177 / 262
第4章(後)
余話:ゆるし 3
しおりを挟む
ローゼは自宅の裏口を振り返る。
居間では「もう遅いから」という理由で酒場へ行くのを止められた男性陣と、ご近所へ話しに行くのを止められた女性陣とが酒盛りをしていることだろう。
酒盛りの主導は、キラキラと輝く瞳で裏口を示してくれたイレーネだ。
「私に任せて」
そう言ってくれた彼女に後を託し、ローゼはアーヴィンと共に裏庭へ出て来た。
おそらく明日からは村中が自分たちの話題でもちきりになるだろう。確かにもう少し――せめて今夜くらいは静かなままでいたかった。
「ごめんね、アーヴィン。変な家族で。気を悪くしてない?」
グラス村に来て7年ほどとなるアーヴィンは、村人とも慣れ親しんでいる。もちろんローゼの家族のこともよく知っているはずだが、まさか真面目な場面であのように妙な行動をとるとは思わなかったはずだ。
ローゼが小さな声で言うと、アーヴィンは微笑む。
「気を悪くする理由なんかどこにもないだろう? 明るくて楽しいご家族だ。仲も良くていらっしゃるし、何より」
アーヴィンは吐息がかかるほど近くに顔を寄せる。
「結婚のお許しを下さった」
魅力的な低い声を紡いだ唇が、ローゼの唇にわずかに触れて離れる。
「あとは」
青い衣のアーヴィンは、星空の下で聖剣に向かって膝をついた。
「ローゼと結婚するお許しをいただけますか」
【ここで俺が駄目だと言ったらどうなるんだろうな】
「あたしが一生、レオンを恨むことになるわね」
ローゼの言葉を聞いたレオンは声を上げて笑う。
【それは困る!】
次いで彼は真面目な声を出した。
【お前たちは道を選び続けてここまで来た。どうかこれからも――】
言いかけてレオンはふと言葉を途切れさせ、何事もなかったかのように続ける。
【アーヴィン、俺の娘を頼んだぞ】
アーヴィンは、はい、と答えて恭しく首を垂れる。
嬉しげな、そしてほんのわずか哀しげな調子で笑った後、レオンは気配を消した。
大きく息を吐き、アーヴィンは立ち上がる。
天を見上げる彼に、ローゼは問いかけた。
「この後はどうするの?」
「神殿へ戻るよ」
「えーと、じゃあ、送って行くわ」
正直に言えばローゼは、もう少し一緒に居たいのだ。送って行くというのはただの言い訳だった。
あまり良い言い方ではなかったので断られるかと思ったが、しかしその言葉を聞いたアーヴィンはくすりと笑ってローゼへ顔を向け、右手を差し出す。彼の意図が分からずにローゼがただ見ていると、アーヴィンはわずかに屈み、差し出した右手でローゼの左手を取った。
「右手はレオンのものだからね」
しゃらりと腕飾りが涼やかな音をたてる中、アーヴィンは歩き出す。手の温もりが嬉しくて、ローゼは頬を緩ませた。
(この人が、あたしの結婚相手)
裏庭を回り、表へ出て、手を繋いだまま神殿の方へと向かう。
ローゼは話をするよりも、ふたりでいる感覚をただ楽しみたくて黙って歩いていた。もしかしたらアーヴィンも同じ気分なのだろうか、特に何も話をしない。
靴音や、風が木を揺らす音を聞いて歩くうち、やがてローゼはふと思った。
(アーヴィンはうちやレオンに挨拶してくれたけど、あたしは挨拶をする相手がいない……)
あえて言うなら挨拶する相手はリュシーやフロラン、銀狼だろうが、彼らにアーヴィンの行動を束縛するつもりはないはずだ。
そしてアーヴィンの両親はもういない。
(……もしもアーヴィンのご両親がいらしてたら、あたしは結婚を許してもらえたかな)
見知らぬ彼の両親に思いを馳せようとして、ローゼは小さく首を振った。
――もしも彼の両親が生きていたなら、ローゼは彼に会うことすらできなかったのだ。
思わずローゼが左手に力を籠めると、横からは笑む気配がした。
「……そうだ、ローゼ」
「ん?」
「手紙を読んだよ」
途端にローゼの頬には血が上った。
「よ、読んだんだ。あれね、弱音ばっかりで、みっともなかったでしょ? 本当はね。誰にも見せるつもりがなかったものなの。だってほら、中身はその――」
うつむいてしどろもどろで言うと、アーヴィンの静かな声がする。
「ありがとう」
「え?」
見上げると、星の柔らかい明かりの下、アーヴィンもまた柔らかい微笑みを浮かべている。
「読ませてくれたおかげで、離れていた間のローゼがどのように過ごしていたのかが良く分かった。それに」
気が付けば、夜闇の中に白い神殿が大きく見えている。
「大変な日々の中でも、ローゼが私を忘れずにいてくれたことも分かった。――読んだ私がどれほど嬉しかったか、ローゼには分かるだろうか」
アーヴィンの言葉は問いかける調子ではなかったが、ローゼは答えを返す。
「うーん。ごめんね、良く分からないわ。だってアーヴィンは、あたしの好きな人で……ええと、あたしの心の拠り所だし。だからアーヴィンの言うことは、あたしにとって当たり前のことでしかないっていうか……」
とりとめもなく言うと、アーヴィンは優しく笑いながら神殿の裏庭に通じる小さな門を開ける。
ローゼが中に入ると、わずかに遅れてアーヴィンも中に入った。しかし門を閉めたアーヴィンはそのまま動きを止めてしまう。
背を見つめるローゼが訝しく思い、何があったのかを聞こうとしたところで、アーヴィンはようやく振り返った。
「ローゼ」
名を呼ぶ彼の表情は穏やかだが、瞳に宿っているのは決意めいたものだ。
その強い意志に、ローゼは思わずたじろいだ。
「私はね。これからも村でローゼが戻るのを待っている。もちろん他の誰にも心を移すことはないと誓おう」
「アーヴィン?」
「そしてもし、ローゼにどこかで心惹かれる人ができた時は」
「何それ! そんな人できるはずないでしょ!」
最後まで言わせずにローゼは叫ぶ。
アーヴィンの両腕を掴み、彼の顔を覗き込んだ。
「あたしたち結婚するのに、なんでそんなこと言うの? アーヴィンはあたしを信じてないの?」
しかしアーヴィンは穏やかな表情を崩すことなく首を横に振った。
「信じていないわけではないよ。でも世界は広いんだ、ローゼ」
「じゃあどうして? あたしは他の人に惹かれたりしない! 絶対しないわ!」
悔しくて悲しくてローゼは必死に訴えるが、アーヴィンは変わらぬ様子で続ける。
「今はそう思っていても、この後どうなるかは分からない。ローゼはこれからもたくさんの人に出会うんだ」
「そんなこと言わないでよ、アーヴィン!」
「いいかい、ローゼ。もしも心惹かれる人ができたのなら、隠すことなく正直に教えて欲しい。その時は」
「いや! 聞きたくない!」
ローゼが大声を上げる中、アーヴィンは続ける。
「その時は、誰がローゼに相応しい相手なのかを、改めて教えてあげよう」
アーヴィンの声は荒げることもなく静かだ。しかしその声は叫ぶローゼの声よりもしっかりと通り、はっきりと耳朶を打った。
目を見開くローゼの前でアーヴィンは笑う。
「私は今後、相手が誰であっても絶対に引かない」
彼が浮かべているのは、今までに見せたことのない、不敵な笑みだった。
「さあ、どうする、ローゼ? 今なら私はまだローゼを解放する。――これが結婚を撤回する最後の機会だ」
低い声で問われるが、ローゼは確固たる意志を持って口を開く。
「撤回なんかしない」
アーヴィンの瞳が、闇の中でも分かるほどギラリと輝く。
「あたしはアーヴィンと結婚する」
ローゼの手の中から、掴んでいたはずの腕がするりと抜け出る。その腕はローゼの背に回り、力強く拘束した。
「後悔しないね?」
「するはずないわ」
考える間もなく答え、ローゼは微笑む。
「他の誰かに惹かれることなんてないもの。――好きよ、アーヴィン。大好き」
ローゼの言葉を聞いたアーヴィンもまた微笑む。
今まで見たことがないほどの狂おしさを窺わせる彼の笑みは、ローゼの心だけでなく、体もぞわりと動かした。
「私もだ。愛しているよ、ローゼ」
彼の吐息は熱く、灰青の瞳に宿る輝きはまるで燃え盛る炎のようだ。深く長く口づけをしながら、ローゼは灼かれてしまいそうな思いにかられた。
(それでも構わない)
一度離れた唇は、ローゼが喘ぐような息を吐く間もなくまたすぐに重ねられる。
少しくらいは上手くなっただろうかとローゼは気になったが、それ以上にただ必死で、彼の様子を探る余裕はまだ生まれそうになかった。
次に唇を離した時、アーヴィンは体も離した。
遠ざかる体温を追ってローゼの手は伸ばされようとしたが、なんとか保っている思考の一片が今は彼に触れてはいけないと警告を発し、手はそのまま下ろされる。
頬を上気させ、目元を赤くし、わずかに潤ませた瞳を向けるアーヴィンは、眩暈がしそうなほどの色気を醸し出している。以前村祭りの前に森で『一晩』の承諾をさせられた時の様子など、児戯に等しい。きっと今の彼に手を伸ばせばただでは済まない。
だがもしかすると、今のローゼも目の前に立つ彼の状態と似ているのかもしれない。
アーヴィンもまた熱に浮かされたような表情でローゼへと手を伸ばそうとし、戒めるように途中で拳を握って、腕を下ろす。さらに苦渋に満ちた様子で首を振った後、そのまま顔を背けた。
「……今日はもうお帰り。レオンがいるから、家までの道も平気だね?」
「アーヴィンは来てくれないの?」
「私は……ごめん、今は無理だ。ローゼの家まで送ることができない」
囁くかのような掠れた声を聞いて、ローゼの思いが溢れる。
「そう。じゃあ……」
決意を籠め、ローゼは唇を開く。気持ちの方が勝ってしまった今、警告はなんの役にも立たない。
「送らなくていいわ」
ローゼの言葉を聞き、アーヴィンは身を震わせる。
「送らなくていい」
自分にも艶のある甘い声が出せることを、ローゼは今、初めて知った。
「このまま一緒がいい。だって、あたしが村にいる時間は限られてるもの。アーヴィンも前にそう言ったでしょう?」
アーヴィンは背けていた顔をローゼに向ける。
「……後悔しないね?」
熱を帯びた声が囁く。
先ほどと同じ質問に、ローゼは同じ答えを返した。
「するはずないわ」
ローゼの言葉を聞いたアーヴィンは、背後にある神殿の扉を開き、魅惑的な笑みを浮かべる。
差し出された手をローゼが強く握ると、彼もまたローゼの手を強く握った。
居間では「もう遅いから」という理由で酒場へ行くのを止められた男性陣と、ご近所へ話しに行くのを止められた女性陣とが酒盛りをしていることだろう。
酒盛りの主導は、キラキラと輝く瞳で裏口を示してくれたイレーネだ。
「私に任せて」
そう言ってくれた彼女に後を託し、ローゼはアーヴィンと共に裏庭へ出て来た。
おそらく明日からは村中が自分たちの話題でもちきりになるだろう。確かにもう少し――せめて今夜くらいは静かなままでいたかった。
「ごめんね、アーヴィン。変な家族で。気を悪くしてない?」
グラス村に来て7年ほどとなるアーヴィンは、村人とも慣れ親しんでいる。もちろんローゼの家族のこともよく知っているはずだが、まさか真面目な場面であのように妙な行動をとるとは思わなかったはずだ。
ローゼが小さな声で言うと、アーヴィンは微笑む。
「気を悪くする理由なんかどこにもないだろう? 明るくて楽しいご家族だ。仲も良くていらっしゃるし、何より」
アーヴィンは吐息がかかるほど近くに顔を寄せる。
「結婚のお許しを下さった」
魅力的な低い声を紡いだ唇が、ローゼの唇にわずかに触れて離れる。
「あとは」
青い衣のアーヴィンは、星空の下で聖剣に向かって膝をついた。
「ローゼと結婚するお許しをいただけますか」
【ここで俺が駄目だと言ったらどうなるんだろうな】
「あたしが一生、レオンを恨むことになるわね」
ローゼの言葉を聞いたレオンは声を上げて笑う。
【それは困る!】
次いで彼は真面目な声を出した。
【お前たちは道を選び続けてここまで来た。どうかこれからも――】
言いかけてレオンはふと言葉を途切れさせ、何事もなかったかのように続ける。
【アーヴィン、俺の娘を頼んだぞ】
アーヴィンは、はい、と答えて恭しく首を垂れる。
嬉しげな、そしてほんのわずか哀しげな調子で笑った後、レオンは気配を消した。
大きく息を吐き、アーヴィンは立ち上がる。
天を見上げる彼に、ローゼは問いかけた。
「この後はどうするの?」
「神殿へ戻るよ」
「えーと、じゃあ、送って行くわ」
正直に言えばローゼは、もう少し一緒に居たいのだ。送って行くというのはただの言い訳だった。
あまり良い言い方ではなかったので断られるかと思ったが、しかしその言葉を聞いたアーヴィンはくすりと笑ってローゼへ顔を向け、右手を差し出す。彼の意図が分からずにローゼがただ見ていると、アーヴィンはわずかに屈み、差し出した右手でローゼの左手を取った。
「右手はレオンのものだからね」
しゃらりと腕飾りが涼やかな音をたてる中、アーヴィンは歩き出す。手の温もりが嬉しくて、ローゼは頬を緩ませた。
(この人が、あたしの結婚相手)
裏庭を回り、表へ出て、手を繋いだまま神殿の方へと向かう。
ローゼは話をするよりも、ふたりでいる感覚をただ楽しみたくて黙って歩いていた。もしかしたらアーヴィンも同じ気分なのだろうか、特に何も話をしない。
靴音や、風が木を揺らす音を聞いて歩くうち、やがてローゼはふと思った。
(アーヴィンはうちやレオンに挨拶してくれたけど、あたしは挨拶をする相手がいない……)
あえて言うなら挨拶する相手はリュシーやフロラン、銀狼だろうが、彼らにアーヴィンの行動を束縛するつもりはないはずだ。
そしてアーヴィンの両親はもういない。
(……もしもアーヴィンのご両親がいらしてたら、あたしは結婚を許してもらえたかな)
見知らぬ彼の両親に思いを馳せようとして、ローゼは小さく首を振った。
――もしも彼の両親が生きていたなら、ローゼは彼に会うことすらできなかったのだ。
思わずローゼが左手に力を籠めると、横からは笑む気配がした。
「……そうだ、ローゼ」
「ん?」
「手紙を読んだよ」
途端にローゼの頬には血が上った。
「よ、読んだんだ。あれね、弱音ばっかりで、みっともなかったでしょ? 本当はね。誰にも見せるつもりがなかったものなの。だってほら、中身はその――」
うつむいてしどろもどろで言うと、アーヴィンの静かな声がする。
「ありがとう」
「え?」
見上げると、星の柔らかい明かりの下、アーヴィンもまた柔らかい微笑みを浮かべている。
「読ませてくれたおかげで、離れていた間のローゼがどのように過ごしていたのかが良く分かった。それに」
気が付けば、夜闇の中に白い神殿が大きく見えている。
「大変な日々の中でも、ローゼが私を忘れずにいてくれたことも分かった。――読んだ私がどれほど嬉しかったか、ローゼには分かるだろうか」
アーヴィンの言葉は問いかける調子ではなかったが、ローゼは答えを返す。
「うーん。ごめんね、良く分からないわ。だってアーヴィンは、あたしの好きな人で……ええと、あたしの心の拠り所だし。だからアーヴィンの言うことは、あたしにとって当たり前のことでしかないっていうか……」
とりとめもなく言うと、アーヴィンは優しく笑いながら神殿の裏庭に通じる小さな門を開ける。
ローゼが中に入ると、わずかに遅れてアーヴィンも中に入った。しかし門を閉めたアーヴィンはそのまま動きを止めてしまう。
背を見つめるローゼが訝しく思い、何があったのかを聞こうとしたところで、アーヴィンはようやく振り返った。
「ローゼ」
名を呼ぶ彼の表情は穏やかだが、瞳に宿っているのは決意めいたものだ。
その強い意志に、ローゼは思わずたじろいだ。
「私はね。これからも村でローゼが戻るのを待っている。もちろん他の誰にも心を移すことはないと誓おう」
「アーヴィン?」
「そしてもし、ローゼにどこかで心惹かれる人ができた時は」
「何それ! そんな人できるはずないでしょ!」
最後まで言わせずにローゼは叫ぶ。
アーヴィンの両腕を掴み、彼の顔を覗き込んだ。
「あたしたち結婚するのに、なんでそんなこと言うの? アーヴィンはあたしを信じてないの?」
しかしアーヴィンは穏やかな表情を崩すことなく首を横に振った。
「信じていないわけではないよ。でも世界は広いんだ、ローゼ」
「じゃあどうして? あたしは他の人に惹かれたりしない! 絶対しないわ!」
悔しくて悲しくてローゼは必死に訴えるが、アーヴィンは変わらぬ様子で続ける。
「今はそう思っていても、この後どうなるかは分からない。ローゼはこれからもたくさんの人に出会うんだ」
「そんなこと言わないでよ、アーヴィン!」
「いいかい、ローゼ。もしも心惹かれる人ができたのなら、隠すことなく正直に教えて欲しい。その時は」
「いや! 聞きたくない!」
ローゼが大声を上げる中、アーヴィンは続ける。
「その時は、誰がローゼに相応しい相手なのかを、改めて教えてあげよう」
アーヴィンの声は荒げることもなく静かだ。しかしその声は叫ぶローゼの声よりもしっかりと通り、はっきりと耳朶を打った。
目を見開くローゼの前でアーヴィンは笑う。
「私は今後、相手が誰であっても絶対に引かない」
彼が浮かべているのは、今までに見せたことのない、不敵な笑みだった。
「さあ、どうする、ローゼ? 今なら私はまだローゼを解放する。――これが結婚を撤回する最後の機会だ」
低い声で問われるが、ローゼは確固たる意志を持って口を開く。
「撤回なんかしない」
アーヴィンの瞳が、闇の中でも分かるほどギラリと輝く。
「あたしはアーヴィンと結婚する」
ローゼの手の中から、掴んでいたはずの腕がするりと抜け出る。その腕はローゼの背に回り、力強く拘束した。
「後悔しないね?」
「するはずないわ」
考える間もなく答え、ローゼは微笑む。
「他の誰かに惹かれることなんてないもの。――好きよ、アーヴィン。大好き」
ローゼの言葉を聞いたアーヴィンもまた微笑む。
今まで見たことがないほどの狂おしさを窺わせる彼の笑みは、ローゼの心だけでなく、体もぞわりと動かした。
「私もだ。愛しているよ、ローゼ」
彼の吐息は熱く、灰青の瞳に宿る輝きはまるで燃え盛る炎のようだ。深く長く口づけをしながら、ローゼは灼かれてしまいそうな思いにかられた。
(それでも構わない)
一度離れた唇は、ローゼが喘ぐような息を吐く間もなくまたすぐに重ねられる。
少しくらいは上手くなっただろうかとローゼは気になったが、それ以上にただ必死で、彼の様子を探る余裕はまだ生まれそうになかった。
次に唇を離した時、アーヴィンは体も離した。
遠ざかる体温を追ってローゼの手は伸ばされようとしたが、なんとか保っている思考の一片が今は彼に触れてはいけないと警告を発し、手はそのまま下ろされる。
頬を上気させ、目元を赤くし、わずかに潤ませた瞳を向けるアーヴィンは、眩暈がしそうなほどの色気を醸し出している。以前村祭りの前に森で『一晩』の承諾をさせられた時の様子など、児戯に等しい。きっと今の彼に手を伸ばせばただでは済まない。
だがもしかすると、今のローゼも目の前に立つ彼の状態と似ているのかもしれない。
アーヴィンもまた熱に浮かされたような表情でローゼへと手を伸ばそうとし、戒めるように途中で拳を握って、腕を下ろす。さらに苦渋に満ちた様子で首を振った後、そのまま顔を背けた。
「……今日はもうお帰り。レオンがいるから、家までの道も平気だね?」
「アーヴィンは来てくれないの?」
「私は……ごめん、今は無理だ。ローゼの家まで送ることができない」
囁くかのような掠れた声を聞いて、ローゼの思いが溢れる。
「そう。じゃあ……」
決意を籠め、ローゼは唇を開く。気持ちの方が勝ってしまった今、警告はなんの役にも立たない。
「送らなくていいわ」
ローゼの言葉を聞き、アーヴィンは身を震わせる。
「送らなくていい」
自分にも艶のある甘い声が出せることを、ローゼは今、初めて知った。
「このまま一緒がいい。だって、あたしが村にいる時間は限られてるもの。アーヴィンも前にそう言ったでしょう?」
アーヴィンは背けていた顔をローゼに向ける。
「……後悔しないね?」
熱を帯びた声が囁く。
先ほどと同じ質問に、ローゼは同じ答えを返した。
「するはずないわ」
ローゼの言葉を聞いたアーヴィンは、背後にある神殿の扉を開き、魅惑的な笑みを浮かべる。
差し出された手をローゼが強く握ると、彼もまたローゼの手を強く握った。
0
お気に入りに追加
91
あなたにおすすめの小説
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
最後に言い残した事は
白羽鳥(扇つくも)
ファンタジー
どうして、こんな事になったんだろう……
断頭台の上で、元王妃リテラシーは呆然と己を罵倒する民衆を見下ろしていた。世界中から尊敬を集めていた宰相である父の暗殺。全てが狂い出したのはそこから……いや、もっと前だったかもしれない。
本日、リテラシーは公開処刑される。家族ぐるみで悪魔崇拝を行っていたという謂れなき罪のために王妃の位を剥奪され、邪悪な魔女として。
「最後に、言い残した事はあるか?」
かつての夫だった若き国王の言葉に、リテラシーは父から教えられていた『呪文』を発する。
※ファンタジーです。ややグロ表現注意。
※「小説家になろう」にも掲載。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
【完】愛していますよ。だから幸せになってくださいね!
さこの
恋愛
「僕の事愛してる?」
「はい、愛しています」
「ごめん。僕は……婚約が決まりそうなんだ、何度も何度も説得しようと試みたけれど、本当にごめん」
「はい。その件はお聞きしました。どうかお幸せになってください」
「え……?」
「さようなら、どうかお元気で」
愛しているから身を引きます。
*全22話【執筆済み】です( .ˬ.)"
ホットランキング入りありがとうございます
2021/09/12
※頂いた感想欄にはネタバレが含まれていますので、ご覧の際にはお気をつけください!
2021/09/20
愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。
石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。
ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。
それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。
愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。
【完結】烏公爵の後妻〜旦那様は亡き前妻を想い、一生喪に服すらしい〜
七瀬菜々
恋愛
------ウィンターソン公爵の元に嫁ぎなさい。
ある日突然、兄がそう言った。
魔力がなく魔術師にもなれなければ、女というだけで父と同じ医者にもなれないシャロンは『自分にできることは家のためになる結婚をすること』と、日々婚活を頑張っていた。
しかし、表情を作ることが苦手な彼女の婚活はそううまくいくはずも無く…。
そろそろ諦めて修道院にで入ろうかと思っていた矢先、突然にウィンターソン公爵との縁談が持ち上がる。
ウィンターソン公爵といえば、亡き妻エミリアのことが忘れられず、5年間ずっと喪に服したままで有名な男だ。
前妻を今でも愛している公爵は、シャロンに対して予め『自分に愛されないことを受け入れろ』という誓約書を書かせるほどに徹底していた。
これはそんなウィンターソン公爵の後妻シャロンの愛されないはずの結婚の物語である。
※基本的にちょっと残念な夫婦のお話です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる