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第4章(後)
余話:ゆるし 1
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(夕刻……)
自宅前の道で、ローゼは空を見上げた。
今日は天気が良かった。セラータのような美しい茜色に染まった空は今、端にほんのり藍色の姿も見せている。
『明日の夕刻に伺うと伝えておいて欲しい』
昨日聞いた穏やかな声を思い出しながら、ローゼは頬をほころばせた。
神殿の開門や閉門は時刻が決まっている。町のように大きな場所では時刻に合わせてきっちりしているのだが、小さな村では時刻よりも日の出や日の入りを基準にしているところも多い。
それというのも村人たちが日の傾き加減で仕事時間を、つまりは出歩く時間を決めているせいだった。
グラス村もまた、時刻より日の状態を重視している。夕刻を指定したのだから、アーヴィンは閉門までの残る短い時間を神官補佐たちに任せることにしたのだろう。だとすれば今はもう神殿を出ている頃かもしれない。
(早く来ないかな)
自宅の石壁に寄りかかったローゼが小さな声で歌いながら道の先を眺めていると、腰の黒い鞘からくすくすと笑う声がした。
歌を止め、それでも道の先から視線を外さず、ローゼはレオンに向かって言う。
「なに笑ってるのよ、レオン」
【いや。ずいぶん楽しそうだと思ってな】
「待ってるだけなんだから、楽しいわけないでしょ」
しかしこれっぽっちも機嫌の悪さがない今、言葉の内容とは裏腹に口調にはまったく棘が無い。
【そうか? 俺には楽しそうにしか見えないぞ。なにせ今日あいつと会うのは初めてだもんな】
もちろんレオンにはそのことが伝わっているのだろう。揶揄する彼の声からは明るい様子しか感じられなかった。
うう、と小さくうなるが、ローゼは反論の言葉を思いつかない。確かに今日、彼と会うのは初めてなのだ。
昨日は再度ふたりきりになって後、思ったより時間を置かずに、町から来た神官補佐が夕食の支度を終えて呼びに来た。
いや、その頃にはベアトリクスを自宅へ送った町の副神官が神殿へ戻ってきていたのだから、もしかすると意外に時間は経っていたのかもしれない。
4人で食卓を囲み、食事を終えて少し南方の話をした後、ローゼは星が瞬く中をアーヴィンに送られて自宅へ戻った。
「また明日に伺うよ」
言って軽い口づけをくれたのを最後に、アーヴィンには会っていない。
もちろん神殿へ行けば会えるのだが、アーヴィンには村の神官としての業務がある。いくら神殿関係者になったとはいえ、ローゼにできるのは魔物に関わることだけだ。無駄に顔を出してアーヴィンや神官補佐たちの邪魔をするわけにはいかない。
代わりに今日はディアナを始めとする友人の家へ行っていたのだが、その途中にローゼは意外な人物から声をかけられた。
* * *
「あの……ローゼ」
玲瓏な声に呼ばれて振り返ると、立っていたのはベアトリクスだった。彼女は神官補佐の衣装ではなく、通常の服を着ている。
アーヴィンはローゼがいなかった間の村の話を詳しくしてくれたわけではない。むしろほとんどしなかったと言ってもいいだろう。
だが情報に通じている母から各種の話を聞いたローゼは、アーヴィンとベアトリクス、フォルカーの件についてなんとなく推察することができていた。
わずかに身構えるローゼの前で、ベアトリクスは謝罪の言葉を述べる。
「ごめんなさい、ローゼ。私はアーヴィン様にも、あなたにも、失礼なことをしてしまった」
この1年、各地で様々な人と会ったローゼは感情の読み取りに多少自信がある。
そしてベアトリクスの表情からはローゼを騙そうとする気配を感じなかった。
ほんの少し警戒を解いてローゼは口を開く。
「ベアトリクスは、アーヴィンが好きだったの?」
彼女たちのことは、アーヴィンが話を聞いて何らかの処断を下すはずだ。ローゼの出る幕ではない。ただ、気になっていることだけはと思いながら尋ねると、ベアトリクスはわずかに悩んだ様子を見せた。
「……どうなのかしら。今となっては良く分からないわ」
「今となっては?」
ローゼが問うと、ベアトリクスは寂しげに笑う。
「……私は寝込むことがあるせいで、乙女の会には出られないことも多かったでしょう? そうなると、話題についていけなくて――」
乙女の会に、話題というほど話題があった気はしていないのだが、それはあくまで毎回出席できる上、さほど話題に興味がないローゼの感じたことだ。
ベアトリクスはきっと、そう感じていなかったのだろう。
「でもアーヴィン様のことなら、すぐに皆の話に入れるの。だから最初は、話を合わせるためにアーヴィン様のことを好きだって言っていたのよ。そのうち……」
ベアトリクスは小さく息を吐く。
「……そんなこともあったから、神官補佐としてお近くに行けた時は幸せだったし、村の皆が私とアーヴィン様を噂していると知って嬉しかったわ」
「町の神官との婚約が控えてるっていうのに?」
「ええ」
ローゼの口調は非難がましくなったが、ベアトリクスはただうなずいた。
「皆が『ご結婚をなさらないんじゃないか』と思っていたアーヴィン様の相手は、なんと皆が『結婚できないんじゃないか』と思っていた私だった。いったいあの人たちはどう思ったかしら? ……そんなことを考えるのが、とても楽しかったの」
楽しかったと言いながらも、ベアトリクスの浮かべる笑みは、とても楽しそうには見えない。
「……本当はね。私も正しいことではないと分かっていたの。分かっていたけど、もしかしたら噂が本当になるのではないかしらという期待と、フォルカーのためにもという気持ちがどうしても捨てきれなくて……」
口を閉じるベアトリクスに、ローゼは問いかける。
「町の副神官のことはどうするの?」
「カーシー様には」
名を言われてローゼは昨夜の記憶を引き出す。町の副神官は、カーシー・オルセンと名乗っていた。
「アーヴィン様が町へ向かわれた後に、私がしたこと、知っていることを全部お話したの。その上で婚約を取りやめても構わないと申し上げたのだけれど、あの方は首を縦に振らなかった」
確かに昨夜、彼はベアトリクスを自宅まで送って行っていた。共に食卓を囲んだ際も、彼の口からはベアトリクスへの溢れる好意しか聞くことがなかった。
「こんな私でもいいと仰って下さるのだもの。私は一生、あの方に尽くすつもりよ」
「……ベアトリクスはあの人が好きなの?」
ローゼの問いかけに、ベアトリクスは小さく首をかしげる。
「……やっぱり良く分からないの。でも、アーヴィン様から叱責の言葉を受けた時、浮かんだのはまずあの方のことだったのよ。……どうしよう、カーシー様が幻滅してしまわれるかも、って。その時やっと、自分の行いすべてを後悔したことだけは確か」
「勝手ね」
「そうね。自分でも勝手だと思うわ。……謝って済むことではないけれど、本当にごめんなさい、ローゼ」
深く頭を下げるベアトリクスを見ながら、ローゼは一昨日からのことが頭をよぎって思わず拳を握る。
母に噂を聞き、町へ行き、神殿でアーヴィンとベアトリクスを見た時の衝撃。ヘルムートの屋敷へ行って、広場で結婚を申し込まれ――そして。
次いで屋敷の前で見た、まるで絵のような光景を思い出してローゼは大きく呼吸する。握った拳を開き、胸の前で左手を軽く振った。涼やかなしゃららという音が響く。
「あたしはあんたを許すわ、ベアトリクス」
「……え?」
「あたしは村にいなかったし、そこまで実害を被ったわけじゃないからね。でも」
意外な面持ちで頭を上げるベアトリクスに向かい、ローゼはニヤリと笑った。
「あたしが許したからって、アーヴィンにまで許してもらえると思わない方がいいわ」
「ええ、もちろん」
「それにあたしは取りなしたりもしない。ちゃんとアーヴィンに叱られてよね。もちろん、フォルカーも、よ」
「分かってるわ」
ベアトリクスは強くうなずいた。
とりあえずローゼはベアトリクスは許したが、フォルカーだけは絶対に殴るつもりでいる。しかしそれは今言う必要のないことだろう。
「それじゃ。オルセン神官と仲良くね」
言って高く手を上げると、ベアトリクスは微笑む。
「ありがとう。……ありがとうございます、ローゼ」
それはこの場で会話を始めてから彼女が見せた、初の明るい笑みだった。
* * *
茜色は徐々に少なくなり、代わりに空を藍色が支配していく。
輝き始めた星々の下でローゼが待っていると、曲がり角に人の姿が見えた。わずかに残った光で判別できる髪の色は褐色。もちろん待ち望んでいた人物だ。
もたれていた石壁から身を起こし、ローゼは駆けだす。
「アーヴィン!」
ローゼから見えているのだから、もちろん彼からも見えているはずだ。顔が見えるほど近寄ると、アーヴィンは満面の笑みで両腕を広げる。ローゼは勢いよく彼の腕に飛び込んだ。
「おそーい!」
揺るぐことなくローゼを受け止めたアーヴィンは、ローゼの声を聞いて笑い声をあげる。
「これでも神殿を閉める時刻より、ずっと早く出てきたんだよ」
下ろしたままの赤い髪を撫でるアーヴィンに向けて不満そうな顔を作ろうとしたローゼだが、あっさり失敗する。
――嬉しさしかない今は、どう足掻いても笑み以外の表情を浮かべることができない。
「まあ、しょうがないか。アーヴィンは村で唯一の神官様なんだものね! でも」
身を離し、ローゼはアーヴィンの全身を眺める。
「なんでこの衣装を着てるの?」
アーヴィンの着ている衣は滑らかで上等な布で作られた青色のもの。胸元から足元までは金の糸を使って豪華な刺繍が施されている。
昨年、アレン大神官がグラス村へ来た時や、王都の儀式の際に着ていたものと同じだ。
つまり正装をしなくてはならない事態が起きたのだろうが、今日は特に村で騒ぎが起きていた覚えはない。
不思議に思いながら問いかけると、アーヴィンはローゼの家の方へ視線を向けながら言う。
「さすがに普通の神官服というわけにいかないからね」
「え? もしかして、うちへ挨拶に来るためにこれを着たの?」
うなずくアーヴィンを見て、ローゼは吹き出した。
「アーヴィンったら大げさね! いつもの神官服だって全然構わないのに!」
「そういうわけにはいかないだろう?」
アーヴィンはローゼの頬に触れながら言う。見せている表情は普段通りの穏やかな笑みだが、冷たい手は彼の緊張を表していた。
「大切なご挨拶をするために伺うのだから」
「大切な挨拶?」
確かに今回、家を空けた期間は長かったし、行き先の南では大変な事が起きていた。
しかしもう、ローゼは無事に帰還しているのだ。アーヴィンが家族に何がしかの挨拶をする必要があるとすら思えないローゼには、彼がそこまで畏まる理由も分からない。
きょとんとするローゼに、アーヴィンは小さくため息を吐く。
「……まさかとは思ったが、本当に……」
眉を寄せたアーヴィンは手に腰を当てた。
「いいかい、ローゼ。私はね。今からローゼのご家族へ、結婚のお許しをいただきに伺うんだよ」
噛んで含めるような言い方は、子どもを相手にしているようで腹が立つ。しかしそれより、内容の方が衝撃だった。
動きを止めたローゼの横から、どこか納得したような声が聞こえる。
【あぁ、やっぱりか。なんか変だと思ったんだよな】
「思ったのなら、ローゼの勘違いを訂正して下さい」
【甘えるな。そもそもお前がきちんと言えば良かっただけだろうが】
レオンとアーヴィンのやり取りを耳にしながら、ローゼはただ呆然としていた。
自宅前の道で、ローゼは空を見上げた。
今日は天気が良かった。セラータのような美しい茜色に染まった空は今、端にほんのり藍色の姿も見せている。
『明日の夕刻に伺うと伝えておいて欲しい』
昨日聞いた穏やかな声を思い出しながら、ローゼは頬をほころばせた。
神殿の開門や閉門は時刻が決まっている。町のように大きな場所では時刻に合わせてきっちりしているのだが、小さな村では時刻よりも日の出や日の入りを基準にしているところも多い。
それというのも村人たちが日の傾き加減で仕事時間を、つまりは出歩く時間を決めているせいだった。
グラス村もまた、時刻より日の状態を重視している。夕刻を指定したのだから、アーヴィンは閉門までの残る短い時間を神官補佐たちに任せることにしたのだろう。だとすれば今はもう神殿を出ている頃かもしれない。
(早く来ないかな)
自宅の石壁に寄りかかったローゼが小さな声で歌いながら道の先を眺めていると、腰の黒い鞘からくすくすと笑う声がした。
歌を止め、それでも道の先から視線を外さず、ローゼはレオンに向かって言う。
「なに笑ってるのよ、レオン」
【いや。ずいぶん楽しそうだと思ってな】
「待ってるだけなんだから、楽しいわけないでしょ」
しかしこれっぽっちも機嫌の悪さがない今、言葉の内容とは裏腹に口調にはまったく棘が無い。
【そうか? 俺には楽しそうにしか見えないぞ。なにせ今日あいつと会うのは初めてだもんな】
もちろんレオンにはそのことが伝わっているのだろう。揶揄する彼の声からは明るい様子しか感じられなかった。
うう、と小さくうなるが、ローゼは反論の言葉を思いつかない。確かに今日、彼と会うのは初めてなのだ。
昨日は再度ふたりきりになって後、思ったより時間を置かずに、町から来た神官補佐が夕食の支度を終えて呼びに来た。
いや、その頃にはベアトリクスを自宅へ送った町の副神官が神殿へ戻ってきていたのだから、もしかすると意外に時間は経っていたのかもしれない。
4人で食卓を囲み、食事を終えて少し南方の話をした後、ローゼは星が瞬く中をアーヴィンに送られて自宅へ戻った。
「また明日に伺うよ」
言って軽い口づけをくれたのを最後に、アーヴィンには会っていない。
もちろん神殿へ行けば会えるのだが、アーヴィンには村の神官としての業務がある。いくら神殿関係者になったとはいえ、ローゼにできるのは魔物に関わることだけだ。無駄に顔を出してアーヴィンや神官補佐たちの邪魔をするわけにはいかない。
代わりに今日はディアナを始めとする友人の家へ行っていたのだが、その途中にローゼは意外な人物から声をかけられた。
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アーヴィンはローゼがいなかった間の村の話を詳しくしてくれたわけではない。むしろほとんどしなかったと言ってもいいだろう。
だが情報に通じている母から各種の話を聞いたローゼは、アーヴィンとベアトリクス、フォルカーの件についてなんとなく推察することができていた。
わずかに身構えるローゼの前で、ベアトリクスは謝罪の言葉を述べる。
「ごめんなさい、ローゼ。私はアーヴィン様にも、あなたにも、失礼なことをしてしまった」
この1年、各地で様々な人と会ったローゼは感情の読み取りに多少自信がある。
そしてベアトリクスの表情からはローゼを騙そうとする気配を感じなかった。
ほんの少し警戒を解いてローゼは口を開く。
「ベアトリクスは、アーヴィンが好きだったの?」
彼女たちのことは、アーヴィンが話を聞いて何らかの処断を下すはずだ。ローゼの出る幕ではない。ただ、気になっていることだけはと思いながら尋ねると、ベアトリクスはわずかに悩んだ様子を見せた。
「……どうなのかしら。今となっては良く分からないわ」
「今となっては?」
ローゼが問うと、ベアトリクスは寂しげに笑う。
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ベアトリクスはきっと、そう感じていなかったのだろう。
「でもアーヴィン様のことなら、すぐに皆の話に入れるの。だから最初は、話を合わせるためにアーヴィン様のことを好きだって言っていたのよ。そのうち……」
ベアトリクスは小さく息を吐く。
「……そんなこともあったから、神官補佐としてお近くに行けた時は幸せだったし、村の皆が私とアーヴィン様を噂していると知って嬉しかったわ」
「町の神官との婚約が控えてるっていうのに?」
「ええ」
ローゼの口調は非難がましくなったが、ベアトリクスはただうなずいた。
「皆が『ご結婚をなさらないんじゃないか』と思っていたアーヴィン様の相手は、なんと皆が『結婚できないんじゃないか』と思っていた私だった。いったいあの人たちはどう思ったかしら? ……そんなことを考えるのが、とても楽しかったの」
楽しかったと言いながらも、ベアトリクスの浮かべる笑みは、とても楽しそうには見えない。
「……本当はね。私も正しいことではないと分かっていたの。分かっていたけど、もしかしたら噂が本当になるのではないかしらという期待と、フォルカーのためにもという気持ちがどうしても捨てきれなくて……」
口を閉じるベアトリクスに、ローゼは問いかける。
「町の副神官のことはどうするの?」
「カーシー様には」
名を言われてローゼは昨夜の記憶を引き出す。町の副神官は、カーシー・オルセンと名乗っていた。
「アーヴィン様が町へ向かわれた後に、私がしたこと、知っていることを全部お話したの。その上で婚約を取りやめても構わないと申し上げたのだけれど、あの方は首を縦に振らなかった」
確かに昨夜、彼はベアトリクスを自宅まで送って行っていた。共に食卓を囲んだ際も、彼の口からはベアトリクスへの溢れる好意しか聞くことがなかった。
「こんな私でもいいと仰って下さるのだもの。私は一生、あの方に尽くすつもりよ」
「……ベアトリクスはあの人が好きなの?」
ローゼの問いかけに、ベアトリクスは小さく首をかしげる。
「……やっぱり良く分からないの。でも、アーヴィン様から叱責の言葉を受けた時、浮かんだのはまずあの方のことだったのよ。……どうしよう、カーシー様が幻滅してしまわれるかも、って。その時やっと、自分の行いすべてを後悔したことだけは確か」
「勝手ね」
「そうね。自分でも勝手だと思うわ。……謝って済むことではないけれど、本当にごめんなさい、ローゼ」
深く頭を下げるベアトリクスを見ながら、ローゼは一昨日からのことが頭をよぎって思わず拳を握る。
母に噂を聞き、町へ行き、神殿でアーヴィンとベアトリクスを見た時の衝撃。ヘルムートの屋敷へ行って、広場で結婚を申し込まれ――そして。
次いで屋敷の前で見た、まるで絵のような光景を思い出してローゼは大きく呼吸する。握った拳を開き、胸の前で左手を軽く振った。涼やかなしゃららという音が響く。
「あたしはあんたを許すわ、ベアトリクス」
「……え?」
「あたしは村にいなかったし、そこまで実害を被ったわけじゃないからね。でも」
意外な面持ちで頭を上げるベアトリクスに向かい、ローゼはニヤリと笑った。
「あたしが許したからって、アーヴィンにまで許してもらえると思わない方がいいわ」
「ええ、もちろん」
「それにあたしは取りなしたりもしない。ちゃんとアーヴィンに叱られてよね。もちろん、フォルカーも、よ」
「分かってるわ」
ベアトリクスは強くうなずいた。
とりあえずローゼはベアトリクスは許したが、フォルカーだけは絶対に殴るつもりでいる。しかしそれは今言う必要のないことだろう。
「それじゃ。オルセン神官と仲良くね」
言って高く手を上げると、ベアトリクスは微笑む。
「ありがとう。……ありがとうございます、ローゼ」
それはこの場で会話を始めてから彼女が見せた、初の明るい笑みだった。
* * *
茜色は徐々に少なくなり、代わりに空を藍色が支配していく。
輝き始めた星々の下でローゼが待っていると、曲がり角に人の姿が見えた。わずかに残った光で判別できる髪の色は褐色。もちろん待ち望んでいた人物だ。
もたれていた石壁から身を起こし、ローゼは駆けだす。
「アーヴィン!」
ローゼから見えているのだから、もちろん彼からも見えているはずだ。顔が見えるほど近寄ると、アーヴィンは満面の笑みで両腕を広げる。ローゼは勢いよく彼の腕に飛び込んだ。
「おそーい!」
揺るぐことなくローゼを受け止めたアーヴィンは、ローゼの声を聞いて笑い声をあげる。
「これでも神殿を閉める時刻より、ずっと早く出てきたんだよ」
下ろしたままの赤い髪を撫でるアーヴィンに向けて不満そうな顔を作ろうとしたローゼだが、あっさり失敗する。
――嬉しさしかない今は、どう足掻いても笑み以外の表情を浮かべることができない。
「まあ、しょうがないか。アーヴィンは村で唯一の神官様なんだものね! でも」
身を離し、ローゼはアーヴィンの全身を眺める。
「なんでこの衣装を着てるの?」
アーヴィンの着ている衣は滑らかで上等な布で作られた青色のもの。胸元から足元までは金の糸を使って豪華な刺繍が施されている。
昨年、アレン大神官がグラス村へ来た時や、王都の儀式の際に着ていたものと同じだ。
つまり正装をしなくてはならない事態が起きたのだろうが、今日は特に村で騒ぎが起きていた覚えはない。
不思議に思いながら問いかけると、アーヴィンはローゼの家の方へ視線を向けながら言う。
「さすがに普通の神官服というわけにいかないからね」
「え? もしかして、うちへ挨拶に来るためにこれを着たの?」
うなずくアーヴィンを見て、ローゼは吹き出した。
「アーヴィンったら大げさね! いつもの神官服だって全然構わないのに!」
「そういうわけにはいかないだろう?」
アーヴィンはローゼの頬に触れながら言う。見せている表情は普段通りの穏やかな笑みだが、冷たい手は彼の緊張を表していた。
「大切なご挨拶をするために伺うのだから」
「大切な挨拶?」
確かに今回、家を空けた期間は長かったし、行き先の南では大変な事が起きていた。
しかしもう、ローゼは無事に帰還しているのだ。アーヴィンが家族に何がしかの挨拶をする必要があるとすら思えないローゼには、彼がそこまで畏まる理由も分からない。
きょとんとするローゼに、アーヴィンは小さくため息を吐く。
「……まさかとは思ったが、本当に……」
眉を寄せたアーヴィンは手に腰を当てた。
「いいかい、ローゼ。私はね。今からローゼのご家族へ、結婚のお許しをいただきに伺うんだよ」
噛んで含めるような言い方は、子どもを相手にしているようで腹が立つ。しかしそれより、内容の方が衝撃だった。
動きを止めたローゼの横から、どこか納得したような声が聞こえる。
【あぁ、やっぱりか。なんか変だと思ったんだよな】
「思ったのなら、ローゼの勘違いを訂正して下さい」
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