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第3章(後)
43.終焉、継続
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ローゼが木の前にある野原を見ると、ほとんどの人物が泣いていた。
ひとりで涙をぬぐう人もいれば、手を取り合ったり、抱き合ったりと様々だ。
中でもフロランは一際悲嘆に暮れているようで、周囲の様子や自分の状態に頓着することもなく、地に伏して大声で泣いている。横に座ったリュシーもまた涙を流しているが、それでもフロランの背をなで続けていた。
深く息を吐いたローゼは聖剣に目を落とす。
「銀狼……レオン。ありがとうございました」
【いや。ローゼも頑張ったな】
ローゼは小さく首を横に振る。
自分だけでは何もできなかった。
感動と、達成感と、寂しさと。そしてわずかな後悔がある。
思わず拳をにぎるが、そっと開いてくれる手があった。
視線を上げれば、灰青の瞳が優しい光を宿してローゼを見ている。
「……ねえ、どうしてここに来てくれたの?」
「ローゼの声が聞こえたけど、人ではありえない大きさだったし、何より響きは精霊のものだったからね。まさかと思って来てみたけど、来てよかったよ」
「そうなのね。……うん。来てくれて良かった」
ローゼが笑みを浮かべると、彼も笑みを返してくれる。なんだか嬉しい、と思った時、ローゼは体に違和感を覚えた。
のろのろと動く体が、彼と向き合う形をとる。聖剣を差し出すと、首をかしげた彼が左手で柄を握る。そこへローゼの右手が再度柄を握ったので、ふたりで聖剣を持っている形になった。
次に、左腕が動いて彼の首にまわる。と思いきや、左腕はぐいと彼を引き寄せた。
唇が重なり、動いたローゼの舌が柔らかなものを捉える。途端に彼は身を震わせ、ぐらりと傾ぎそうになるが、それでもなんとか持ちこたえた。
【なっ……お、おい、お前っ……!】
焦りと怒りをにじませたレオンの声が聞こえる。
身を離したローゼは、ふふ、と小さく笑った。
「……気分はどうだ、新たに我が息子となった者よ」
【おまっ、お前! 何をしていやがる、銀狼!】
レオンの叫びを聞いた銀狼は楽しそうな声で答えた。
「なに、大精霊が執着していたシャルトスの血脈にはずっと興味があったのだよ。今までは大精霊に遠慮して手を出せなかったが、もう構わんからな。……しかもお前の娘の想い人なのだろう?」
くくく、と喉の奥で銀狼は笑う
「儂の息子とお前の娘が結ばれるというのも、面白いと思わんか?」
言われたレオンは考え込むように黙る。しばらくして、納得したような声を出した。
【確かにそうだな】
「うむ。やはりお前もそう思うか、友よ」
【思うな。……じゃない! 違う! おい狼! 今のはなんだっ!】
「今の?」
銀狼は不思議そうな声でレオンに答えた。
「儂が力を与える時は、相手を舐める必要がある。その昔、お前のことも舐めてやっただろう。もう忘れたのか?」
【そうじゃない! 力を与えるだけなら、その、手でもなんでもいいだろうが!】
「何を言う。好意を持つ人間同士は唇を合わせるものだぞ」
【その無駄な知識はどっから手に入れた!】
ぎゃんぎゃんとわめくレオンの声を聞きながら、再び銀狼に支配された体の中で、ローゼは小さくなっていた。
(嘘でしょ……今のってもしかして、そういうことよね……)
まさか初めてが自分の意思ではなく、おまけに妙なことにまでなるとは思いもよらなかった。
「む。そろそろお前の娘の体も限界のようだ。仕方ない、儂は帰るぞ。また会おう、友よ、友の娘よ、そして我が息子よ」
【おい、待て! いや、待つな離れろ! くそ、今度会ったら絶対文句言ってやるぞ、狼!】
複雑な心境を抱えているらしいレオンに笑みを向け、銀狼は完全にローゼの体から離れる。
(……あら?)
銀狼がいなくなると同時に、ローゼの意識は暗転した。
* * *
目覚めたローゼの目に入ったのは、見知らぬ天井だった。
室内は薄暗い。ということは、少なくとも今は夜でないのだろう。
生きていることに安堵しつつ息を吐くと、右側から嬉しげな声が聞こえた。
【起きたか!】
重く感じる首を動かしてみれば、枕の右に聖剣が置かれている。
ローゼは思わず顔をしかめた。
「……何で添い寝してるのよ」
出した声は小さい上にかすれて聞き取りづらかったが、レオンには届いたようだ。
【最初に言うことがそれか!】
「だってさー……なに? レオンはずっとそこに居たわけ?」
【当たり前だ】
「えー……」
【何だその反応は!】
レオンは文句を並べたてるが、それでもどこか安堵しているようだ。彼の声を聞きながら、ローゼは周囲を見渡してみる。
寝かされているのは寝台だが、今まで使っていたものとは違って格段に大きい。もし聖剣を手に取ろうとするなら、右腕をいっぱいに伸ばす必要がありそうだった。
寝台が大きいのだからもちろん部屋も大きい。見る限り、リュシーの部屋と同じくらいではないかと思われた。
「……ねえレオン。ここはどこ? あれから何日経ったの?」
だいぶ滑らかになってきたとはいえ、まだいつもより声が出しにくい。
少し聞きづらいかと思えたが、レオンには伝わったようだ。
【大精霊が消えてから5日経った。今は昼過ぎで、ここは城の客間だ。さっきまでリュシーがいたんだが、公爵家の連中は今……】
レオンは考える様子で言いよどんだ。
「……どうしたの?」
【いや。お前が気にすることはない。とりあえずあいつも無事だ。忙しくしてるけど、たまに様子を見に来てるぞ】
「そう……」
何か隠しているようなレオンの様子は気になる。しかしまだうまく頭が働かず、何から尋ねれば良いのか分からない。
「……ねえレオン、喉かわいた……」
【もうじき侍女が来るとリュシーが言ってたから、その時に頼め。残念だが俺じゃ何もしてやれない】
「うん……」
返事をするが、直後にローゼはまた眠りに落ちてしまった。
* * *
結局その後もローゼは3日眠り続けた。
次に起きた時には、もう眠り続けるようなことはなかったので、詳しい話を聞くことができたのだが、思ったより事態が変わっていることにローゼはやるせない気持ちを抱く。
大精霊が残した不思議な現象は、すべての町や村で見えたらしい。
ただし人によって見え方はまちまちで、空を覆った幕は見えた人と見えなかった人がいるようだ。しかし銀の粉だけは全員が見たようだった。
そこで公爵家は、不思議な現象は大精霊が消滅したために起きたということ、そして新たな守護の精霊として銀狼が木に宿り、大精霊に代ってこれまで通り見守ってくれるということを、北方神殿を通じて公にしたのだとレオンは語った。
「もう告知することにしたんだ。そういえば公爵は? どんな反応だった?」
寝台の上で萎えた手足を動かす努力をしていると、右から抑揚のないレオンの声が聞こえた。
【反応は特にない。公爵は死んだからな】
ローゼは動きを止めて絶句する。やがてゆっくりと聖剣を見返した。
レオンは静かに話し出す。
大精霊が消滅した日、北方神殿にいた公爵家の姉弟が城に戻り、報告のため公爵の執務室に行くと、露台へ出る窓が開いていた。
見れば公爵が露台で倒れている。急いで確認すると、まだほのかに温かいものの、血に濡れた体に息はなかった。
【近くには血の付いた刃物があったらしい】
自害なのか、それとも他の者が手を下したのかは分からない。ただその前から公爵の執務室には人払いがなされていた。さらにいうなれば公爵がいなくなって以降、彼の側近の姿を見なくなったという話だった。
【公爵の死はまだ知らされていない。だが民は、公爵がウォルス教関連の嘘を広めていたことや、孫をわざと犠牲にしようとしていたことなどを、もう知っているそうだぞ】
「……どうして」
【さてな。逃げた城の連中が噂を流したのかもしれん。あるいは公爵の死を利用して、公爵家の誰かが情報を操作し……】
レオンは言葉を濁す。
それ以上は問いたださず、そう、とだけローゼは呟いた。
公爵はもういない。
己の死後、悪名を残したくないがために色々な画策をおこなってきた公爵だが、最後は事実が露見してしまったのか。
ローゼは公爵に対し、良い印象はない。
しかし以前考えた通り、もしも押し付けられた爵位なのだとしたら、そして露台へ出たのが、大精霊の最後を感じたいと願ったためなのだとしたらどうだろうかと思わなくもなかった。
――それももう、考えても仕方のないことだ。
小さく首を振ると止めてしまった運動を再開し、ローゼは今の話を気にしていないかのような声でレオンに尋ねる。
「で? 町や村の様子は?」
【まったく平常とは行かないようだ。だが、木による守りは今まで通りだからな。おおむねシャルトス家の支配を受け入れる方向で動いているらしいぞ】
「そっか」
その時、扉が叩かれる音がした。返事をすると、外にいたらしい護衛が扉をあける。顔を出したのがナターシャだったのでローゼはぎょっとした。
「こんにちは」
いつものように無邪気な笑みでナターシャは挨拶をする。
どう対応すれば良いのかわからず、とにかく頭を下げると、ナターシャは寝台の近くにまで来た。
「あなたのことは聞いているわ。動けないんでしょう? そのままでいいのよ」
何ということもない言葉だが、彼女が言うととても怖い。
しかしローゼの心の中など気にする様子もなく、ナターシャは話を続けた。
「次の公爵はフロランに決まったの」
ローゼはナターシャを見る。なんとなくそうなるだろうなとは思っていたので、特に他の感想はなかった。
「もしも前のままなら、フロランが公爵になることはなかったものね。あなたにはお礼を言うわ。ありがとう」
「……いえ」
別にナターシャやフロランのためにやったことではない。ローゼはあくまで自分の望みを叶えに来ただけ、それ以外はすべて付随する結果にすぎなかった。
ナターシャは笑顔のまま続ける。
「だからエリオットが公爵の位を望まない限りは、何もせずにいてあげるわね」
その言葉にローゼは背筋が凍るような思いにかられる。だがナターシャの態度や表情に変化は見られない。どうやら彼女はただ事実を述べただけで、特に脅したつもりなどもないようだった。
「それを伝えに来たの」
にっこり笑ったナターシャはローゼに一礼をする。
扉へ向かおうとする背に、なんとなくローゼは声をかけた。
「今日、リアヌ様はご一緒じゃないんですね」
姉の名を聞いたナターシャは立ち止まり、殊更に時間をかけ、ゆっくり振り返る。
振り返った彼女には張り付いたかのような笑みがあった。
ローゼは彼女の笑みを見て総毛立つ。同時に、質問したことを後悔した。
「知っているかしら?」
先ほどよりも低い声を出したナターシャは、顎に人差し指を当てて言う。
「クラレス伯爵の味方と見せかけて、公爵の味方だった人物がいるんですって」
ついで一転、甲高い声でナターシャは続ける。
「同じように、公爵の味方と見せかけて、クラレス伯爵の味方だった人物もいるの」
少し間を空け、最後に慈愛に満ちた声でナターシャはローゼに語り掛けた。
「……ね、それはいけないことでしょう? だってフロランではなく、エリオットが公爵になることを望むのですもの」
ローゼは目を見張る。
ナターシャはもう何も言わず、緑の瞳を煌めかせると部屋を出て行った。
呆然としながら閉じた扉を見ていると、レオンが小さな声を出す。
【……なんかこの部屋、寒くなったな】
「……うん」
身を震わせたローゼは扉から目を外す。
聖剣を抱え、黙って布団にもぐりこんだ。
ひとりで涙をぬぐう人もいれば、手を取り合ったり、抱き合ったりと様々だ。
中でもフロランは一際悲嘆に暮れているようで、周囲の様子や自分の状態に頓着することもなく、地に伏して大声で泣いている。横に座ったリュシーもまた涙を流しているが、それでもフロランの背をなで続けていた。
深く息を吐いたローゼは聖剣に目を落とす。
「銀狼……レオン。ありがとうございました」
【いや。ローゼも頑張ったな】
ローゼは小さく首を横に振る。
自分だけでは何もできなかった。
感動と、達成感と、寂しさと。そしてわずかな後悔がある。
思わず拳をにぎるが、そっと開いてくれる手があった。
視線を上げれば、灰青の瞳が優しい光を宿してローゼを見ている。
「……ねえ、どうしてここに来てくれたの?」
「ローゼの声が聞こえたけど、人ではありえない大きさだったし、何より響きは精霊のものだったからね。まさかと思って来てみたけど、来てよかったよ」
「そうなのね。……うん。来てくれて良かった」
ローゼが笑みを浮かべると、彼も笑みを返してくれる。なんだか嬉しい、と思った時、ローゼは体に違和感を覚えた。
のろのろと動く体が、彼と向き合う形をとる。聖剣を差し出すと、首をかしげた彼が左手で柄を握る。そこへローゼの右手が再度柄を握ったので、ふたりで聖剣を持っている形になった。
次に、左腕が動いて彼の首にまわる。と思いきや、左腕はぐいと彼を引き寄せた。
唇が重なり、動いたローゼの舌が柔らかなものを捉える。途端に彼は身を震わせ、ぐらりと傾ぎそうになるが、それでもなんとか持ちこたえた。
【なっ……お、おい、お前っ……!】
焦りと怒りをにじませたレオンの声が聞こえる。
身を離したローゼは、ふふ、と小さく笑った。
「……気分はどうだ、新たに我が息子となった者よ」
【おまっ、お前! 何をしていやがる、銀狼!】
レオンの叫びを聞いた銀狼は楽しそうな声で答えた。
「なに、大精霊が執着していたシャルトスの血脈にはずっと興味があったのだよ。今までは大精霊に遠慮して手を出せなかったが、もう構わんからな。……しかもお前の娘の想い人なのだろう?」
くくく、と喉の奥で銀狼は笑う
「儂の息子とお前の娘が結ばれるというのも、面白いと思わんか?」
言われたレオンは考え込むように黙る。しばらくして、納得したような声を出した。
【確かにそうだな】
「うむ。やはりお前もそう思うか、友よ」
【思うな。……じゃない! 違う! おい狼! 今のはなんだっ!】
「今の?」
銀狼は不思議そうな声でレオンに答えた。
「儂が力を与える時は、相手を舐める必要がある。その昔、お前のことも舐めてやっただろう。もう忘れたのか?」
【そうじゃない! 力を与えるだけなら、その、手でもなんでもいいだろうが!】
「何を言う。好意を持つ人間同士は唇を合わせるものだぞ」
【その無駄な知識はどっから手に入れた!】
ぎゃんぎゃんとわめくレオンの声を聞きながら、再び銀狼に支配された体の中で、ローゼは小さくなっていた。
(嘘でしょ……今のってもしかして、そういうことよね……)
まさか初めてが自分の意思ではなく、おまけに妙なことにまでなるとは思いもよらなかった。
「む。そろそろお前の娘の体も限界のようだ。仕方ない、儂は帰るぞ。また会おう、友よ、友の娘よ、そして我が息子よ」
【おい、待て! いや、待つな離れろ! くそ、今度会ったら絶対文句言ってやるぞ、狼!】
複雑な心境を抱えているらしいレオンに笑みを向け、銀狼は完全にローゼの体から離れる。
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目覚めたローゼの目に入ったのは、見知らぬ天井だった。
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重く感じる首を動かしてみれば、枕の右に聖剣が置かれている。
ローゼは思わず顔をしかめた。
「……何で添い寝してるのよ」
出した声は小さい上にかすれて聞き取りづらかったが、レオンには届いたようだ。
【最初に言うことがそれか!】
「だってさー……なに? レオンはずっとそこに居たわけ?」
【当たり前だ】
「えー……」
【何だその反応は!】
レオンは文句を並べたてるが、それでもどこか安堵しているようだ。彼の声を聞きながら、ローゼは周囲を見渡してみる。
寝かされているのは寝台だが、今まで使っていたものとは違って格段に大きい。もし聖剣を手に取ろうとするなら、右腕をいっぱいに伸ばす必要がありそうだった。
寝台が大きいのだからもちろん部屋も大きい。見る限り、リュシーの部屋と同じくらいではないかと思われた。
「……ねえレオン。ここはどこ? あれから何日経ったの?」
だいぶ滑らかになってきたとはいえ、まだいつもより声が出しにくい。
少し聞きづらいかと思えたが、レオンには伝わったようだ。
【大精霊が消えてから5日経った。今は昼過ぎで、ここは城の客間だ。さっきまでリュシーがいたんだが、公爵家の連中は今……】
レオンは考える様子で言いよどんだ。
「……どうしたの?」
【いや。お前が気にすることはない。とりあえずあいつも無事だ。忙しくしてるけど、たまに様子を見に来てるぞ】
「そう……」
何か隠しているようなレオンの様子は気になる。しかしまだうまく頭が働かず、何から尋ねれば良いのか分からない。
「……ねえレオン、喉かわいた……」
【もうじき侍女が来るとリュシーが言ってたから、その時に頼め。残念だが俺じゃ何もしてやれない】
「うん……」
返事をするが、直後にローゼはまた眠りに落ちてしまった。
* * *
結局その後もローゼは3日眠り続けた。
次に起きた時には、もう眠り続けるようなことはなかったので、詳しい話を聞くことができたのだが、思ったより事態が変わっていることにローゼはやるせない気持ちを抱く。
大精霊が残した不思議な現象は、すべての町や村で見えたらしい。
ただし人によって見え方はまちまちで、空を覆った幕は見えた人と見えなかった人がいるようだ。しかし銀の粉だけは全員が見たようだった。
そこで公爵家は、不思議な現象は大精霊が消滅したために起きたということ、そして新たな守護の精霊として銀狼が木に宿り、大精霊に代ってこれまで通り見守ってくれるということを、北方神殿を通じて公にしたのだとレオンは語った。
「もう告知することにしたんだ。そういえば公爵は? どんな反応だった?」
寝台の上で萎えた手足を動かす努力をしていると、右から抑揚のないレオンの声が聞こえた。
【反応は特にない。公爵は死んだからな】
ローゼは動きを止めて絶句する。やがてゆっくりと聖剣を見返した。
レオンは静かに話し出す。
大精霊が消滅した日、北方神殿にいた公爵家の姉弟が城に戻り、報告のため公爵の執務室に行くと、露台へ出る窓が開いていた。
見れば公爵が露台で倒れている。急いで確認すると、まだほのかに温かいものの、血に濡れた体に息はなかった。
【近くには血の付いた刃物があったらしい】
自害なのか、それとも他の者が手を下したのかは分からない。ただその前から公爵の執務室には人払いがなされていた。さらにいうなれば公爵がいなくなって以降、彼の側近の姿を見なくなったという話だった。
【公爵の死はまだ知らされていない。だが民は、公爵がウォルス教関連の嘘を広めていたことや、孫をわざと犠牲にしようとしていたことなどを、もう知っているそうだぞ】
「……どうして」
【さてな。逃げた城の連中が噂を流したのかもしれん。あるいは公爵の死を利用して、公爵家の誰かが情報を操作し……】
レオンは言葉を濁す。
それ以上は問いたださず、そう、とだけローゼは呟いた。
公爵はもういない。
己の死後、悪名を残したくないがために色々な画策をおこなってきた公爵だが、最後は事実が露見してしまったのか。
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しかし以前考えた通り、もしも押し付けられた爵位なのだとしたら、そして露台へ出たのが、大精霊の最後を感じたいと願ったためなのだとしたらどうだろうかと思わなくもなかった。
――それももう、考えても仕方のないことだ。
小さく首を振ると止めてしまった運動を再開し、ローゼは今の話を気にしていないかのような声でレオンに尋ねる。
「で? 町や村の様子は?」
【まったく平常とは行かないようだ。だが、木による守りは今まで通りだからな。おおむねシャルトス家の支配を受け入れる方向で動いているらしいぞ】
「そっか」
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「こんにちは」
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「……いえ」
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その言葉にローゼは背筋が凍るような思いにかられる。だがナターシャの態度や表情に変化は見られない。どうやら彼女はただ事実を述べただけで、特に脅したつもりなどもないようだった。
「それを伝えに来たの」
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扉へ向かおうとする背に、なんとなくローゼは声をかけた。
「今日、リアヌ様はご一緒じゃないんですね」
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「知っているかしら?」
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ローゼは目を見張る。
ナターシャはもう何も言わず、緑の瞳を煌めかせると部屋を出て行った。
呆然としながら閉じた扉を見ていると、レオンが小さな声を出す。
【……なんかこの部屋、寒くなったな】
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身を震わせたローゼは扉から目を外す。
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