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後編 秀吉のこと
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父さまを思うとき、まず初めに思うことはいつも諦念だった。
羨望でもなく、嫉妬でもなく、嫌悪でもなく。
ああはなれないという諦めの気持ちだった。
信長公の弟君、信行さまの助命。
墨俣一夜城の発想のきっかけ。
浅井長政殿との殴り合い。
先の将軍、義昭公との友情。
挙げればキリがないほどの伝説を作った偉大な父親。
そんな父さまの息子として生まれ、曲がりなりにも丹波一国の主となった自分だけれど、超えられるかどうか分からない。無能な二代目として後世に残るのかもしれない。
無論、努力や鍛錬はしている。
善政を敷いているという自負もある。
だけど、父さまならばもっと上手くやれているのではないか。
そんな気持ちを毎日感じている。
だから、今回の秀勝さまの話は渡りに船と言えよう。
将軍秀吉公の説得。
それを成し遂げれば、何かがどうにかなりそうな気がした。
曖昧な言い方だけど、そんな感覚がした。
それに父さまが先に逝って、それを悲しむ秀吉公の説得というのは。
父さまが遺した仕事という感じがして。
それを遂行できたら、ほんの少しだけ追いつける気がした。
超えるまでいかないけど、背中が見える気がするのだ。
「それで、何の用だ?」
大坂城の謁見の間。
昼過ぎになってようやく秀吉公と会うことができた。
この場には秀勝さまと小姓たちがいる。
秀吉公は真っ赤な顔をしている。浴びるほど酒を飲んでいるというのは、本当らしい。
しかし物言いははっきりとしている。父さまが酒に強かったように、秀吉公も強いのだろう。
隣に正座している秀勝さまは些か緊張しているようだった。父さまが言っていたが、秀吉公は秀勝さまを溺愛しているらしい。けれどこんなに不機嫌な様を見るのは珍しいのだろう。
「単刀直入に申し上げます。お酒をおやめください」
平伏しながら申し上げると、秀吉公は「飲まんと悲しくて仕方ないのだ」と険しい顔で答えた。
「雲之介が死んだ。これがどれほどの悲しみか、おぬしに分かるか?」
「分かります。俺の親ですから」
「あいつは、わしにとって弟であり、子であり、友であった。付き合いはおぬしよりも長く深い。あいつが十才かそこらの歳に出会った」
そこでつうっと涙を流す秀吉公。
本当に深く悲しんでいるのだと分かる。
「雲之介の寿命が長くないと分かって以来、悲しまなかったときはなかった。胸が張り裂けそうだった。それがどれほどの苦しみか、おぬしに分かるのか!」
最後は怒鳴るように言う秀吉公。
俺は自分もそのくらい悲しんでいると言いたかったが、それでは解決にならないと思い、矛先を変えることにした。
「……それで、浴びるように酒を飲んで、父さまのところへいこうとするのですか?」
「…………」
「秀吉公は将軍となられたお方。そして関東やみちのくにはまだまだ敵対する大名がおります。そのことを思えば、そのような真似は控えたほうがよろしいかと」
秀吉公は少しだけ気恥ずかしそうな顔をした。
その顔が猿のように見えて、父さまの異名である『猿の内政官』は言い当て妙だと改めて思った。
「わしも重々承知しておる。今、北条家が真田家を攻める気配を見せている。そうなれば惣無事令に逆らうこととなり、討伐の対象になる」
「そこまで算段がついているのであれば、なにゆえ――」
秀吉公は「わしの名を気軽に呼べる者がいなくなった」と悲しそうな目を見せた。
「あいつだけだ。わしのことを秀吉と呼び続けたのは。だがもはやわしをそう呼ぶ者はおらん。母を除いてな」
「…………」
「それが淋しくて仕方が無いのだ」
おそらく、気安い人だったのだろう。
だけど地位や権威が上がりすぎた秀吉公を、そう呼べる者はいない。
高い頂の上で一人ぽつんと立っているようなものだ。
「なあ秀晴。逆に問うがおぬしにとって、雲之介とはどんな男だ?」
秀吉公が俺に訊ねてきた。
ほとんど即断で「超えるべき男です」と言う。
「超えるべき男、か。その心は?」
「俺は父さまに恥ずかしくないように、強い男になりたいのです」
その答えを聞いた秀吉公はしばらく黙った後、傍に控えていた小姓に「桶に冷たい水を入れて持ってこい」と命じた。
小姓も分からないまま、命じられたまま水桶を持ってきた。
「秀晴。お前には教えておかねばならんことが山ほどありそうだな」
「一体どういうことでしょうか――」
俺が言い切るかどうかのうちに、秀吉公は水桶を自分の頭へざばっと中身をぶちまけた。
皆や俺が驚く中、ぽたぽたと水滴を滴らせながら「これで酔いが覚めた」と笑った。
「な、なんということを! おい、急いで父上を拭け!」
秀勝さまの命で小姓たちは慌てて秀吉公の身体を拭く。
その間、秀吉公はじっと俺を見続けていた。
「早く着替えを!」
「良い。このままで大丈夫だ」
秀吉公は俺の目を見た。
俺はそれを逸らさずに合わせる。
「お前は思い違いをしている。雲之介は強い男ではない」
「では、どのような男ですか?」
「優しい男だ」
思わず何も言えなくなった俺に秀吉公は続けた。
「強いだけの男は身を滅ぼすか、他の者に結託されてしまう。だが雲之介は違う。雨竜雲之介秀昭は違う。あやつは自分が損しても、相手に得をさせてしまうくらい、優しかった。たまたま出会っただけの、焼き魚を馳走しただけの、何者でもなかったわしを天下人にしてしまうほど、優しかった」
胸が熱くなる感覚がした。
とてもじゃないけど、言葉にならなかった。
「だがそれだけの男だった。優しさだけしかないような。賢い男だったが、それ以上に優しい男だったのだ」
「……分かります」
俺はあまり思い出したくない過去を思い出していた。
母さまのこと。そしてそれを告げた夜。
それらを父さまは許してくれた。
「それに雲之介も超え続けた男だった。武の才が無く、帥の才も無い。だからこそ内政を極め続けた。おぬしと秀勝に託された豊国指南書。それを記せたのは、そういうことだ」
改めて父さまを思い出す。
いつだって優しかった。
最期に俺を認めてくれたことも感謝している。
「おぬしと雲之介の関係は多少知っている。ならばこう言うだろうな。自分を超えなくてもいい。自分らしくあればいいと」
その言葉に、俺は幾分か楽になった。
秀吉公を慰めるつもりが、いつの間にか慰められている自分がいた。
「……秀吉公。少し父さまのことを話してもらえませんか?」
「うん? 別に良いがどうしてだ?」
俺はようやく、秀吉公の酒乱を止める方法を思いついた。
「だって、父さまのことを話す秀吉公が、日輪のように輝いて見えたのですから」
「…………」
「父さまのこと、本当に好きだったんですね」
秀吉公はしばらく沈黙した後、にかっと猿のように笑った。
「かっかっか! そうだな。故人を偲んで思い出話をするのも悪くない。秀勝。お前も付き合え」
「は、はい。父上」
「膝をつき合わせて話すには、ここは広すぎる。別室に移動するぞ。他の者は下がってよい」
秀吉公の元気が出たようだ。秀勝さまを見ると、ほっとしている。
俺もようやく、務めを果たせそうだった。
別室に移った俺たちは父さまについて語り合った。
時には笑って、時には悲しんで。
驚くような逸話があったりして。
酒もないのに、口だけが回って。
父さまの生きた証を辿り続けた。
夜深くなるまで語り合った後、秀勝さまが姿勢を正して秀吉公に訊ねた。
「父上。唐入りを行なうと申されましたが、本気なのですか?」
それまで笑顔だった秀吉公だったけど、急に真剣な表情へと変えた。
「ああ。いずれ行なう」
「理由を訊ねてもよろしいですか?」
俺の問いに秀吉公は「イスパニアという国を知っているか?」と逆に訊いてきた。
ポルトガルなら知っているが、その国は聞いたことがない。
「呂宋を制圧し、日の本を狙っている国だ」
「まさか。そこまで強大な力を持っているのですか?」
「ああ。そやつらの野望を止めねばならん。九州で知ったが、日の本の民がキリシタン大名らによって、南蛮人に売られている。それはポルトガルだったのだが、イスパニアも同じことを企んでいる」
人身売買は戦国乱世でも行なわれている。
しかし海外に売られるのは……
「父上。事情は分かりますが、どうして明なんですか? 攻めるのなら呂宋ではないですか?」
秀勝さまの問いに秀吉公は「呂宋は遠いので攻められん」と答えた。
「それに呂宋のイスパニアの軍事力は凄まじい。大砲もわしたちよりも強い。だから明を攻め、広大な領土を手に入れ、それによってイスパニアに対抗する」
言っていることは分かるが、それによって日の本が疲弊する恐れがあった。
俺は懐から豊国指南書を取り出した。
「父さまが記した豊国指南書ですが、最後の項目に『海外』とあります。
「ふむ。それで?」
「一度お読みください」
秀吉公は受け取って読む。
俺は海外の項目に書かれた一文を思い出していた。
『日の本と海外、ひいては南蛮人との技術は格段に差がある。これらを埋めるには、他国の技術を日の本に取り入れるしかない。どんな知識でも良いので仕入れるべし。また他国の技術は必ず金銭で購入すること。さすれば技術に価値が生まれ、他国のほうから技術を売りに来るだろう』
つまり技術の商品化とも言える。そんな発想はあまり見られなかった。やはり父さまの考えは先に行っている。
また、そのためには操船技術の向上と大安宅船のような軍船を多く作ることも重要であるとも書かれていた。要は海を主戦場にすることが重要なのだろう。
「ふむ。やはり雲之介は惜しい男だったな」
豊国指南書を俺に返す秀吉公。
分かってくれたと思ったが「だが唐入りは行なう」ときっぱりと言う。
「それが将軍最後の仕事となろう」
「……父上、決意が固いようですね」
秀勝さまは目を瞑って、それから言う。
「ならば父上。北条家が惣無事令を破り、攻めてきたときには、私を総大将にしていただきたい」
「何を考えている?」
「そしてその戦に勝利したのなら、私に将軍を譲ってください」
つまり隠居をしろと言っているのである。
これには俺も驚いた。
「おぬし、何を言っているのか、分かっているのか?」
「ええ。分かっています。唐入りを止めるには、これしかない」
秀勝さまは俺に向かって言う。
「秀晴。お前はどちらに組する?」
俺は迷うことなく「秀勝さまです」と答えた。
「父上。後のことは私たちに任せてください」
「…………」
「絶対にイスパニアの侵略は止めてみせます」
秀吉公はしばらく秀勝さまを睨みつけて。
それから表情を柔らかくした。
「やれやれ。いつの間にか大言壮語できるようになりおって」
「父上……」
「北条攻めが済んだら、将軍となれ。そしてみちのくも制圧するんだ。これが条件だ」
ぱあっと明るくなった秀勝さま。
秀吉公は「どうしてそんな覚悟を決めた?」と笑った。
「雨竜さんの話を聞いて、熱くなってしまいました」
苦笑しながら秀勝さまが言うと、秀吉公は「やはり雲之介には勝てないな。かっかっか!」と猿のように笑った。
俺も同様に父さまを誇らしく思った。
翌年、北条家が真田家を攻めて。
太平の世となる戦が始まるのだけど。
それはまた別の話だ。
羨望でもなく、嫉妬でもなく、嫌悪でもなく。
ああはなれないという諦めの気持ちだった。
信長公の弟君、信行さまの助命。
墨俣一夜城の発想のきっかけ。
浅井長政殿との殴り合い。
先の将軍、義昭公との友情。
挙げればキリがないほどの伝説を作った偉大な父親。
そんな父さまの息子として生まれ、曲がりなりにも丹波一国の主となった自分だけれど、超えられるかどうか分からない。無能な二代目として後世に残るのかもしれない。
無論、努力や鍛錬はしている。
善政を敷いているという自負もある。
だけど、父さまならばもっと上手くやれているのではないか。
そんな気持ちを毎日感じている。
だから、今回の秀勝さまの話は渡りに船と言えよう。
将軍秀吉公の説得。
それを成し遂げれば、何かがどうにかなりそうな気がした。
曖昧な言い方だけど、そんな感覚がした。
それに父さまが先に逝って、それを悲しむ秀吉公の説得というのは。
父さまが遺した仕事という感じがして。
それを遂行できたら、ほんの少しだけ追いつける気がした。
超えるまでいかないけど、背中が見える気がするのだ。
「それで、何の用だ?」
大坂城の謁見の間。
昼過ぎになってようやく秀吉公と会うことができた。
この場には秀勝さまと小姓たちがいる。
秀吉公は真っ赤な顔をしている。浴びるほど酒を飲んでいるというのは、本当らしい。
しかし物言いははっきりとしている。父さまが酒に強かったように、秀吉公も強いのだろう。
隣に正座している秀勝さまは些か緊張しているようだった。父さまが言っていたが、秀吉公は秀勝さまを溺愛しているらしい。けれどこんなに不機嫌な様を見るのは珍しいのだろう。
「単刀直入に申し上げます。お酒をおやめください」
平伏しながら申し上げると、秀吉公は「飲まんと悲しくて仕方ないのだ」と険しい顔で答えた。
「雲之介が死んだ。これがどれほどの悲しみか、おぬしに分かるか?」
「分かります。俺の親ですから」
「あいつは、わしにとって弟であり、子であり、友であった。付き合いはおぬしよりも長く深い。あいつが十才かそこらの歳に出会った」
そこでつうっと涙を流す秀吉公。
本当に深く悲しんでいるのだと分かる。
「雲之介の寿命が長くないと分かって以来、悲しまなかったときはなかった。胸が張り裂けそうだった。それがどれほどの苦しみか、おぬしに分かるのか!」
最後は怒鳴るように言う秀吉公。
俺は自分もそのくらい悲しんでいると言いたかったが、それでは解決にならないと思い、矛先を変えることにした。
「……それで、浴びるように酒を飲んで、父さまのところへいこうとするのですか?」
「…………」
「秀吉公は将軍となられたお方。そして関東やみちのくにはまだまだ敵対する大名がおります。そのことを思えば、そのような真似は控えたほうがよろしいかと」
秀吉公は少しだけ気恥ずかしそうな顔をした。
その顔が猿のように見えて、父さまの異名である『猿の内政官』は言い当て妙だと改めて思った。
「わしも重々承知しておる。今、北条家が真田家を攻める気配を見せている。そうなれば惣無事令に逆らうこととなり、討伐の対象になる」
「そこまで算段がついているのであれば、なにゆえ――」
秀吉公は「わしの名を気軽に呼べる者がいなくなった」と悲しそうな目を見せた。
「あいつだけだ。わしのことを秀吉と呼び続けたのは。だがもはやわしをそう呼ぶ者はおらん。母を除いてな」
「…………」
「それが淋しくて仕方が無いのだ」
おそらく、気安い人だったのだろう。
だけど地位や権威が上がりすぎた秀吉公を、そう呼べる者はいない。
高い頂の上で一人ぽつんと立っているようなものだ。
「なあ秀晴。逆に問うがおぬしにとって、雲之介とはどんな男だ?」
秀吉公が俺に訊ねてきた。
ほとんど即断で「超えるべき男です」と言う。
「超えるべき男、か。その心は?」
「俺は父さまに恥ずかしくないように、強い男になりたいのです」
その答えを聞いた秀吉公はしばらく黙った後、傍に控えていた小姓に「桶に冷たい水を入れて持ってこい」と命じた。
小姓も分からないまま、命じられたまま水桶を持ってきた。
「秀晴。お前には教えておかねばならんことが山ほどありそうだな」
「一体どういうことでしょうか――」
俺が言い切るかどうかのうちに、秀吉公は水桶を自分の頭へざばっと中身をぶちまけた。
皆や俺が驚く中、ぽたぽたと水滴を滴らせながら「これで酔いが覚めた」と笑った。
「な、なんということを! おい、急いで父上を拭け!」
秀勝さまの命で小姓たちは慌てて秀吉公の身体を拭く。
その間、秀吉公はじっと俺を見続けていた。
「早く着替えを!」
「良い。このままで大丈夫だ」
秀吉公は俺の目を見た。
俺はそれを逸らさずに合わせる。
「お前は思い違いをしている。雲之介は強い男ではない」
「では、どのような男ですか?」
「優しい男だ」
思わず何も言えなくなった俺に秀吉公は続けた。
「強いだけの男は身を滅ぼすか、他の者に結託されてしまう。だが雲之介は違う。雨竜雲之介秀昭は違う。あやつは自分が損しても、相手に得をさせてしまうくらい、優しかった。たまたま出会っただけの、焼き魚を馳走しただけの、何者でもなかったわしを天下人にしてしまうほど、優しかった」
胸が熱くなる感覚がした。
とてもじゃないけど、言葉にならなかった。
「だがそれだけの男だった。優しさだけしかないような。賢い男だったが、それ以上に優しい男だったのだ」
「……分かります」
俺はあまり思い出したくない過去を思い出していた。
母さまのこと。そしてそれを告げた夜。
それらを父さまは許してくれた。
「それに雲之介も超え続けた男だった。武の才が無く、帥の才も無い。だからこそ内政を極め続けた。おぬしと秀勝に託された豊国指南書。それを記せたのは、そういうことだ」
改めて父さまを思い出す。
いつだって優しかった。
最期に俺を認めてくれたことも感謝している。
「おぬしと雲之介の関係は多少知っている。ならばこう言うだろうな。自分を超えなくてもいい。自分らしくあればいいと」
その言葉に、俺は幾分か楽になった。
秀吉公を慰めるつもりが、いつの間にか慰められている自分がいた。
「……秀吉公。少し父さまのことを話してもらえませんか?」
「うん? 別に良いがどうしてだ?」
俺はようやく、秀吉公の酒乱を止める方法を思いついた。
「だって、父さまのことを話す秀吉公が、日輪のように輝いて見えたのですから」
「…………」
「父さまのこと、本当に好きだったんですね」
秀吉公はしばらく沈黙した後、にかっと猿のように笑った。
「かっかっか! そうだな。故人を偲んで思い出話をするのも悪くない。秀勝。お前も付き合え」
「は、はい。父上」
「膝をつき合わせて話すには、ここは広すぎる。別室に移動するぞ。他の者は下がってよい」
秀吉公の元気が出たようだ。秀勝さまを見ると、ほっとしている。
俺もようやく、務めを果たせそうだった。
別室に移った俺たちは父さまについて語り合った。
時には笑って、時には悲しんで。
驚くような逸話があったりして。
酒もないのに、口だけが回って。
父さまの生きた証を辿り続けた。
夜深くなるまで語り合った後、秀勝さまが姿勢を正して秀吉公に訊ねた。
「父上。唐入りを行なうと申されましたが、本気なのですか?」
それまで笑顔だった秀吉公だったけど、急に真剣な表情へと変えた。
「ああ。いずれ行なう」
「理由を訊ねてもよろしいですか?」
俺の問いに秀吉公は「イスパニアという国を知っているか?」と逆に訊いてきた。
ポルトガルなら知っているが、その国は聞いたことがない。
「呂宋を制圧し、日の本を狙っている国だ」
「まさか。そこまで強大な力を持っているのですか?」
「ああ。そやつらの野望を止めねばならん。九州で知ったが、日の本の民がキリシタン大名らによって、南蛮人に売られている。それはポルトガルだったのだが、イスパニアも同じことを企んでいる」
人身売買は戦国乱世でも行なわれている。
しかし海外に売られるのは……
「父上。事情は分かりますが、どうして明なんですか? 攻めるのなら呂宋ではないですか?」
秀勝さまの問いに秀吉公は「呂宋は遠いので攻められん」と答えた。
「それに呂宋のイスパニアの軍事力は凄まじい。大砲もわしたちよりも強い。だから明を攻め、広大な領土を手に入れ、それによってイスパニアに対抗する」
言っていることは分かるが、それによって日の本が疲弊する恐れがあった。
俺は懐から豊国指南書を取り出した。
「父さまが記した豊国指南書ですが、最後の項目に『海外』とあります。
「ふむ。それで?」
「一度お読みください」
秀吉公は受け取って読む。
俺は海外の項目に書かれた一文を思い出していた。
『日の本と海外、ひいては南蛮人との技術は格段に差がある。これらを埋めるには、他国の技術を日の本に取り入れるしかない。どんな知識でも良いので仕入れるべし。また他国の技術は必ず金銭で購入すること。さすれば技術に価値が生まれ、他国のほうから技術を売りに来るだろう』
つまり技術の商品化とも言える。そんな発想はあまり見られなかった。やはり父さまの考えは先に行っている。
また、そのためには操船技術の向上と大安宅船のような軍船を多く作ることも重要であるとも書かれていた。要は海を主戦場にすることが重要なのだろう。
「ふむ。やはり雲之介は惜しい男だったな」
豊国指南書を俺に返す秀吉公。
分かってくれたと思ったが「だが唐入りは行なう」ときっぱりと言う。
「それが将軍最後の仕事となろう」
「……父上、決意が固いようですね」
秀勝さまは目を瞑って、それから言う。
「ならば父上。北条家が惣無事令を破り、攻めてきたときには、私を総大将にしていただきたい」
「何を考えている?」
「そしてその戦に勝利したのなら、私に将軍を譲ってください」
つまり隠居をしろと言っているのである。
これには俺も驚いた。
「おぬし、何を言っているのか、分かっているのか?」
「ええ。分かっています。唐入りを止めるには、これしかない」
秀勝さまは俺に向かって言う。
「秀晴。お前はどちらに組する?」
俺は迷うことなく「秀勝さまです」と答えた。
「父上。後のことは私たちに任せてください」
「…………」
「絶対にイスパニアの侵略は止めてみせます」
秀吉公はしばらく秀勝さまを睨みつけて。
それから表情を柔らかくした。
「やれやれ。いつの間にか大言壮語できるようになりおって」
「父上……」
「北条攻めが済んだら、将軍となれ。そしてみちのくも制圧するんだ。これが条件だ」
ぱあっと明るくなった秀勝さま。
秀吉公は「どうしてそんな覚悟を決めた?」と笑った。
「雨竜さんの話を聞いて、熱くなってしまいました」
苦笑しながら秀勝さまが言うと、秀吉公は「やはり雲之介には勝てないな。かっかっか!」と猿のように笑った。
俺も同様に父さまを誇らしく思った。
翌年、北条家が真田家を攻めて。
太平の世となる戦が始まるのだけど。
それはまた別の話だ。
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