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第5章(後)
24.夢見たものは
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立ち尽くすローゼの頭の中では、アーヴィンの言葉がぐるぐると渦巻く。
『精霊の力を与えられた人の魂は変化する。天のものから地のものになる』
『精霊になると、もう天へは戻れない』
(もう、天へは戻れない……)
ローゼは両の拳を握りしめた。
(あたしは、神の下へ戻れない……)
魂は神によって数限りないほど作られるが、地上に降りることができるのはほんの一握り。
その中でも人として生まれることが許されるのは、特に強く優れた魂だけだった。
(地上にいる人たちは、全員が優れた魂の持ち主。だから死んでもまた人として生まれてこられるって……)
魂は人としての経験を得ることで更に強くなる。生と死を何度も繰り返して鍛えられ、完璧に近い強靭さを得た魂は、やがて神の眷属になることができた。
眷属になるともう地上に降りる必要は無い。いずれ起きる光と闇の戦いの日まで、神の傍近くで侍るのだ。
ウォルス教の聖典にはそう書かれている。
大陸にある宗教は基本的にウォルス教ただひとつ。つまりこれは大陸中の誰もが知っていること。もちろんローゼの日常にも、心の中にも、当たり前のようにこの教えがある。決められた日に神殿へ通い、神官が読む聖典の言葉に耳を傾け、唱和してきたのだから。
(だけどあたしは、もう、他の皆と一緒にはなれない)
村の乙女の会でディアナを始めとする友人たちと「また生まれてきたら次も友達でいようね」と笑い合ったことがある。
彼女たちはまた人として生まれてくる。しかしその中にローゼが交ざることは、もう、ない。
(あたしは今後、人として生まれることができないから)
信じていた世界が崩れたローゼは、自分ひとりが神に見放されたような気分になった。
目の前が暗くなってよろめいた時、ローゼを誰かが掴み、温かく包んでくれる。
見上げると、そこには穏やかな光があった。
途端にローゼは思い出す。
この大陸には少なくとも、ウォルス教以外にもうひとつ宗教があることを。
「……ねえ、アーヴィン。北方では死後、人はどういう風になるって言われてるの?」
ローゼの声はまだ震えていた。
対してローゼを抱くアーヴィンは、しっかりとした、揺らぐことのない声で答える。
「人はまた人として生まれてくると言われている。ウォルス教と同じだ。――ただし、ウォルス教とは少し様相が違う」
顔を上げたアーヴィンは、聖典を読む時のような低く通る声で歌う。
「肉体を失くした魂は、地に留まれず天へ行く。輝く天を見渡して、魂は地へと視線を落とす。自然あふれる地を望み見て、魂は天でただ嘆く。――地に留まり続けることができれば良いのにと」
ローゼは新たな見解を聞いて目を見開いた。
ウォルス教と北方とでは、天と地に対しての考え方が違うようだ。
「北方では天よりも地を尊ぶ。だからこそ、精霊に選ばれて永久に地へ留まることは、北方の人たちにとって幸せなことなんだ」
ローゼの頬を、微笑むアーヴィンがそっと撫でる。
「昔の私は、天に焦がれる人がいるなんて想像もしていなかった。大神殿へ行ってウォルス教の聖典を読んだ時は本当に驚いたよ」
「……今のあたしと逆ね」
衝撃が去ると、ローゼには考える力が戻ってくる。
結局、人に分かるのは今生きているこの時のことだけ。
神も精霊もいるとは分かっていても、死後のことですら判然としない。
「……人が死んだあとって、本当はどうなってるんだろう」
「分からない。ただ、伝わっている事柄に間違いはないのだろうとは思うよ」
「『人の魂は元々天に在って、肉体を得ると地上に降りる』ってこと?」
「そう。ただきっと、分かっているのはそこまでなんだ」
精霊の力を持つ神官はローゼに顔を向け、しかしどこも見ていないような瞳で話を続ける。
「ウォルス教の言う通り、人の魂はいずれ神の眷属になるのかもしれないし、北方の教えの通り、地上で精霊になることだってある。ならば後は『どちらを望むのか』ということだけなのかもしれないし、あるいは……」
先をアーヴィンが言うことはなかった。
ローゼは首を傾げながらも、気になった言葉を繰り返す。
「どちらを望むのか……あたしはずっとウォルス教と一緒に生きてきたから、他の考えなんて想像もしなかった。でも確かに、違う考えがあるなら……」
深く息を吐き、ローゼは肩の力を抜いた。
「……精霊って丸い銀の光をしてるでしょ? なのに銀狼が狼で、木に宿る前の大精霊が人の姿だったのはどうして?」
「主になった時の姿は、その精霊にとって思い入れの深いものの姿だと言われている。大半は元々の生命の姿だそうだよ。と言っても彼らに元の生命の記憶があるわけではないから、伝承でしかないが」
「そっか」
ようやく周囲を見る余裕ができ、ローゼはまた壁の絵に目を留める。
「だったら、あたしが本当に精霊になって、長く生きて、いつか主になる日がきたら……人じゃなくて、鳥の姿になりたいな」
「鳥に?」
「うん。……ねえ、アーヴィン。この絵は何?」
部屋で一番大きな絵である初代公爵の肖像画の横には、一番小さな絵が飾ってあった。
「ああ、こちらの絵はね。ラウル閣下がご自身で描かれ、執務室の机の上に飾っておられたものだ。閣下は『もうひとりの公爵を描いた』とのお言葉を残されているよ」
「もうひとりの公爵?」
思わず上げた声は怪訝そうなものになった。
「どういうこと? だって、描かれてるのは」
アーヴィンから体を離し、ローゼは絵の傍まで行く。まじまじと眺め、躊躇いながら口に出した。
「……鳥、なのに?」
片手ほどの大きさの紙に描かれていたのは、黄金色の羽を持つ1羽の小鳥。
どう見ても、人が描かれている様子はない。
首を捻るローゼの背後からは、穏やかな声が聞こえる。
「『閣下にとっては人とも思えるほどに大切な鳥だったのだろう』というのが通説だね。――これは、アストラでラウル閣下が共に時を過ごした小鳥だ」
「アストラ? イリオスじゃなくて?」
「王都アストラの方だよ」
ローゼの左に立ったアーヴィンは、絵に目線を向けながら口を開く。
「セルジュ王の妃は……つまりラウル閣下の母君は、アストランの王女だった。この北の小国がアストランに攻め落とされた後、13歳だったラウル閣下は10歳になる妹のミネット嬢と共に母君に連れられ、アストラで8年の時を過ごされることになる。――その後、華やかな暮らしを好んだミネット嬢はアストラに残ったが、ラウル閣下はずっと北の地をお忘れでなかった」
この小鳥は、と言いながらアーヴィンは絵を示す。
「王都におられる閣下のお心を8年の間お慰めしていたそうだ。とても綺麗な声で歌う、黄金色の小鳥だったそうだよ」
「そっか。……暖かい王都から北方へ来たんだもの、気温の差に小鳥はびっくりしたかもね」
「いや。閣下は小鳥を北方に連れて来ず、王都に残したままお戻りになった」
「え、なにそれ! 小鳥は王都へ置き去りってこと?」
非難がましい口調で横のアーヴィンを睨みつけたローゼだが、彼は気を悪くした様子もなく穏やかな声色のままで話す。
「置き去りというわけではないと思うよ。ラウル閣下は『鳥籠の中に残しておきたくなかったが、どうしても連れてくることができなかった』とだけ仰ったそうだ」
「連れてくることができなかった?」
アーヴィンの言葉を聞き、ローゼは視線に籠めた力をほんの少し緩ませる。
「本当は、連れてきたかったの?」
「おそらく。――執務室でラウル閣下はこの絵によく話しかけておられたらしい。普段は横の肖像画のように厳めしい顔をされている方だが、絵に話をする時だけはとても優しい表情だった、と伝わっているんだ」
アーヴィンの声が優しくて、ローゼは少しだけ慰められたような気持ちになる。
「……じゃあ、ラウル様と小鳥は仲良しだったのかな」
「私はそう思っているよ」
「……そっか……だったら、王都に残された小鳥も、本当はラウル様と一緒に北方へ来たかったよね。……誰か鳥籠を開けてくれる人さえいたら、小鳥は北まで飛んだかもしれないね」
王都アストラから北の都市イリオスまではかなりの距離がある。鳥籠の中で暮らしていた小さな鳥にとっては果てしなく遠く感じるだろう。
それでもローゼには、開けられた籠から飛び立った小鳥が、懸命に翼をはためかせて北を目指す光景が見えるような気がした。
「北には大精霊の木があるもの。あの高い木ならきっと、空を飛ぶ小鳥の目印になったはずだわ」
大精霊に会うため城からやって来たラウルがある日、枝に止まった黄金の小鳥を見つけることができたとしたら、いったいどれほど喜んだだろうか。
そこまで考え、ローゼは改めて絵に顔を向ける。
(……本当はラウル様も、そんな日が来て欲しいって思ってたんだ)
柔らかい筆致で描かれた絵の中、銀の花が咲く枝に止まった小鳥はくちばしを開いている。その様子は歌っているようにも、周囲の精霊たちと話をしているようにも見えた。
王都へ残したという鳥を、こうして北方の景色の中に描くくらいだ。ラウルは本当にこの鳥を北方へ連れてきたかったのだろう。
だがどうしても願いを叶えることができず、ならばせめて絵の中でだけでも北方に連れてきたい、という気持ちで彼は筆を取ったのかもしれない。
ラウルと小鳥の気持ちを考えて切なくなったローゼの心を読んだかのように、アーヴィンがローゼの背に腕を回してくる。温もりを求めてローゼが寄り添うと、彼は「……そうだな」と穏やかな声で言う。
「ローゼがいつか鳥になる日が来たら、私は木になろう」
え、と呟いて見上げると、アーヴィンは優しい笑みを浮かべている。
「鳥になったローゼの目印となれるように」
ぽかんと口を開けたローゼは、やがて自分の顔に血がのぼるのが分かる。顔が笑みの形を作り、思わず大きな声が出た。
「素敵! その時は、うんと高い木になってね! あたしがどこにいても見えるくらいの!」
明るく笑って、アーヴィンがローゼを抱く腕に力を籠める。彼の腕の中、ローゼの脳裏に浮かぶのはいつか見た鳥の姿だ。
神殿から。大神殿から。大切な手紙を預かり、強靭な翼で遠くの地を目指して空を翔ける鳥。
地を行くローゼたちにとって遠い場所が、空の鳥にはずっと近い場所にある。――ならば。
「あたし、東の国のシャナツまでだってあっという間に行けるくらい、早く飛べる鳥になるわ。大陸中を巡って、色んな所を見て。戻ってきたら、木になったアーヴィンの枝に止まって、たくさん話をしてあげる」
「それは楽しみだ」
「でしょ? で、小さな精霊たちが魔物に襲われて困ってたら助けてあげるのよ。だってあたしは主なんだもの。――でも、あたしが黒く染まったり、アーヴィンが黒く染まったりしたら、今度はレオンに助けてもらうわ」
【……俺?】
「そう。鳥になったあたしなら、大陸のどこにレオンがいても探せるもの」
腰に顔を向けたローゼは、諭すような声で続ける。
「でもね、あたしの時みたいに『エルゼの子孫にあたるまで何百年も待つ』なんてワガママ言ったら駄目よ? どの国の人だっていいから、ちゃんと主を選んでよね。そうじゃないとあたし、聖剣に浄化してもらえなくて困るんだから」
【……お前は……】
レオンの声は戸惑う調子だ。
【俺に怒ってるんじゃないのか?】
「怒る? どうして?」
【……俺がお前を選んだから、お前は神の理から外れることになったわけで……】
「あー、なんか静かだと思ったら、それで黙ってたの? やーね、別に怒ってないわ」
アーヴィンの背から左手を外し、ローゼは聖剣をぽんと叩く。
「そりゃ確かに衝撃は大きかったけど……でも北方に生まれてたら、逆にあたしは大喜びだったわけでしょ? だから精霊になるのはきっと悪いことじゃないのよ。それに、レオンもアーヴィンもいるんだし、全然構わないわ」
【お前の家族や友人とは会えなくなるんだぞ】
「会えるわ」
ローゼは聖剣に笑ってみせる。
「あたしが天に行けなくたって、みんなは人として生まれてくる。地上で一緒に生きるんだもの、みんなとだってまた会えるのよ!」
【……そうか。……だとしたら俺もお前たちに会えたわけだし……そうだな……】
一度言葉を区切り、レオンは深く息を吐く。
【俺は、精霊になって良かった】
彼は言葉を噛みしめるかのように――己に言い聞かせるかのように、そう呟いた。
『精霊の力を与えられた人の魂は変化する。天のものから地のものになる』
『精霊になると、もう天へは戻れない』
(もう、天へは戻れない……)
ローゼは両の拳を握りしめた。
(あたしは、神の下へ戻れない……)
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その中でも人として生まれることが許されるのは、特に強く優れた魂だけだった。
(地上にいる人たちは、全員が優れた魂の持ち主。だから死んでもまた人として生まれてこられるって……)
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眷属になるともう地上に降りる必要は無い。いずれ起きる光と闇の戦いの日まで、神の傍近くで侍るのだ。
ウォルス教の聖典にはそう書かれている。
大陸にある宗教は基本的にウォルス教ただひとつ。つまりこれは大陸中の誰もが知っていること。もちろんローゼの日常にも、心の中にも、当たり前のようにこの教えがある。決められた日に神殿へ通い、神官が読む聖典の言葉に耳を傾け、唱和してきたのだから。
(だけどあたしは、もう、他の皆と一緒にはなれない)
村の乙女の会でディアナを始めとする友人たちと「また生まれてきたら次も友達でいようね」と笑い合ったことがある。
彼女たちはまた人として生まれてくる。しかしその中にローゼが交ざることは、もう、ない。
(あたしは今後、人として生まれることができないから)
信じていた世界が崩れたローゼは、自分ひとりが神に見放されたような気分になった。
目の前が暗くなってよろめいた時、ローゼを誰かが掴み、温かく包んでくれる。
見上げると、そこには穏やかな光があった。
途端にローゼは思い出す。
この大陸には少なくとも、ウォルス教以外にもうひとつ宗教があることを。
「……ねえ、アーヴィン。北方では死後、人はどういう風になるって言われてるの?」
ローゼの声はまだ震えていた。
対してローゼを抱くアーヴィンは、しっかりとした、揺らぐことのない声で答える。
「人はまた人として生まれてくると言われている。ウォルス教と同じだ。――ただし、ウォルス教とは少し様相が違う」
顔を上げたアーヴィンは、聖典を読む時のような低く通る声で歌う。
「肉体を失くした魂は、地に留まれず天へ行く。輝く天を見渡して、魂は地へと視線を落とす。自然あふれる地を望み見て、魂は天でただ嘆く。――地に留まり続けることができれば良いのにと」
ローゼは新たな見解を聞いて目を見開いた。
ウォルス教と北方とでは、天と地に対しての考え方が違うようだ。
「北方では天よりも地を尊ぶ。だからこそ、精霊に選ばれて永久に地へ留まることは、北方の人たちにとって幸せなことなんだ」
ローゼの頬を、微笑むアーヴィンがそっと撫でる。
「昔の私は、天に焦がれる人がいるなんて想像もしていなかった。大神殿へ行ってウォルス教の聖典を読んだ時は本当に驚いたよ」
「……今のあたしと逆ね」
衝撃が去ると、ローゼには考える力が戻ってくる。
結局、人に分かるのは今生きているこの時のことだけ。
神も精霊もいるとは分かっていても、死後のことですら判然としない。
「……人が死んだあとって、本当はどうなってるんだろう」
「分からない。ただ、伝わっている事柄に間違いはないのだろうとは思うよ」
「『人の魂は元々天に在って、肉体を得ると地上に降りる』ってこと?」
「そう。ただきっと、分かっているのはそこまでなんだ」
精霊の力を持つ神官はローゼに顔を向け、しかしどこも見ていないような瞳で話を続ける。
「ウォルス教の言う通り、人の魂はいずれ神の眷属になるのかもしれないし、北方の教えの通り、地上で精霊になることだってある。ならば後は『どちらを望むのか』ということだけなのかもしれないし、あるいは……」
先をアーヴィンが言うことはなかった。
ローゼは首を傾げながらも、気になった言葉を繰り返す。
「どちらを望むのか……あたしはずっとウォルス教と一緒に生きてきたから、他の考えなんて想像もしなかった。でも確かに、違う考えがあるなら……」
深く息を吐き、ローゼは肩の力を抜いた。
「……精霊って丸い銀の光をしてるでしょ? なのに銀狼が狼で、木に宿る前の大精霊が人の姿だったのはどうして?」
「主になった時の姿は、その精霊にとって思い入れの深いものの姿だと言われている。大半は元々の生命の姿だそうだよ。と言っても彼らに元の生命の記憶があるわけではないから、伝承でしかないが」
「そっか」
ようやく周囲を見る余裕ができ、ローゼはまた壁の絵に目を留める。
「だったら、あたしが本当に精霊になって、長く生きて、いつか主になる日がきたら……人じゃなくて、鳥の姿になりたいな」
「鳥に?」
「うん。……ねえ、アーヴィン。この絵は何?」
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「ああ、こちらの絵はね。ラウル閣下がご自身で描かれ、執務室の机の上に飾っておられたものだ。閣下は『もうひとりの公爵を描いた』とのお言葉を残されているよ」
「もうひとりの公爵?」
思わず上げた声は怪訝そうなものになった。
「どういうこと? だって、描かれてるのは」
アーヴィンから体を離し、ローゼは絵の傍まで行く。まじまじと眺め、躊躇いながら口に出した。
「……鳥、なのに?」
片手ほどの大きさの紙に描かれていたのは、黄金色の羽を持つ1羽の小鳥。
どう見ても、人が描かれている様子はない。
首を捻るローゼの背後からは、穏やかな声が聞こえる。
「『閣下にとっては人とも思えるほどに大切な鳥だったのだろう』というのが通説だね。――これは、アストラでラウル閣下が共に時を過ごした小鳥だ」
「アストラ? イリオスじゃなくて?」
「王都アストラの方だよ」
ローゼの左に立ったアーヴィンは、絵に目線を向けながら口を開く。
「セルジュ王の妃は……つまりラウル閣下の母君は、アストランの王女だった。この北の小国がアストランに攻め落とされた後、13歳だったラウル閣下は10歳になる妹のミネット嬢と共に母君に連れられ、アストラで8年の時を過ごされることになる。――その後、華やかな暮らしを好んだミネット嬢はアストラに残ったが、ラウル閣下はずっと北の地をお忘れでなかった」
この小鳥は、と言いながらアーヴィンは絵を示す。
「王都におられる閣下のお心を8年の間お慰めしていたそうだ。とても綺麗な声で歌う、黄金色の小鳥だったそうだよ」
「そっか。……暖かい王都から北方へ来たんだもの、気温の差に小鳥はびっくりしたかもね」
「いや。閣下は小鳥を北方に連れて来ず、王都に残したままお戻りになった」
「え、なにそれ! 小鳥は王都へ置き去りってこと?」
非難がましい口調で横のアーヴィンを睨みつけたローゼだが、彼は気を悪くした様子もなく穏やかな声色のままで話す。
「置き去りというわけではないと思うよ。ラウル閣下は『鳥籠の中に残しておきたくなかったが、どうしても連れてくることができなかった』とだけ仰ったそうだ」
「連れてくることができなかった?」
アーヴィンの言葉を聞き、ローゼは視線に籠めた力をほんの少し緩ませる。
「本当は、連れてきたかったの?」
「おそらく。――執務室でラウル閣下はこの絵によく話しかけておられたらしい。普段は横の肖像画のように厳めしい顔をされている方だが、絵に話をする時だけはとても優しい表情だった、と伝わっているんだ」
アーヴィンの声が優しくて、ローゼは少しだけ慰められたような気持ちになる。
「……じゃあ、ラウル様と小鳥は仲良しだったのかな」
「私はそう思っているよ」
「……そっか……だったら、王都に残された小鳥も、本当はラウル様と一緒に北方へ来たかったよね。……誰か鳥籠を開けてくれる人さえいたら、小鳥は北まで飛んだかもしれないね」
王都アストラから北の都市イリオスまではかなりの距離がある。鳥籠の中で暮らしていた小さな鳥にとっては果てしなく遠く感じるだろう。
それでもローゼには、開けられた籠から飛び立った小鳥が、懸命に翼をはためかせて北を目指す光景が見えるような気がした。
「北には大精霊の木があるもの。あの高い木ならきっと、空を飛ぶ小鳥の目印になったはずだわ」
大精霊に会うため城からやって来たラウルがある日、枝に止まった黄金の小鳥を見つけることができたとしたら、いったいどれほど喜んだだろうか。
そこまで考え、ローゼは改めて絵に顔を向ける。
(……本当はラウル様も、そんな日が来て欲しいって思ってたんだ)
柔らかい筆致で描かれた絵の中、銀の花が咲く枝に止まった小鳥はくちばしを開いている。その様子は歌っているようにも、周囲の精霊たちと話をしているようにも見えた。
王都へ残したという鳥を、こうして北方の景色の中に描くくらいだ。ラウルは本当にこの鳥を北方へ連れてきたかったのだろう。
だがどうしても願いを叶えることができず、ならばせめて絵の中でだけでも北方に連れてきたい、という気持ちで彼は筆を取ったのかもしれない。
ラウルと小鳥の気持ちを考えて切なくなったローゼの心を読んだかのように、アーヴィンがローゼの背に腕を回してくる。温もりを求めてローゼが寄り添うと、彼は「……そうだな」と穏やかな声で言う。
「ローゼがいつか鳥になる日が来たら、私は木になろう」
え、と呟いて見上げると、アーヴィンは優しい笑みを浮かべている。
「鳥になったローゼの目印となれるように」
ぽかんと口を開けたローゼは、やがて自分の顔に血がのぼるのが分かる。顔が笑みの形を作り、思わず大きな声が出た。
「素敵! その時は、うんと高い木になってね! あたしがどこにいても見えるくらいの!」
明るく笑って、アーヴィンがローゼを抱く腕に力を籠める。彼の腕の中、ローゼの脳裏に浮かぶのはいつか見た鳥の姿だ。
神殿から。大神殿から。大切な手紙を預かり、強靭な翼で遠くの地を目指して空を翔ける鳥。
地を行くローゼたちにとって遠い場所が、空の鳥にはずっと近い場所にある。――ならば。
「あたし、東の国のシャナツまでだってあっという間に行けるくらい、早く飛べる鳥になるわ。大陸中を巡って、色んな所を見て。戻ってきたら、木になったアーヴィンの枝に止まって、たくさん話をしてあげる」
「それは楽しみだ」
「でしょ? で、小さな精霊たちが魔物に襲われて困ってたら助けてあげるのよ。だってあたしは主なんだもの。――でも、あたしが黒く染まったり、アーヴィンが黒く染まったりしたら、今度はレオンに助けてもらうわ」
【……俺?】
「そう。鳥になったあたしなら、大陸のどこにレオンがいても探せるもの」
腰に顔を向けたローゼは、諭すような声で続ける。
「でもね、あたしの時みたいに『エルゼの子孫にあたるまで何百年も待つ』なんてワガママ言ったら駄目よ? どの国の人だっていいから、ちゃんと主を選んでよね。そうじゃないとあたし、聖剣に浄化してもらえなくて困るんだから」
【……お前は……】
レオンの声は戸惑う調子だ。
【俺に怒ってるんじゃないのか?】
「怒る? どうして?」
【……俺がお前を選んだから、お前は神の理から外れることになったわけで……】
「あー、なんか静かだと思ったら、それで黙ってたの? やーね、別に怒ってないわ」
アーヴィンの背から左手を外し、ローゼは聖剣をぽんと叩く。
「そりゃ確かに衝撃は大きかったけど……でも北方に生まれてたら、逆にあたしは大喜びだったわけでしょ? だから精霊になるのはきっと悪いことじゃないのよ。それに、レオンもアーヴィンもいるんだし、全然構わないわ」
【お前の家族や友人とは会えなくなるんだぞ】
「会えるわ」
ローゼは聖剣に笑ってみせる。
「あたしが天に行けなくたって、みんなは人として生まれてくる。地上で一緒に生きるんだもの、みんなとだってまた会えるのよ!」
【……そうか。……だとしたら俺もお前たちに会えたわけだし……そうだな……】
一度言葉を区切り、レオンは深く息を吐く。
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それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。
愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。
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扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。
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