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ディズニーランドはなぜ楽しいのか
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「ディズニー行きたーい!」
艶やかな丸みを帯びた高い声でこんなことを言う者を一週間に1人は見ている気がする。殊に、この感染症時代の今においては人々の旅行欲も高まるところまで高まっているからこのような言説をひどく耳にしているのかもしれない。
ディズニー、というのは皆さんご存知「東京ディズニーランド」である。東京と言いながら千葉の浦和にある『正確には「浦和ディズニーランド」』とか揶揄されがちなあの夢の国である。広さはバチカン市国とほとんど同一で、広大な面積を誇っている。広いのは面積ばかりでなく、キャストの心もバチカン市国なみ、いやロシア連邦並みの広さがある。ここの接客の素晴らしさは言うまでもなく日本一だろう。ここでは、割愛するがディズニーランドキャストの心温まる話なんていうのはネットに腐るほど転がっている。そのキャストのおかげもあってかディズニーランドに行って充実せずに過ごすということは不可能なまである。どんなにイチャイチャ世界観見せつけ害悪カップルがのさばっていようとも、ましてや1人であろうともあの空間にいる限りはリア充として居られるのは間違いない。あの充実感を、夢の国のひと時を我々は日々の現世のつらさを耐えるために思い出し、渇望するのである。
しかし、私たちはなぜ、ディズニーランドに行くのだろうか。なぜ、ディズニーランドをそこまでも渇望するのだろうか。一体、ディズニーランドの何が楽しいのだろうか。
さて、このディズニーランドの何が楽しいのか、という命題を紐解く一つの鍵が「比較」である。つまりは、他の同様の形態と比して何が違うのかに、その要因が含まれているのではないかと仮定することである。
例えば、ディズニーランドには行きたいというJ Kだが、なぜ開口一番に「USJに行きたい!」とはならないのだろうか、もちろんUS Jに特別こだわりのある人は開口一番「USJ!」となるかもしれないが、私の知る限りそのような人は稀である。そしてこの「私の知る限り」は人気投票などの種々の統計を鑑みても全国的にそのようなのは確実だ。そこで、私はこの統計的、あるいは経験的事実がなぜなされるのかを思考しようと思うのである。
そこで、USJと東京ディズニーランドの違いを考えてみると、、見当たらない。文字に並べ立てるほどの大きな違いはない。キャストのレベル、キャラクタリングの加減、取り扱う作品の規模の大きさなどなど二つの双璧を成す日本二大遊園地にサービス上の大きな違いはないだろう。もちろん、パークの面積や、演出の程度など違いはあれどサービス体型や方向性に大きな違いはない。そこに生まれる幸福度合いにさして差は生まれないような気がする。生まれたとしてもそこから先は個人的価値観の差異であろう。
これは困った。
ディズニーランドとUSJに差異がなければ、私の仮定が誤っていたことになる。しかしながら、ディズニーランドが他よりも一つ頭が抜けて人気なのは間違いない。では、ほかに違いがあるのではないか。
今、「頭一つ抜けて人気なのは間違いがない」と言った。これは私の認識である。そしてさらに、「前述の人気投票などの種々の統計を鑑みても全国的にそのようなのは確実だ。」との言説からこの『最も人気である』認識は一般概念と言って差し支えないこともわかる。これこそ違いではないか。ディズニーランドとUSJは『最も人気である』か否か。そこに差異があるのである。そしてこれは一般概念であり、互いに影響し合うがために広範に拡張しうる。
そもそも概念とは人々の中に生来でありながら、人々の認識の総体である。18世紀ドイツの哲学者エマニュエル・カント大先生に言わせれば、「人は概念という「型」にあてはめて物事を認識している。」のである。
例えば、我々は氷を触った時に、視覚とともに「氷というのは冷たいから、それに触れると冷たい」という風に認識する。この「~だから」にあたる部分が概念である。「キムチは辛いから、食べると辛い」し、「空から水滴が落ちているから、雨が降っている」のである。
この因果関係の「型」によって人間は認識する。
もし、この「型」がなければ、キムチを見ても、「甘いかもしれないなぁ、塩辛いからもしれないなぁ、辛いかもしれないなぁ」と視覚と知覚がまったく関連せず、認識できない。
人間は世界をただ受け取るのではなく、自分の中で概念という「型」があってこそ受け取った情報を主体的にまとめ上げることができるのだ、そしてその主体的な行為が当然期待できるものである。と、そのようにカントは力説していた。
そこに突如、アドルノとホルクハイマーというこれまたドイツの哲学者が現れる。彼らはかく言う、
「文化産業が支配的な現代においては消費者の感性そのものがあらかじめ制作プロダクションのうちに先取りされている。」
なんとも難しいが、要は簡単だ。
「カント爺さんよ、そんな型なんて現代にはねぇよ、物事をどう感じるかという受け取り方があらかじめ用意されてるのが現代なんだよ!」と強い反論を示している。
つまり、「ディズニーランドが楽しい」という感情があったとして、そこに概念はないということだ。「ディズニーランドは~だから」楽しいわけではない。むしろ、そこにあるのは「ディズニーランドは楽しいから楽しい」というあらかじめ用意された概念である。
我々は明確な概念を持って自主的にディズニーランドが楽しいとは微塵も思えない。もちろん、「キムチが辛い」とか「氷は冷たい」というものを感じさせないことはできない。自明の理であるからだ。ただそれが、辛いとか冷たいとかではなくて、「楽しい」だったらどうなるのであろうか?
メディアや大量の広告、人々の流源や行動が「これが楽しいってことなんだ!」、「これをしたら絶対楽しいんだ!」というイメージを植え付ける。そこに「楽しいもの」が多分に提供される。我々はその「楽しい」を「楽しいもの」以外に受け取ることはできない。
つまり、ディズニーランドが楽しいのは「皆が楽しい」と思うから、「楽しい」というイメージがあるから、楽しいのである。我々はディズニーランドを楽しむ以外の受け取り方を知らないから楽しいのである。
この現代社会の概念による主体的に感性の喪失は創造性を大きく失わせる。 Aなんだからこれは Aに決まってるだろ!という画一的な感性は実に悲しい。
東京に行ったらディズニーランドに行くのが普通だろ!というような定型ではなくて、別に国立博物館に行っても、国立近代美術館に行っても楽しいかもしれないから。行ってみようという方が
よっぽど創造的ではなかろうか。
本当にディズニーランドが楽しいのか、一度、疑いながら行ってみたらどうなのだろう?そこまでしても、ディズニーランドは最高の娯楽を提供している場所と言えるのであろうか?再考の余地は存分にある。
「量産型J K」という言葉がある。
インスタやTikTokなどで流行りのものを率先して引用して、真似たがるJ Kの多くのことを指す言葉だが、これこそまさに資本主義的な「ただ受け取るだけ」の創造性のない人間の代表格である。「みんながやっているから、」私もやるのであり、そこにそれなら本当にセンスのある行為なのかどうかという批判精神は何もない。ただ単にみんなの感性というあらかじめ用意された感性そのものに従うだけだ。「考え」がない。「主体」がない。
私は量産型J Kの投稿を見ているとつくづく悍ましくなる。あたかも、自身がクリエイティブであるようにそれらしく写真を撮り、あるいは動画を撮り、「見てください!私の創造性とセンスを!」と言うような投稿は下品以外の何物でもない。あんなものはゴミ以下だ。
みんながやっているから、私もやったらそのクリエイティビティがわたしにもあることになるのではないか、という推論は全くナンセンスだ。むしろ、逆。まんまと策略に組み込まれている。
現代人、殊にJ Kのほとんど多くには批判精神が足りない。本当にそれが、自分のやりたいことなのか?それが楽しいことなのか?それをやることで美しいと評価してくれる人がいるのか?
我々は現代人特有の、この押し付けられた価値観に打ち勝たなければならない。その向こうに創造性というこの上ないものが控えているのだから。
艶やかな丸みを帯びた高い声でこんなことを言う者を一週間に1人は見ている気がする。殊に、この感染症時代の今においては人々の旅行欲も高まるところまで高まっているからこのような言説をひどく耳にしているのかもしれない。
ディズニー、というのは皆さんご存知「東京ディズニーランド」である。東京と言いながら千葉の浦和にある『正確には「浦和ディズニーランド」』とか揶揄されがちなあの夢の国である。広さはバチカン市国とほとんど同一で、広大な面積を誇っている。広いのは面積ばかりでなく、キャストの心もバチカン市国なみ、いやロシア連邦並みの広さがある。ここの接客の素晴らしさは言うまでもなく日本一だろう。ここでは、割愛するがディズニーランドキャストの心温まる話なんていうのはネットに腐るほど転がっている。そのキャストのおかげもあってかディズニーランドに行って充実せずに過ごすということは不可能なまである。どんなにイチャイチャ世界観見せつけ害悪カップルがのさばっていようとも、ましてや1人であろうともあの空間にいる限りはリア充として居られるのは間違いない。あの充実感を、夢の国のひと時を我々は日々の現世のつらさを耐えるために思い出し、渇望するのである。
しかし、私たちはなぜ、ディズニーランドに行くのだろうか。なぜ、ディズニーランドをそこまでも渇望するのだろうか。一体、ディズニーランドの何が楽しいのだろうか。
さて、このディズニーランドの何が楽しいのか、という命題を紐解く一つの鍵が「比較」である。つまりは、他の同様の形態と比して何が違うのかに、その要因が含まれているのではないかと仮定することである。
例えば、ディズニーランドには行きたいというJ Kだが、なぜ開口一番に「USJに行きたい!」とはならないのだろうか、もちろんUS Jに特別こだわりのある人は開口一番「USJ!」となるかもしれないが、私の知る限りそのような人は稀である。そしてこの「私の知る限り」は人気投票などの種々の統計を鑑みても全国的にそのようなのは確実だ。そこで、私はこの統計的、あるいは経験的事実がなぜなされるのかを思考しようと思うのである。
そこで、USJと東京ディズニーランドの違いを考えてみると、、見当たらない。文字に並べ立てるほどの大きな違いはない。キャストのレベル、キャラクタリングの加減、取り扱う作品の規模の大きさなどなど二つの双璧を成す日本二大遊園地にサービス上の大きな違いはないだろう。もちろん、パークの面積や、演出の程度など違いはあれどサービス体型や方向性に大きな違いはない。そこに生まれる幸福度合いにさして差は生まれないような気がする。生まれたとしてもそこから先は個人的価値観の差異であろう。
これは困った。
ディズニーランドとUSJに差異がなければ、私の仮定が誤っていたことになる。しかしながら、ディズニーランドが他よりも一つ頭が抜けて人気なのは間違いない。では、ほかに違いがあるのではないか。
今、「頭一つ抜けて人気なのは間違いがない」と言った。これは私の認識である。そしてさらに、「前述の人気投票などの種々の統計を鑑みても全国的にそのようなのは確実だ。」との言説からこの『最も人気である』認識は一般概念と言って差し支えないこともわかる。これこそ違いではないか。ディズニーランドとUSJは『最も人気である』か否か。そこに差異があるのである。そしてこれは一般概念であり、互いに影響し合うがために広範に拡張しうる。
そもそも概念とは人々の中に生来でありながら、人々の認識の総体である。18世紀ドイツの哲学者エマニュエル・カント大先生に言わせれば、「人は概念という「型」にあてはめて物事を認識している。」のである。
例えば、我々は氷を触った時に、視覚とともに「氷というのは冷たいから、それに触れると冷たい」という風に認識する。この「~だから」にあたる部分が概念である。「キムチは辛いから、食べると辛い」し、「空から水滴が落ちているから、雨が降っている」のである。
この因果関係の「型」によって人間は認識する。
もし、この「型」がなければ、キムチを見ても、「甘いかもしれないなぁ、塩辛いからもしれないなぁ、辛いかもしれないなぁ」と視覚と知覚がまったく関連せず、認識できない。
人間は世界をただ受け取るのではなく、自分の中で概念という「型」があってこそ受け取った情報を主体的にまとめ上げることができるのだ、そしてその主体的な行為が当然期待できるものである。と、そのようにカントは力説していた。
そこに突如、アドルノとホルクハイマーというこれまたドイツの哲学者が現れる。彼らはかく言う、
「文化産業が支配的な現代においては消費者の感性そのものがあらかじめ制作プロダクションのうちに先取りされている。」
なんとも難しいが、要は簡単だ。
「カント爺さんよ、そんな型なんて現代にはねぇよ、物事をどう感じるかという受け取り方があらかじめ用意されてるのが現代なんだよ!」と強い反論を示している。
つまり、「ディズニーランドが楽しい」という感情があったとして、そこに概念はないということだ。「ディズニーランドは~だから」楽しいわけではない。むしろ、そこにあるのは「ディズニーランドは楽しいから楽しい」というあらかじめ用意された概念である。
我々は明確な概念を持って自主的にディズニーランドが楽しいとは微塵も思えない。もちろん、「キムチが辛い」とか「氷は冷たい」というものを感じさせないことはできない。自明の理であるからだ。ただそれが、辛いとか冷たいとかではなくて、「楽しい」だったらどうなるのであろうか?
メディアや大量の広告、人々の流源や行動が「これが楽しいってことなんだ!」、「これをしたら絶対楽しいんだ!」というイメージを植え付ける。そこに「楽しいもの」が多分に提供される。我々はその「楽しい」を「楽しいもの」以外に受け取ることはできない。
つまり、ディズニーランドが楽しいのは「皆が楽しい」と思うから、「楽しい」というイメージがあるから、楽しいのである。我々はディズニーランドを楽しむ以外の受け取り方を知らないから楽しいのである。
この現代社会の概念による主体的に感性の喪失は創造性を大きく失わせる。 Aなんだからこれは Aに決まってるだろ!という画一的な感性は実に悲しい。
東京に行ったらディズニーランドに行くのが普通だろ!というような定型ではなくて、別に国立博物館に行っても、国立近代美術館に行っても楽しいかもしれないから。行ってみようという方が
よっぽど創造的ではなかろうか。
本当にディズニーランドが楽しいのか、一度、疑いながら行ってみたらどうなのだろう?そこまでしても、ディズニーランドは最高の娯楽を提供している場所と言えるのであろうか?再考の余地は存分にある。
「量産型J K」という言葉がある。
インスタやTikTokなどで流行りのものを率先して引用して、真似たがるJ Kの多くのことを指す言葉だが、これこそまさに資本主義的な「ただ受け取るだけ」の創造性のない人間の代表格である。「みんながやっているから、」私もやるのであり、そこにそれなら本当にセンスのある行為なのかどうかという批判精神は何もない。ただ単にみんなの感性というあらかじめ用意された感性そのものに従うだけだ。「考え」がない。「主体」がない。
私は量産型J Kの投稿を見ているとつくづく悍ましくなる。あたかも、自身がクリエイティブであるようにそれらしく写真を撮り、あるいは動画を撮り、「見てください!私の創造性とセンスを!」と言うような投稿は下品以外の何物でもない。あんなものはゴミ以下だ。
みんながやっているから、私もやったらそのクリエイティビティがわたしにもあることになるのではないか、という推論は全くナンセンスだ。むしろ、逆。まんまと策略に組み込まれている。
現代人、殊にJ Kのほとんど多くには批判精神が足りない。本当にそれが、自分のやりたいことなのか?それが楽しいことなのか?それをやることで美しいと評価してくれる人がいるのか?
我々は現代人特有の、この押し付けられた価値観に打ち勝たなければならない。その向こうに創造性というこの上ないものが控えているのだから。
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楽しみにしてたぜェイ↑
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