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第4章(後)

32.呼水

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 朝の仕度を終えたローゼは、世話係の神官が届けてくれた食事の後、椅子に座ったまま渋い表情で外を眺めていた。

 昨日の別れ際にフロランが「朝に行く」と告げたのは「顔を見せろ」ということなのだろう。
 しかし一口に朝と言っても幅が広い。

「まさか門の前でずーっと待ってなきゃいけないわけ? 冗談じゃないわよ」

 ローゼが文句を言うと、机の上に置いた聖剣から声がする。

【……頃合いを見計らって門を見に行く、くらいでいいんじゃないか? もしもそれで遅刻したら、時間をきちんと言わない方が悪いと言ってやれ。……いや、違うな。俺が言ってやる】

 ある部分の大きさ問題以降、レオンは少々バツが悪いらしく、いつもより優しい。

「じゃあその時は、レオンにお願いしようかな」
【任せろ!】

 力強く返ってきた言葉に笑うと、ローゼは聖剣と共に部屋を出た。

 といっても何かあてがあるわけでもない。気の向くままいくつかの角を曲がり、外へ続く扉を開ける。風がローゼの赤い髪をふわりとなびかせた。

 戦闘をする可能性があるときは髪をきっちりと結い上げているのだが、今日は特に用もない。香油で梳かした髪は久しぶりにただ背中へ流している。
 風に髪を揺らされる感触をくすぐったく思いながら、ローゼは日差しの眩しい渡り廊下へ出た。

 春とはいえじっとりと汗ばむ王都も、今のように朝の早いうちは涼しい。
 ふと中庭に目をやれば、花壇の土は湿って黒々としており、花や葉の上にもまだ水滴が残っている。担当の神官が水やりをした後なのだろう。

 花のかぐわしい香りに混ざる湿った土の香りは、農村育ちのローゼにとって馴染みの深いものだ。

 中庭へ降りたローゼがなんとなく感傷的な気分でたたずんでいると、後ろから遠慮がちな男性の声が聞こえた。

「……えーと、ローゼ?」

 彼の声には覚えがあった。

 ローゼが振り向くと、渡り廊下には赤みがかった金の髪をなびかせる青年が立っている。

「ヘルムート、久しぶりね!」

 ローゼが言うと、ヘルムートはほっとしたような笑みを浮かべた。

「良かった。髪の色でローゼだとは思ったけど、もし違ってたらどうしようかと。――おはよう。エンフェスでは毎朝井戸で会ってたのに、大神殿で会うのは変な気分だな」
「……うん、そうね、おはよう……」

 中庭へ下りてくるヘルムートに上の空で挨拶を返したローゼは、彼の姿をまじまじと見つめる。

「ねえ、ヘルムート。その鎧――」
「あ、気づいてくれたか? どうだ?」

 エンフェス村では銀の鎧を着ていたヘルムートだったが、今は縁取りの金も眩しい白の鎧を身に纏っていた。

 しかし誇らしげに両腕を広げてローゼに見せるその様は、年齢は違えど、新しい服を買ってもらって自慢げな弟たちを思い起こさせる。ローゼが思わず頬を緩ませると、ヘルムートは一転して眉尻を下げ、力なく両腕を降ろした。

 慌ててローゼは口を開く。

「すごく似合ってるわ。うん、髪の色も映えるし、銀の鎧よりずっといい」
「――そうか!」

 消沈していたヘルムートはすぐに顔を輝かせた。

「3日前に受け取ったばかりなんだ。ローゼが帰って来たって聞いてどうしても見せたくてさ。どっかにいないかなと思ってたんで、ここで会えて良かった」
「どっかに? どういうこと?」
「ローゼだって部屋から出るだろう? 大神官の部屋に行くとか、書庫に行くとか」

 ヘルムートの言葉に違和感を覚え、ローゼは眉をひそめる。

「……もしかして、適当に歩きながらあたしを探すつもりだったの?」

 まさか、と思いながら尋ねると、ヘルムートはうなずく。
 ローゼは唖然とした。

「……呆れた。そんな無駄なことしなくたって、あたしの部屋へ来ればいいのに」
「部屋を訪ねるなんて、そんなことできるはずないだろ」
「なんで恥ずかしがってるのよ。エンフェスでは家まで訪ねてきたこともあったでしょ」
「家を訪ねるのと部屋を訪ねるのとでは、気分が違うじゃないか」
「同じよ。変なの!」

 ローゼが笑ったその時、ふたりの上にさっと影が落ちかかる。
 振り仰いでみると、灰色の鳥が1羽、青い空に翼をはためかせていた。

「……どこかの神殿へ行く鳥かな」

 右手で陽光を遮りながらローゼが言うと、ヘルムートもまた空を見上げて目を細める。

「多分な。大神殿にふみを届けたんで、元の神殿へ帰るんだろう」
「いいなあ……」

 大神殿からグラス村までは馬を使って何日もかかる。
 しかしあの鳥は、条件さえ良ければ翌日にはグラス村に到着するのだと聞いていた。

(……あたしにも、翼があれば良かったのに)

「ああ、そうだ。鳥と言えば、閲覧室には行ってみたか?」

 ヘルムートがにこやかに話しかけるので、寂しさを押し殺したローゼは何気ない調子を装って空から視線を下ろす。

「うん、昨日見に行ったわ」

 各地の神殿から鳥を使って届けられた文は誰でも見られるようになっている。
 大神殿長との別れ際に「一度見てはどうか」と勧められたので、ローゼはフロランと会う前に鳥文の閲覧室へ寄ってみたのだ。

 室内には神官や神殿騎士の姿が多かった。おそらく皆、故郷がどうなっているかを知りたいのだろう。
 そんな中ちらちらと、あるいは大っぴらに向けられる視線には気づかないふりをして、ローゼはまっすぐ西の文がある場所へ向かった。

 見慣れた流麗な文字はすぐに見つかった。

 速くなる鼓動を感じながら目を通すと、内容は思ったより淡々としていた。
 気温の上昇を確認した。瘴穴や魔物に関する問題はない。農作物などへの影響も最小限で村人にも変わりはない、というだけのもの。しかしたったそれだけでも、ローゼはとても嬉しかった。

(みんな無事だったのね。……良かった)

 鳥文の最後に記された村の名前、そして神官の署名を見ながらローゼは目を細める。

(……でもここに、ほんの一言だけでもあたしに宛てて何か書いてあったら、もっと良かったのにな)

 もちろんそんなことはあるはずがない。鳥文を私用に使うことは禁止されている。

(もしも本当にそんなことがあったら、あたしこの壁に抱きついちゃうかもしれないわ)

 壁に抱きつく自分と、その様子を奇異な目で見る周囲を想像して、ローゼは口元に笑みを浮かべる。

 そのときふと、頭をよぎることがあった。

 南で出した手紙はとうに西へ届いているはずだ。
 今のローゼがアーヴィンの文字を見ているだけで嬉しいように、彼もまたローゼの文字を見て嬉しく思ってくれただろうか。

 そして、自分あての文章があったらもっと嬉しいのに、という気持ちになっただろうか。

(……だとしたら、レオンやフェリシアの言う通り、ほんの一言。……例えば、元気だよ、だけでも、書けば良かったかな……)

 ――そこでローゼはようやく、自分の思いにばかりこだわったせいでアーヴィンへ手紙を書かなかった、ということを後悔したのだ。

「俺も行ったんだよ、閲覧室」

 考え込んでいたローゼは、嬉しそうなヘルムートの声にはっとする。

「エンフェス村からの文は読んだか?」
「……うん」

 顔に血が上るのを感じながらローゼは答えた。

 ほとんどの神殿は異変が終わったことを淡々と告げていたが、南方からの文だけは別だった。

 細かい文字でなるべく長く綴ったものもあれば、文字が踊ってはみ出したもの、勢いで書いたためか誤字ばかりなものまである。しかしいずれの文からも見て取れたのは、小さな紙の中でなんとか喜びを伝えたいという思いだった。

 中でもエンフェス村から届いた文は一番細かい文字だった。

 顔を近づけて読んでみたローゼは、自分の名前があることにまず驚く。そして続く誉め言葉に今度は恥ずかしくなり、結局途中で読むのをやめてしまった。

「ローゼのことが書いてあって俺も嬉しくなったよ」
「確かに書いてあったけど、大げさすぎ」
「そうか?」

 首をひねったヘルムートは、顔をしかめているローゼを見て軽く笑う。

「……でも、国中の人が喜んでるって分かったから良かったよな。頑張りが報われた気がした」

 ローゼがエンフェスからの文を恥ずかしがっていることは伝わったのだろう。
 ヘルムートは話を逸らしてくれたので、ほっとしながらローゼはうなずいた。

「うん。確かに。なんか自分が役に立てた気がする」

 ローゼは南にいたのだから、大変な出来事だったとは十分に分かっている。しかし本当に国の大事だったと実感できたのはつい昨日、閲覧室で各地から異変の終息を告げる文を見た時だったように思う。

 同時に『自分は何もしていない』とばかり思っていた中に、わずかながらも『国の平穏に貢献できたかもしれない』という気持ちも生まれてきた。
 もしこの心境の変化を見越して閲覧室へ行くよう告げたのだとすれば、やはり大神殿長は上に立つだけの何かがあるのかもしれない。

「閲覧室を見に行って良かったわ」
「だよな」

 ローゼの答えを聞いて朗らかに笑ったヘルムートだったが、徐々に彼の顔からは笑みが消える。
 どうしたんだろう、とローゼが訝ったところで、逡巡する様子を見せながらヘルムートは口を開いた。

「……ところでさ。ローゼは今後、どうするんだ?」
「今後って、今日この後? それとも明日以降の予定ってこと?」
「明日以降の予定」
「そっちね。一度村へ帰るつもりよ。明日には大神殿を出るわ」

 ヘルムートは目を丸くする。

「明日って早くないか? 帰って来たのは一昨日だろ?」
「そうなんだけどね。あたし、最終会議に出席しなきゃいけないのよ」

 今回の異変に関する最終的な大会議は、南方に駐留していた神官や神殿騎士が全員戻り、彼らの報告が終了した後に開催すると聞いた。

 おそらくそれまでに、神官や大神官、神殿騎士の重鎮たちだけで何度も会議を行うのだろう。最終会議は以前ローゼが出席した会議同様、ただ承認の場として開催されるに違いない。

「最終会議が開かれるまではあと1か月くらいかかるんだって。大神殿で待ってても良いし、村の様子を見に行っても構わないってハイドルフ大神官から言われたから、一度帰ることにしたの。でも、余裕をもって大神殿に戻ってこなきゃいけないでしょ? だからさっさと出発することにしたのよ」

 ローゼが言うと、ヘルムートは地面に視線を落とす。
 やがて瞳をローゼに戻した彼は、わずかに不安そうな様子で口を開いた。

「……あのさ。ローゼが嫌でなかったら、俺も一緒に行っていいか?」
「行く? どこへ?」
「西へ。神殿騎士になれたことを、家族に直接報告したいんだ」

 ヘルムートは西方のラウフェルズ男爵家出身だ。
 彼の屋敷がある町はグラス村からさほど遠くない。

「うーん」

 腕を組んだローゼはうなる。
 レオンのことを知らない相手と行動する場合は気を使うことが多い。ヘルムートと旅をするのは正直に言って面倒だった。

「……駄目か」

 しかし肩を落とすヘルムートは、なんだか一回り小さくなったように見える。
 結局、彼の醸し出す哀れな雰囲気にほだされ、ローゼはうなずいた。

「いいわ。西まで一緒に行きましょ」
「本当か!」
「うん。あたしが付き添いをしてあげるから一人旅じゃなくなるわ。安心して」
「うっ……いや、別に一人旅が怖いわけじゃないが……」

 ぼそぼそと否定しながらも安堵した様子のヘルムートとは、明日の朝に、と約束をして別れる。
 彼の背を見送ったところで、あまり楽しくなさそうなレオンの声が聞こえた。

【変な道連れができたな】
「そうね。でも、あたしだって旅なんてしたことなかったでしょ? 一人旅の不安は分かるもの」
【だが……】

 レオンは何か言いたそうな様子ではあったものの、結局は言葉を飲み込んだようで、次に聞こえたのは、さて、という明るい声だった。

【そろそろ門の様子でも見に行くか】
「そうね、いい頃合いかもしれない。……でも」

 ローゼは髪をひと房手に取る。

「先に部屋へ行きたいな」
【どうした?】
「髪がね」

 歩きながらローゼは笑う。

「やっぱり下ろしてるとなんか落ち着かなくて。結ってから門へ行くことにするわ」

 宿泊している客間から門まではさほど離れているわけではない。
 なんとかなるだろうと思いながら、ローゼはあてがわれている部屋へ向かった。
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