せていて、声を出す余裕などない。
口を開いたままもがき、一体どれほどの間苦しみが続くのだろうかとの恐怖にかられていたのだが、不意にすとんとすべてが落ち着いた。
「……え?」
苦しみの余韻すら微塵も感じない。
にわかに信じがたい思いを抱きながら顔を上げると、隣で声がする。呆然としながら顔を向けると、膝をついたシグリが不安そうにローゼを見ていた。
「義姉上、どこか具合を悪くされました?」
「……ううん……平気……」
呟いて、はっと腰を見る。
「そうだ、レオン!」
【俺も平気だ】
彼の声はどこか戸惑った調子だが、しっかりしており、苦しそうな感じは受けない。
「本当に、平気?」
【ああ。もう何ともない】
「……今、何があったの?」
【なんというか……強い痺れが来た後に、焼かれるような熱さと、押しつぶされるような苦しさが来て、意識が混濁して……。お前の方は大丈夫か?】
「あたしも、まったく何ともないわ」
答えながらローゼは周囲を確認する。
近くでは護衛として来てくれた女騎士が安堵の様子を見せた後に周囲へ厳しい目を走らせ、部屋の隅では年配の侍女が項垂れる若い侍女を叱りつけていた。
(本当に、何だったんだろう……)
どんなに体を動かしても、苦しかったこと自体が幻だったかのように何の変化も感じられなかった。
「義姉上、本当に何ともありませんの? よろしければ長椅子で少しお休みになって行かれます?」
「ううん」
心配そうに見つめるシグリに笑ってみせたローゼは、時計に目をやって立ちあがる。
「それより、ずいぶん長くお邪魔しちゃったみたい。急に来たのに話してくれてありがとう、シグリ」
「いいえ。私も楽しい時間を過ごすことができましたもの。どうぞお気をつけてお戻りくださいませ」
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侍女が扉を開いた途端、廊下側にいた使用人と対面した。目を丸くする使用人は腕を上げている。どうやら扉を叩こうとしていたようだ。
「うぇっ? ローゼ? な、なんで……」
更に、使用人の近くで上がった頓狂な声はフロランのものだ。
顔を向けると、護衛を従える彼は唖然とした表情で立ち尽くしている。
「えーと、ちょっとシグリに用があったんです。でも、もう帰りますから」
【よう、フロラン! 今夜はしっかり励めよ!】
ローゼの後に、レオンが陽気な声を上げる。ぐっと詰まったフロランがゲホゲホと咳き込み始めたので、気まずくなったローゼは慌てて一行に背を向けた。
「ちょ、ちょっと、レオン! 今のは何? あんなこと言ったら、フロランだけじゃなくてあたしも気まずくなるでしょ?」
【なあ、ローゼ。あいつの顔見たか?】
ローゼは苦情を述べるが、レオンには意に介した様子が無い。
【いつも気取ってるくせに、間の抜けた顔して……いやあ、面白いなあ……くっ、くくく】
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【そうか?】
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