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添え物 猿の内政官の後世評価
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雨竜雲之介秀昭
雨竜雲之介秀昭は戦国時代の武将、戦国大名、内政官。
豊臣秀吉の最初の家臣として主君の天下統一に尽力し、幕政の基盤を創案した。
出自が不明だが、百姓説や商人の息子説などがあり、異説には公家の落胤説がある。
墨俣一夜城、稲葉山城攻めなど初期から活躍し、中国大返しではしんがりを務め見事に成し遂げた。しかし徳川征伐の後、病に倒れ亡くなった。彼の残した『豊国指南書』は当時としては先進的な考えが記されており、内政官として破格の才能を持っていたとされる。
1、出自
出自はまったくの不明。戦で焼かれた農村の子である、商家の息子が出奔したなど多数の学説があるが詳細は分からない。異説ではあるが公家の落胤であると言われているが、それは豊臣秀吉の将軍譲位の際に捏造されたものだとされている。
大坂時代に成立した『雨雲戦記』によれば、松下家から暇を出された秀吉が洞窟で雨を凌いでいるときに、雷雨とともに彼の元に現れたと書かれているが、それはまったくの創作である。
雲之介の友であった浅井長政が残した日記『長政日記』には自分のことを『僕』、他人のことを『くん』と呼んでいたと書かれていることから、出身が長門国である説もあるが、西国にいた彼が尾張国で秀吉と出会うのは無理があるとされ、説としても成り立たない。
2、織田家陪臣時代
秀吉と共に織田信長に召し抱えられた雲之介は、政秀寺に預けられたとされる。寺には彼の書き残した紙類が保存されており、なかなか優秀だったと沢彦和尚も書き残している。織田家が清州城を落とした辺りから、本格的に織田家陪臣として仕えることとなる。
初陣は稲生の戦いとされる。首級は挙げられなかったと記録されている。その後、信長の弟、信行の出家騒動に関わることとなる。詳細は『信行の出家騒動』を参照。
その後、騒動のほとぼりを冷ますためか、またはその褒美として信長の異母弟、源五郎(織田有楽斎)の付き添いで堺へ向かう。そこで茶道の大家、千利休と山上宗二に師事を受ける。またそのときに後の十五代将軍、足利義昭と邂逅することとなる。興福寺の僧侶の書置きに詳細が書かれていて『覚慶様、実に愉快そうであった』と残されている。
桶狭間の戦いの辺りで織田家に帰参しているが、さしたる活躍はしていない。あるいは戦いに間に合わなかったともされている。
秀吉の祝言の後、雲之介も雨竜村の名主の娘、志乃と婚約する。実のところ、現地での検地と差出を円滑に行なうための政略結婚とされている。しかし二人の仲は良好だったようだ。
だが興味深いことに、信長の同母妹であるお市の方と恋仲だった説もある。それを切り裂くために、信長が浅井長政と強引に婚姻させたという説もある。
その後、墨俣一夜城や稲葉山城の戦いに参加している。雲之介は武将として活躍しておらず、兵糧管理などの兵站に力を発揮していたらしい。
織田家が美濃国を制圧したときに名を『雨竜雲之介秀昭』へと改めている。
3、織田・足利家臣時代
織田家が上洛を果たした際、かねてより親交のあった足利義昭から直々に家臣にならないかと誘いを受ける。彼は織田家陪臣でありながら幕臣として働くこととなる。それに前後して嫡男の秀晴、長女のかすみが誕生する。双子であった。
三好三人衆が起こした本圀寺の変に守将として参戦。獅子奮迅の活躍をしたと書かれている。焼かれた本圀寺の材木を使って、二条城を作ることを提案したとされる。
義昭の命令で勝龍寺城に交渉へ向かった際、拘留されてしまう。のちに開放されるがしばらく復帰できなかった。
朝倉家の戦いで足利家から織田家(秀吉)の元へ復帰した。
4,羽柴家家老時代
敦賀の戦いで本多忠勝と協力し、真柄直隆を討ち取る。
滅びた浅井家の領地を引き継いだ秀吉の元で内政官として活躍する。このときから『猿の内政官』の異名が付けられる。
初めての家臣、真柄雪隆を召し抱える。詳細は『真柄雪隆』を参照。
筒井家攻めや武田家攻めなど転戦する。どれも兵站を管理する役割だった。
それらが落ち着くと、志乃ら家族を連れて堺に旅行したと伝えられている。日本で初めての家族旅行として記録されている。
足利義昭が将軍を辞する意向を見せると、延暦寺の僧侶の暴動が始まる。そのとき、最初の妻、志乃が戦乱に巻き込まれて亡くなる。詳細は『志乃(雲之介の妻)』を参照。
比叡山焼き討ちに参戦する。このとき島清興が家臣に加わる。
慈悲も無く全員皆殺しにせよと命じたと記録に残っている。
伊勢長島を調略で攻め落とす。その勲功により、信長から娘を妻として賜る。一門衆となったが、何故か直臣にならなかった。
娘のかすみと浅井長政の嫡男、昭政が婚姻する。
5,中国平定
上杉家や雑賀衆との戦いを経て、中国の覇者である毛利家との戦いに身を投じることとなる。
別所や荒木の謀反の中、宇喜多直家を黒田官兵衛とともに調略することに成功する。
鳥取城攻めなど活躍する。
備中高松城攻めの際、水攻めを考案したのは彼だという説がある。また黒田官兵衛に『民が暮らしやすいように』と堤防の配置を変えさせたのは有名な逸話である。
6,中国大返し
本能寺の変で信長が討たれたとき、動揺する秀吉に対し『上様の意思を受け継ぐのは秀吉だけ』と説得し、毛利家と和睦して姫路城へ退却させる。そのとき、吉川元春が追撃を行ない、そのしんがりとして残る。突如現れた雑賀衆に救われる形で生き残り、そのまま山崎の戦いへ身を投じることとなる。詳細は『中国大返し』を参照。
7,丹波国の大名として
清須会議を経て各々の領地が確定すると、雲之介は丹波国の大名に任じられる。その後、丹波焼を考案する山上宗二を招いたり、錫の発見や農地の拡大などに尽力する。
徳川家との戦いで、羽柴秀次に協力して勝利する。捕らえた本多忠勝を説得して家臣に加える。
その後、彼は病を得て表舞台から姿を消すこととなる。
8、晩年
表舞台から去っても、彼は様々な場面で活躍した。
毛利家との交渉と秀長の尼妻騒動が有名である。
雲之介は最後に自分の墓を三つに分けることを後妻であるはるに言い残す。大坂と丹波国と京である。
最期は彼の家族に囲まれて大往生した。享年は不明。当時の記録には、彼の死後、数日間雲一つない天気が続いたとされる。
10,人物
とにかく温厚で慈悲深い性格だと記されている。秀吉だけではなく、秀長や蜂須賀正勝、竹中半兵衛にも信頼されていたらしい。
浅井長政とは無二の親友とされ『一緒に地獄を味わった仲』と長政の日記に記されている。おそらく中国大返しのことだと推察されている。
家族からも慕われていたようで、後妻との娘である雹が残した書簡には『優しい人でした』と何度も記されている。
内政の才は凄まじいが、武術はからっきし駄目だったと伝わっている。戦でも兵站しか担当していない。指揮をしたのは中国大返しと徳川攻めしかなかった。ただし、竹中半兵衛は『雲之介は蕭何なり』と評価した。つまり内政官や政治家として優秀だった。
彼が遺した『豊国指南書』は当時としては先進的な考えが多く、一介の武将と言うよりは官僚として評価する向きが大きい。
11、逸話
雨竜雲之介秀昭には様々な逸話が多い武将の一人である。
最初の妻、志乃には婚約者がいたが戦死してしまい、それを哀れに思った雲之介が嫁に貰った。その恩に報いるために、京で施薬院を作り病人やけが人の治療をしていた。しかしそれがきっかけで彼女は命を落とすこととなる。
雲之介の熊退治。加藤清正ら子飼いの家臣たちが幼少の頃、雲之介が教師として面倒を見ていたが、なかなか言うことを聞かなかった。困っていたところに子飼いの一人が『熊退治をしたら従う』と言い出したので、雲之介は国友の鉄砲を一丁持って、山に入り熊を仕留めたという。その戦いのときに頬に傷を負ったので彼の肖像画には傷があるという。
稀代の茶人との交流が多い人物でもあった。彼の師匠、千利休や兄弟子の山上宗二、同門の織田有楽斎との仲が懇意だった。特に有楽斎とは昵懇の仲だった。自分の息子を任せるほどだった。
天下の大悪人、松永久秀と異様に仲が良かったともされる。前述した茶人の関わりがあったからとされているが、雲之介の度量の深さを表す交友でもあった。
また豪胆な人物である。黒人の弥助との出会いのとき、直接見ると目が潰れると信じた小姓たちが眼帯や目隠しをする中、信長に対して『両目ではっきりと見ましょう』と豪語したと伝えられている。また弥助の身体に墨が塗られていると思い込んだ信長に命じられ、へちまとお湯でこすって確かめたのは、雲之介であると言われている。
12、後世の評価
雲之介がいなければ豊臣幕府が長期政権となることはなかったとされる。
いなくとも秀吉は天下を取れたが、長くは続かなかったと評価する学者も多い。
しかし早すぎる死によって、晩年の秀吉が早々に引退したりと混乱が起きたことは否めない。
京都や江戸など彼を神君として崇める者が多く、商売の神様や学業の神様として信仰する者も多い。彼を主人公にした物語も多数作られているが、それらは創作であり、特に市との恋仲、浅井長政のとの殴り合い、中国大返しで兵士一人一人の名を覚えていたなどは伝説の域を超えない。
雨竜雲之介秀昭は戦国時代の武将、戦国大名、内政官。
豊臣秀吉の最初の家臣として主君の天下統一に尽力し、幕政の基盤を創案した。
出自が不明だが、百姓説や商人の息子説などがあり、異説には公家の落胤説がある。
墨俣一夜城、稲葉山城攻めなど初期から活躍し、中国大返しではしんがりを務め見事に成し遂げた。しかし徳川征伐の後、病に倒れ亡くなった。彼の残した『豊国指南書』は当時としては先進的な考えが記されており、内政官として破格の才能を持っていたとされる。
1、出自
出自はまったくの不明。戦で焼かれた農村の子である、商家の息子が出奔したなど多数の学説があるが詳細は分からない。異説ではあるが公家の落胤であると言われているが、それは豊臣秀吉の将軍譲位の際に捏造されたものだとされている。
大坂時代に成立した『雨雲戦記』によれば、松下家から暇を出された秀吉が洞窟で雨を凌いでいるときに、雷雨とともに彼の元に現れたと書かれているが、それはまったくの創作である。
雲之介の友であった浅井長政が残した日記『長政日記』には自分のことを『僕』、他人のことを『くん』と呼んでいたと書かれていることから、出身が長門国である説もあるが、西国にいた彼が尾張国で秀吉と出会うのは無理があるとされ、説としても成り立たない。
2、織田家陪臣時代
秀吉と共に織田信長に召し抱えられた雲之介は、政秀寺に預けられたとされる。寺には彼の書き残した紙類が保存されており、なかなか優秀だったと沢彦和尚も書き残している。織田家が清州城を落とした辺りから、本格的に織田家陪臣として仕えることとなる。
初陣は稲生の戦いとされる。首級は挙げられなかったと記録されている。その後、信長の弟、信行の出家騒動に関わることとなる。詳細は『信行の出家騒動』を参照。
その後、騒動のほとぼりを冷ますためか、またはその褒美として信長の異母弟、源五郎(織田有楽斎)の付き添いで堺へ向かう。そこで茶道の大家、千利休と山上宗二に師事を受ける。またそのときに後の十五代将軍、足利義昭と邂逅することとなる。興福寺の僧侶の書置きに詳細が書かれていて『覚慶様、実に愉快そうであった』と残されている。
桶狭間の戦いの辺りで織田家に帰参しているが、さしたる活躍はしていない。あるいは戦いに間に合わなかったともされている。
秀吉の祝言の後、雲之介も雨竜村の名主の娘、志乃と婚約する。実のところ、現地での検地と差出を円滑に行なうための政略結婚とされている。しかし二人の仲は良好だったようだ。
だが興味深いことに、信長の同母妹であるお市の方と恋仲だった説もある。それを切り裂くために、信長が浅井長政と強引に婚姻させたという説もある。
その後、墨俣一夜城や稲葉山城の戦いに参加している。雲之介は武将として活躍しておらず、兵糧管理などの兵站に力を発揮していたらしい。
織田家が美濃国を制圧したときに名を『雨竜雲之介秀昭』へと改めている。
3、織田・足利家臣時代
織田家が上洛を果たした際、かねてより親交のあった足利義昭から直々に家臣にならないかと誘いを受ける。彼は織田家陪臣でありながら幕臣として働くこととなる。それに前後して嫡男の秀晴、長女のかすみが誕生する。双子であった。
三好三人衆が起こした本圀寺の変に守将として参戦。獅子奮迅の活躍をしたと書かれている。焼かれた本圀寺の材木を使って、二条城を作ることを提案したとされる。
義昭の命令で勝龍寺城に交渉へ向かった際、拘留されてしまう。のちに開放されるがしばらく復帰できなかった。
朝倉家の戦いで足利家から織田家(秀吉)の元へ復帰した。
4,羽柴家家老時代
敦賀の戦いで本多忠勝と協力し、真柄直隆を討ち取る。
滅びた浅井家の領地を引き継いだ秀吉の元で内政官として活躍する。このときから『猿の内政官』の異名が付けられる。
初めての家臣、真柄雪隆を召し抱える。詳細は『真柄雪隆』を参照。
筒井家攻めや武田家攻めなど転戦する。どれも兵站を管理する役割だった。
それらが落ち着くと、志乃ら家族を連れて堺に旅行したと伝えられている。日本で初めての家族旅行として記録されている。
足利義昭が将軍を辞する意向を見せると、延暦寺の僧侶の暴動が始まる。そのとき、最初の妻、志乃が戦乱に巻き込まれて亡くなる。詳細は『志乃(雲之介の妻)』を参照。
比叡山焼き討ちに参戦する。このとき島清興が家臣に加わる。
慈悲も無く全員皆殺しにせよと命じたと記録に残っている。
伊勢長島を調略で攻め落とす。その勲功により、信長から娘を妻として賜る。一門衆となったが、何故か直臣にならなかった。
娘のかすみと浅井長政の嫡男、昭政が婚姻する。
5,中国平定
上杉家や雑賀衆との戦いを経て、中国の覇者である毛利家との戦いに身を投じることとなる。
別所や荒木の謀反の中、宇喜多直家を黒田官兵衛とともに調略することに成功する。
鳥取城攻めなど活躍する。
備中高松城攻めの際、水攻めを考案したのは彼だという説がある。また黒田官兵衛に『民が暮らしやすいように』と堤防の配置を変えさせたのは有名な逸話である。
6,中国大返し
本能寺の変で信長が討たれたとき、動揺する秀吉に対し『上様の意思を受け継ぐのは秀吉だけ』と説得し、毛利家と和睦して姫路城へ退却させる。そのとき、吉川元春が追撃を行ない、そのしんがりとして残る。突如現れた雑賀衆に救われる形で生き残り、そのまま山崎の戦いへ身を投じることとなる。詳細は『中国大返し』を参照。
7,丹波国の大名として
清須会議を経て各々の領地が確定すると、雲之介は丹波国の大名に任じられる。その後、丹波焼を考案する山上宗二を招いたり、錫の発見や農地の拡大などに尽力する。
徳川家との戦いで、羽柴秀次に協力して勝利する。捕らえた本多忠勝を説得して家臣に加える。
その後、彼は病を得て表舞台から姿を消すこととなる。
8、晩年
表舞台から去っても、彼は様々な場面で活躍した。
毛利家との交渉と秀長の尼妻騒動が有名である。
雲之介は最後に自分の墓を三つに分けることを後妻であるはるに言い残す。大坂と丹波国と京である。
最期は彼の家族に囲まれて大往生した。享年は不明。当時の記録には、彼の死後、数日間雲一つない天気が続いたとされる。
10,人物
とにかく温厚で慈悲深い性格だと記されている。秀吉だけではなく、秀長や蜂須賀正勝、竹中半兵衛にも信頼されていたらしい。
浅井長政とは無二の親友とされ『一緒に地獄を味わった仲』と長政の日記に記されている。おそらく中国大返しのことだと推察されている。
家族からも慕われていたようで、後妻との娘である雹が残した書簡には『優しい人でした』と何度も記されている。
内政の才は凄まじいが、武術はからっきし駄目だったと伝わっている。戦でも兵站しか担当していない。指揮をしたのは中国大返しと徳川攻めしかなかった。ただし、竹中半兵衛は『雲之介は蕭何なり』と評価した。つまり内政官や政治家として優秀だった。
彼が遺した『豊国指南書』は当時としては先進的な考えが多く、一介の武将と言うよりは官僚として評価する向きが大きい。
11、逸話
雨竜雲之介秀昭には様々な逸話が多い武将の一人である。
最初の妻、志乃には婚約者がいたが戦死してしまい、それを哀れに思った雲之介が嫁に貰った。その恩に報いるために、京で施薬院を作り病人やけが人の治療をしていた。しかしそれがきっかけで彼女は命を落とすこととなる。
雲之介の熊退治。加藤清正ら子飼いの家臣たちが幼少の頃、雲之介が教師として面倒を見ていたが、なかなか言うことを聞かなかった。困っていたところに子飼いの一人が『熊退治をしたら従う』と言い出したので、雲之介は国友の鉄砲を一丁持って、山に入り熊を仕留めたという。その戦いのときに頬に傷を負ったので彼の肖像画には傷があるという。
稀代の茶人との交流が多い人物でもあった。彼の師匠、千利休や兄弟子の山上宗二、同門の織田有楽斎との仲が懇意だった。特に有楽斎とは昵懇の仲だった。自分の息子を任せるほどだった。
天下の大悪人、松永久秀と異様に仲が良かったともされる。前述した茶人の関わりがあったからとされているが、雲之介の度量の深さを表す交友でもあった。
また豪胆な人物である。黒人の弥助との出会いのとき、直接見ると目が潰れると信じた小姓たちが眼帯や目隠しをする中、信長に対して『両目ではっきりと見ましょう』と豪語したと伝えられている。また弥助の身体に墨が塗られていると思い込んだ信長に命じられ、へちまとお湯でこすって確かめたのは、雲之介であると言われている。
12、後世の評価
雲之介がいなければ豊臣幕府が長期政権となることはなかったとされる。
いなくとも秀吉は天下を取れたが、長くは続かなかったと評価する学者も多い。
しかし早すぎる死によって、晩年の秀吉が早々に引退したりと混乱が起きたことは否めない。
京都や江戸など彼を神君として崇める者が多く、商売の神様や学業の神様として信仰する者も多い。彼を主人公にした物語も多数作られているが、それらは創作であり、特に市との恋仲、浅井長政のとの殴り合い、中国大返しで兵士一人一人の名を覚えていたなどは伝説の域を超えない。
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最後までお読みいただきありがとうございました。
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退会済ユーザのコメントです
感想ありがとうございます。
藤吉郎は雲之介にとって親であり、兄であり、親友でもあるので、格好良く書いています
「天下統一のお助けのお助け」という位置づけは面白いですね。どうしても石田三成や竹中半兵が浮かびそうですが、そうではなくオリジナル主人公を持ってきたのが果敢。
秀吉を傍で支えながら、その足跡をたどるというのは、ありそうだけど小説では名作が浮かびません。この作品が尖兵になることを祈っています。
というか、この方式は児童文学でも受けそう。この手法を家康か坂本龍馬、或いは劉備で流用し、歴史を学ぶ系の児童文学で書けば、かなりハネる気がします(余裕があれば、僕がしますw)
ありがとうございます。この作品は先月リマスター版が発売された、太閤立志伝を元に作られています。オリジナル武将を作って、足跡をたどるというのを小説化したら面白いと思いました。
この手法はドラマでも使われており、戦国疾風伝の源蔵が雲之介なのだと思います
是非、やってほしいです。この方式が流行るといいなあと思います