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猿の内政官

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 ごめん、秀吉。
 先に逝ってしまう僕を許してくれ。
 太平の世を一緒に見ることができない僕を許してくれ。
 そしてありがとう、秀吉。
 洞穴で出会って本当に良かった。
 悲しいことやつらいことがたくさんあったけど。
 それ以上に嬉しいことや楽しいことが山ほどあった。
 一人きりで生きていた――いや、生きていなかったのかもしれない。
 秀吉と出会ったことで本当の意味で生きることができた。
 もう淋しくないし、秀吉の言ったとおり一人前の大人になれた。
 感謝しかないよ。
 ありがとう。僕は――幸せだった。



「雲之介さん。おはようございます」

 目を開けたとき、そこにはお市さまが居た。

「……極楽、浄土、ですか」
「あら。私もあなたも死んでいませんよ」
「お市さまが、天女に見えた……」

 お市さまは笑顔だったけど、長年の付き合いで悲しみを隠しているのが分かった。

「雲之介さん。もう、あなたは――」
「永く、ないですね……」

 喋るたびに肺を刺す痛みに襲われる。
 痛くて痛かった。
 だけど、まだ生きている。

「家族は、居ますか?」
「……ええ。あなたの家族は、全員居ますよ」

 目で周りを見ると、そこには家族が居た。

 悲痛な表情の秀晴。
 涙に覆われているかすみ。
 かすみに抱かれている霧助。
 なつさんに抱かれている赤ん坊――雷次郎かな。
 そして気丈な表情のはる。
 最後に僕を見つめている雹。

 家族が僕を看取るために、ここに居る。

「秀晴……丹波国は……」
「……家臣に任せています」

 僕を看取ることは全てに優先されるという口調だった。

「そうか……」
「父さま。話すのがつらいのでしたら……」

 秀晴が止めようとするのを僕は「良いんだ」と言う。

「話さなきゃ、いけないこと、あるから……」
「父さま……」
「秀晴……僕の息子……」

 視線を合わせて、秀晴を見る。

「丹波国を任せた。大変な役目だけど、君なら何も問題ないと思う」
「……父さまが遺してくださったやり方に従っているだけです」
「それでも、上手くやっていると、聞いているよ」

 僕は秀晴――晴太郎に言う。

「晴太郎……君はどこに出しても恥じることのない、自慢の息子だよ」
「――っ! 父さま!」
「僕の息子に生まれてきてくれて、ありがとう」

 秀晴の目からどっと涙が溢れた。

「俺は……父さまに認めてほしかった……褒められても、認めてくれていなかったと思っていた……」
「馬鹿なこと、言うなよ。僕はいつだって、認めていたさ」

 僕はかすみのほうに目を向けた。
 顔中を覆うように涙を流していた。

「かすみ……僕の娘……」
「うん。ここに居るよ、父さま」

 かすみは僕に寄った。
 胸の中の霧助はなんだか淋しそうだった。

「君も、僕の自慢の娘だよ。嫁入りさせるのが、つらいぐらいに」
「うん。うん……!」
「昭政くんと一緒に浅井家を、霧助を守っておくれ」

 かすみは「うん……!」とだけしか言えなかった。
 僕は微笑んでかすみに言う。

「志乃に似て、本当に可愛らしいな。それから、霧助も。母親似だ」
「父さま……」
「長生き、してくれよ……」

 僕は「はる……どこに居る……?」と右手を上に挙げた。

「お前さま。私はここに居る……」

 はるが僕の手を握ってくれた。

「そのまま、握ってくれ」
「…………」
「はる。君が嫁に来てくれて、良かったよ。志乃を失った穴を、塞いでくれた」

 本当に感謝しかなかった。

「はるは、たくさんの幸せを、くれたよね」
「……お前さまのほうが、たくさんの幸せを、くれたよ」

 はるが僕の手を強く握った。

「お前さまのおかげで家族を持てた。雹だって――」
「雹。僕の娘……」

 雹は唇を真一文に結んでいた。
 泣くのを堪えているようだ。

「雹。こっちに来なさい」
「…………」

 雹ははるの隣に来て、その小さな手を僕たちに合わせた。

「母と一緒に。兄妹と助け合って。幸せになるんだよ」
「父上……」
「君は幸せが分からないと言ったけど、最後に教えてあげる」

 大きく呼吸した――刺すような痛みが襲うけど、無視した。

「幸せは知るものではなく、感じるものでもなく、ただ漠然と隣にあるものなんだ」
「…………」
「何事もない平凡な日々。その中で喜びを覚えられたら――」

 言い終わる前に喀血してしまった。

「父さま! 玄朔さん、どうか――」

 秀晴が大声で玄朔を呼ぶ。
 それを「良いんだ」と制止する。

「このままで、構わない」
「父さま……」
「僕が家族を作れるなんて、思わなかった」

 思い出すのは、原初の記憶。
 河原で倒れていた頃の幼い僕。

「みんなが居てくれて、楽しかったよ」
「父さま! 死なないでください!」

 秀晴は取り乱してしまった――涙を流しながら僕に縋りつく。

「まだ教えてもらっていないことがたくさんあります!」
「……秀晴」
「父さまだって、未練があるでしょう!?」

 僕は微笑みながら「未練、か……」と呟く。

「ああ。たくさんある。未練なんて、いくらでもあるさ」
「そうでしょう! だから生きて――」
「でも僕は、たくさん人を殺めてきたんだよ」

 本圀寺で初めて人を殺してから。
 直接的にしろ間接的にしろ。
 たくさん殺してきた。

「鳥取城のこと、覚えているだろう?」
「あ、あれは――」
「この病は罰とは言わないけど、少なくとも道半ばで死ぬのは、仕方ないかな」

 秀晴は顔を悲しみで歪ませた。

「でも、未練があって死ぬことは、悪いことじゃない」
「どういう意味ですか……?」
「思うに、人の一生とは、未練や悔いだらけのもので、生きることは戦いだったんだ」

 悟りではないけど、素直に心に思うことを言う。

「人は、後悔しながらも、状況を打破するために、生きる。戦うために、生きるんじゃなくて、生きているから、戦うんだ」

 だからこそ。
 生きていたんだ、僕は。

「生きて。精一杯生きて。未練を残しながら、死ぬ。未練は生の執着じゃなくて、戦ったことの証だと思う。だから、未練は消せなくて、生きたいと思う気持ちも消せない」

 正勝の兄さんとの会話を思い出した。

「未練があっても、生きたくても、死ぬ。それは悲しいことじゃなくて、生きていた証明だから、残ってしまうんだ」

 一瞬、意識を失いかける。
 なんとか保って、家族に言う。

「僕は、家族を遺せて、未練を遺せて、良かったよ。それこそが、僕の生きた証なのだから。夢が叶ったと、言ってもいい」

 自分でも分かる。
 目を閉じたら――もう終わりだって。

「父さま……」
「う、うう、うううう……」

 秀晴とかすみの泣く声。

「お前さま……」
「……父上」

 はると雹の温もり。

「秀吉、みんな……」

 僕は最期に言う。
 今わの際に散り際の最期の言葉を言う。

「次は、どんな夢を見ようか……」

 そう言い残して――僕は目を閉じた。



「まったく。早すぎるわよ」

 志乃が、目の前に居た。

「ごめん。僕もこんな早く死ぬとは思わなかったよ」
「まあ私が言えた義理じゃないけどね」

 志乃は僕の手を握った。

「さあ。正勝さんや半兵衛さんが待っているわよ」

 僕はその手を握った。

「ああ。行こう」

 光の向こうで、正勝と半兵衛さんの姿が見えた。
 僕は振り返ることなく歩んだ。
 志乃と一緒に、二人で――
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