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第3章(後)
余話:エリオット 1
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エリオットは3歳まで、母のシーラと共にイリオスの外れにあった家で暮らしていた。
残念ながら、その家で暮らしていた頃の思い出はほとんどない。
わずかに覚えているのは、丘の上にそびえる大きな城を眺めたことや、ときおりやってくる父と会えた時は嬉しかったこと。
そして、家の外で大変な騒ぎが起きた後に怒声が響き渡り、きらびやかな服を着た恐ろしい表情の男性と、青い顔をした父、他にもたくさんの人を見たことだ。
……しかしすぐ震える母に抱きしめられたため、以降のことはよく覚えていない。
いずれにせよ、その日を境にエリオットの住まいは城へと移り、暮らしもがらりと変わったのだと後に聞いた。
驚くほど大きな部屋が与えられ、身の回りの世話は侍る女性たちが受け持つ。
何人もの教師がつくこととなり、勉学から礼儀作法まで様々なことを学ぶ。
そして、母とは部屋が別になる。
城に移ってからのエリオットには、許されないことがたくさんできた。
もしも許されないことをしてしまった場合は罰が待っている。
祖父という、厳しい目をした男性の期待に沿えぬことは何よりも許されないとされていた。
また、母を恋しがって泣くことも許されなかった。
玩具で遊ぶことも許されなかったが、精霊と会話をすることだけは許されたので、城に行ってからできた友達は精霊だけだった。
……もっとも、街での友達も精霊だけだったのだが。
教師たちから学ぶ量は非常に多かったので、最初の頃はこなしきれずに叱責をもらってばかりだった。しかし彼らから良い評価をもらえば褒美がもらえることを知って以降、エリオットは各種のことを必死に学んだ。
褒美として望めるものの中には、母と一緒にすごす時間もあったからだ。
大きな城だというのに母の部屋は狭く暗い。
シーラの部屋を訪ねるたびにエリオットは、どうしてこんな良くない部屋なのかと不思議に思っていた。
「僕のお部屋はとても大きいのです。母上も一緒に使いませんか」
と会うたびに言うのだが、母は必ず首を横に振る。
「あなたのお部屋はあなたのものよ。私が一緒に行くことはできないの」
「でも、母上のお部屋は小さすぎます」
「私はこのお部屋でいいの。お城の決まりなのよ。ね、分かって、エリオット」
変な決まりだと思うのだが、自分ではどうすることもできない。
どんなに誘っても母は必ず断るので、身近な大人である教師に訴えたこともある。しかし彼らは眉をひそめると冷たい目で「エリオット様はもっと学ばれた方がよろしいでしょう」と言うばかり、結局は何も改善されない。
かと言って祖父に訴える勇気はなかったし、ほとんど会えない父には何も言うことができなかった。
そんな日々を3年ほどすごしたある日、町の家にいるときよりもずっと会う回数が少なくなった父が、珍しく部屋を訪ねてくる。
長椅子に座ったクロードは、自分の横にエリオットを呼んだ。柔和な顔立ちの父は久しぶりに会う息子を見て、青灰色の瞳を細める。
「エリオットはもう6歳になったんだな」
「はい」
そうか、とうなずいたクロードは、昔と同じようにエリオットの頭をなでた。
――もう大きくなったのだから、小さいころと同じようにして欲しくない。
エリオットは多少の反発を覚えたが、それでも大きな手で撫でられるのは嬉しかったので、されるがままになっていた。
クロードは撫でながらエリオットの様子を見ていたようだが、しばらくして手を離すとわずかに身をかがめ、エリオットの顔を覗き込む。
「エリオット。今度、会って欲しい子がいる」
「誰ですか?」
「可愛い女の子だ。もしかすると将来、エリオットのお嫁さんになってくれるかもしれない子だよ」
おどけたように言って父は笑う。
しかしエリオットは、お嫁さん、と呟いて首を横に振った。
「じゃあ、会わなくていいです」
「どうして」
不思議そうに見つめてくる父を、逆にエリオットは不思議に思う。
「だって、母上は父上のお嫁さんですよね」
「そうだよ」
「でしたらその子も、母上のようになるのでしょう?」
漏れ伝わってくる話や会った時の様子から、エリオットは母が決して幸せな状態ではないことを知っていた。
今度会う可愛い女の子も、お嫁さんになってしまえば悲しいことが多くなるかもしれない。ならば彼女は、お嫁さんなどという存在にならない方が良いのだ。
その思いが伝わったのだろう。
クロードは息をのみ、かすれた声で「そうか」と呟いてうなだれる。
父の悄然とした様子に、エリオットは驚いて目を丸くした。どうやら自分は悪いことを言ってしまったらしい。
どうすれば良いのだろうとおろおろするうち、父は顔を上げる。困っている息子を見て安心させるように笑うと、強い意志を持った声で言った。
「私のせいで、お前とシーラ……母上にはつらい思いをさせたな。だが、もう少しだけ待ってくれ」
父の瞳には、声と同じく強い光があった。
「――頼む。女の子に会ってくれないか、エリオット」
迷った末、エリオットはうなずいた。
* * *
「それでこの前の女の子は、大きくなったら僕のお嫁さんになるって決まったんです」
『仲良くなれたのですね、良かった。エリオットも嬉しいでしょう?』
「うーん、良く分かりません。でも、髪の色を嫌な目で見られなくて嬉しかったです」
誰もが髪を見て嫌な表情を浮かべるので、父のような金色ならどんなに良かっただろう、とエリオットは何度も思ったことがある。
しかし母と同じ褐色の髪だって、本当は好きだ。だからこそマリエラが髪の色を嫌がらなかったのは、エリオットにとって嬉しいことだった。
話を聞いた古の大精霊は、笑いながら枝を震わせる。
木に背をもたせかけて地面に座っていたエリオットも、彼女に合わせて笑った。
――今日、古の大精霊に会えて良かった。
可愛い女の子、マリエラ・クラレスと一緒に来た時、古の大精霊は話している最中に眠ってしまい、以降はしばらく目覚めていなかった。ようやく目が覚めたと城へ連絡があったので、眠る前にと急いで会いに来たのだ。
エリオットにとって精霊は友達だが、古の大精霊はもうひとりの母だった。
「それで、マリエラがお嫁さんになるって決まってから、母上は新しい部屋に移ったんです。今度は僕のと同じくらい大きい部屋なんですよ」
『まあ。良かったですね』
大精霊の声に、エリオットはうなずく。
「前よりたくさん会えるようになったし……今日もこの後、会う予定なんです」
『あら、そうなの? では、早く母上の元へ行きたいでしょう?』
笑みを含んだ声で言われるが、エリオットは笑って首を振る。
「大精霊にもお会いしたかったから、もう少しここにいます」
『それは光栄ですこと』
大精霊の嬉しそうな声に合わせて一緒に笑っていたエリオットだったが、徐々に声が小さくなり、最後にはため息をついた。
「以前の母上の部屋はとても小さかったんです。だから僕の大きい部屋で一緒に暮せばいいのにって思ったんですけど、それは駄目なんだそうです。変ですよね」
エリオットは膝を抱える。
古の大精霊が宿る美しい木はエリオットから見ればとても高く、本当は天まで届いているのではないかと思うくらいだ。
そして咲き誇る銀の花は街を魔物から守ってくれる貴重な花、他の地域の人には決して知られてはいけない宝物なのだと聞いていた。
だから余所者であるシーラには何も言うな、見せるなと、術士からは釘を刺されている。
母も事情は知っているのだろう。木に関して尋ねてきたことは一度もない。
それでもエリオットは、銀の花が咲き乱れる美しい木を母にも見せたいと思っていた。
「他にも、あれをしては駄目、これをしなさいって言われる中には、変なことがたくさんあるんです」
しかし少しでも反論や疑問を口に出そうものなら、周囲からは「市井の産まれのせい」「母親の身分が低いから」「これだから余所者は」などと言われ、最後には必ず「公爵家の方としてもっと自覚をお持ちください」と諭される。
意味は良く分からなかったが、母を悪く言われていることだけは理解できた。母のせいだと思われたくないエリオットは周囲の要求を黙って受け入れ、気持ちを表に出さないように努力していた。
「お城は変なことが多いから嫌い……」
大精霊の前では素直になっても怒られない。
ため息をつきながら胸中を吐露し、地面の草をむしって投げていると、頭上から悲しげな声がする。
『……シャルトスのお家は嫌いですか、エリオット?』
エリオットは木を見上げると、あわてて首を横に振った。
「ううん。嫌いじゃないです」
大精霊はエリオットの祖先である、ずっと昔にいた女王のことを愛していたそうだ。女王の血筋であるシャルトス家を否定されるのは、古の大精霊にとってつらいことなのだろう。
「きっと、僕ができないことばかりだからいけないんです。姉上はきちんとできているのだから、僕ももっと頑張らなくちゃ」
姉のリュシーは8歳、エリオットや母に冷たくしない、数少ない人物のひとりだった。精霊に関する力がないので公爵家の継承権を持たないのだと、教師から聞いたことがある。
継承権がないためか、リュシーもどちらかと言えば冷遇されている。エリオットたちに気安くしてくれるのも、その辺りに理由があるのかもしれなかった。
「僕だって6歳だから、もっとたくさんできるはずなんです。――そうだ。今度はフロランと一緒に来ます。そして大精霊のことをいろいろ教えてあげよう」
2歳になった弟のフロランは最近になって、精霊に関する力があると分かった。
彼とはきっと、精霊についてたくさん話ができるに違いない。
表情が明るくなったエリオットを見て、大精霊は楽しそうにころころと笑う。
『あら、まあ。楽しみにしていますよ』
しかし彼女はその後すぐに反応がなくなる。どうやら眠ってしまったようだ。
エリオットはため息をついて立ち上がる。もっと話したいことがあったのに、大精霊はすぐに眠ってしまう。そして一度眠ると長い間起きない。
――次に話ができるのはいつになるだろうか。
ちょうど姿が見えた術士、自分の師匠でもあるジュストに大精霊が眠ってしまった旨を伝え、エリオットは少し離れて待機していた護衛たちに城へ戻ろうと声をかけた。
* * *
シーラの部屋はもともと1階の隅にある小さく暗い部屋だったが、今はエリオットと同じ2階の広い部屋へと移っている。
護衛や侍女たちとともに部屋へ向かうと、母はいつも以上に嬉しそうな笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「母上、何か良いことがあったのですか?」
小さな部屋にいた頃の母は、笑みを浮かべていてもどこかに憂いがあった。しかし新しい部屋に移ってからは翳りも薄くなった気がする。
しかも今日の母は心の底から嬉しそうな笑顔だったので、エリオットも思わず笑顔になった。
(大精霊とも話ができたし、母上はとても嬉しそうだし、今日はなんていい日なんだろう)
長椅子に座った母に手招きされたので、隣に腰かけて見上げると、シーラは笑顔のまま口の前に指を一本立てる。
「あのね、エリオット。このお話は、お父様もまだ知らないのよ。こっそり教えてあげるから、みんなには秘密ね」
エリオットがうなずくと、母は耳打ちをする。エリオットは顔を輝かせた。
「本当!?」
笑顔のままうなずく母に、エリオットは両手を上げて、やった、と叫ぶ。
直後、みんなには秘密との声を思い出して、慌てて口を押えた。
シーラはそんなエリオットを見ながら幸せそうな微笑みを浮かべている。
(ああ、やっぱり僕は、もっともっといろんなことを頑張ろう。そして、たくさんの変なことから母上を守れるようにならなきゃいけない。母上と、このあと産まれる――)
――弟か妹のためにも。
思いを新たにして、エリオットはこぶしを握り締めた。
残念ながら、その家で暮らしていた頃の思い出はほとんどない。
わずかに覚えているのは、丘の上にそびえる大きな城を眺めたことや、ときおりやってくる父と会えた時は嬉しかったこと。
そして、家の外で大変な騒ぎが起きた後に怒声が響き渡り、きらびやかな服を着た恐ろしい表情の男性と、青い顔をした父、他にもたくさんの人を見たことだ。
……しかしすぐ震える母に抱きしめられたため、以降のことはよく覚えていない。
いずれにせよ、その日を境にエリオットの住まいは城へと移り、暮らしもがらりと変わったのだと後に聞いた。
驚くほど大きな部屋が与えられ、身の回りの世話は侍る女性たちが受け持つ。
何人もの教師がつくこととなり、勉学から礼儀作法まで様々なことを学ぶ。
そして、母とは部屋が別になる。
城に移ってからのエリオットには、許されないことがたくさんできた。
もしも許されないことをしてしまった場合は罰が待っている。
祖父という、厳しい目をした男性の期待に沿えぬことは何よりも許されないとされていた。
また、母を恋しがって泣くことも許されなかった。
玩具で遊ぶことも許されなかったが、精霊と会話をすることだけは許されたので、城に行ってからできた友達は精霊だけだった。
……もっとも、街での友達も精霊だけだったのだが。
教師たちから学ぶ量は非常に多かったので、最初の頃はこなしきれずに叱責をもらってばかりだった。しかし彼らから良い評価をもらえば褒美がもらえることを知って以降、エリオットは各種のことを必死に学んだ。
褒美として望めるものの中には、母と一緒にすごす時間もあったからだ。
大きな城だというのに母の部屋は狭く暗い。
シーラの部屋を訪ねるたびにエリオットは、どうしてこんな良くない部屋なのかと不思議に思っていた。
「僕のお部屋はとても大きいのです。母上も一緒に使いませんか」
と会うたびに言うのだが、母は必ず首を横に振る。
「あなたのお部屋はあなたのものよ。私が一緒に行くことはできないの」
「でも、母上のお部屋は小さすぎます」
「私はこのお部屋でいいの。お城の決まりなのよ。ね、分かって、エリオット」
変な決まりだと思うのだが、自分ではどうすることもできない。
どんなに誘っても母は必ず断るので、身近な大人である教師に訴えたこともある。しかし彼らは眉をひそめると冷たい目で「エリオット様はもっと学ばれた方がよろしいでしょう」と言うばかり、結局は何も改善されない。
かと言って祖父に訴える勇気はなかったし、ほとんど会えない父には何も言うことができなかった。
そんな日々を3年ほどすごしたある日、町の家にいるときよりもずっと会う回数が少なくなった父が、珍しく部屋を訪ねてくる。
長椅子に座ったクロードは、自分の横にエリオットを呼んだ。柔和な顔立ちの父は久しぶりに会う息子を見て、青灰色の瞳を細める。
「エリオットはもう6歳になったんだな」
「はい」
そうか、とうなずいたクロードは、昔と同じようにエリオットの頭をなでた。
――もう大きくなったのだから、小さいころと同じようにして欲しくない。
エリオットは多少の反発を覚えたが、それでも大きな手で撫でられるのは嬉しかったので、されるがままになっていた。
クロードは撫でながらエリオットの様子を見ていたようだが、しばらくして手を離すとわずかに身をかがめ、エリオットの顔を覗き込む。
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「誰ですか?」
「可愛い女の子だ。もしかすると将来、エリオットのお嫁さんになってくれるかもしれない子だよ」
おどけたように言って父は笑う。
しかしエリオットは、お嫁さん、と呟いて首を横に振った。
「じゃあ、会わなくていいです」
「どうして」
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「だって、母上は父上のお嫁さんですよね」
「そうだよ」
「でしたらその子も、母上のようになるのでしょう?」
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今度会う可愛い女の子も、お嫁さんになってしまえば悲しいことが多くなるかもしれない。ならば彼女は、お嫁さんなどという存在にならない方が良いのだ。
その思いが伝わったのだろう。
クロードは息をのみ、かすれた声で「そうか」と呟いてうなだれる。
父の悄然とした様子に、エリオットは驚いて目を丸くした。どうやら自分は悪いことを言ってしまったらしい。
どうすれば良いのだろうとおろおろするうち、父は顔を上げる。困っている息子を見て安心させるように笑うと、強い意志を持った声で言った。
「私のせいで、お前とシーラ……母上にはつらい思いをさせたな。だが、もう少しだけ待ってくれ」
父の瞳には、声と同じく強い光があった。
「――頼む。女の子に会ってくれないか、エリオット」
迷った末、エリオットはうなずいた。
* * *
「それでこの前の女の子は、大きくなったら僕のお嫁さんになるって決まったんです」
『仲良くなれたのですね、良かった。エリオットも嬉しいでしょう?』
「うーん、良く分かりません。でも、髪の色を嫌な目で見られなくて嬉しかったです」
誰もが髪を見て嫌な表情を浮かべるので、父のような金色ならどんなに良かっただろう、とエリオットは何度も思ったことがある。
しかし母と同じ褐色の髪だって、本当は好きだ。だからこそマリエラが髪の色を嫌がらなかったのは、エリオットにとって嬉しいことだった。
話を聞いた古の大精霊は、笑いながら枝を震わせる。
木に背をもたせかけて地面に座っていたエリオットも、彼女に合わせて笑った。
――今日、古の大精霊に会えて良かった。
可愛い女の子、マリエラ・クラレスと一緒に来た時、古の大精霊は話している最中に眠ってしまい、以降はしばらく目覚めていなかった。ようやく目が覚めたと城へ連絡があったので、眠る前にと急いで会いに来たのだ。
エリオットにとって精霊は友達だが、古の大精霊はもうひとりの母だった。
「それで、マリエラがお嫁さんになるって決まってから、母上は新しい部屋に移ったんです。今度は僕のと同じくらい大きい部屋なんですよ」
『まあ。良かったですね』
大精霊の声に、エリオットはうなずく。
「前よりたくさん会えるようになったし……今日もこの後、会う予定なんです」
『あら、そうなの? では、早く母上の元へ行きたいでしょう?』
笑みを含んだ声で言われるが、エリオットは笑って首を振る。
「大精霊にもお会いしたかったから、もう少しここにいます」
『それは光栄ですこと』
大精霊の嬉しそうな声に合わせて一緒に笑っていたエリオットだったが、徐々に声が小さくなり、最後にはため息をついた。
「以前の母上の部屋はとても小さかったんです。だから僕の大きい部屋で一緒に暮せばいいのにって思ったんですけど、それは駄目なんだそうです。変ですよね」
エリオットは膝を抱える。
古の大精霊が宿る美しい木はエリオットから見ればとても高く、本当は天まで届いているのではないかと思うくらいだ。
そして咲き誇る銀の花は街を魔物から守ってくれる貴重な花、他の地域の人には決して知られてはいけない宝物なのだと聞いていた。
だから余所者であるシーラには何も言うな、見せるなと、術士からは釘を刺されている。
母も事情は知っているのだろう。木に関して尋ねてきたことは一度もない。
それでもエリオットは、銀の花が咲き乱れる美しい木を母にも見せたいと思っていた。
「他にも、あれをしては駄目、これをしなさいって言われる中には、変なことがたくさんあるんです」
しかし少しでも反論や疑問を口に出そうものなら、周囲からは「市井の産まれのせい」「母親の身分が低いから」「これだから余所者は」などと言われ、最後には必ず「公爵家の方としてもっと自覚をお持ちください」と諭される。
意味は良く分からなかったが、母を悪く言われていることだけは理解できた。母のせいだと思われたくないエリオットは周囲の要求を黙って受け入れ、気持ちを表に出さないように努力していた。
「お城は変なことが多いから嫌い……」
大精霊の前では素直になっても怒られない。
ため息をつきながら胸中を吐露し、地面の草をむしって投げていると、頭上から悲しげな声がする。
『……シャルトスのお家は嫌いですか、エリオット?』
エリオットは木を見上げると、あわてて首を横に振った。
「ううん。嫌いじゃないです」
大精霊はエリオットの祖先である、ずっと昔にいた女王のことを愛していたそうだ。女王の血筋であるシャルトス家を否定されるのは、古の大精霊にとってつらいことなのだろう。
「きっと、僕ができないことばかりだからいけないんです。姉上はきちんとできているのだから、僕ももっと頑張らなくちゃ」
姉のリュシーは8歳、エリオットや母に冷たくしない、数少ない人物のひとりだった。精霊に関する力がないので公爵家の継承権を持たないのだと、教師から聞いたことがある。
継承権がないためか、リュシーもどちらかと言えば冷遇されている。エリオットたちに気安くしてくれるのも、その辺りに理由があるのかもしれなかった。
「僕だって6歳だから、もっとたくさんできるはずなんです。――そうだ。今度はフロランと一緒に来ます。そして大精霊のことをいろいろ教えてあげよう」
2歳になった弟のフロランは最近になって、精霊に関する力があると分かった。
彼とはきっと、精霊についてたくさん話ができるに違いない。
表情が明るくなったエリオットを見て、大精霊は楽しそうにころころと笑う。
『あら、まあ。楽しみにしていますよ』
しかし彼女はその後すぐに反応がなくなる。どうやら眠ってしまったようだ。
エリオットはため息をついて立ち上がる。もっと話したいことがあったのに、大精霊はすぐに眠ってしまう。そして一度眠ると長い間起きない。
――次に話ができるのはいつになるだろうか。
ちょうど姿が見えた術士、自分の師匠でもあるジュストに大精霊が眠ってしまった旨を伝え、エリオットは少し離れて待機していた護衛たちに城へ戻ろうと声をかけた。
* * *
シーラの部屋はもともと1階の隅にある小さく暗い部屋だったが、今はエリオットと同じ2階の広い部屋へと移っている。
護衛や侍女たちとともに部屋へ向かうと、母はいつも以上に嬉しそうな笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「母上、何か良いことがあったのですか?」
小さな部屋にいた頃の母は、笑みを浮かべていてもどこかに憂いがあった。しかし新しい部屋に移ってからは翳りも薄くなった気がする。
しかも今日の母は心の底から嬉しそうな笑顔だったので、エリオットも思わず笑顔になった。
(大精霊とも話ができたし、母上はとても嬉しそうだし、今日はなんていい日なんだろう)
長椅子に座った母に手招きされたので、隣に腰かけて見上げると、シーラは笑顔のまま口の前に指を一本立てる。
「あのね、エリオット。このお話は、お父様もまだ知らないのよ。こっそり教えてあげるから、みんなには秘密ね」
エリオットがうなずくと、母は耳打ちをする。エリオットは顔を輝かせた。
「本当!?」
笑顔のままうなずく母に、エリオットは両手を上げて、やった、と叫ぶ。
直後、みんなには秘密との声を思い出して、慌てて口を押えた。
シーラはそんなエリオットを見ながら幸せそうな微笑みを浮かべている。
(ああ、やっぱり僕は、もっともっといろんなことを頑張ろう。そして、たくさんの変なことから母上を守れるようにならなきゃいけない。母上と、このあと産まれる――)
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