猿の内政官の息子

橋本洋一

文字の大きさ
上 下
3 / 3

後編 秀吉のこと

しおりを挟む
 父さまを思うとき、まず初めに思うことはいつも諦念だった。
 羨望でもなく、嫉妬でもなく、嫌悪でもなく。
 ああはなれないという諦めの気持ちだった。

 信長公の弟君、信行さまの助命。
 墨俣一夜城の発想のきっかけ。
 浅井長政殿との殴り合い。
 先の将軍、義昭公との友情。
 挙げればキリがないほどの伝説を作った偉大な父親。

 そんな父さまの息子として生まれ、曲がりなりにも丹波一国の主となった自分だけれど、超えられるかどうか分からない。無能な二代目として後世に残るのかもしれない。

 無論、努力や鍛錬はしている。
 善政を敷いているという自負もある。
 だけど、父さまならばもっと上手くやれているのではないか。
 そんな気持ちを毎日感じている。

 だから、今回の秀勝さまの話は渡りに船と言えよう。
 将軍秀吉公の説得。
 それを成し遂げれば、何かがどうにかなりそうな気がした。
 曖昧な言い方だけど、そんな感覚がした。

 それに父さまが先に逝って、それを悲しむ秀吉公の説得というのは。
 父さまが遺した仕事という感じがして。
 それを遂行できたら、ほんの少しだけ追いつける気がした。
 超えるまでいかないけど、背中が見える気がするのだ。

「それで、何の用だ?」

 大坂城の謁見の間。
 昼過ぎになってようやく秀吉公と会うことができた。
 この場には秀勝さまと小姓たちがいる。

 秀吉公は真っ赤な顔をしている。浴びるほど酒を飲んでいるというのは、本当らしい。
 しかし物言いははっきりとしている。父さまが酒に強かったように、秀吉公も強いのだろう。

 隣に正座している秀勝さまは些か緊張しているようだった。父さまが言っていたが、秀吉公は秀勝さまを溺愛しているらしい。けれどこんなに不機嫌な様を見るのは珍しいのだろう。

「単刀直入に申し上げます。お酒をおやめください」

 平伏しながら申し上げると、秀吉公は「飲まんと悲しくて仕方ないのだ」と険しい顔で答えた。

「雲之介が死んだ。これがどれほどの悲しみか、おぬしに分かるか?」
「分かります。俺の親ですから」
「あいつは、わしにとって弟であり、子であり、友であった。付き合いはおぬしよりも長く深い。あいつが十才かそこらの歳に出会った」

 そこでつうっと涙を流す秀吉公。
 本当に深く悲しんでいるのだと分かる。

「雲之介の寿命が長くないと分かって以来、悲しまなかったときはなかった。胸が張り裂けそうだった。それがどれほどの苦しみか、おぬしに分かるのか!」

 最後は怒鳴るように言う秀吉公。
 俺は自分もそのくらい悲しんでいると言いたかったが、それでは解決にならないと思い、矛先を変えることにした。

「……それで、浴びるように酒を飲んで、父さまのところへいこうとするのですか?」
「…………」
「秀吉公は将軍となられたお方。そして関東やみちのくにはまだまだ敵対する大名がおります。そのことを思えば、そのような真似は控えたほうがよろしいかと」

 秀吉公は少しだけ気恥ずかしそうな顔をした。
 その顔が猿のように見えて、父さまの異名である『猿の内政官』は言い当て妙だと改めて思った。

「わしも重々承知しておる。今、北条家が真田家を攻める気配を見せている。そうなれば惣無事令に逆らうこととなり、討伐の対象になる」
「そこまで算段がついているのであれば、なにゆえ――」

 秀吉公は「わしの名を気軽に呼べる者がいなくなった」と悲しそうな目を見せた。

「あいつだけだ。わしのことを秀吉と呼び続けたのは。だがもはやわしをそう呼ぶ者はおらん。母を除いてな」
「…………」
「それが淋しくて仕方が無いのだ」

 おそらく、気安い人だったのだろう。
 だけど地位や権威が上がりすぎた秀吉公を、そう呼べる者はいない。
 高い頂の上で一人ぽつんと立っているようなものだ。

「なあ秀晴。逆に問うがおぬしにとって、雲之介とはどんな男だ?」

 秀吉公が俺に訊ねてきた。
 ほとんど即断で「超えるべき男です」と言う。

「超えるべき男、か。その心は?」
「俺は父さまに恥ずかしくないように、強い男になりたいのです」

 その答えを聞いた秀吉公はしばらく黙った後、傍に控えていた小姓に「桶に冷たい水を入れて持ってこい」と命じた。
 小姓も分からないまま、命じられたまま水桶を持ってきた。

「秀晴。お前には教えておかねばならんことが山ほどありそうだな」
「一体どういうことでしょうか――」

 俺が言い切るかどうかのうちに、秀吉公は水桶を自分の頭へざばっと中身をぶちまけた。
 皆や俺が驚く中、ぽたぽたと水滴を滴らせながら「これで酔いが覚めた」と笑った。

「な、なんということを! おい、急いで父上を拭け!」

 秀勝さまの命で小姓たちは慌てて秀吉公の身体を拭く。
 その間、秀吉公はじっと俺を見続けていた。

「早く着替えを!」
「良い。このままで大丈夫だ」

 秀吉公は俺の目を見た。
 俺はそれを逸らさずに合わせる。

「お前は思い違いをしている。雲之介は強い男ではない」
「では、どのような男ですか?」
「優しい男だ」

 思わず何も言えなくなった俺に秀吉公は続けた。

「強いだけの男は身を滅ぼすか、他の者に結託されてしまう。だが雲之介は違う。雨竜雲之介秀昭は違う。あやつは自分が損しても、相手に得をさせてしまうくらい、優しかった。たまたま出会っただけの、焼き魚を馳走しただけの、何者でもなかったわしを天下人にしてしまうほど、優しかった」

 胸が熱くなる感覚がした。
 とてもじゃないけど、言葉にならなかった。

「だがそれだけの男だった。優しさだけしかないような。賢い男だったが、それ以上に優しい男だったのだ」
「……分かります」

 俺はあまり思い出したくない過去を思い出していた。
 母さまのこと。そしてそれを告げた夜。
 それらを父さまは許してくれた。

「それに雲之介も超え続けた男だった。武の才が無く、帥の才も無い。だからこそ内政を極め続けた。おぬしと秀勝に託された豊国指南書。それを記せたのは、そういうことだ」

 改めて父さまを思い出す。
 いつだって優しかった。
 最期に俺を認めてくれたことも感謝している。

「おぬしと雲之介の関係は多少知っている。ならばこう言うだろうな。自分を超えなくてもいい。自分らしくあればいいと」

 その言葉に、俺は幾分か楽になった。
 秀吉公を慰めるつもりが、いつの間にか慰められている自分がいた。

「……秀吉公。少し父さまのことを話してもらえませんか?」
「うん? 別に良いがどうしてだ?」

 俺はようやく、秀吉公の酒乱を止める方法を思いついた。

「だって、父さまのことを話す秀吉公が、日輪のように輝いて見えたのですから」
「…………」
「父さまのこと、本当に好きだったんですね」

 秀吉公はしばらく沈黙した後、にかっと猿のように笑った。

「かっかっか! そうだな。故人を偲んで思い出話をするのも悪くない。秀勝。お前も付き合え」
「は、はい。父上」
「膝をつき合わせて話すには、ここは広すぎる。別室に移動するぞ。他の者は下がってよい」

 秀吉公の元気が出たようだ。秀勝さまを見ると、ほっとしている。
 俺もようやく、務めを果たせそうだった。

 別室に移った俺たちは父さまについて語り合った。
 時には笑って、時には悲しんで。
 驚くような逸話があったりして。
 酒もないのに、口だけが回って。
 父さまの生きた証を辿り続けた。

 夜深くなるまで語り合った後、秀勝さまが姿勢を正して秀吉公に訊ねた。

「父上。唐入りを行なうと申されましたが、本気なのですか?」

 それまで笑顔だった秀吉公だったけど、急に真剣な表情へと変えた。

「ああ。いずれ行なう」
「理由を訊ねてもよろしいですか?」

 俺の問いに秀吉公は「イスパニアという国を知っているか?」と逆に訊いてきた。
 ポルトガルなら知っているが、その国は聞いたことがない。

「呂宋を制圧し、日の本を狙っている国だ」
「まさか。そこまで強大な力を持っているのですか?」
「ああ。そやつらの野望を止めねばならん。九州で知ったが、日の本の民がキリシタン大名らによって、南蛮人に売られている。それはポルトガルだったのだが、イスパニアも同じことを企んでいる」

 人身売買は戦国乱世でも行なわれている。
 しかし海外に売られるのは……

「父上。事情は分かりますが、どうして明なんですか? 攻めるのなら呂宋ではないですか?」

 秀勝さまの問いに秀吉公は「呂宋は遠いので攻められん」と答えた。

「それに呂宋のイスパニアの軍事力は凄まじい。大砲もわしたちよりも強い。だから明を攻め、広大な領土を手に入れ、それによってイスパニアに対抗する」

 言っていることは分かるが、それによって日の本が疲弊する恐れがあった。
 俺は懐から豊国指南書を取り出した。

「父さまが記した豊国指南書ですが、最後の項目に『海外』とあります。

「ふむ。それで?」
「一度お読みください」

 秀吉公は受け取って読む。
 俺は海外の項目に書かれた一文を思い出していた。

『日の本と海外、ひいては南蛮人との技術は格段に差がある。これらを埋めるには、他国の技術を日の本に取り入れるしかない。どんな知識でも良いので仕入れるべし。また他国の技術は必ず金銭で購入すること。さすれば技術に価値が生まれ、他国のほうから技術を売りに来るだろう』

 つまり技術の商品化とも言える。そんな発想はあまり見られなかった。やはり父さまの考えは先に行っている。
 また、そのためには操船技術の向上と大安宅船のような軍船を多く作ることも重要であるとも書かれていた。要は海を主戦場にすることが重要なのだろう。

「ふむ。やはり雲之介は惜しい男だったな」

 豊国指南書を俺に返す秀吉公。
 分かってくれたと思ったが「だが唐入りは行なう」ときっぱりと言う。

「それが将軍最後の仕事となろう」
「……父上、決意が固いようですね」

 秀勝さまは目を瞑って、それから言う。

「ならば父上。北条家が惣無事令を破り、攻めてきたときには、私を総大将にしていただきたい」
「何を考えている?」
「そしてその戦に勝利したのなら、私に将軍を譲ってください」

 つまり隠居をしろと言っているのである。
 これには俺も驚いた。

「おぬし、何を言っているのか、分かっているのか?」
「ええ。分かっています。唐入りを止めるには、これしかない」

 秀勝さまは俺に向かって言う。

「秀晴。お前はどちらに組する?」

 俺は迷うことなく「秀勝さまです」と答えた。

「父上。後のことは私たちに任せてください」
「…………」
「絶対にイスパニアの侵略は止めてみせます」

 秀吉公はしばらく秀勝さまを睨みつけて。
 それから表情を柔らかくした。

「やれやれ。いつの間にか大言壮語できるようになりおって」
「父上……」
「北条攻めが済んだら、将軍となれ。そしてみちのくも制圧するんだ。これが条件だ」

 ぱあっと明るくなった秀勝さま。
 秀吉公は「どうしてそんな覚悟を決めた?」と笑った。

「雨竜さんの話を聞いて、熱くなってしまいました」

 苦笑しながら秀勝さまが言うと、秀吉公は「やはり雲之介には勝てないな。かっかっか!」と猿のように笑った。
 俺も同様に父さまを誇らしく思った。

 翌年、北条家が真田家を攻めて。
 太平の世となる戦が始まるのだけど。
 それはまた別の話だ。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

猿の内政官の息子 ~小田原征伐~

橋本洋一
歴史・時代
※猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~という作品の外伝です。猿の内政官の息子の続編です。全十話です。 猿の内政官の息子、雨竜秀晴はある日、豊臣家から出兵命令を受けた。出陣先は関東。惣無事令を破った北条家討伐のための戦である。秀晴はこの戦で父である雲之介を超えられると信じていた。その戦の中でいろいろな『親子』の関係を知る。これは『親子の絆』の物語であり、『固執からの解放』の物語である。

ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す

矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。 はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき…… メイドと主の織りなす官能の世界です。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

強いられる賭け~脇坂安治軍記~

恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。 こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。 しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。

大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜

雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。 そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。 これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。 主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美 ※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。 ※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。 ※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。

三国志「街亭の戦い」

久保カズヤ
歴史・時代
後世にまでその名が轟く英傑「諸葛亮」 その英雄に見込まれ、後継者と選ばれていた男の名前を「馬謖(ばしょく)」といった。 彼が命を懸けて挑んだ戦が「街亭の戦い」と呼ばれる。 泣いて馬謖を斬る。 孔明の涙には、どのような意味が込められていたのだろうか。

勝負如此ニ御座候(しょうぶかくのごとくにござそうろう)

奇水
歴史・時代
元禄の頃の尾張、柳生家の次代当主である柳生厳延(としのぶ)は、正月の稽古始に登城した折り、見るからに只者ではない老人とすれ違う。いかにも剣の達人らしき様子に、丸に三つ柏の家紋を入れた裃……そして以前にも一度この老人を見たことがあったことを思い出し、厳延は追いかけて話を聞く。 その老人こそは嶋清秀。剣聖・一刀斎の薫陶を受け、新陰流きっての名人、柳生如雲斎にも認められながら、かつてただ一度の敗北で全てを失ったのだと自らを語った。 〝宮本武蔵がなごやへ来りしを召され、於御前兵法つかひ仕合せし時、相手すつと立合と、武蔵くみたる二刀のまゝ、大の切先を相手の鼻のさきへつけて、一間のうちを一ぺんまわしあるきて、勝負如此ニ御座候と申上し〟 伝説に語られる勝負に、しかし名を遺すことなく歴史の闇へと消えた剣士の、無念と悔悟の物語。

処理中です...