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対話
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秀吉の屋敷に残された手紙を読む。
志乃は名主の娘だから、一通りの読み書きはできるけど、文字を書いている姿は見たことはなく、これが初めての手紙だった。
『雲之介。私はもう耐えられそうにないわ。子どもを産むことじゃなく、あなたに愛されていることが耐えられないの。あなたが嫌いになったわけじゃないのよ。むしろ好きになっている。そして愛し始めていたわ。だから死ぬことにした。ごめんなさい。何を言っているのか分からないと思う。でも私はこれ以上、あなたと一緒に居られない』
手紙というよりは遺書に近い。
「おい兄弟! 探すぞ! まだ遠くには行ってない!」
正勝の兄さんが僕の肩を揺する。
「何ぼうっとしてんだ! 心当たりあるんだろう?」
「……分からない。どこにいるのか、分からないんだ」
正直に言って見上げるように正勝を見る。
どうしていいのか、分からない。
「はあ!? 夫婦だろう? 思い出の場所とか気に入っている場所とか分からねえのか!?」
「…………」
「おいなんとか言えよ兄弟!」
正勝の強い言葉に応じられない。
だってそうだろう? 愛した人が死のうとしている。理由も分からずに、何の脈絡もなく、死のうとしている。
それが――よく分からない。
「ふざけるなよ! 見殺しにするつもりか!」
「それは、嫌だ……」
「だったら立ち上がれ走り回れ見つけるまで駆け続けろ!」
でも見つけたところでどうすればいいんだ?
死のうとしている人を僕は――止められるだろうか?
「なあ兄弟。本当に止めていいのか?」
「……どういうことだ?」
「生きてほしいって思うのは、自分勝手じゃないか……?」
正勝は「……今、なんて言った?」と怒気を孕んだ声を出した。
「志乃のことを愛してる。でもそれが死ぬ原因だったら、どうすればいいんだ?」
「じゃあ志乃さんが死んでもいいのかよ!」
「良いわけないだろ……でも、どうしていいのか、分からない……」
すると正勝は僕を無理矢理立たせて、拳を握り、僕を思いっきり殴りつけた。
障子にぶつかり、勢い余って、庭まで吹き飛んだ。
痛い。かなり痛い。何をするんだ。
「情けないこと言うんじゃねえ! 助けてから考えりゃいいことだろうが!」
正勝は僕の胸ぐらを掴んだ。
「お前は志乃さんを愛しているって言ったよな! だったら理屈じゃなくて、そのまま想いを伝えろよ!」
「……正勝」
「腑抜けてるんじゃねえ! さっさと立てよ兄弟!」
「…………」
それでも立てない僕に正勝はもう一発殴ろうとして――
「はいそこまで。それ以上は駄目よ」
待ったがかけられた。
声のするほうを見ると、そこには半兵衛さんが居た。屋敷からこちらを見下ろす。
「半兵衛、さん……」
「雲之介ちゃん。今のあなた、物凄く格好悪いわよ」
そっと庭に降りてこちらに近づく。そして正勝を押しのけて、僕の頬を平手で叩いた。
「自分の奥さんが死のうとしているんだから止めるのが道理でしょう? ごちゃごちゃ考えないの」
「…………」
「仕方ないから言うけど、志乃さんはあなたに止めてほしいのよ? だってそうでしょう? 本気で死ぬつもりなら黙って出て行くか、屋敷で首吊るわよ」
それを聞いてすっと気持ちが楽になったと錯覚してしまった。
そして続けて半兵衛さんは言う。
「とりあえず尾張に向かいましょう」
「あん? どうして尾張なんだ?」
「正勝ちゃん。決まっているでしょう? 志乃さんは尾張出身。故郷の思い出の場所で死のうとしているのは手紙を読めば分かるわ」
「なんで分かるんだよ?」
「死ぬ場所を一切書いていないってことは、雲之介ちゃんも知っている場所を選ぶってことよ」
二人の問答を聞きながら、僕はある場所が思い浮かんだ。
あれは新婚当時、二人で訪れた場所――
「正勝、半兵衛さん。最後に訊くよ」
僕は率直に訊ねた。
余所見をせずに真っ直ぐに問う。
「愛することで志乃を苦しめて、死を選ばせることになっても、僕は――愛し続けていいのだろうか?」
二人は顔を見合わせた。
しばらく黙ってから、最初に正勝が言った。
「知るかよそんなこと。それこそ夫婦で話し合えばいいじゃねえか」
次に半兵衛さんは言う。
「あなたたち夫婦の関係はよく分からないけど、話し合うことは重要だと思うわ」
僕は――頷いた。
そうだ、答えを他人に任せるなんてどうかしている。
それに何を迷っていたんだろう。
きちんと向かい合って――話そう。
「志乃が居る場所に思い当たるところがある。行ってくる」
僕は立ち上がって玄関に向かう。
もう悩まないしうろたえない。
覚悟は――決まった。
「おいおい、一人で――」
「正勝ちゃん。雲之介ちゃんは一人で大丈夫よ。それについて行くのは野暮じゃない?」
玄関に行くと、そこにはねね殿が居た。
不安そうな顔をしている。
僕は安心させるように軽く微笑んだ。
「大丈夫です」
「……雲之介さん」
「必ず連れて帰りますから」
僕の言葉にねね殿は真剣な表情で言う。
「表に馬を止めております。御武運を」
「ありがとうございます」
僕は馬にまたがり、走らせた。
目指すは尾張。
弥助さんの墓だった。
弥助さんの墓は僕が作った。
形の良い岩を立てただけの簡易な墓だけど、それでも無いよりはマシだと思ったんだ。
場所は訪れる人の居ない林の中。
近くに小川があり、傍には大きな木があった。
安らかに眠ってほしいという思いで選んだ場所だ。
その場所に着いたのは、夕暮れ時だった。
「やっぱり――ここに居たのか」
志乃が墓前に手を合わせて座っていた。
聞こえているはずなのに、僕の声に振り向かずに合わせたままだ。
「……勘が良いのね」
「勘じゃない。分かったんだ。死ぬとしたらここに来るって」
それでも――振り向かない。
「志乃。どうして死のうと思ったんだ?」
「…………」
「何か不満があるのなら、直すから帰ってきてくれ」
それにも――振り向かない。
「志乃……何かあったのか?」
「……あなたは本当に優しいのね」
ようやく、志乃はこちらを見てくれた。
涙を、流していた。
「あなたの優しさは、吐き気がするくらい甘ったるくて、胸焼けがするほど、鬱陶しかったわ」
「……そうか」
「でも――大好きだったわ」
志乃はそう言って、大きくなったお腹を庇いながら、立ち上がる。
「だから私は死ななければいけないのよ」
「……どうしてだ?」
志乃は溜息を吐いた。
「本当は、あなたを苦しめたかった」
志乃の唐突な告白に何も言えなくなる。
「あなたに愛されながら、私は憎んでいたかった。あなたの子を産んで、あなたのことを恨ませたかった。歪んだ家庭を作りたかった」
「……弥助さんの恨みか」
志乃は「ええ。そうよ」と言って悲しげに微笑んだ。
「でもね。あなたと過ごすうちに、次第に薄れていくのよ。恨みが。憎しみが。悲しみが。そして――弥助のことも忘れていく。それが嫌になった」
そして志乃はいつか見せた、痛みを堪えるような、悲しい顔になる。
「それほど――あなたのことを愛してしまった」
誰が予想できたんだろう。
まさか、恋人を殺した男が、恨まれていた女に愛されるなんて――
笑い話にならない――滑稽な現実。
「それに、雲之介が私の妊娠を知ったとき、あんなに喜ぶなんて、思わなかった」
「……当たり前だろう」
「……少しでも嫌な顔をしてくれれば、罪悪感を覚えること、なかったのに」
それだけは僕のせいだと言っているような口ぶりだった。
簡単に言えば、八つ当たりだろう。
「ねえ。雲之介。私、嫌な女でしょう?」
「そんなこと、ないよ」
「嘘言わないでよ。昔の男を引きずって、今の夫を不幸にさせようとした」
志乃は空を見上げた。
真っ赤に染まった、夕日に眼が眩んでいる。
「ねえ。雲之介。私、死にたいのよ」
「…………」
「お願い。私のことを忘れて、新しい妻を迎えて。そして生きて」
志乃は――
僕の妻は――
「あなたの優しさ、器量の良さ、そして頭の良さなら、すぐにでも再婚――」
――馬鹿だ。
ぱあんと、音が響いた。
呆然とする志乃。
初めて――女を殴った。
「雲之介……?」
「志乃が死んだら、僕も死ぬ」
それから志乃を――優しく抱きしめた。
二度と離れないように、身体を気遣うように、抱きしめた。
「僕は、志乃が居なかったら、駄目なんだ」
志乃は――何も言わない。
「なんで、そんなことも分からないんだ……?」
志乃の身体が小刻みに震える。
「愛しているんだ、志乃。だから死なないでくれ」
土手が決壊するように、志乃はしくしく泣き始めた。
「なんで、なんでそんなに、優しいのよ……」
「それが僕なんだ」
黄昏が終わり、夜の幕が降りても、僕たちは抱きしめ合っていた。
僕は大馬鹿野郎だ。
志乃の苦しみを理解できていなかったなんて。
子どもが産まれることで、舞い上がってたのか。
「そうか。志乃殿が無事で何よりだ」
真夜中。屋敷に戻った僕は、心配をかけた正勝や半兵衛さんはもちろん、その場に居なかった秀吉や秀長さんにも事情を説明した。
ねね殿は別室で休んでいる志乃のところに居てくれている。女同士、話せることもあるのだろう。
「これで一安心……とは素直に思えないが、まあいいだろうよ」
「兄者。あのような情緒不安定な女は、雲之介くんには……」
秀長さんの言葉に「おいおい。秀長さんよ。それはあんまりだぜ!」と正勝は言う。
「そりゃあ、志乃さんはその、あれだけどよ……」
「良いんだ。秀長さんは言いたくないことを言ってくれたんだ」
僕の言葉に秀長さんは「君は優しいね。それが今回の原因だけど」と苦笑いした。
「甘い毒みたいな感じね。あー、怖いわ。それで、秀吉ちゃんと雲之介ちゃんはどうしたいの?」
半兵衛さんの質問に秀吉は「雲之介が決めればいい」と答えた。
「これは夫婦の問題で主従の問題ではないわ。こっちに危害が及ぶわけでもない」
「そうね。雲之介ちゃんは?」
僕はとっくに決まっている答えを言う。
「別れないよ。一生向き合う。一生愛する」
「……しんどいわよ? このあたしより扱いが難しい女よ」
「それでも愛するさ」
秀長さんは怪訝な表情で「どうしてかな?」と問う。
「決まっています。愛してしまったからですよ」
恥ずかしげも無く、僕は主君と仲間に言う。
「憎たらしいほど嫌いなところがなくて、好き過ぎるほど愛してしまっていますから」
その言葉に、みんな納得してくれたようだ。
僕自身、納得もしている。
これで良いんだと。
この出来事から志乃は死のうとはしなくなった。
それどころかよく笑うようになった。
その変化は僕たちに好意的に受け入れられた。
「さて。機は熟した」
評定の場で大殿は僕たちに宣言した。
「足利義昭公を奉じて、上洛を開始する! 次に攻めるは南近江の大名、六角だ!」
志乃は名主の娘だから、一通りの読み書きはできるけど、文字を書いている姿は見たことはなく、これが初めての手紙だった。
『雲之介。私はもう耐えられそうにないわ。子どもを産むことじゃなく、あなたに愛されていることが耐えられないの。あなたが嫌いになったわけじゃないのよ。むしろ好きになっている。そして愛し始めていたわ。だから死ぬことにした。ごめんなさい。何を言っているのか分からないと思う。でも私はこれ以上、あなたと一緒に居られない』
手紙というよりは遺書に近い。
「おい兄弟! 探すぞ! まだ遠くには行ってない!」
正勝の兄さんが僕の肩を揺する。
「何ぼうっとしてんだ! 心当たりあるんだろう?」
「……分からない。どこにいるのか、分からないんだ」
正直に言って見上げるように正勝を見る。
どうしていいのか、分からない。
「はあ!? 夫婦だろう? 思い出の場所とか気に入っている場所とか分からねえのか!?」
「…………」
「おいなんとか言えよ兄弟!」
正勝の強い言葉に応じられない。
だってそうだろう? 愛した人が死のうとしている。理由も分からずに、何の脈絡もなく、死のうとしている。
それが――よく分からない。
「ふざけるなよ! 見殺しにするつもりか!」
「それは、嫌だ……」
「だったら立ち上がれ走り回れ見つけるまで駆け続けろ!」
でも見つけたところでどうすればいいんだ?
死のうとしている人を僕は――止められるだろうか?
「なあ兄弟。本当に止めていいのか?」
「……どういうことだ?」
「生きてほしいって思うのは、自分勝手じゃないか……?」
正勝は「……今、なんて言った?」と怒気を孕んだ声を出した。
「志乃のことを愛してる。でもそれが死ぬ原因だったら、どうすればいいんだ?」
「じゃあ志乃さんが死んでもいいのかよ!」
「良いわけないだろ……でも、どうしていいのか、分からない……」
すると正勝は僕を無理矢理立たせて、拳を握り、僕を思いっきり殴りつけた。
障子にぶつかり、勢い余って、庭まで吹き飛んだ。
痛い。かなり痛い。何をするんだ。
「情けないこと言うんじゃねえ! 助けてから考えりゃいいことだろうが!」
正勝は僕の胸ぐらを掴んだ。
「お前は志乃さんを愛しているって言ったよな! だったら理屈じゃなくて、そのまま想いを伝えろよ!」
「……正勝」
「腑抜けてるんじゃねえ! さっさと立てよ兄弟!」
「…………」
それでも立てない僕に正勝はもう一発殴ろうとして――
「はいそこまで。それ以上は駄目よ」
待ったがかけられた。
声のするほうを見ると、そこには半兵衛さんが居た。屋敷からこちらを見下ろす。
「半兵衛、さん……」
「雲之介ちゃん。今のあなた、物凄く格好悪いわよ」
そっと庭に降りてこちらに近づく。そして正勝を押しのけて、僕の頬を平手で叩いた。
「自分の奥さんが死のうとしているんだから止めるのが道理でしょう? ごちゃごちゃ考えないの」
「…………」
「仕方ないから言うけど、志乃さんはあなたに止めてほしいのよ? だってそうでしょう? 本気で死ぬつもりなら黙って出て行くか、屋敷で首吊るわよ」
それを聞いてすっと気持ちが楽になったと錯覚してしまった。
そして続けて半兵衛さんは言う。
「とりあえず尾張に向かいましょう」
「あん? どうして尾張なんだ?」
「正勝ちゃん。決まっているでしょう? 志乃さんは尾張出身。故郷の思い出の場所で死のうとしているのは手紙を読めば分かるわ」
「なんで分かるんだよ?」
「死ぬ場所を一切書いていないってことは、雲之介ちゃんも知っている場所を選ぶってことよ」
二人の問答を聞きながら、僕はある場所が思い浮かんだ。
あれは新婚当時、二人で訪れた場所――
「正勝、半兵衛さん。最後に訊くよ」
僕は率直に訊ねた。
余所見をせずに真っ直ぐに問う。
「愛することで志乃を苦しめて、死を選ばせることになっても、僕は――愛し続けていいのだろうか?」
二人は顔を見合わせた。
しばらく黙ってから、最初に正勝が言った。
「知るかよそんなこと。それこそ夫婦で話し合えばいいじゃねえか」
次に半兵衛さんは言う。
「あなたたち夫婦の関係はよく分からないけど、話し合うことは重要だと思うわ」
僕は――頷いた。
そうだ、答えを他人に任せるなんてどうかしている。
それに何を迷っていたんだろう。
きちんと向かい合って――話そう。
「志乃が居る場所に思い当たるところがある。行ってくる」
僕は立ち上がって玄関に向かう。
もう悩まないしうろたえない。
覚悟は――決まった。
「おいおい、一人で――」
「正勝ちゃん。雲之介ちゃんは一人で大丈夫よ。それについて行くのは野暮じゃない?」
玄関に行くと、そこにはねね殿が居た。
不安そうな顔をしている。
僕は安心させるように軽く微笑んだ。
「大丈夫です」
「……雲之介さん」
「必ず連れて帰りますから」
僕の言葉にねね殿は真剣な表情で言う。
「表に馬を止めております。御武運を」
「ありがとうございます」
僕は馬にまたがり、走らせた。
目指すは尾張。
弥助さんの墓だった。
弥助さんの墓は僕が作った。
形の良い岩を立てただけの簡易な墓だけど、それでも無いよりはマシだと思ったんだ。
場所は訪れる人の居ない林の中。
近くに小川があり、傍には大きな木があった。
安らかに眠ってほしいという思いで選んだ場所だ。
その場所に着いたのは、夕暮れ時だった。
「やっぱり――ここに居たのか」
志乃が墓前に手を合わせて座っていた。
聞こえているはずなのに、僕の声に振り向かずに合わせたままだ。
「……勘が良いのね」
「勘じゃない。分かったんだ。死ぬとしたらここに来るって」
それでも――振り向かない。
「志乃。どうして死のうと思ったんだ?」
「…………」
「何か不満があるのなら、直すから帰ってきてくれ」
それにも――振り向かない。
「志乃……何かあったのか?」
「……あなたは本当に優しいのね」
ようやく、志乃はこちらを見てくれた。
涙を、流していた。
「あなたの優しさは、吐き気がするくらい甘ったるくて、胸焼けがするほど、鬱陶しかったわ」
「……そうか」
「でも――大好きだったわ」
志乃はそう言って、大きくなったお腹を庇いながら、立ち上がる。
「だから私は死ななければいけないのよ」
「……どうしてだ?」
志乃は溜息を吐いた。
「本当は、あなたを苦しめたかった」
志乃の唐突な告白に何も言えなくなる。
「あなたに愛されながら、私は憎んでいたかった。あなたの子を産んで、あなたのことを恨ませたかった。歪んだ家庭を作りたかった」
「……弥助さんの恨みか」
志乃は「ええ。そうよ」と言って悲しげに微笑んだ。
「でもね。あなたと過ごすうちに、次第に薄れていくのよ。恨みが。憎しみが。悲しみが。そして――弥助のことも忘れていく。それが嫌になった」
そして志乃はいつか見せた、痛みを堪えるような、悲しい顔になる。
「それほど――あなたのことを愛してしまった」
誰が予想できたんだろう。
まさか、恋人を殺した男が、恨まれていた女に愛されるなんて――
笑い話にならない――滑稽な現実。
「それに、雲之介が私の妊娠を知ったとき、あんなに喜ぶなんて、思わなかった」
「……当たり前だろう」
「……少しでも嫌な顔をしてくれれば、罪悪感を覚えること、なかったのに」
それだけは僕のせいだと言っているような口ぶりだった。
簡単に言えば、八つ当たりだろう。
「ねえ。雲之介。私、嫌な女でしょう?」
「そんなこと、ないよ」
「嘘言わないでよ。昔の男を引きずって、今の夫を不幸にさせようとした」
志乃は空を見上げた。
真っ赤に染まった、夕日に眼が眩んでいる。
「ねえ。雲之介。私、死にたいのよ」
「…………」
「お願い。私のことを忘れて、新しい妻を迎えて。そして生きて」
志乃は――
僕の妻は――
「あなたの優しさ、器量の良さ、そして頭の良さなら、すぐにでも再婚――」
――馬鹿だ。
ぱあんと、音が響いた。
呆然とする志乃。
初めて――女を殴った。
「雲之介……?」
「志乃が死んだら、僕も死ぬ」
それから志乃を――優しく抱きしめた。
二度と離れないように、身体を気遣うように、抱きしめた。
「僕は、志乃が居なかったら、駄目なんだ」
志乃は――何も言わない。
「なんで、そんなことも分からないんだ……?」
志乃の身体が小刻みに震える。
「愛しているんだ、志乃。だから死なないでくれ」
土手が決壊するように、志乃はしくしく泣き始めた。
「なんで、なんでそんなに、優しいのよ……」
「それが僕なんだ」
黄昏が終わり、夜の幕が降りても、僕たちは抱きしめ合っていた。
僕は大馬鹿野郎だ。
志乃の苦しみを理解できていなかったなんて。
子どもが産まれることで、舞い上がってたのか。
「そうか。志乃殿が無事で何よりだ」
真夜中。屋敷に戻った僕は、心配をかけた正勝や半兵衛さんはもちろん、その場に居なかった秀吉や秀長さんにも事情を説明した。
ねね殿は別室で休んでいる志乃のところに居てくれている。女同士、話せることもあるのだろう。
「これで一安心……とは素直に思えないが、まあいいだろうよ」
「兄者。あのような情緒不安定な女は、雲之介くんには……」
秀長さんの言葉に「おいおい。秀長さんよ。それはあんまりだぜ!」と正勝は言う。
「そりゃあ、志乃さんはその、あれだけどよ……」
「良いんだ。秀長さんは言いたくないことを言ってくれたんだ」
僕の言葉に秀長さんは「君は優しいね。それが今回の原因だけど」と苦笑いした。
「甘い毒みたいな感じね。あー、怖いわ。それで、秀吉ちゃんと雲之介ちゃんはどうしたいの?」
半兵衛さんの質問に秀吉は「雲之介が決めればいい」と答えた。
「これは夫婦の問題で主従の問題ではないわ。こっちに危害が及ぶわけでもない」
「そうね。雲之介ちゃんは?」
僕はとっくに決まっている答えを言う。
「別れないよ。一生向き合う。一生愛する」
「……しんどいわよ? このあたしより扱いが難しい女よ」
「それでも愛するさ」
秀長さんは怪訝な表情で「どうしてかな?」と問う。
「決まっています。愛してしまったからですよ」
恥ずかしげも無く、僕は主君と仲間に言う。
「憎たらしいほど嫌いなところがなくて、好き過ぎるほど愛してしまっていますから」
その言葉に、みんな納得してくれたようだ。
僕自身、納得もしている。
これで良いんだと。
この出来事から志乃は死のうとはしなくなった。
それどころかよく笑うようになった。
その変化は僕たちに好意的に受け入れられた。
「さて。機は熟した」
評定の場で大殿は僕たちに宣言した。
「足利義昭公を奉じて、上洛を開始する! 次に攻めるは南近江の大名、六角だ!」
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