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弥助の因縁 其ノ弐
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「黄昏は人を振り返させる……その理由を我は知らぬ……」
日が暮れるか暮れないかの頃、桐野とさくらは老朽化した大きな橋、松島橋と呼ばれるところの手前に来ていた。
そして、目の前には橋の手すりに腰を預けている弥助が照れくさそうに笑っていた。
「流石、旦那ですね。あっしがどこにいるのか、すぐに分かっちまうんですから」
「長年の付き合いだ。分からないほうが可笑しかろう」
「そんで、さくらも来てくれたのか」
愉快そうに言う弥助だけど、いつ手すりを越えて川に飛び込みそうな、危うい空気があった。それを敏感に察知できないさくらではない。
「桐野から聞いたの。その……弥助さんの過去」
「ふうん。それでどこまで聞いた?」
「……師匠を殺した。それしか聞いてない」
弥助はふーっとため息を吐いて「旦那の言うとおりだよ」と肯定した。
「あっしは師匠の永須斎様を殺した」
「……何か事情があるんでしょ? 理由が無いとあなたはそんなこと――」
「おかしなことを言うなよ。どんな事情や理由があっても人を殺しちゃいけないんだぜ」
弥助の言葉は残酷だが正しい。
そんなこと、さくらは分かりきっていた。
だけど――弥助をどうにか庇いたかった。
「それでも、あたしは信じたいの。弥助さんが悪人じゃないって」
「…………」
「信じちゃ駄目なの?」
弥助は――笑っていた。
子供の幼稚な理屈だと彼は思った。
でもそれが――何故か心地良い。
「……貴様と初めて邂逅したのは、この古い橋のここだったな」
弥助の穏やかになった空気を感じたのか、桐野が彼には珍しく優しい口調で言う。
すると弥助は「そう、でしたね……」と思い出すかのように目を細めた。
「あのとき――貴様は泣いていたな。涙を流さずに、静かに悲しんでいた」
「やっぱり、旦那には勝てませんね――」
◆◇◆◇
『貴様は何故、こんなところで泣いている?』
これは邪気眼侍がまだ万屋を営む前の話だ。
三年前――まだ桐野が十代をようやく終わるかどうかの年齢のときに二人は出会った。
大雨の中、弥助は橋のそばで俯いて座り込んでいた。顔には大きく包帯が巻かれていて、表情は窺えない。けれども、桐野は分かってしまった。この男は泣いていると。
『……下手な好奇心であっしに関わるなよ、兄ちゃん』
ずぶ濡れになりながら、弥助は強がっていた。自らを追い込むように他人の助けを必要としなかった。
一方の桐野は唐傘を差している。傍目には濡れていないようだけど、奇妙な格好をしているので、弥助よりも奇異に見られる。
『下手な好奇心か。しかしそれで救われる者もいる。ほんの少しの慰めで、前に進める者もいる』
『……なんだい。あんたは助けてくれるのか――こんなあっしでも』
小馬鹿にした言い方だった。
何も期待していない、何も望んでいない風だった。
だけど――邪気眼侍はそう受け取らなかった。
『貴様が望むのであれば、助けてやろう』
『……何を言っているんだ?』
『理解っているはずだ。本心は、助けてもらいたいと願っている……違うか?』
その見透かしたような一言に、弥助は無性に怒りを覚えた。立ち上がって小柄な桐野を見下すようにして『あんたに、何が分かるんだ!』と怒鳴った。
『世間を何も知らねえようなガキが、偉そうに講釈すんな!』
『……貴様を蝕む元凶を我は知らん。だか興味はない。はっきり言ってどうでも良いことだからだ。だかな、こんな我でも見過ごせないことがある』
桐野は弥助を見上げて、そして片目で挑むように睨んだ。その精悍な顔つきに弥助は何も言えなくなってしまった。
『それは――己を不幸だと思い込んでいる人間だ。頑張ることができれば、まだ生きていられるのに、立ち上がれない人間だ』
『……あっしのことを言ってんのか』
『貴様が望むのであれば、手を貸してやる』
弥助はなんで若造に上から言われなければいけないのか、判然としなかった。そして何故、自分が救いの手を差し伸べられているのかも理解できなかった。そんな資格なんて――無いはずなのに。
『教えてやろう。この世界は面白い。そしてこの世界に住まう人間共も愉快でたまらない。だからこそ、人生は波乱万丈で飽きないものだ。それ故、貴様の悩みなど、生きていれば解決する』
『…………』
『我についてこい。さすれば貴様は生きることを楽しめる』
何の根拠もない、ただの戯言だった。
だけど、弥助は桐野がずっと差し伸べている手を取った。
この若者は奇妙な格好をしているけれど。
自分を導いてくれると思えた。
自分はどうしようもない人間だ。
しかしそれでも生きていこう。
いつか訪れる、裁かれる日まで――
◆◇◆◇
「貴様の過去を詳しく知らぬ。師を殺したとしか話に聞いておらん。我も殊更に訊こうとしなかった」
「……進んでしたい話ではありませんから」
「だがしかし、死にに行く者を止めるためには必要な痛みだと思うのだ。我が相棒よ」
桐野の声音が普段よりも優しいものだとさくらは気づいていた。もちろん弥助も分からないわけがなかった。邪気眼侍は奇矯な振る舞いをするけど、甘ったるいくらい身内に優しかった。
「我に任せよ。その嶋野弥七郎とやらに話をつけてくる。果し合いを避けられずともせめて傷が癒えてから――」
「それは無理でさあ、旦那」
言い終わる前に弥助は首を横に振った。
桐野の提案は弥助にしてみれば火に油を注ぐようなことだった。それに桐野は勘違いしている。
「弥七郎の奴は決して了承しないでしょう。あっしが手傷を負ったからこそ、果し合いを申し込んだのですから」
「その程度の手合ならば、貴様が全快すれば勝てるだろう。あの浪人ほどの実力ではあるまい」
「弥七郎の強さは関係ありません。あいつが戦うわけではないんですから」
「……なんだと?」
桐野とさくらが思い込んでいたことをあっさりと否定する弥助。
「じゃあ誰が弥助さんと戦うの?」
桐野の代わりに訊ねるさくら。
弥助は――なんとも言えない感情を露わにしていた。これを言ってしまえば全て台無しになってしまう。そう考えている顔だった。
居心地の悪くて長い沈黙が続く――桐野とさくらは待った――弥助が再び口を開く。
「永須斎様には娘がいて、婿養子もいた。その二人は流行り病で夭折した……でも子供が二人生まれていた。男と女の兄妹だ」
いち早く気づいたのは桐野で、少し遅れてさくらも分かり口元を押さえる。
自嘲しているのだろう。弥助は乾いた笑みを浮かべた。
「旦那たちも分かったようだが、敢えて言わせてもらう。永須斎様を殺したあっしは――その子たちの仇だ。まだ十と八の兄妹だってえのに」
果し合いの皮を被った仇討ちだったのだ。
桐野は「我が相棒のことだ」と静かに言う。
「子供は殺せない。だから――死ぬ気なんだろう」
「やっぱり、分かっちまうもんですね」
「……我は許さぬぞ」
桐野は彼には珍しく大声で叫ぶ。
「殺されてやろうなどと考えるなんて! 我は絶対に許さないからな!」
さくらの目から涙が溢れ出ていく――弥助は困って笑って、そして――頭を下げた。
「すみません、旦那、さくら。あっしは死なねえといけないんですよ」
「き、貴様――」
「一つだけ、わがままを言って良いですかい?」
激昂する桐野に弥助はその場に座って頭を伏した。
明らかな土下座だった。
「果し合いのとき、あっしの立会人になってくだせえ。これが最初で最後のわがままでさあ」
それは頼みだったが、同時に謝罪でもあった。
もうこれ以上、弥助は邪気眼侍を守れない。そういう想いも多大に存在した。
日が暮れるか暮れないかの頃、桐野とさくらは老朽化した大きな橋、松島橋と呼ばれるところの手前に来ていた。
そして、目の前には橋の手すりに腰を預けている弥助が照れくさそうに笑っていた。
「流石、旦那ですね。あっしがどこにいるのか、すぐに分かっちまうんですから」
「長年の付き合いだ。分からないほうが可笑しかろう」
「そんで、さくらも来てくれたのか」
愉快そうに言う弥助だけど、いつ手すりを越えて川に飛び込みそうな、危うい空気があった。それを敏感に察知できないさくらではない。
「桐野から聞いたの。その……弥助さんの過去」
「ふうん。それでどこまで聞いた?」
「……師匠を殺した。それしか聞いてない」
弥助はふーっとため息を吐いて「旦那の言うとおりだよ」と肯定した。
「あっしは師匠の永須斎様を殺した」
「……何か事情があるんでしょ? 理由が無いとあなたはそんなこと――」
「おかしなことを言うなよ。どんな事情や理由があっても人を殺しちゃいけないんだぜ」
弥助の言葉は残酷だが正しい。
そんなこと、さくらは分かりきっていた。
だけど――弥助をどうにか庇いたかった。
「それでも、あたしは信じたいの。弥助さんが悪人じゃないって」
「…………」
「信じちゃ駄目なの?」
弥助は――笑っていた。
子供の幼稚な理屈だと彼は思った。
でもそれが――何故か心地良い。
「……貴様と初めて邂逅したのは、この古い橋のここだったな」
弥助の穏やかになった空気を感じたのか、桐野が彼には珍しく優しい口調で言う。
すると弥助は「そう、でしたね……」と思い出すかのように目を細めた。
「あのとき――貴様は泣いていたな。涙を流さずに、静かに悲しんでいた」
「やっぱり、旦那には勝てませんね――」
◆◇◆◇
『貴様は何故、こんなところで泣いている?』
これは邪気眼侍がまだ万屋を営む前の話だ。
三年前――まだ桐野が十代をようやく終わるかどうかの年齢のときに二人は出会った。
大雨の中、弥助は橋のそばで俯いて座り込んでいた。顔には大きく包帯が巻かれていて、表情は窺えない。けれども、桐野は分かってしまった。この男は泣いていると。
『……下手な好奇心であっしに関わるなよ、兄ちゃん』
ずぶ濡れになりながら、弥助は強がっていた。自らを追い込むように他人の助けを必要としなかった。
一方の桐野は唐傘を差している。傍目には濡れていないようだけど、奇妙な格好をしているので、弥助よりも奇異に見られる。
『下手な好奇心か。しかしそれで救われる者もいる。ほんの少しの慰めで、前に進める者もいる』
『……なんだい。あんたは助けてくれるのか――こんなあっしでも』
小馬鹿にした言い方だった。
何も期待していない、何も望んでいない風だった。
だけど――邪気眼侍はそう受け取らなかった。
『貴様が望むのであれば、助けてやろう』
『……何を言っているんだ?』
『理解っているはずだ。本心は、助けてもらいたいと願っている……違うか?』
その見透かしたような一言に、弥助は無性に怒りを覚えた。立ち上がって小柄な桐野を見下すようにして『あんたに、何が分かるんだ!』と怒鳴った。
『世間を何も知らねえようなガキが、偉そうに講釈すんな!』
『……貴様を蝕む元凶を我は知らん。だか興味はない。はっきり言ってどうでも良いことだからだ。だかな、こんな我でも見過ごせないことがある』
桐野は弥助を見上げて、そして片目で挑むように睨んだ。その精悍な顔つきに弥助は何も言えなくなってしまった。
『それは――己を不幸だと思い込んでいる人間だ。頑張ることができれば、まだ生きていられるのに、立ち上がれない人間だ』
『……あっしのことを言ってんのか』
『貴様が望むのであれば、手を貸してやる』
弥助はなんで若造に上から言われなければいけないのか、判然としなかった。そして何故、自分が救いの手を差し伸べられているのかも理解できなかった。そんな資格なんて――無いはずなのに。
『教えてやろう。この世界は面白い。そしてこの世界に住まう人間共も愉快でたまらない。だからこそ、人生は波乱万丈で飽きないものだ。それ故、貴様の悩みなど、生きていれば解決する』
『…………』
『我についてこい。さすれば貴様は生きることを楽しめる』
何の根拠もない、ただの戯言だった。
だけど、弥助は桐野がずっと差し伸べている手を取った。
この若者は奇妙な格好をしているけれど。
自分を導いてくれると思えた。
自分はどうしようもない人間だ。
しかしそれでも生きていこう。
いつか訪れる、裁かれる日まで――
◆◇◆◇
「貴様の過去を詳しく知らぬ。師を殺したとしか話に聞いておらん。我も殊更に訊こうとしなかった」
「……進んでしたい話ではありませんから」
「だがしかし、死にに行く者を止めるためには必要な痛みだと思うのだ。我が相棒よ」
桐野の声音が普段よりも優しいものだとさくらは気づいていた。もちろん弥助も分からないわけがなかった。邪気眼侍は奇矯な振る舞いをするけど、甘ったるいくらい身内に優しかった。
「我に任せよ。その嶋野弥七郎とやらに話をつけてくる。果し合いを避けられずともせめて傷が癒えてから――」
「それは無理でさあ、旦那」
言い終わる前に弥助は首を横に振った。
桐野の提案は弥助にしてみれば火に油を注ぐようなことだった。それに桐野は勘違いしている。
「弥七郎の奴は決して了承しないでしょう。あっしが手傷を負ったからこそ、果し合いを申し込んだのですから」
「その程度の手合ならば、貴様が全快すれば勝てるだろう。あの浪人ほどの実力ではあるまい」
「弥七郎の強さは関係ありません。あいつが戦うわけではないんですから」
「……なんだと?」
桐野とさくらが思い込んでいたことをあっさりと否定する弥助。
「じゃあ誰が弥助さんと戦うの?」
桐野の代わりに訊ねるさくら。
弥助は――なんとも言えない感情を露わにしていた。これを言ってしまえば全て台無しになってしまう。そう考えている顔だった。
居心地の悪くて長い沈黙が続く――桐野とさくらは待った――弥助が再び口を開く。
「永須斎様には娘がいて、婿養子もいた。その二人は流行り病で夭折した……でも子供が二人生まれていた。男と女の兄妹だ」
いち早く気づいたのは桐野で、少し遅れてさくらも分かり口元を押さえる。
自嘲しているのだろう。弥助は乾いた笑みを浮かべた。
「旦那たちも分かったようだが、敢えて言わせてもらう。永須斎様を殺したあっしは――その子たちの仇だ。まだ十と八の兄妹だってえのに」
果し合いの皮を被った仇討ちだったのだ。
桐野は「我が相棒のことだ」と静かに言う。
「子供は殺せない。だから――死ぬ気なんだろう」
「やっぱり、分かっちまうもんですね」
「……我は許さぬぞ」
桐野は彼には珍しく大声で叫ぶ。
「殺されてやろうなどと考えるなんて! 我は絶対に許さないからな!」
さくらの目から涙が溢れ出ていく――弥助は困って笑って、そして――頭を下げた。
「すみません、旦那、さくら。あっしは死なねえといけないんですよ」
「き、貴様――」
「一つだけ、わがままを言って良いですかい?」
激昂する桐野に弥助はその場に座って頭を伏した。
明らかな土下座だった。
「果し合いのとき、あっしの立会人になってくだせえ。これが最初で最後のわがままでさあ」
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