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第4章(後)

余話:ゆるし 3

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 ローゼは自宅の裏口を振り返る。

 居間では「もう遅いから」という理由で酒場へ行くのを止められた男性陣と、ご近所へ話しに行くのを止められた女性陣とが酒盛りをしていることだろう。
 酒盛りの主導は、キラキラと輝く瞳で裏口を示してくれたイレーネだ。

「私に任せて」

 そう言ってくれた彼女に後を託し、ローゼはアーヴィンと共に裏庭へ出て来た。

 おそらく明日からは村中が自分たちの話題でもちきりになるだろう。確かにもう少し――せめて今夜くらいは静かなままでいたかった。

「ごめんね、アーヴィン。変な家族で。気を悪くしてない?」

 グラス村に来て7年ほどとなるアーヴィンは、村人とも慣れ親しんでいる。もちろんローゼの家族のこともよく知っているはずだが、まさか真面目な場面であのように妙な行動をとるとは思わなかったはずだ。

 ローゼが小さな声で言うと、アーヴィンは微笑む。

「気を悪くする理由なんかどこにもないだろう? 明るくて楽しいご家族だ。仲も良くていらっしゃるし、何より」

 アーヴィンは吐息がかかるほど近くに顔を寄せる。

「結婚のお許しを下さった」

 魅力的な低い声を紡いだ唇が、ローゼの唇にわずかに触れて離れる。

「あとは」

 青い衣のアーヴィンは、星空の下で聖剣に向かって膝をついた。

「ローゼと結婚するお許しをいただけますか」
【ここで俺が駄目だと言ったらどうなるんだろうな】
「あたしが一生、レオンを恨むことになるわね」

 ローゼの言葉を聞いたレオンは声を上げて笑う。

【それは困る!】

 次いで彼は真面目な声を出した。

【お前たちは道を選び続けてここまで来た。どうかこれからも――】

 言いかけてレオンはふと言葉を途切れさせ、何事もなかったかのように続ける。

【アーヴィン、俺の娘を頼んだぞ】

 アーヴィンは、はい、と答えて恭しく首を垂れる。
 嬉しげな、そしてほんのわずか哀しげな調子で笑った後、レオンは気配を消した。

 大きく息を吐き、アーヴィンは立ち上がる。
 天を見上げる彼に、ローゼは問いかけた。

「この後はどうするの?」
「神殿へ戻るよ」
「えーと、じゃあ、送って行くわ」

 正直に言えばローゼは、もう少し一緒に居たいのだ。送って行くというのはただの言い訳だった。
 あまり良い言い方ではなかったので断られるかと思ったが、しかしその言葉を聞いたアーヴィンはくすりと笑ってローゼへ顔を向け、右手を差し出す。彼の意図が分からずにローゼがただ見ていると、アーヴィンはわずかに屈み、差し出した右手でローゼの左手を取った。

「右手はレオンのものだからね」

 しゃらりと腕飾りが涼やかな音をたてる中、アーヴィンは歩き出す。手の温もりが嬉しくて、ローゼは頬を緩ませた。

(この人が、あたしの結婚相手)

 裏庭を回り、表へ出て、手を繋いだまま神殿の方へと向かう。
 ローゼは話をするよりも、ふたりでいる感覚をただ楽しみたくて黙って歩いていた。もしかしたらアーヴィンも同じ気分なのだろうか、特に何も話をしない。

 靴音や、風が木を揺らす音を聞いて歩くうち、やがてローゼはふと思った。

(アーヴィンはうちやレオンに挨拶してくれたけど、あたしは挨拶をする相手がいない……)

 あえて言うなら挨拶する相手はリュシーやフロラン、銀狼だろうが、彼らにアーヴィンの行動を束縛するつもりはないはずだ。

 そしてアーヴィンの両親はもういない。

(……もしもアーヴィンのご両親がいらしてたら、あたしは結婚を許してもらえたかな)

 見知らぬ彼の両親に思いを馳せようとして、ローゼは小さく首を振った。

 ――もしも彼の両親が生きていたなら、ローゼは彼に会うことすらできなかったのだ。

 思わずローゼが左手に力を籠めると、横からは笑む気配がした。

「……そうだ、ローゼ」
「ん?」
「手紙を読んだよ」

 途端にローゼの頬には血が上った。

「よ、読んだんだ。あれね、弱音ばっかりで、みっともなかったでしょ? 本当はね。誰にも見せるつもりがなかったものなの。だってほら、中身はその――」

 うつむいてしどろもどろで言うと、アーヴィンの静かな声がする。

「ありがとう」
「え?」

 見上げると、星の柔らかい明かりの下、アーヴィンもまた柔らかい微笑みを浮かべている。

「読ませてくれたおかげで、離れていた間のローゼがどのように過ごしていたのかが良く分かった。それに」

 気が付けば、夜闇の中に白い神殿が大きく見えている。

「大変な日々の中でも、ローゼが私を忘れずにいてくれたことも分かった。――読んだ私がどれほど嬉しかったか、ローゼには分かるだろうか」

 アーヴィンの言葉は問いかける調子ではなかったが、ローゼは答えを返す。

「うーん。ごめんね、良く分からないわ。だってアーヴィンは、あたしの好きな人で……ええと、あたしの心の拠り所だし。だからアーヴィンの言うことは、あたしにとって当たり前のことでしかないっていうか……」

 とりとめもなく言うと、アーヴィンは優しく笑いながら神殿の裏庭に通じる小さな門を開ける。
 ローゼが中に入ると、わずかに遅れてアーヴィンも中に入った。しかし門を閉めたアーヴィンはそのまま動きを止めてしまう。

 背を見つめるローゼが訝しく思い、何があったのかを聞こうとしたところで、アーヴィンはようやく振り返った。

「ローゼ」

 名を呼ぶ彼の表情は穏やかだが、瞳に宿っているのは決意めいたものだ。
 その強い意志に、ローゼは思わずたじろいだ。

「私はね。これからも村でローゼが戻るのを待っている。もちろん他の誰にも心を移すことはないと誓おう」
「アーヴィン?」
「そしてもし、ローゼにどこかで心惹かれる人ができた時は」
「何それ! そんな人できるはずないでしょ!」

 最後まで言わせずにローゼは叫ぶ。
 アーヴィンの両腕を掴み、彼の顔を覗き込んだ。

「あたしたち結婚するのに、なんでそんなこと言うの? アーヴィンはあたしを信じてないの?」

 しかしアーヴィンは穏やかな表情を崩すことなく首を横に振った。

「信じていないわけではないよ。でも世界は広いんだ、ローゼ」
「じゃあどうして? あたしは他の人に惹かれたりしない! 絶対しないわ!」

 悔しくて悲しくてローゼは必死に訴えるが、アーヴィンは変わらぬ様子で続ける。

「今はそう思っていても、この後どうなるかは分からない。ローゼはこれからもたくさんの人に出会うんだ」
「そんなこと言わないでよ、アーヴィン!」
「いいかい、ローゼ。もしも心惹かれる人ができたのなら、隠すことなく正直に教えて欲しい。その時は」
「いや! 聞きたくない!」

 ローゼが大声を上げる中、アーヴィンは続ける。

「その時は、誰がローゼに相応しい相手なのかを、改めて教えてあげよう」

 アーヴィンの声は荒げることもなく静かだ。しかしその声は叫ぶローゼの声よりもしっかりと通り、はっきりと耳朶を打った。
 目を見開くローゼの前でアーヴィンは笑う。

「私は今後、相手が誰であっても絶対に引かない」

 彼が浮かべているのは、今までに見せたことのない、不敵な笑みだった。

「さあ、どうする、ローゼ? 今なら私はまだローゼを解放する。――これが結婚を撤回する最後の機会だ」

 低い声で問われるが、ローゼは確固たる意志を持って口を開く。

「撤回なんかしない」

 アーヴィンの瞳が、闇の中でも分かるほどギラリと輝く。

「あたしはアーヴィンと結婚する」

 ローゼの手の中から、掴んでいたはずの腕がするりと抜け出る。その腕はローゼの背に回り、力強く拘束した。

「後悔しないね?」
「するはずないわ」

 考える間もなく答え、ローゼは微笑む。

「他の誰かに惹かれることなんてないもの。――好きよ、アーヴィン。大好き」

 ローゼの言葉を聞いたアーヴィンもまた微笑む。
 今まで見たことがないほどの狂おしさを窺わせる彼の笑みは、ローゼの心だけでなく、体もぞわりと動かした。

「私もだ。愛しているよ、ローゼ」

 彼の吐息は熱く、灰青の瞳に宿る輝きはまるで燃え盛る炎のようだ。深く長く口づけをしながら、ローゼは灼かれてしまいそうな思いにかられた。

(それでも構わない)

 一度離れた唇は、ローゼが喘ぐような息を吐く間もなくまたすぐに重ねられる。
 少しくらいは上手くなっただろうかとローゼは気になったが、それ以上にただ必死で、彼の様子を探る余裕はまだ生まれそうになかった。

 次に唇を離した時、アーヴィンは体も離した。

 遠ざかる体温を追ってローゼの手は伸ばされようとしたが、なんとか保っている思考の一片が今は彼に触れてはいけないと警告を発し、手はそのまま下ろされる。
 頬を上気させ、目元を赤くし、わずかに潤ませた瞳を向けるアーヴィンは、眩暈がしそうなほどの色気を醸し出している。以前村祭りの前に森で『一晩』の承諾をさせられた時の様子など、児戯に等しい。きっと今の彼に手を伸ばせばただでは済まない。

 だがもしかすると、今のローゼも目の前に立つ彼の状態と似ているのかもしれない。
 アーヴィンもまた熱に浮かされたような表情でローゼへと手を伸ばそうとし、戒めるように途中で拳を握って、腕を下ろす。さらに苦渋に満ちた様子で首を振った後、そのまま顔を背けた。

「……今日はもうお帰り。レオンがいるから、家までの道も平気だね?」
「アーヴィンは来てくれないの?」
「私は……ごめん、今は無理だ。ローゼの家まで送ることができない」

 囁くかのような掠れた声を聞いて、ローゼの思いが溢れる。

「そう。じゃあ……」

 決意を籠め、ローゼは唇を開く。気持ちの方が勝ってしまった今、警告はなんの役にも立たない。

「送らなくていいわ」

 ローゼの言葉を聞き、アーヴィンは身を震わせる。

「送らなくていい」

 自分にも艶のある甘い声が出せることを、ローゼは今、初めて知った。

「このまま一緒がいい。だって、あたしが村にいる時間は限られてるもの。アーヴィンも前にそう言ったでしょう?」

 アーヴィンは背けていた顔をローゼに向ける。

「……後悔しないね?」

 熱を帯びた声が囁く。
 先ほどと同じ質問に、ローゼは同じ答えを返した。

「するはずないわ」

 ローゼの言葉を聞いたアーヴィンは、背後にある神殿の扉を開き、魅惑的な笑みを浮かべる。
 差し出された手をローゼが強く握ると、彼もまたローゼの手を強く握った。
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