上 下
87 / 256

隅立雷

しおりを挟む
「長政さま……全てを思い出したのですね……」
「……ああ。残念ながらな」

 夕日が沈み行く琵琶湖を眺めながら、長政さまは腫れ上がった顔を憂鬱そうに歪ませた。
 立つことはできなかったので、僕たちは座って語り合う。

「残念、ですか? それは一体――」
「もはや国も無く、父上も失った。山賊に身を落とした拙者には、何もない……」
「…………」
「いっそのこと、何も思い出せなければ、良かったのにな」

 僕たちの話を、元浅井家家臣、秀吉たち、そしてお市さまは黙って聞いていた。
 誰も口を挟まず、何も口出ししなかった。

「いつ、記憶が戻りましたか?」
「殴り合ったとき――いや、父上の死を知ったときか。そのとき、少しだけ思い出した。けれど、猿飛仁助と拙者が入り混じっていて、ほとんどは思い出せなかった。だから殴り合ってくれた雲之介殿のおかげだな」

 僕は首を振って「とんでもないことです」と応じた。

「拙者は、無能だ。父上の跡を引き継げなかった」
「そんな……大殿はきっと、北近江を長政さまに――」
「それは無理だ。義兄上は許さないだろうし、何より拙者自身、許せない」

 長政さまは僕を見つめる。

「大名の端くれとして、お情けで領地を返してもらうなんて、できない」
「それで、いいんですか? ここに居る浅井家家臣の方に、申し訳が――」
「ああ。申し訳ないと思う……」

 そして微かに微笑んだ。全てを諦めてしまったように。

「遠藤が身代わりになって死んだとき、拙者も死んでしまったのだろう。浅井長政という大名は死んでしまったのだ」

 目線を僕から外して、膝を抱え込んだ。

「拙者には、何もない……全てを失ってしまった……」

 後悔しているのだろう。記憶を失ったことや多くの家臣を死なせてしまったことを。
 かける言葉が見つからない――

「まだ、全て失っておりません!」

 大声で叫んだのは、お市さまだった。茶々を抱きながら、駆け足で僕たちのほうへ近づく。
 呆然とする長政さまに、お市さまは訴えた。

「私と茶々が、居るじゃないですか!」
「――っ! 市!」
「大名としての浅井長政は死んでも、浅井長政という男は生きております! どうか全てを失ったなどと言わないでください!」

 大粒の涙。零れ行くそれが茶々の顔に当たった。茶々は不思議そうに母親の顔を見つめた。

「拙者とともに、生きてくれるのか? 大名ではない、浪人の――」
「当たり前です! 私は、あなたのことが、好きなんです! 凛々しくて格好の良くて、いつも私を気遣ってくれた、お優しいあなたが!」

 縋りつくお市さまを、長政さまはどうするべきか悩んでいた。
 すると茶々が、長政さまの顔を見て、微笑んだ。
 父親に久しぶりに会えた、子どもの笑顔だった。

「――ありがとう、市」

 ようやく、長政さまは二人を抱きしめた。
 大切な宝物のように、大事に優しく、抱きしめた。

「腹が決まった。拙者はお前たちを幸せにしてみせる」
「長政、さま……」
「愛している。二人とも」

 僕はよろめきながらも、黙って立ち上がり、三人の傍を離れた。
 そして秀吉の元に向かう。

「おぬしはお人よしだな。上手く言いくるめれば、お市さまは――」
「無粋なことを言わないでくれよ、秀吉」

 僕は黄昏で抱き合う家族を見つめた。

「これで良かったんだ。僕はお市さまが幸せなら、それでいい」

 志乃や晴太郎、かすみに会いたいな。
 ぼんやりとそう思いながら、この美しい光景を目に焼き付けていた。



「よくやった。褒美をくれてやる」

 長政さまの記憶を取り戻して、二十日後。
 岐阜城にて論功行賞が行なわれていた。
 まず柴田さまには感状が与えられ、前田さまや佐々さまにも褒美が下された。
 次に足利家の援軍として来ていた明智さまにも褒美が与えられたが、全員がどよめくほどの褒美だった。

「光秀。足利家との折衝役、そしてこたびの戦働きなど長年の功により、南近江の坂本城を与える」

 一人冷静だった明智さまは「ははっ! ありがたき幸せ!」と慎んで応じた。

「そして猿。貴様も城持ちにしてやる。一先ず小谷城を拠点として、北近江を治めよ」

 さらにどよめいたのは言うまでもない。農民の出である秀吉が城持ちになったのだ。

「大殿! それは――」
「なんだ。文句があるのか?」

 びしゃりと大殿が厳しく言うと、誰も何も言えなかった。
 だけど家中の嫉妬が秀吉と明智さまに集まったのは言うまでもない。

「大殿。一つ許可を頂きたいのですが」
「なんだ猿。申してみよ」

 秀吉……何を言うつもりなんだ……?
 不安に思ったけど、秀吉はにっこりと笑った。

「これを機に、姓を改めたいと思います。これからは羽柴秀吉とさせてください」
「はしば……どういう由来だ?」
「柴田さまと丹羽さまの姓を一文字ずつちょうだいしました。御ふた方のようにありたいと思いまして」

 なるほど。上手い手だ。これで家老の柴田さまや丹羽さまは表立って何も言えなくなる。そして二人が何も言えないのなら、他の家臣も言えなくなる。

「良いだろう。この俺が許可しよう」
「ははっ! ありがたき幸せ!」

 横目で苦々しい顔をしてる柴田さまが居た。かなり怖い。

「そして雲之介。お前に茶の湯の許可をやろう。長政を見つけたことと記憶を取り戻したことの功でな」

 ありがたき幸せと言いかけて「少しお待ちを」と待ったをかけられた。
 言ったのは筆頭家老の佐久間さまだった。

「陪臣風情にそのような褒美をいささか問題かと」
「何故だ? 死んだと思っていた義弟を取り戻したのだぞ?」
「それならば、何ゆえ長政殿に北近江を返還なさらないのですか?」

 痛いところを突く。確かに生きていたのだから、それが筋というものだろう。

「そうだな。では長政を呼べ」

 大殿が小姓に命じて、少しすると長政さまがやってきた。
 山賊の格好ではなく、武家姿だ。

「長政。お前に領地を返すべきとの意見があるが、いかがする?」
「慎んでお断りいたす。拙者は一度死んだ身。もはや未練はありませぬ」

 長政さまがそう言ってしまったら、佐久間さまは何も言えないだろう。

「で、あるか」
「代わりにある許可をいただきたいのですが」

 なんだろう。僕は何も聞いてないぞ?
 大殿も怪訝な表情をしている。

「なんだお前もか。言ってみろ」
「この浅井長政、秀吉殿の下で働きたく存じ上げます」

 これには全員驚いた。僕も秀吉も、唖然としてしまった。

「お、俺の直臣ではなく、猿の家臣になるというのか!?」
「はい。拙者が家臣となれば、北近江の統治は上手くいくでしょう。それに――」

 このときの長政さまの言葉を、僕は忘れないだろう。

「雨竜雲之介秀昭殿と一緒に働きたい。それだけなのですよ」

 大殿はしばらく黙った後、にやりと笑った。

「ふはは。よかろう。お前が望むのであれば、な」
「ありがたき幸せ!」

 そして長政さまは僕たちに向かって言った。

「これからよろしくお願いします。秀吉さま、雲之介殿」

 雲の上の存在だった長政さまが、仲間になるなんて。
 まさに驚天動地だった――



 論功行賞の後、僕たちは長政さまを囲んで宴をした。
 場所は秀吉の屋敷だ。

「いやあ。めでたいな。これで一層、北近江の統治がしやすくなった」

 上機嫌な秀吉。すると秀長さんが「姓を変えたらしいじゃないか兄者」と口を尖らせた。

「それでは私も羽柴秀長に変えないといけないじゃないか」
「ああ。大殿の了解は得たぞ」
「勝手すぎるだろう……」

 呆れる秀長さんを余所に半兵衛さんは「ふふ。良い男が仲間になるのは良いことだわ」と笑った。

「悪いが拙者は衆道を好かん」
「あら。残念ねえ」
「ていうかてめえも奥さん居るだろう」

 正勝の言葉に「冗談に決まっているじゃないの」と本当かどうか分からないことを言う。

「ああ、そうだ。雲之介。おぬし確か、家紋がなかったな」
「うん? ああ。そうだね」
「おぬしは気に入らんと思うがな。家紋をくれてやる」

 秀吉が懐から紙を取り出した。折りたたまれたそれを開けると、そこには家紋らしきものがあった。
 ひし形。それが中央に渦巻きのように回るように黒字で描かれている。

「隅立雷。そのような名前らしいぞ」
「へえ。なかなか良いと思うよ。でもどうして気に入らないと?」

 秀吉は言いずらそうに「おぬしの祖父が送ったものだ」と語った。

「……雲之介ちゃん。破り捨てなさい」
「ああ。兄弟。そんなもん捨ててしまえ」
「私も賛成かな。この件に関しては」

 三人の言葉に長政さまは「どうしたんだ?」と戸惑った。

「雲之介ちゃんの祖父、山科言継はね。子どもの頃の雲之介ちゃんを殺そうとしたのよ。だから記憶がなかったの」
「山科……? ああ、だから隅立雷なのか」

 長政さまは納得したように呟く。

「どういうことですか?」
「雲之介くん。隅立雷の紋は、山科家も用いているんだ」

 そうだったんだ……

「雲之介ちゃん。さっさと捨てちゃいなさいよ」
「いや。これを家紋にするよ」

 僕の言葉に全員が呆然とした。言っていることが計りかねるようだ。
 声を発せられたのは、正勝だった。

「……理由を聞いても良いか?」
「正勝の兄さん。僕はもう、過去を受け入れることにしたんだ。山科家での過去は、正直記憶に無いけど、それでも受け入れないとね」
「だけどよ……」
「それに、言継さまの思いもある。本当なら関わりたくないだろうね。僕なんかには。だけどこうして、家紋をくれるくらいに向き合ってくれるんだ」

 僕はみんなに言う。

「僕は自分の出自を忘れないためにも、この家紋を使うよ」

 半兵衛さんが「言っている意味は分からないけど」と前置きをした。

「あなたが良いなら、それで良いわよ」
「ありがとう」
「お礼なんて別にいいわ」

 こうして夜が更けていく。
 次の戦いに備えて、英気を養うのだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。 貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや…… 脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。 齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された—— ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

おとか伝説「戦国石田三成異聞」

水渕成分
歴史・時代
関東北部のある市に伝わる伝説を基に創作しました。 前半はその市に伝わる「おとか伝説」をですます調で、 後半は「小田原征伐」に参加した石田三成と「おとか伝説」の衝突について、 断定調で著述しています。 小説家になろうでは「おとか外伝『戦国石田三成異聞』」の題名で掲載されています。 完結済です。

猿の内政官の息子 ~小田原征伐~

橋本洋一
歴史・時代
※猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~という作品の外伝です。猿の内政官の息子の続編です。全十話です。 猿の内政官の息子、雨竜秀晴はある日、豊臣家から出兵命令を受けた。出陣先は関東。惣無事令を破った北条家討伐のための戦である。秀晴はこの戦で父である雲之介を超えられると信じていた。その戦の中でいろいろな『親子』の関係を知る。これは『親子の絆』の物語であり、『固執からの解放』の物語である。

新木下藤吉郎伝『出る杭で悪いか』

宇治山 実
歴史・時代
天正十年六月二日未明、京都本能寺で、織田信長が家臣の明智光秀に殺された。このあと素早く行動したのは羽柴秀吉だけだった。備中高松城で、秀吉が使者から信長が殺されたことを聞いたのが、三日の夜だといわれている。堺見物をしていた徳川家康はその日に知り、急いで逃げ、四日には自分の城、岡崎城に入った。秀吉が、自分の城である姫路城に戻ったのは七日だ。家康が電光石火に行動すれば、天下に挑めたのに、家康は旧武田領をかすめ取ることに重点を置いた。この差はなにかー。それは秀吉が機を逃がさず、いつかくる変化に備えていたから、迅速に行動できたのだ。それは秀吉が、他の者より夢を持ち、将来が描かける人物だったからだ。  この夢に向かって、一直線に進んだ男の若い姿を追った。  木曽川で蜂須賀小六が成敗しょうとした、若い盗人を助けた猿男の藤吉郎は、その盗人早足を家来にした。  どうしても侍になりたい藤吉郎は、蜂須賀小六の助言で生駒屋敷に住み着いた。早足と二人、朝早くから夜遅くまで働きながら、侍になる機会を待っていた。藤吉郎の懸命に働く姿が、生駒屋敷の出戻り娘吉野のもとに通っていた清洲城主織田信長の目に止まり、念願だった信長の家来になった。  藤吉郎は清洲城内のうこぎ長屋で小者を勤めながら、信長の考えることを先回りして考えようとした。一番下っ端の小者が、一番上にいる信長の考えを理解するため、尾張、美濃、三河の地ノ図を作った。その地ノ図を上から眺めることで、大国駿河の今川家と、美濃の斎藤家に挟まれた信長の苦しい立場を知った。  藤吉郎の前向きに取り組む姿勢は出る杭と同じで、でしゃばる度に叩かれるのだが、懲りなかった。その藤吉郎に足軽組頭の養女ねねが興味を抱いて、接近してきた。  信長も、藤吉郎の格式にとらわれない発想に気が付くと、色々な任務を与え、能力を試した。その度に藤吉郎は、早足やねね、新しく家来になった弟の小一郎と、悩み考えながら難しい任務をやり遂げていった。  藤吉郎の打たれたも、蹴られても、失敗を恐れず、常識にとらわれず、とにかく前に進もうとする姿に、木曽川を支配する川並衆の頭領蜂須賀小六と前野小右衛門が協力するようになった。  信長は藤吉郎が期待に応えると、信頼して、より困難な仕事を与えた。  その中でも清洲城の塀普請、西美濃の墨俣築城と、稲葉山城の攻略は命懸けの大仕事だった。早足、ねね、小一郎や、蜂須賀小六が率いる川並衆に助けられながら、戦国時代を明るく前向きに乗り切っていった若い日の木下藤吉郎の姿は、現代の私たちも学ぶところが多くあるのではないだろうか。

処理中です...