初恋の妖精

シャルロット(Charlotte)

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初恋の妖精

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 はっとして僕は振り返った。その先には未樹が立っていた。その状況が僕には理解できなかった。未樹は一メートルくらい離れたところに立って、笑顔とも嘆きともとれる表情で、僕を真っ直ぐに見つめていた。

「未樹、どうしてここにいるんだ?病院にいるはずじゃなかったのか?!」

雪がひとつ、またひとつと目の前を落ちていく。ほんの数秒前まで降っていないはずだった。はらはらと落ちる黒くて重たい雪だった。空気の温度がすーっと下がっていく。長袖の上着を着てきた僕ですら、冷気が忍び込んできて寒くなってきた。そんな中に、未樹は白いワンピース姿で立っていた。上着もなく、マフラーや手袋もしていない。靴すらも履いていなかった。裸足の足は既に紫色になり始めていた。

「何だか急に、拓也に会いたくなっちゃって」

小さく微笑みながら彼女は言った。普段なら口にしないような言葉だった。

 未樹はどちらかというと自分のことを何でも口にする少女だった。中学校三年で初めて同じクラスになった未樹と僕は、同じ高校を目指していた。女の子っぽい仕草で、いつも励ましてくれる彼女に、いつしか僕は惹かれていった。二人揃って合格発表を見た日の帰り、僕は未樹に告白した。「僕の傍にいてくれないか」。その言葉に彼女は「うん」とだけ答えた。ただ「うん」とだけ。あれから二人で過ごす時間は少しずつ多くなった。でもあの返事以外の言葉はお互い口にしなかった。こうして二人で過ごすことが答えだと、何となく勝手に納得していたのだろう。あの日の告白以来、二人の間には思いを確かめる言葉はなかった

「雪だわ」

未樹は言った。僕は何も答えなかった。空を押しつぶしそうな重たい雲から、止まることなく雪が落ちてくる。十一月の町には灰色の絨毯が敷かれていく。

「寒くないのか、未樹」

寒いのは分かっている。でもそんなことしか言えなかった。僕の体は相変わらず固まったように、その場から動けなかった。しかしそんな僕を見る目を悪戯っぽく笑わせながら、未樹は

「別に大丈夫よ」

と答えた。車の音が不意に聞こえなくなる。街の喧騒が遠のいてゆく。聞こえるのは足元で微かに雪が踏みしめられる音だけだ。

「あたし、行かなくちゃならないの」

未樹が唐突に言った。

「どこに行くんだよ」

「あっち」

微笑みながら未樹は振り返って指差した。その方向にあるのはコンクリート造りの寂れたビルだけだ。もう誰も住んでないし、会社もない。そんなビルの集まりだ。行くところなど無い。

「行くなよ」

未樹が行ってしまう。もう戻って来ない。僕はなぜかそう感じた。絶対に行かせたらいけない。

「行くな!」

僕は叫んだ。驚いた表情で未樹は振り返った。さっきまでの張り付けた仮面のような微笑みが初めて崩れた。けれど未樹はゆっくりと首を振った。そしてまたビルの方に向かって歩き始めた。

 僕はとっさに未樹に走り寄った。そして彼女の右腕をつかんだ。今度こそ未樹は振りむいた。

 冷たかった。彼女の腕は驚くほど冷たかったのだ。まるで氷のようだった。

「どうして?」

子どものように未樹は僕に聞いた。

「行ったらダメだ。ここにいるんだ!」

「どうしてなの?」

答えは考える前に口から出てきた。

「僕は、ずっと傍に居ろって言ったじゃないか」

不意をつかれたような表情の未樹。彼女の体が一瞬強張った。そして表情が徐々に変わった。まるで雪が解けるようにゆっくりと、彼女の顔が笑顔とも泣き顔とも取れる不思議な顔にくずれた。

「二度目だね」

かみしめるように未樹は言った。そして頼りなさそうに笑った。

「告白されたときも、拓也にそう言われたよね。あのときの言葉、まだ、覚えていてくれたんだね」

嬉しかった。彼女はそう呟いた。僕は言った。

「当たり前だよ」

「当たり前?」

オウム返しに未樹は聞いた。

「当たり前だよ……」

言いかけて僕は止まった。本当に当たり前だったのだろうか。彼女の顔を見ているうち、僕はそれが当り前じゃないように思えた。未樹はこのごろ、僕に会うとどこか悩んだような伏し目がちの表情だった。言わなくても、彼女が遠慮していることぐらい分かった。

「心配、していたのか」

僕の問いに未樹は黙って頷いた。

「だって、拓也は、あれから何も言ってくれなかった。あれから一年半も経っているんだよ。でも、一度も言ってくれなかったもの……」

返す言葉が無かった。僕は未樹の腕を放した。そして自分の上着を脱ぐと未樹の肩にかけた。僕の寒さより、未樹の方が大事だった。そっと上着の端を持つと腕を通していた。

「大好きだよ」

僕は言った。すると未樹は不思議な事を聞いた。

「なんで?」

「な、なんで?」

オウム返しに聞いたのは今度は僕だった。

「どうしてそんなこと聞くんだよ?」

すると未樹は今まで一度も言わなかったことを口にした。

「あたしのことなんか、どうして好きになったんだろうって、思ったから……」

「どうしてって……」

僕は何と答えるべきか分からなった。その間にも未樹は少しずつ話していた。

「だってね、あたしちっとも女の子っぽくないし。拓也に迷惑ばっかりかけているでしょ。それなのに拓也は嫌な顔一つしない。本当は言わないだけじゃないかって。このままじゃいけないよ」

「僕が好きなんだから良いじゃないか」

「そんなことない!このまま頼ってばかりじゃ、いつか拓也はあたしのこと嫌いになっちゃうもん!」

いつになく子どもっぽい言い方だった。でもそれは同時に嫌われたくないという未樹の強い思いなのだ。

「未樹は、僕のことどう思ってるの?」

「えっ」

「僕は未樹の言葉を、まだ聞いてないよ」

さっきまで叫ぶように言っていた未樹が、急に黙ってしまった。彼女がしゃべり始めるまで、僕は待った。

 そしてゆっくりと言った。

「あたし、拓也に嫌われたくないよ。すごく頼りたい。でもあたし、拓也のこと好きなのかどうかわからないよ。好きって気持ちもどんななのか分からないの。拓也が他の人のことを好きになったら、あたしのことは邪魔になっちゃうでしょ。あたしが他に好きな人が出来たら困らせちゃうし」

「そうやって未樹は僕のことばかり考えているんだね。でも僕は、未樹の気持ちを知りたいよ。それがどんなことでもいいんだ。ただ未樹が今何を思っているのか、それを我慢して抱え込んでほしくないんだよ」

「あたし、拓也を傷つけたくないの」

「本当にそうすることが大切なのかな?」

「えっ?」

「例え傷ついてもいいから素直に伝えることが大事なんだよ。僕、分かったんだ。言わなくても分かるなんて、そんなの自分にも相手にも甘えてるんだ。本当に相手を大事にしようと思ったら、いつでも言いたいことを言わなくちゃいけないよ。確かに人を傷つけるようなことはダメだけど、想いを伝えることは、大切な事だと思うんだ」

僕の言葉に未樹はずっと黙っていた。

「未樹?」

顔を覗き込むと、頬を涙が伝った。

「未、未樹?何か悪いこと言ったかな?」

未樹は首を横に振った。

「ううん。あたしね、こんなに誰かのこと好きでいてくれる人がいるんだって、知らなかった。今すごく幸せだよ」

未樹の言葉は僕の心に一つ一つしみ込んできた。

「僕、ずっとこの世界が大嫌いだった。良いことなんて一つもなくて、それなのに人はみんな離れていく。周りの人みんなを疑って、そこから人付き合いを始めていたんだ。だから心から信じられる人なんていなかったんだよ。でもね、未樹に会って、未樹のこと信じたいと思った。何にも疑わずにただ信じていたいんだ。だから未樹に隠し事されるのは嫌なんだ。嫌な事もしてほしいことも、全部言ってくれればいい。嫌いになったらそう言えば良いし、他の人が好きになったらそれでも良いよ。それでも知りたいんだ」

未樹は頷いた。何度も何度も頷いた。僕は未樹の肩をそっと抱くようにして、その細い肩を三回優しくたたいた。泣いている子どもをなぐさめるような、そんな仕草だった。涙を流しながらでも笑って未樹は答えた。

「うん。きっと上手くできないけど、素直になるね」

「僕もだよ」

未樹がそっと右手を差し出した。そしてニコッと笑った。未樹の手の上に真っ白な雪が一つか二つ乗った。綺麗な結晶は、ほんの数秒で溶けてしまう。でもその一瞬が好きだった。僕は手を差し出し、未樹の手を握った。さっきと違い、温かな手だった。女の子らしい柔らかな手に、僕は少しキュンとした。

 僕の右手の中で、未樹の手がすっと消えた。まるで雲のように溶けてしまった。あっと言ったときには、未樹はいなかった。道路には僕の上着が落ちていた。

 僕の携帯が鳴り響いた。街の音がいきなり耳に戻ってきた。僕が通話に出るとそれを待っていたかのように早口の女の子の声が聞こえた。

「あ!拓也君!すぐ来て!すぐすぐ!!お姉ちゃん意識が戻ったよ!頭打ったのに奇蹟的だって先生言ってた。一度は危なかったんだけど、なぜか今ちょうど戻ってきたの!!」

分かったと返事をして、僕はすぐに病院に向かった。それがなぜなのか、僕には分かっていた。



 病室に着くとそこにいたのは未樹だけだった。彼女はベッドに横になっている。傍の椅子に座ると、僕は言った。

「僕は未樹のこと好きだよ」

さっきの夢のような出来事が何だったのか、多分僕も未樹も分かっているはずだ。だからだろう、彼女は理由も聞かずに、ふふっと笑って言った。

「ありがとう。じゃああたしも言うね」

 窓の外では雪が優しく舞い降りてきていた。純白の雪は地面をうすく染める。花壇の赤い花は、一列に並び真っ直ぐな道を描いているようだ。開いた窓から風が吹き、レースのカーテンをゆっくりと揺らした。入ってきた雪は机に置かれた未樹の携帯ストラップの上に乗った。二つの苺がついたストラップだ。

「私も拓也のこと、大好きだよ」

未樹が言った。僕は気がついた。僕が好きになったときの未樹も、こんな素敵な笑顔だった。

「やっぱり未樹じゃなきゃダメだよ」

「好きになったのが、拓也でよかった」

 苺と苺がそっとくっついた。雪の魔法が二人をふんわりと包んだ。
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